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本編・第三部
137 この手を、伸ばした。(上)
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※片桐柾臣視点です。片桐さんが苦手な方は、閲覧注意願います……!
◆◆◆◆◆
面白い女。
知香ちゃんの第一印象は、それに尽きる。
『Let's start over from scratch?』
そう言って、その笑顔で俺を骨の髄から絡めとった女は。
―――さよならさえ俺に言わせずに、旅立った。
「………す、みません。出過ぎた真似を……」
バツの悪そうな顔をして、俺から視線を逸らす女に釘づけになった。
母が体調を崩した4年前。母に最先端の医療を受けさせるために、軍隊から移籍した諜報機関を退き、日本に戻り、日本の企業で働いた。
日本の女は、外国の血が入っているというだけで俺にしなだれかかってくる。猫なで声で、俺に媚びを売る。うんざりだった。
男に見初められるために着飾り、化粧をする。この国では、年齢より幼く見える方が得をする。アイドルなんてものがそれを物語っている。これほど莫迦らしいと思うこともなかった。
けれど、この女は。俺に媚びを売るでもなく。ただただ、俺という存在を、見ていた。俺の傷に気がついて、それにそっと触れた。
焦げ茶色の瞳が、もう二度と見ることの出来ない、アイスブルーの瞳に被った。
顔立ちも、声も、仕草も、全く違う。それなのに、あのアイスブルーの瞳が、俺を絡めとったあの光が、その瞳に宿っていた。
―――面白い、と、感じた。
父を亡くし、仲間を亡くし……Maisieを亡くし。
“人間”というものに興味を失っていた俺の胸の奥が、とても久しぶりに……疼いた気がした。
自分の容姿が、人並み以上に整っていることは十分に理解していた。特にこの日本という土壌では覿面だった。
実際、イギリスに住んでいた頃も、一目惚れされた回数など……数え上げればきりがない。諜報機関に所属していた時期は、それを逆に利用して……色の仕事も積極的に請け負った。
「正直に言おう。君に興味が湧いた」
ゆっくりと揺さぶりをかけてみる。女は瞬時に動揺した。その動揺が俺の容姿に対するものでないことはすぐに分かった。
君が欲しい、と、直接的な言葉で揺さぶる。丸っこい顔を動揺で赤くしながらも、焦げ茶色の瞳に強い拒絶の意思を宿して、凛と俺を貫いていく。
こんな反応をされたのは本当に……Maisieを失ってから初めてのことだった。
あぁ、今思い返せば。この喫茶店に入店したあの瞬間から。いつも女どもから感じるはずの、熱い視線を。この女からは、感じなかった。
Maisieと同じ光を宿した瞳。それでいて、俺の顔に、口説き文句にすら、興味を持たない。それすらも。
―――Maisieと、一緒だった。
思わず笑いが込み上げた。
手に入れたい、と、瞬時に思った。
どう搦め取ってやろうかと思考を巡らせた瞬間、マスターが間に入った。それにも驚かされた。
決めた。
この女を―――知香ちゃんを、手に入れる。
Maisieが、知香ちゃんが……俺を救ってくれたように、ゼロから始めよう、という言葉の通り。俺の人生を、ゼロから始めるために。
そう決意して身体を元の場所に移動させた瞬間、チリチリと軽い音がして。
「…あぁ、さとっちゃん。彼女ちゃんが首を長くして待ってたぞ」
マスターが俺に言い聞かせるようにその言葉を紡いだ。
他人のモノ?……俺には、そんなもの関係ない。
俺の人生を、ゼロから始めるために。欲しいものを、手に入れる。
ただ、それだけ。
奪いに行くと宣言するように、会計をする男に、強く視線を送った。
その男の、ダークブラウンの瞳をちらりと見遣って、瞬時に理解する。
俺と同じ匂い。―――同族嫌悪。その言葉が、脳裏をよぎった。
口がうまく、狡猾で、囲い込みを得意とするタイプの人間。
(……ふぅん。なら、知香ちゃんを堕とすのは…そう手こずることもなさそうだね~ぇ?)
俺の口説きにも、俺の顔にも、興味を持たなかった。
……ならば、この男が知香ちゃんを手に入れた時のように。同じように、囲い込んでやればいい。
その結論に至るまでに、数秒も必要なかった。
「逃がさな~いよ。どんなにマスターに邪魔されても」
そう、口にして。どう囲い込みをして、どう搦め取ってやろうかと考えて……口の端がひどく歪んでいくのを、自覚して。
(……本当に、どうかしているくらい、堕とされた)
そう、心の中で呟いた。
まさか、従兄叔父が役員をしている極東商社で。しかも、配属となった通関部で……2課で。知香ちゃんと再会するなんて、誰が思うだろう。
Maisieを亡くした時。クリスチャンでありながらも、神なんていない、そう思った。隣人を愛せ、というオシエなど、クソくらえだ。
神は、俺から全てを奪う存在。ただ―――それだけの、存在。
けれど、この時ばかりは……神の采配に歓喜した。生まれて初めて、居るはずのない神に感謝をした。
ゆっくりと、揺さぶって。知香ちゃんを、囲い込んでいけばいい。
「っ、私はあなたの事が嫌いです!」
嫌い。―――本当に、知香ちゃんは面白い。
俺と出会ったときに、俺の事が嫌いだと突き放したMaisieと、ここまで一緒なのかと。そう思った。仏教には輪廻転生という概念があるけれど、そうなんじゃないかと。
もしかすると、「Margaret・Parker」は「一瀬知香」として生まれ変わって生きていたのではないかと。そう思えるくらいには、知香ちゃんに溺れていた。
「知香ちゃんと一緒にいる時間は俺の方が長いって話しだよ?」
あの男―――智くんと同棲中、ということは想定外だった。
それすらも、瞬時に頭を切り替えて、智くんへの揺さぶりの手段に出来たのだから良しとしよう。
あの瞬間……智くんの、ダークブラウンの瞳は。激しい感情で、ひどく歪んでいた。
いっそのこと―――お前を殺してしまいたい、と。
やりたくても実行できない、智くんの心の葛藤が見えるようで。その表情が、ひどく滑稽で。心の限り、嘲笑ってやった。
この世界では殺人は大罪だ。殺人が赦されるのは、戦争だけ。
俺が……父を、仲間を、Maisieを失った、『聖戦』という戦争だけ。
この平和に包まれた、安穏とした日本で暮らしてきた、こいつに。俺を殺してやりたい、という感情を持つ資格なんか、ない。殺してやりたい、と思えるのは、殺される覚悟がある人間だけだ。
智くんの痕跡すら―――知香ちゃんの中に残してやらない。
ひと欠けらさえも―――残して、やらない。
俺を殺してやりたい、と、睨みつける意思があるのならば。
(知香ちゃんの中の自分が殺されてしまってもいいという覚悟があるんだよね~ぇ?)
くつくつと、喉を鳴らす。
(智くんの痕跡すら、知香ちゃんから消してあげるのならば)
催眠暗示が、一番都合がいい。
現代の諜報機関では、相手の情報を引き出すのに、拷問なんて使わない。多くの場合は、色で堕とし、催眠誘導をする。そして、催眠をかけられたことすら、忘れさせる。
肉体的な拷問、というのがバレてしまえば、世界から非人道的だと批判されてしまうからだ。まぁ、今でも、肉体的拷問、という手段を使っている国家は多いけれども。
この瞬間に。―――暗示を持って、知香ちゃんを搦め取ると決めた。
ゆっくりと、機会を窺った。餌付けするように、知香ちゃんに差し入れをする。女性の身体によいものを。
いざというときに、俺の差し出したものを、疑問を持たずに口にしてくれるように。あの喫茶店での印象を、崩していく。
ゆっくりと……勝機を窺った。罠を張り巡らせ、小林くん、真梨ちゃんという駒を得た。
あのふたりが偽りの関係に墜ちたことは予想外だった。あのふたりが選び取った選択肢によって、俺が揺さぶらなくとも、小林くんにくっついて真梨ちゃんすら俺の手に墜ちてきたことも、神の采配かと思うほどだった。
だって、彼女は知香ちゃんも小林くんも守ろうとしていたから。それに雁字搦めになって、身動きが取れるはずもないのだと、わかっていたから。
自分側の盤上を、丁寧に整えていく。智くんの盤上には、知香ちゃんのみ。駒のひとつさえ、置かせない。
小林くんのウワサが駆け巡った時。
知香ちゃんを―――試したく、なった。
「彼。九十銀行頭取の甥っ子さんなんだって」
俺の顔にも興味を示さない。ならば―――肩書きには、興味を示すのではないか。
(……まぁ、多分、そんなことはないだろうけどね~ぇ?)
肩書きに興味を示し、小林くんへの態度を豹変させるようならば、俺も興味を失うだろうけれど。きっと、彼女なら………そんなことには、ならない。
―――その読みも。見事、的中して。
「彼を…彼の努力を。言葉で侮辱したこと。謝ってください」
(とんでもない女に、出逢ってしまった)
もう、この状況が。目の前に生きている女が。その存在が。
清々しいほど、面白かった。
「いや、ごめんね?さすが……俺が惚れた女だなぁって思ってさ?」
Maisieが肩書きに惹かれる女だったか否かはわからない。けれど、きっと、Maisieも同じことを口にしただろうと考えたら、笑いが止まらなかった。
母が亡くなったこと……これは本当に、本気で計算外だった。父を亡くしてから、母とふたりで歩んできた。
母のために、諜報機関で命を張ることも厭わなかった。
母には、諜報機関で働いていることは伝えなかったけれど。それでも……俺なりに、母のことは大事だった。
それすらも、利用しようと決めたのは。知香ちゃんが献花に来てくれた時の、あの痛ましげな表情を見た瞬間だった。
(……な、んだ?この、感情)
ぞくぞくと、背筋を這い上ってくる、ナニか。それは、セックスで得られる、絶頂感にも似た、ひどく、高揚した感情。
人の死に、肉親の死に、触れているのに。
何度も何度も、それこそ、飽きるほどに人の死に触れてきたのに。
………遂に。俺の感情の全てが、神に破壊されたのか、と、思えるほど。
―――魂が、震えた。
こんなのは、初めての感情だった。
あの痛ましげな表情。知香ちゃんの中に俺を刻めたと確信した。
自らの嗜虐心を、征服欲を、支配欲を、ひどく満足させた。
浅ましいエゴだとしても、構わない。
知香ちゃんの全てを、独占したい。
知香ちゃんの全てを、俺の色で染め上げたい。
知香ちゃんの全てを、犯したい。
喩え歪んでいると言われようとも。
諦めるつもりは、毛頭ない。
俺の、この最後の渇望すら、神は俺から奪っていくのならば。
―――――神さえも、殺して見せる。
実行に移すなら―――今、しかない。
幸い、俺の盤上には駒として、真梨ちゃんと小林くんがいる。彼女をあの場に連れ出すのは容易だろう。
いざとなれば、駒はふたつとも捨ててしまえばいい。ひとつの駒が智くんの騎士に成り代わったところで、大したことも出来やしない。
というより、彼にはそんな選択は出来やしないだろう。
だって、彼は。知香ちゃんを見ているようで、本当は真梨ちゃんを見ているから。そして、それに―――気が付かないフリをしている。
だからこそ、彼女を見捨てる事はしない。いざという時は―――彼女を、守るように動くはずだ。
Maisieの写真が入ったロケットペンダントを眺めながら、カーテンを閉め切った独りきりの空間で、くつくつと―――喉を鳴らす。
知香ちゃんを手に入れるために、絶食をする。体重を落とす。筋力と、活力だけは落とさない。これらも、すべて諜報機関で身に着けた、術。
けれど。
俺の駒が、本当に智くんの騎士に成り代わったことが、崩壊の始まりだった。
ポーンの想いを、計り損なっていた。
ポーンの動きを、見誤っていた。
クイーンの意思の強さを、心の強さを、侮っていた。
それが―――俺の、敗因だった、はずなのに。
「……私の事を好きでもないくせに、私を好きだなんて言わないで」
俺の敗因は、俺の読み間違い、だったはずなのに。
ふわり、と。桜の香りが、漂った、気がして。
はっと、我に返る。
(いや、違うな)
勝負は初めから俺の敗けだった。
面白い女、だと、思っていた。けれど。それだけじゃなかった。
知香ちゃんは、語りもしなかった、この世にもう存在しないはずの、Maisieのことを見抜いた。
そして。
その、死を。
Maisieが居ないこの世界のことを。
それらの全てを、受け入れられていない、俺の本心を。
―――見抜いた。
結局は。俺は、初めから。勝てる試合だと勘違いをして、敗け試合を挑んでいたのだと。
知香ちゃんは、この手をどんなに伸ばしても、けっして届かない存在だったのだと。
…………今更になって、気が付かされた。
◆◆◆◆◆
面白い女。
知香ちゃんの第一印象は、それに尽きる。
『Let's start over from scratch?』
そう言って、その笑顔で俺を骨の髄から絡めとった女は。
―――さよならさえ俺に言わせずに、旅立った。
「………す、みません。出過ぎた真似を……」
バツの悪そうな顔をして、俺から視線を逸らす女に釘づけになった。
母が体調を崩した4年前。母に最先端の医療を受けさせるために、軍隊から移籍した諜報機関を退き、日本に戻り、日本の企業で働いた。
日本の女は、外国の血が入っているというだけで俺にしなだれかかってくる。猫なで声で、俺に媚びを売る。うんざりだった。
男に見初められるために着飾り、化粧をする。この国では、年齢より幼く見える方が得をする。アイドルなんてものがそれを物語っている。これほど莫迦らしいと思うこともなかった。
けれど、この女は。俺に媚びを売るでもなく。ただただ、俺という存在を、見ていた。俺の傷に気がついて、それにそっと触れた。
焦げ茶色の瞳が、もう二度と見ることの出来ない、アイスブルーの瞳に被った。
顔立ちも、声も、仕草も、全く違う。それなのに、あのアイスブルーの瞳が、俺を絡めとったあの光が、その瞳に宿っていた。
―――面白い、と、感じた。
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“人間”というものに興味を失っていた俺の胸の奥が、とても久しぶりに……疼いた気がした。
自分の容姿が、人並み以上に整っていることは十分に理解していた。特にこの日本という土壌では覿面だった。
実際、イギリスに住んでいた頃も、一目惚れされた回数など……数え上げればきりがない。諜報機関に所属していた時期は、それを逆に利用して……色の仕事も積極的に請け負った。
「正直に言おう。君に興味が湧いた」
ゆっくりと揺さぶりをかけてみる。女は瞬時に動揺した。その動揺が俺の容姿に対するものでないことはすぐに分かった。
君が欲しい、と、直接的な言葉で揺さぶる。丸っこい顔を動揺で赤くしながらも、焦げ茶色の瞳に強い拒絶の意思を宿して、凛と俺を貫いていく。
こんな反応をされたのは本当に……Maisieを失ってから初めてのことだった。
あぁ、今思い返せば。この喫茶店に入店したあの瞬間から。いつも女どもから感じるはずの、熱い視線を。この女からは、感じなかった。
Maisieと同じ光を宿した瞳。それでいて、俺の顔に、口説き文句にすら、興味を持たない。それすらも。
―――Maisieと、一緒だった。
思わず笑いが込み上げた。
手に入れたい、と、瞬時に思った。
どう搦め取ってやろうかと思考を巡らせた瞬間、マスターが間に入った。それにも驚かされた。
決めた。
この女を―――知香ちゃんを、手に入れる。
Maisieが、知香ちゃんが……俺を救ってくれたように、ゼロから始めよう、という言葉の通り。俺の人生を、ゼロから始めるために。
そう決意して身体を元の場所に移動させた瞬間、チリチリと軽い音がして。
「…あぁ、さとっちゃん。彼女ちゃんが首を長くして待ってたぞ」
マスターが俺に言い聞かせるようにその言葉を紡いだ。
他人のモノ?……俺には、そんなもの関係ない。
俺の人生を、ゼロから始めるために。欲しいものを、手に入れる。
ただ、それだけ。
奪いに行くと宣言するように、会計をする男に、強く視線を送った。
その男の、ダークブラウンの瞳をちらりと見遣って、瞬時に理解する。
俺と同じ匂い。―――同族嫌悪。その言葉が、脳裏をよぎった。
口がうまく、狡猾で、囲い込みを得意とするタイプの人間。
(……ふぅん。なら、知香ちゃんを堕とすのは…そう手こずることもなさそうだね~ぇ?)
俺の口説きにも、俺の顔にも、興味を持たなかった。
……ならば、この男が知香ちゃんを手に入れた時のように。同じように、囲い込んでやればいい。
その結論に至るまでに、数秒も必要なかった。
「逃がさな~いよ。どんなにマスターに邪魔されても」
そう、口にして。どう囲い込みをして、どう搦め取ってやろうかと考えて……口の端がひどく歪んでいくのを、自覚して。
(……本当に、どうかしているくらい、堕とされた)
そう、心の中で呟いた。
まさか、従兄叔父が役員をしている極東商社で。しかも、配属となった通関部で……2課で。知香ちゃんと再会するなんて、誰が思うだろう。
Maisieを亡くした時。クリスチャンでありながらも、神なんていない、そう思った。隣人を愛せ、というオシエなど、クソくらえだ。
神は、俺から全てを奪う存在。ただ―――それだけの、存在。
けれど、この時ばかりは……神の采配に歓喜した。生まれて初めて、居るはずのない神に感謝をした。
ゆっくりと、揺さぶって。知香ちゃんを、囲い込んでいけばいい。
「っ、私はあなたの事が嫌いです!」
嫌い。―――本当に、知香ちゃんは面白い。
俺と出会ったときに、俺の事が嫌いだと突き放したMaisieと、ここまで一緒なのかと。そう思った。仏教には輪廻転生という概念があるけれど、そうなんじゃないかと。
もしかすると、「Margaret・Parker」は「一瀬知香」として生まれ変わって生きていたのではないかと。そう思えるくらいには、知香ちゃんに溺れていた。
「知香ちゃんと一緒にいる時間は俺の方が長いって話しだよ?」
あの男―――智くんと同棲中、ということは想定外だった。
それすらも、瞬時に頭を切り替えて、智くんへの揺さぶりの手段に出来たのだから良しとしよう。
あの瞬間……智くんの、ダークブラウンの瞳は。激しい感情で、ひどく歪んでいた。
いっそのこと―――お前を殺してしまいたい、と。
やりたくても実行できない、智くんの心の葛藤が見えるようで。その表情が、ひどく滑稽で。心の限り、嘲笑ってやった。
この世界では殺人は大罪だ。殺人が赦されるのは、戦争だけ。
俺が……父を、仲間を、Maisieを失った、『聖戦』という戦争だけ。
この平和に包まれた、安穏とした日本で暮らしてきた、こいつに。俺を殺してやりたい、という感情を持つ資格なんか、ない。殺してやりたい、と思えるのは、殺される覚悟がある人間だけだ。
智くんの痕跡すら―――知香ちゃんの中に残してやらない。
ひと欠けらさえも―――残して、やらない。
俺を殺してやりたい、と、睨みつける意思があるのならば。
(知香ちゃんの中の自分が殺されてしまってもいいという覚悟があるんだよね~ぇ?)
くつくつと、喉を鳴らす。
(智くんの痕跡すら、知香ちゃんから消してあげるのならば)
催眠暗示が、一番都合がいい。
現代の諜報機関では、相手の情報を引き出すのに、拷問なんて使わない。多くの場合は、色で堕とし、催眠誘導をする。そして、催眠をかけられたことすら、忘れさせる。
肉体的な拷問、というのがバレてしまえば、世界から非人道的だと批判されてしまうからだ。まぁ、今でも、肉体的拷問、という手段を使っている国家は多いけれども。
この瞬間に。―――暗示を持って、知香ちゃんを搦め取ると決めた。
ゆっくりと、機会を窺った。餌付けするように、知香ちゃんに差し入れをする。女性の身体によいものを。
いざというときに、俺の差し出したものを、疑問を持たずに口にしてくれるように。あの喫茶店での印象を、崩していく。
ゆっくりと……勝機を窺った。罠を張り巡らせ、小林くん、真梨ちゃんという駒を得た。
あのふたりが偽りの関係に墜ちたことは予想外だった。あのふたりが選び取った選択肢によって、俺が揺さぶらなくとも、小林くんにくっついて真梨ちゃんすら俺の手に墜ちてきたことも、神の采配かと思うほどだった。
だって、彼女は知香ちゃんも小林くんも守ろうとしていたから。それに雁字搦めになって、身動きが取れるはずもないのだと、わかっていたから。
自分側の盤上を、丁寧に整えていく。智くんの盤上には、知香ちゃんのみ。駒のひとつさえ、置かせない。
小林くんのウワサが駆け巡った時。
知香ちゃんを―――試したく、なった。
「彼。九十銀行頭取の甥っ子さんなんだって」
俺の顔にも興味を示さない。ならば―――肩書きには、興味を示すのではないか。
(……まぁ、多分、そんなことはないだろうけどね~ぇ?)
肩書きに興味を示し、小林くんへの態度を豹変させるようならば、俺も興味を失うだろうけれど。きっと、彼女なら………そんなことには、ならない。
―――その読みも。見事、的中して。
「彼を…彼の努力を。言葉で侮辱したこと。謝ってください」
(とんでもない女に、出逢ってしまった)
もう、この状況が。目の前に生きている女が。その存在が。
清々しいほど、面白かった。
「いや、ごめんね?さすが……俺が惚れた女だなぁって思ってさ?」
Maisieが肩書きに惹かれる女だったか否かはわからない。けれど、きっと、Maisieも同じことを口にしただろうと考えたら、笑いが止まらなかった。
母が亡くなったこと……これは本当に、本気で計算外だった。父を亡くしてから、母とふたりで歩んできた。
母のために、諜報機関で命を張ることも厭わなかった。
母には、諜報機関で働いていることは伝えなかったけれど。それでも……俺なりに、母のことは大事だった。
それすらも、利用しようと決めたのは。知香ちゃんが献花に来てくれた時の、あの痛ましげな表情を見た瞬間だった。
(……な、んだ?この、感情)
ぞくぞくと、背筋を這い上ってくる、ナニか。それは、セックスで得られる、絶頂感にも似た、ひどく、高揚した感情。
人の死に、肉親の死に、触れているのに。
何度も何度も、それこそ、飽きるほどに人の死に触れてきたのに。
………遂に。俺の感情の全てが、神に破壊されたのか、と、思えるほど。
―――魂が、震えた。
こんなのは、初めての感情だった。
あの痛ましげな表情。知香ちゃんの中に俺を刻めたと確信した。
自らの嗜虐心を、征服欲を、支配欲を、ひどく満足させた。
浅ましいエゴだとしても、構わない。
知香ちゃんの全てを、独占したい。
知香ちゃんの全てを、俺の色で染め上げたい。
知香ちゃんの全てを、犯したい。
喩え歪んでいると言われようとも。
諦めるつもりは、毛頭ない。
俺の、この最後の渇望すら、神は俺から奪っていくのならば。
―――――神さえも、殺して見せる。
実行に移すなら―――今、しかない。
幸い、俺の盤上には駒として、真梨ちゃんと小林くんがいる。彼女をあの場に連れ出すのは容易だろう。
いざとなれば、駒はふたつとも捨ててしまえばいい。ひとつの駒が智くんの騎士に成り代わったところで、大したことも出来やしない。
というより、彼にはそんな選択は出来やしないだろう。
だって、彼は。知香ちゃんを見ているようで、本当は真梨ちゃんを見ているから。そして、それに―――気が付かないフリをしている。
だからこそ、彼女を見捨てる事はしない。いざという時は―――彼女を、守るように動くはずだ。
Maisieの写真が入ったロケットペンダントを眺めながら、カーテンを閉め切った独りきりの空間で、くつくつと―――喉を鳴らす。
知香ちゃんを手に入れるために、絶食をする。体重を落とす。筋力と、活力だけは落とさない。これらも、すべて諜報機関で身に着けた、術。
けれど。
俺の駒が、本当に智くんの騎士に成り代わったことが、崩壊の始まりだった。
ポーンの想いを、計り損なっていた。
ポーンの動きを、見誤っていた。
クイーンの意思の強さを、心の強さを、侮っていた。
それが―――俺の、敗因だった、はずなのに。
「……私の事を好きでもないくせに、私を好きだなんて言わないで」
俺の敗因は、俺の読み間違い、だったはずなのに。
ふわり、と。桜の香りが、漂った、気がして。
はっと、我に返る。
(いや、違うな)
勝負は初めから俺の敗けだった。
面白い女、だと、思っていた。けれど。それだけじゃなかった。
知香ちゃんは、語りもしなかった、この世にもう存在しないはずの、Maisieのことを見抜いた。
そして。
その、死を。
Maisieが居ないこの世界のことを。
それらの全てを、受け入れられていない、俺の本心を。
―――見抜いた。
結局は。俺は、初めから。勝てる試合だと勘違いをして、敗け試合を挑んでいたのだと。
知香ちゃんは、この手をどんなに伸ばしても、けっして届かない存在だったのだと。
…………今更になって、気が付かされた。
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