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本編・第三部
138 この手を、伸ばした。(下)
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ああ―――この女は。
どこまでいっても、面白い女、だ。
俺が誰にも、語りもしなかった、この世にもう存在しないはずの、Maisieのことを見抜いた。
『本当はマーガレットさんのことが好きなのに?』
そうして、今も。俺の本心を、俺ですら気付いていなかった本心を、容赦なく暴いていく。
(違う、な)
気付かないフリをしているんだ、俺は。
俺が嫌いな、小林くんの、ように。
自分の本心に、気が付かないフリをしているだけ、だと。
それを暴いていく知香ちゃんが、今の一言が。ひどく面白くて―――ひどく、面白くない。
「俺の気持ちは俺にしかわからないよ?そうじゃないかい?君が俺の気持ちを断定するのは、筋違いだ」
「……それは、そうですが」
焦げ茶の瞳が、一瞬、怯んだ。その怯んだ瞳に、ほっと息を吐いたのも、束の間。
凛と、俺を真っ直ぐに貫いて。俺を見定めるように、ゆっくりと瞬いた。
「……下に、見ないでください。それくらい、わかりますから」
下に見ているつもりは、なかった。対等な場所で……知香ちゃんに接してきていたつもりだった。
智くんのように、彼女を蚊帳の外にして、過保護に彼女を護るのではなく。彼女と、対等な位置で、彼女に向き合っているつもりだった、のに。
じっと……俺を貫いたままの焦げ茶色の瞳が、俺からそっと逸らされて。掴まれていたスーツの裾から、ゆっくりと。知香ちゃんの細い指が、その手が、離されていく。
「……書類、ありがとうございます。よろしくお願いしますね。……私は、これで帰りますから」
知香ちゃんの隣で、茫然と立ったままの真梨ちゃんの手を引いて、くるりと、知香ちゃんが踵を返した。
その瞬間。真梨ちゃんの首筋に、キラリ、と、煌めくシルバーの光を認めて。
(………そうか)
あれから一歩も動けていないのは、俺だけなのだ、と。なんとなく、察した。
「……ふっ」
俺の周りにいる人間が、新たな立ち位置で、新たな居場所を、自ら作っているのに。
俺だけは、ずっと―――Maisieを亡くしたあの瞬間から、時を止めたまま、なんだ。
そして。俺が嫌いな、小林くんと、同じように。
それに、気が付かないフリを……して、いたんだ。
その結論に。ようやく、至って。
思わず、笑みが零れた。
古巣の通関部のフロアに足を運んだ。水野課長の行動予定表が在籍となっていたから、一声かけようと思っていた。
けれど、姿が見えない。お手洗いにでも席を外しているのか。
ぼんやり考えながら、知香ちゃんのデスクにお遣いで預かった封筒を置いた。
係長として、契約社員から正社員登用されたとはいえ、食品の営業マンとしては新人。
……まぁ、諜報機関にいた頃にこういう企業に潜入していたこともあったから、本当は新人というテイでしかない。
それ故に、初日の今日は、こういうお遣いばかりを積極的に請け負った。
ぐっと、拳を握りしめる。
ゆっくりと、またイチから仕事を覚えていくしかない。そう……俺の人生を、ゼロからまた、始めるためには、今は、これしかない。
ふい、と。俺が元いた席を見遣る。通関部の仕事は、どうということもなく。愛着があったわけでもない。知香ちゃんと仕事を共にする日々は、楽しくはあったけれども。
つぅ、と。小林くんがいた席に視線を移す。
(……アレ、見なかったことに、しようと思っていたけどねぇ…)
俺なりの、小林くんへの償いとして……南里、という男が真梨ちゃんに言い寄っている場面に割り込んだけれど。
ひどく面白くて、ひどく面白くない、この気持ちを。どう持っていっていいかも、どう処理していいかも、見当がつかなかった。
(……俺が性格悪いのは、彼も知っていることだろうし?)
自分の性格がこの整った容姿とは裏腹にひどく歪んでいる、ということはとうの昔から自覚している。歪んだ原因は明白だ。
あの世界中を震撼させた大規模テロを発端とした戦争で―――俺の目の前で、次々と命を散らしていく仲間たちを見て以降、だ。
俺はあの『聖戦』と呼ばれるモノでMargaretを失った。
生きたいと願っても生きられない仲間たち。
死にたいと思っても死ねなかった、俺。
神を呪い、世界を呪った。
聖戦、と称すれば、殺人行為すら正当化される、この世界を、呪った。
偉大なる全知全能の存在ですら、俺の生きる意味を奪っていくのだ。
祈りも、願いも。居もしない神に願ったところで、届くわけがない。
救世の英雄も、博愛の賢者も。俺から奪い取った、俺の生きる意味を。
―――俺の手に返してはくれなかった。
耳を劈くような空撃の音。鮮やかに地面を彩る紅い血の花。
その幻聴を、幻影を。頭を軽く振って振り払う。
(……感傷に浸っている場合じゃない)
少ししか言葉を交わしていない、今日初めて会ったあの南里くんにすら、俺の性格が悪いということは見抜かれていた。それほど、俺の性格の悪さは同性には伝わるものなのだろう。
そう実感すると……その面白さに、ゆっくりと口の端が歪んでいく。
八つ当たり、ということも。しっかりわかっている。
それでも。それでも……彼に、会いに行ってやろう、と。そう思えたのは、きっと。
それすらも、言葉を返せば、見方をひっくり返せば。
―――彼への償いになる、と。なんとなく、そう思ったから。
くつくつと、喉の奥を鳴らして。
通関部の隣の―――畜産販売部に、足を向けた。
「あら、片桐さん?どうしたんですか?」
「佐々木さ~ん。久しぶりだね~ぇ?」
通関部にいたころ。社内の各販売部とのやり取りは、主に俺が担っていたから。各販売部の一般職の女性社員とは、ある程度仲が良い。
へにゃり、と。人懐っこい笑みを浮かべて、目の前の佐々木さんを見遣る。
「あのね、今日からココ配属の、小林くん、まだいる?通関部時代に借りてたモノ、返しにきたんだ。遅い時間だし、もう帰ってたら明日また来るよ」
うっとりとした笑みを浮かべて、佐々木さんが俺の笑みを見つめている。この人も、例に漏れず俺に気がある。その視線なんて、正直どうでもいい。
「小林さん?残業していてまだ退勤してないはずだと思います!ちょっと待っててくださいね」
はっと我に返ったように佐々木さんが踵を返した。
待つこと……数分。
「……」
訝しげな、そうして、警戒したような表情をしながら、小林くんが奥のブースからやってくる。幸い、佐々木さんは着いてきていない。
「やぁ。小林くん」
ひょい、と、片手を上げながら、飄々と笑ってみせる。俺の真意を掴ませることなんて……知香ちゃん以外には、もう、させやしない。
小林くんの灰色のネクタイに。今まで付けているのを見たことがなかった、シルバーのネクタイピンの存在を認めた。雪のモチーフの透かし彫りの中心に、ダイヤモンドだろうか。それが、キラリ、と、煌めいている。
(……なるほどねぇ。贈り合い、を…したワケね)
あのふたりが。そういう関係に落ち着いた、のだと。確信した。
「……俺があなたに何かを貸していたことなんて無かったように記憶していますが」
警戒したような視線を崩すことなく、俺を睨みつけてくる。その視線に、すっと心が冷えていく。
「うん。物理的には、ね?」
薄っすらと微笑んで見せた。俺のこの笑みにすら、動じない小林くんが―――ひどく、面白くなかった。
「……」
出会った瞬間から、小林くんが嫌いだった。智くんは同族だから、嫌いで当然。でも、小林くんは智くんに似ていないのに、それなのに、嫌いだった。
どうしてなんだろう、と。考えたこともなかった。
俺も。小林くんと、同じだったから、なのだ。
小林くんと俺は、同じ。同じ位置にいるはずの、人間。
だからこそ。
小林くんだけ、自分の気持ちに気付いて、前に進ませるなんて。俺のプライドが―――赦さない。
「ちょ~っと、小林くんの耳に入れておきたいことがあっただけ。それを持って……俺は、君に借りを返す」
黒曜石のような澄んだ瞳に強い光を宿し、俺を睨みつける。その瞳に、くすりと笑みが漏れた。
「……そんなに警戒しないでよ。一応、俺なりの償いのつもりなんだけど?」
「……」
それでも黙ったままの小林くんの一重の瞳を、じっと見つめ返す。
「………猫を飼い始めたんだね?」
「………?」
小林くんの瞳が、一瞬細められて。僅かに首を傾げた。その表情に、俺は優雅に微笑んで。すっと、小林くんのネクタイ……正確には、ネクタイピンを指さした。
「それと同じ首輪を付けた、猫」
「っ」
小林くんが…その目を見開いて、息を止めた。
「……だから、君ねぇ」
はぁ、とため息をつきながら。あの時のように、同僚を心配する姿を演出するために大袈裟に肩を竦めてみせた。
「本当に、もうちょっとポーカーフェイスを覚えた方がいいよ?これから営業マンになるんでしょ?営業成績あげるなら、それ、直さないとどうにもならないと思うけど?」
「……」
小林くんが唇を噛んで、ゆっくりと、瞬きをした。
猫を飼い始めたのか、という問いに対する、肯定、ということだろう。
その表情に、ふっと、息を漏らして笑う。
「ちゃ~んと、首輪を付けているのは褒めてあげる。でもね?………飼い主が誰か、ちゃんとわかるようにしておいた方が、いいよ?」
「……どういう、ことでしょう」
小林くんの声が掠れている。
うん、いいね。その声。やっぱり、堪らない。ぞくぞくする。
これは、俺の、八つ当たりだ。八つ当たりでありながら、それでも、小林くんへの、償いなんだ。
―――だから。
感情のままに、嘲るように、思いっきり嗤ってみせた。
「同じマンションに住んでいた住人としてのアドバイス。飼い猫には、飼い主が誰かわかるようにしておかないと……新しい入居者に掻っ攫われていっちゃうよ?」
「…っ、……」
ざぁっと。小林くんの顔色が変わった。
アノ出来事を伝えるには、これで十分。あとは……このふたりの、問題。
「…………まぁ、その先の結果なんて、興味もないからね~ぇ?君が新しい入居者に対してどう出るかなんて、そしてそれがどうなろうと、どうでもいいんだけどさ?」
すぅっと。腰を曲げて、小林くんに視線を合わせる。そう―――喫煙ルームで揺さぶりをかけた時のように。
「俺が狙っている猫が巻き添えを喰らう事態になることは、赦さない」
そう口にして。くすり、とふたたび嗤ってみせる。俺の一言に、小林くんがはっと息を飲んだ。
「っ、あんた、まだ狙っ、」
「おおっと?違う猫に目移りした君に、口出しされる筋合いはな~いよ?」
小林くんの言葉を遮るように言葉を被せ、へにゃりと嗤ってみせた。
智くんに告げた、知香ちゃんから手を引く、という言葉は。よっぽどのことがない限り違えるつもりはない。
よっぽどのこと。
そう―――喩えば、智くんを狙って、あるいは、智くんの地位を狙って。智くんの大切な存在である知香ちゃんを脅かそうと……知香ちゃんを害そうとする存在が現れない限りは。違えるつもりは、ない。
ただ。今は、気持ちの整理が、つかないだけ。
ただ。今は…面白くない気持ちを、気が付かないフリをしていた自分に対する怒りを。
―――小林くんに向けて、八つ当たりしたいだけ。
愕然とした表情を、その整った顔に浮かべている小林くんを見て。
(……あぁ…ほんとうに、面白い)
知香ちゃんの周りに存在する“人間”は。その大半が、本能的に嫌いな部類の“人間”ばかりだけれど。
―――面白くて、見ていて、飽きない。
俺の、興味を……ひどく、唆っていく存在ばかりだ。
その事実に、この現実に。柄にもなく、心が踊った。
さっきから胸に巣食う、面白くない、なんて感情は。
いつの間にか……綺麗に、跡形も無く霧散していた。
小林くんのその表情に、くすりと嗤い声を上げて。俺は踵を返す。
「じゃ、俺の借りは返し終わったから。帰るよ」
あの夜と、同じように。
ひらひらと小林くんに手を振り、背を向けて。
あの夜と、同じように。
心の中で、呟いた。
(ここから先は―――キミ、次第。)
エレベーターホールに向かい、社員証を取り出してタイムカードの機械に翳す。今日は通関部へのお遣いを持って帰社する予定だったから。
下にあったエレベーターが、この階に上ってくる無機質な音が響く。ふと、エレベーターホールに設置された人事の掲示板を見遣る。
「……あぁ。昇進おめでとう、って言うの、忘れてた」
朝から掲示板を確認して、我が事のように嬉しかった。知香ちゃんが仕事を頑張っている姿はずっと見てきたから。彼女が仕事に向ける情熱は、尊敬に値すると感じていたから。
知香ちゃんに会ったら、真っ先に言おうと思っていたのに。だからこそ、通関部へのお遣いがないかと、今日はずっと目を光らせていたのに。
(……あの男のせい、だね~ぇ?)
ふっと。チワワのような、くりくりした瞳を脳裏に浮かべる。一見、少年のような可愛らしい顔立ち。その内側に秘めている―――薄汚い、劣情。
アレが知香ちゃんに害をなさなければ、それでいい。真梨ちゃんが小林くんの手から奪われようが、俺には関係ない。
チン、と、軽い音がして、エレベーターが到着する。それに乗り込んで、エントランスに降りた。出入り口の自動ドアが動いて、開花したての桜の香りが、ふわり、と、漂う。
カンカン、と。俺の革靴に取り付けられたトゥスチールが、アスファルトを叩いている。
(……)
ふと、空を見上げる。煌々とした、まあるい輝きが俺の目を焼いた。
「……満月、か」
そう呟いた瞬間、ざぁっと風が強く吹き抜けた。その風が思ったよりも冷たくて、ふるりと身震いする。
カンカンと音楽を奏でながら歩き、交差点で信号待ちをする。
足早に、俺の後ろを通り過ぎていくひとたち。
ほう、と、ため息をつく。
春の夜。そう、今夜のような、満月の、夜中に。
―――Maisieは、旅立った。
俺に、さよならさえ、言わせずに。
(……)
自分が、選択したこと。
あの夜、胸騒ぎとともに、野営テントで眠りについて。
哀しい夢を見て、夜更けに飛び起きたのに。
そんなことはない、と、自分に言い聞かせて。
俺が、動かなかったから。
だから、俺は。
(……欠けた、ままなんだ)
空に浮かぶ月は、欠けることなく、まあるいのに。
俺の心は、俺の時間は。欠けた、ままで。
Maisieの艶やかな髪と同じ色の―――黄金の輝きを放つ春の満月を見上げて。
「I wanted to hear it, even if it was a lie.I was happy.」
ちいさく、ちいさく。
もうこの世にいない、Maisieに語り掛けた。
(………そっかぁ)
だから、俺は。知香ちゃんが欲しかったんだ。
欠けた俺の半分を、うめたかったんだ。
Maisieと同じ光をその瞳に宿した知香ちゃんに。
俺の欠けた部分を、うめてほしかったんだ。
「あはは……なるほどねぇ…」
Maisieと同じ光を、その瞳に宿した、知香ちゃんに。
嘘でもいいから、しあわせだ、と、言ってほしくて。
だから……智くんへの想いを、俺に挿げ替えるように仕向けたんだ。
嘘でもいいから……知香ちゃんに。
しあわせだ、と、言ってほしかったんだ。
知香ちゃんが俺に向けるその感情が、暗示による偽りの感情だと、嘘の感情だとわかっていても。
しあわせだ、と。
ただ、ただ、俺のそばで。
俺の、隣で。
―――わらって、ほしかったんだ。
「………そっかぁ…」
ふわり、と。桜の甘い香りが漂っていく。
手を伸ばしても、届かない…春の夜空に輝く月に。
もう二度と、届くはずのない、だれかに。
この手を、伸ばした。
どこまでいっても、面白い女、だ。
俺が誰にも、語りもしなかった、この世にもう存在しないはずの、Maisieのことを見抜いた。
『本当はマーガレットさんのことが好きなのに?』
そうして、今も。俺の本心を、俺ですら気付いていなかった本心を、容赦なく暴いていく。
(違う、な)
気付かないフリをしているんだ、俺は。
俺が嫌いな、小林くんの、ように。
自分の本心に、気が付かないフリをしているだけ、だと。
それを暴いていく知香ちゃんが、今の一言が。ひどく面白くて―――ひどく、面白くない。
「俺の気持ちは俺にしかわからないよ?そうじゃないかい?君が俺の気持ちを断定するのは、筋違いだ」
「……それは、そうですが」
焦げ茶の瞳が、一瞬、怯んだ。その怯んだ瞳に、ほっと息を吐いたのも、束の間。
凛と、俺を真っ直ぐに貫いて。俺を見定めるように、ゆっくりと瞬いた。
「……下に、見ないでください。それくらい、わかりますから」
下に見ているつもりは、なかった。対等な場所で……知香ちゃんに接してきていたつもりだった。
智くんのように、彼女を蚊帳の外にして、過保護に彼女を護るのではなく。彼女と、対等な位置で、彼女に向き合っているつもりだった、のに。
じっと……俺を貫いたままの焦げ茶色の瞳が、俺からそっと逸らされて。掴まれていたスーツの裾から、ゆっくりと。知香ちゃんの細い指が、その手が、離されていく。
「……書類、ありがとうございます。よろしくお願いしますね。……私は、これで帰りますから」
知香ちゃんの隣で、茫然と立ったままの真梨ちゃんの手を引いて、くるりと、知香ちゃんが踵を返した。
その瞬間。真梨ちゃんの首筋に、キラリ、と、煌めくシルバーの光を認めて。
(………そうか)
あれから一歩も動けていないのは、俺だけなのだ、と。なんとなく、察した。
「……ふっ」
俺の周りにいる人間が、新たな立ち位置で、新たな居場所を、自ら作っているのに。
俺だけは、ずっと―――Maisieを亡くしたあの瞬間から、時を止めたまま、なんだ。
そして。俺が嫌いな、小林くんと、同じように。
それに、気が付かないフリを……して、いたんだ。
その結論に。ようやく、至って。
思わず、笑みが零れた。
古巣の通関部のフロアに足を運んだ。水野課長の行動予定表が在籍となっていたから、一声かけようと思っていた。
けれど、姿が見えない。お手洗いにでも席を外しているのか。
ぼんやり考えながら、知香ちゃんのデスクにお遣いで預かった封筒を置いた。
係長として、契約社員から正社員登用されたとはいえ、食品の営業マンとしては新人。
……まぁ、諜報機関にいた頃にこういう企業に潜入していたこともあったから、本当は新人というテイでしかない。
それ故に、初日の今日は、こういうお遣いばかりを積極的に請け負った。
ぐっと、拳を握りしめる。
ゆっくりと、またイチから仕事を覚えていくしかない。そう……俺の人生を、ゼロからまた、始めるためには、今は、これしかない。
ふい、と。俺が元いた席を見遣る。通関部の仕事は、どうということもなく。愛着があったわけでもない。知香ちゃんと仕事を共にする日々は、楽しくはあったけれども。
つぅ、と。小林くんがいた席に視線を移す。
(……アレ、見なかったことに、しようと思っていたけどねぇ…)
俺なりの、小林くんへの償いとして……南里、という男が真梨ちゃんに言い寄っている場面に割り込んだけれど。
ひどく面白くて、ひどく面白くない、この気持ちを。どう持っていっていいかも、どう処理していいかも、見当がつかなかった。
(……俺が性格悪いのは、彼も知っていることだろうし?)
自分の性格がこの整った容姿とは裏腹にひどく歪んでいる、ということはとうの昔から自覚している。歪んだ原因は明白だ。
あの世界中を震撼させた大規模テロを発端とした戦争で―――俺の目の前で、次々と命を散らしていく仲間たちを見て以降、だ。
俺はあの『聖戦』と呼ばれるモノでMargaretを失った。
生きたいと願っても生きられない仲間たち。
死にたいと思っても死ねなかった、俺。
神を呪い、世界を呪った。
聖戦、と称すれば、殺人行為すら正当化される、この世界を、呪った。
偉大なる全知全能の存在ですら、俺の生きる意味を奪っていくのだ。
祈りも、願いも。居もしない神に願ったところで、届くわけがない。
救世の英雄も、博愛の賢者も。俺から奪い取った、俺の生きる意味を。
―――俺の手に返してはくれなかった。
耳を劈くような空撃の音。鮮やかに地面を彩る紅い血の花。
その幻聴を、幻影を。頭を軽く振って振り払う。
(……感傷に浸っている場合じゃない)
少ししか言葉を交わしていない、今日初めて会ったあの南里くんにすら、俺の性格が悪いということは見抜かれていた。それほど、俺の性格の悪さは同性には伝わるものなのだろう。
そう実感すると……その面白さに、ゆっくりと口の端が歪んでいく。
八つ当たり、ということも。しっかりわかっている。
それでも。それでも……彼に、会いに行ってやろう、と。そう思えたのは、きっと。
それすらも、言葉を返せば、見方をひっくり返せば。
―――彼への償いになる、と。なんとなく、そう思ったから。
くつくつと、喉の奥を鳴らして。
通関部の隣の―――畜産販売部に、足を向けた。
「あら、片桐さん?どうしたんですか?」
「佐々木さ~ん。久しぶりだね~ぇ?」
通関部にいたころ。社内の各販売部とのやり取りは、主に俺が担っていたから。各販売部の一般職の女性社員とは、ある程度仲が良い。
へにゃり、と。人懐っこい笑みを浮かべて、目の前の佐々木さんを見遣る。
「あのね、今日からココ配属の、小林くん、まだいる?通関部時代に借りてたモノ、返しにきたんだ。遅い時間だし、もう帰ってたら明日また来るよ」
うっとりとした笑みを浮かべて、佐々木さんが俺の笑みを見つめている。この人も、例に漏れず俺に気がある。その視線なんて、正直どうでもいい。
「小林さん?残業していてまだ退勤してないはずだと思います!ちょっと待っててくださいね」
はっと我に返ったように佐々木さんが踵を返した。
待つこと……数分。
「……」
訝しげな、そうして、警戒したような表情をしながら、小林くんが奥のブースからやってくる。幸い、佐々木さんは着いてきていない。
「やぁ。小林くん」
ひょい、と、片手を上げながら、飄々と笑ってみせる。俺の真意を掴ませることなんて……知香ちゃん以外には、もう、させやしない。
小林くんの灰色のネクタイに。今まで付けているのを見たことがなかった、シルバーのネクタイピンの存在を認めた。雪のモチーフの透かし彫りの中心に、ダイヤモンドだろうか。それが、キラリ、と、煌めいている。
(……なるほどねぇ。贈り合い、を…したワケね)
あのふたりが。そういう関係に落ち着いた、のだと。確信した。
「……俺があなたに何かを貸していたことなんて無かったように記憶していますが」
警戒したような視線を崩すことなく、俺を睨みつけてくる。その視線に、すっと心が冷えていく。
「うん。物理的には、ね?」
薄っすらと微笑んで見せた。俺のこの笑みにすら、動じない小林くんが―――ひどく、面白くなかった。
「……」
出会った瞬間から、小林くんが嫌いだった。智くんは同族だから、嫌いで当然。でも、小林くんは智くんに似ていないのに、それなのに、嫌いだった。
どうしてなんだろう、と。考えたこともなかった。
俺も。小林くんと、同じだったから、なのだ。
小林くんと俺は、同じ。同じ位置にいるはずの、人間。
だからこそ。
小林くんだけ、自分の気持ちに気付いて、前に進ませるなんて。俺のプライドが―――赦さない。
「ちょ~っと、小林くんの耳に入れておきたいことがあっただけ。それを持って……俺は、君に借りを返す」
黒曜石のような澄んだ瞳に強い光を宿し、俺を睨みつける。その瞳に、くすりと笑みが漏れた。
「……そんなに警戒しないでよ。一応、俺なりの償いのつもりなんだけど?」
「……」
それでも黙ったままの小林くんの一重の瞳を、じっと見つめ返す。
「………猫を飼い始めたんだね?」
「………?」
小林くんの瞳が、一瞬細められて。僅かに首を傾げた。その表情に、俺は優雅に微笑んで。すっと、小林くんのネクタイ……正確には、ネクタイピンを指さした。
「それと同じ首輪を付けた、猫」
「っ」
小林くんが…その目を見開いて、息を止めた。
「……だから、君ねぇ」
はぁ、とため息をつきながら。あの時のように、同僚を心配する姿を演出するために大袈裟に肩を竦めてみせた。
「本当に、もうちょっとポーカーフェイスを覚えた方がいいよ?これから営業マンになるんでしょ?営業成績あげるなら、それ、直さないとどうにもならないと思うけど?」
「……」
小林くんが唇を噛んで、ゆっくりと、瞬きをした。
猫を飼い始めたのか、という問いに対する、肯定、ということだろう。
その表情に、ふっと、息を漏らして笑う。
「ちゃ~んと、首輪を付けているのは褒めてあげる。でもね?………飼い主が誰か、ちゃんとわかるようにしておいた方が、いいよ?」
「……どういう、ことでしょう」
小林くんの声が掠れている。
うん、いいね。その声。やっぱり、堪らない。ぞくぞくする。
これは、俺の、八つ当たりだ。八つ当たりでありながら、それでも、小林くんへの、償いなんだ。
―――だから。
感情のままに、嘲るように、思いっきり嗤ってみせた。
「同じマンションに住んでいた住人としてのアドバイス。飼い猫には、飼い主が誰かわかるようにしておかないと……新しい入居者に掻っ攫われていっちゃうよ?」
「…っ、……」
ざぁっと。小林くんの顔色が変わった。
アノ出来事を伝えるには、これで十分。あとは……このふたりの、問題。
「…………まぁ、その先の結果なんて、興味もないからね~ぇ?君が新しい入居者に対してどう出るかなんて、そしてそれがどうなろうと、どうでもいいんだけどさ?」
すぅっと。腰を曲げて、小林くんに視線を合わせる。そう―――喫煙ルームで揺さぶりをかけた時のように。
「俺が狙っている猫が巻き添えを喰らう事態になることは、赦さない」
そう口にして。くすり、とふたたび嗤ってみせる。俺の一言に、小林くんがはっと息を飲んだ。
「っ、あんた、まだ狙っ、」
「おおっと?違う猫に目移りした君に、口出しされる筋合いはな~いよ?」
小林くんの言葉を遮るように言葉を被せ、へにゃりと嗤ってみせた。
智くんに告げた、知香ちゃんから手を引く、という言葉は。よっぽどのことがない限り違えるつもりはない。
よっぽどのこと。
そう―――喩えば、智くんを狙って、あるいは、智くんの地位を狙って。智くんの大切な存在である知香ちゃんを脅かそうと……知香ちゃんを害そうとする存在が現れない限りは。違えるつもりは、ない。
ただ。今は、気持ちの整理が、つかないだけ。
ただ。今は…面白くない気持ちを、気が付かないフリをしていた自分に対する怒りを。
―――小林くんに向けて、八つ当たりしたいだけ。
愕然とした表情を、その整った顔に浮かべている小林くんを見て。
(……あぁ…ほんとうに、面白い)
知香ちゃんの周りに存在する“人間”は。その大半が、本能的に嫌いな部類の“人間”ばかりだけれど。
―――面白くて、見ていて、飽きない。
俺の、興味を……ひどく、唆っていく存在ばかりだ。
その事実に、この現実に。柄にもなく、心が踊った。
さっきから胸に巣食う、面白くない、なんて感情は。
いつの間にか……綺麗に、跡形も無く霧散していた。
小林くんのその表情に、くすりと嗤い声を上げて。俺は踵を返す。
「じゃ、俺の借りは返し終わったから。帰るよ」
あの夜と、同じように。
ひらひらと小林くんに手を振り、背を向けて。
あの夜と、同じように。
心の中で、呟いた。
(ここから先は―――キミ、次第。)
エレベーターホールに向かい、社員証を取り出してタイムカードの機械に翳す。今日は通関部へのお遣いを持って帰社する予定だったから。
下にあったエレベーターが、この階に上ってくる無機質な音が響く。ふと、エレベーターホールに設置された人事の掲示板を見遣る。
「……あぁ。昇進おめでとう、って言うの、忘れてた」
朝から掲示板を確認して、我が事のように嬉しかった。知香ちゃんが仕事を頑張っている姿はずっと見てきたから。彼女が仕事に向ける情熱は、尊敬に値すると感じていたから。
知香ちゃんに会ったら、真っ先に言おうと思っていたのに。だからこそ、通関部へのお遣いがないかと、今日はずっと目を光らせていたのに。
(……あの男のせい、だね~ぇ?)
ふっと。チワワのような、くりくりした瞳を脳裏に浮かべる。一見、少年のような可愛らしい顔立ち。その内側に秘めている―――薄汚い、劣情。
アレが知香ちゃんに害をなさなければ、それでいい。真梨ちゃんが小林くんの手から奪われようが、俺には関係ない。
チン、と、軽い音がして、エレベーターが到着する。それに乗り込んで、エントランスに降りた。出入り口の自動ドアが動いて、開花したての桜の香りが、ふわり、と、漂う。
カンカン、と。俺の革靴に取り付けられたトゥスチールが、アスファルトを叩いている。
(……)
ふと、空を見上げる。煌々とした、まあるい輝きが俺の目を焼いた。
「……満月、か」
そう呟いた瞬間、ざぁっと風が強く吹き抜けた。その風が思ったよりも冷たくて、ふるりと身震いする。
カンカンと音楽を奏でながら歩き、交差点で信号待ちをする。
足早に、俺の後ろを通り過ぎていくひとたち。
ほう、と、ため息をつく。
春の夜。そう、今夜のような、満月の、夜中に。
―――Maisieは、旅立った。
俺に、さよならさえ、言わせずに。
(……)
自分が、選択したこと。
あの夜、胸騒ぎとともに、野営テントで眠りについて。
哀しい夢を見て、夜更けに飛び起きたのに。
そんなことはない、と、自分に言い聞かせて。
俺が、動かなかったから。
だから、俺は。
(……欠けた、ままなんだ)
空に浮かぶ月は、欠けることなく、まあるいのに。
俺の心は、俺の時間は。欠けた、ままで。
Maisieの艶やかな髪と同じ色の―――黄金の輝きを放つ春の満月を見上げて。
「I wanted to hear it, even if it was a lie.I was happy.」
ちいさく、ちいさく。
もうこの世にいない、Maisieに語り掛けた。
(………そっかぁ)
だから、俺は。知香ちゃんが欲しかったんだ。
欠けた俺の半分を、うめたかったんだ。
Maisieと同じ光をその瞳に宿した知香ちゃんに。
俺の欠けた部分を、うめてほしかったんだ。
「あはは……なるほどねぇ…」
Maisieと同じ光を、その瞳に宿した、知香ちゃんに。
嘘でもいいから、しあわせだ、と、言ってほしくて。
だから……智くんへの想いを、俺に挿げ替えるように仕向けたんだ。
嘘でもいいから……知香ちゃんに。
しあわせだ、と、言ってほしかったんだ。
知香ちゃんが俺に向けるその感情が、暗示による偽りの感情だと、嘘の感情だとわかっていても。
しあわせだ、と。
ただ、ただ、俺のそばで。
俺の、隣で。
―――わらって、ほしかったんだ。
「………そっかぁ…」
ふわり、と。桜の甘い香りが漂っていく。
手を伸ばしても、届かない…春の夜空に輝く月に。
もう二度と、届くはずのない、だれかに。
この手を、伸ばした。
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