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本編・第三部

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 カチャリ、と音を立てて玄関を開ける。

「ただいま」

 シン、とした空間が広がる。会社を出るときに、メッセージアプリに『今から帰る』と送信したものの、既読はついていない。智はまだ、残業中のようだ。もう21時近い。

 今週はお互いに決算明けで残業になるだろうから、と、昨日の夜に大量のカレーを仕込んだ。お互いに夕食は待っていなくていいと約束し、今週は早く帰ってきた方が家事を担当することにした。しばらくは夕食をひとりで取る回数が増えるかもしれないけれど、ふたりとも社会人だから仕方ない。

 エプロンを身に着け、白米を測って研ぎ、炊飯器のボタンを早炊きに切り替えてスタートボタンを押す。湯舟を洗ってお湯を張っている間に、洗濯物を畳んで、軽く掃除をして。

「……ご飯炊けるまで…ちょっとだけ、テキスト読もう」

 南里くんも加藤さんも、ある程度仕事を覚えたら通関士試験の勉強を始める。あのふたりの受験自体は、きっと来年になると思う。今年はきっと、あの研究一筋だった西浦係長も受験することになるだろう。西浦係長だけ合格して、私は不合格、だなんて不甲斐ない結果だけは避けたい。
 私ももう通関業に携わって4年目、なのだから。そのうちの3年半は、一般職として事務処理だけをしている形だったけれど。水野課長が休日を割いて座学を教えてくださっていることもあるし、営業の勉強と並行して、こっちもしっかり頑張らないと。

 そう改めて決意して、テキストを引っ張り出し、ソファに沈み込む。コチコチと軽快に時を刻む壁掛け時計の秒針の音が響くリビングに、ページを捲る音が溶け込んでいく。

 しばらく読んでいると、炊飯器が甲高い音で炊き上がりを知らせてくれる。作り置きのカレーを冷蔵庫から取り出し、ひとり分だけのルゥをフライパンで温める。

「いただきます」

 少し行儀が悪いけれど。今は智がいなくてひとりだし。テキストを読みながらルゥを口に運んでいく。甘いのに、じっとりと汗が吹き出る。飲み込んだ後に辛さが湧き上がってくる。

「ほんと、智って料理上手だよね……」

 思わず、はぁっとため息が零れた。

 このカレーだって、智特製。昨日の夜、智の指示に従って、分担しながら作ったにすぎなくて。










『料理は突き詰めていけば化学なんだ』

 屈託なく笑いながら、カレーを煮込んでいた智の横顔が脳裏に浮かぶ。

『例えば、砂糖。砂糖はたんぱく質の凝固をやわらげるんだ。弁当用に作る卵焼きって、砂糖を入れるとふんわり柔らかく仕上がるだろ?なんでかっつーと、卵のたんぱく質の水分を砂糖が吸収して、卵のたんぱく質の凝固温度が高くなるから。だから、同じ温度で加熱したとき、砂糖を入れた方が固まりにくくなるからやわらかく仕上がる、っつうわけ』
 
『……なるほど』

 私の中で、料理、というのは……レシピに書いてある通りに作れば美味しく出来る……程度の認識しかなかった。だからある程度は人並みに作れるけれど、特段料理好きでもないし、嫌いでもない。

 生きていくには欠かせないものだから……日々、淡々と料理をしているだけ、のことだった。

 だからそういう観点で料理を見たことがなくて。目からウロコの考え方だった。

『その原理を覚えていれば、極論、それの組み合わせで料理が出来る。レシピを大量に覚えるよりラクだ。……結局、な。美味しく作れる、には理由があるんだ。それを突き詰めていくのも面白いぞ?』

 そう言葉を紡いだ智が、ふわり、と、私の方を向いて。ダークブラウンの瞳を愉しそうに細めて、ニヤリと笑った。

『……ま。俺が料理上手なのは、幸せそうに食べてくれる知香のために作ってるから。要は、知香を愛してるっつう話しだ』

 唐突に紡がれた愛の言葉に、一瞬で身体が沸騰した。

『……っ、だからっ、突然そういうの言わないでってば!』

 いつだって智は私のことを揶揄って遊んでいる。ぎゅう、と、横から智の切れ長の瞳を睨みあげると、くすくすと智が笑い声を上げた。










「ほんと、智ってば、いつも突然あんなこと言い出すんだからっ」

 昨晩の会話を脳裏に浮かべて。身体が熱くなっていくのを自覚した。もちろん、それはカレーを食べたから……ではなくって。

「結局、私……智に翻弄されてばっかりだなぁ……」

 むぅ、と、眉間に皺が寄っていく。そのままソファに沈みこんだ瞬間、エプロンのポケットに入れているスマホが震えた。スマホを手に取ってロックを解除し、メッセージアプリを起動する。

『遅くなってすまん。今、電車に乗った。あと45分くらいで帰る』

 ふっと、壁掛け時計に視線を向けると、もう22時前。先週、これから残業が増えると言っていたけれど、こんなに遅くまで残業になるとは思っていなかった。

「……ほんと、大変なんだろうなぁ…」

 新しい部門の立ち上げ。今までは市場調査や事業計画の制定等の「企画」段階で、デスクワークが多かっただろうけれど、それに加えてこれからは実行フェーズに移行するわけで。

 「企画」は少人数でも行うことができる。でも、「立ち上げ」となると営業や開発、管理……様々な実務能力が必要。社内のそれぞれの部所、外部の会社をうまく巻き込んで、一つのチームを作り上げていかざるを得ない。複数の異なる業務を1本にまとめ上げるリーダーシップスキルが求められる。

 その上に、株主総会でのプレスリリースの原案を作ることになっている、という話だった。株主に対して、新規事業を立ち上げる目的だったり、新規事業を実現することで世の中に対して及ぼす影響だったり、それらを智の中の言葉で、頭の中にあるイメージを言語化していくことも求められるわけで。

 もっとも、今回の新部門は池野さんの念願だった、ということだから。実際に発表されるプレスリリースには、最終的に池野さんが手を加えるのだろうけれども。

 ぼんやり考えながら、開きっぱなしのテキストをテーブルの隅に追いやる。

「今日はかなり疲れてるだろうなぁ」

 智が帰り着く頃には、23時になっているだろう。夕食を取ったらすぐにお風呂に入って休んでもらえるようにしたい。智が眠りにつくのを妨げないように、できることは先にやっておこう。だったら、先に私がお風呂に入っておいた方が合理的だ。

『帰ったらすぐカレー食べられるように準備しておくね。私、先にお風呂入ってるから。気を付けてね』

 メッセージアプリにそう打ち込んで送信し、お風呂に足を向けた。





 お風呂から上がってドライヤーをかけていると、洗面台の天板に置いたスマホが着信を知らせてくれた。

 その着信はもちろん、智からで。

「ふふ、やっぱり」

 いつものように、電車を降りてすぐかけてきたのだろう。駅から家に辿り着くまで5分も話さないのに。相変わらずせっかちだなぁ、と、呆れつつも、口元がにやけていく。

 スマホの画面に表示された応答ボタンをタップして、左耳に当てた、その瞬間。

『すげぇビビったんだけど』

 面白そうにくすくすと笑いながら、智の声が響いた。

「……え?」

 その第一声の言葉の意味が飲み込めず、洗面台の鏡面に映り込む自分の呆けた顔を眺めた。

『昼間の電話』

「あぁ!そのこと」

 水野課長から託された、三井商社の移入承認申請IMのことだろう。池野さんに電話をしようとして、智が出た電話。

「私の方がびっくりした。だって池野さんをお願いしたら智が出るんだもん」

 思わず、口の先が尖っていく。あの時、全身が心臓になったように跳ねたのだから、私の方が驚いたと思うのだけれど!

 電話の奥から、ざわざわとした喧騒が遠くに聞こえて。地上に出る階段を登る智の呼吸と革靴の音が聞こえてくる。もうすぐ帰ってくるだろうから、カレーを温めておこう。

 そう考えて、左肩にスマホを挟み、自由になった両手を使ってドライヤーを仕舞う。まだ少し肌寒いから、と、薄手のカーディガンを羽織りながら、エプロンを身に着けて、キッチンに向かった。

 私の少し怒ったような声に、ふっと智が息を漏らした。

『あれから、工場に連絡して書類受け取った。帰り際に知香と水野さん宛にメールで送付してあるから、明日確認しておいてくれな』

 智とこうやって業務のやり取りをすることになるとは思っていなかった。なんとなく、こそばゆい気持ちになって。リビングのドアを開けながらおどけたように、了解です、と返事をしようとした瞬間。

 電話口の智が、ひゅっと息を飲んで、少し強張ったように声をあげた。

『すまん。キャッチ入ったから切る』

「え」

 プツン、と音がして。通話が途切れた。

 左耳からスマホをおろし、黒くなった画面を見つめ、リビングに呆然と立ちつくす。

「……?」

 どうして、あんなに強張ったような声色だったんだろう。仕事の電話、だったんだろうか。でも……それだったら、私が昼間に聞いたような、落ち着いたような声色のはず。

 なにか、仕事でトラブルがあったのかもしれない。それで、ちょっと慌てたような心持ちなのかも。私も仕事でミスをしたりしたときは慌てるし。

「ほんと……大変なんだろうなぁ」

 手に持ったスマホをエプロンのポケットに滑り込ませ、作り置きのカレーを冷蔵庫から取り出し、智の分のルゥを弱火でゆっくりと温めていく。

 壁掛け時計の秒針の音が、コチコチと……響いていく。

「……遅いなぁ…」

 駅から家までは、徒歩だとしてもそんなにかからないはずなのに。

 エプロンのポケットにいれたスマホを手に取ってロックを解除する。電話画面を開き智から着信があった時間を確認すると、通話が途切れてから5分以上経っていた。

 やっぱり、さっきのキャッチは仕事の電話だったのだろう。取引先である極東商社に勤めている私に聞かれては、まずい話だから。帰宅せずそのまま外で話している、ということなんだろう、と結論付けて、一旦、コンロの火を止める。

 リビングのソファに沈み込み、読みかけだった通関士のテキストをぱらぱらと捲る。

「……あ。主任になったこと、言ってない」

 智が係長から課長代理に昇進した時、その話を数週間後に聞いて。真っ先にお祝いしたかったのに、と、少し怒ったことを思い出す。

「………驚くかな?喜んでくれるかなぁ」

 あの、切れ長の瞳を嬉しそうに細めて。よかったな、と、頭を撫でてくれるだろうか。想像するだけで、途方もなく幸せな気持ちが胸に込み上げてくる。

 幸せな想像に浸っていると、ギィ、と玄関が開く音がした。玄関まで迎え出ようとソファから立ち上がって、リビングの扉を開く。

「おかえ……り…?」

 驚きのあまり、呼吸が止まった。



 だって、目の前に現れた、ダークブラウンの瞳が。


 いるのに、


 まるで―――片桐さんみたいな瞳を、していたから。



 ふっと。智が、今にも消えそうに、儚くわらって。

「ん。……ただいま、知香」

 今にも泣き出しそうな声を、あげた。

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