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本編・第三部

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「も、もう…!」

 智の突拍子もない行動には慣れてきたつもりだったけれど。

(まさか、外で膝枕を強請られるなんて…)

 一瞬で顔が赤くなるのを自覚する。

 ここ最近、自宅でも、こうしてくっつかれることが多くなった。膝枕をするのは、初めてのことだけれど。

 智は鼻と舌が鋭敏だ。だから、自分ではあまり感じないけれど生理期間中は血のにおいが特に気になってしまう。付き合った当初のように、智はきっと僅かな血のにおいをも嗅ぎ取ってしまうだろう。それ故に、生理期間中はあまり私にくっついて欲しくない、と以前から伝えていたけれど。
 イタリアから帰国してから……あの夜の、片桐さんとの出来事があってからこっち、私が生理だというのにも構わず、こうしてペタペタと私に触れてくる。

 呆れたように、ほぅ、と息を吐いた。誰か来たら起こしてと口にして、ぎゅっと目を瞑り顔を私のお腹側に向けた智の横顔を、じっと眺める。

「……」

 やっぱり、睫毛が長くて羨ましい。少し分けて欲しいくらいだ。そろり、と、右手を伸ばして、智の髪に指を差し入れる。髪も女性みたいにサラサラで。それでいて、顔立ちは肉食ワイルド系なのだから、本当に神様はズルいと思う。思わず、むぅ、と口の先が尖っていく。

 さぁっと、柔らかい風が吹き抜けていく。その風が少し冷たくて身震いした。横になったままの智もきっと寒いだろう。隣に置きっぱなしにしていた膝掛けを智の肩からお腹のあたりに掛けて、余った方を自分の身体を包むように巻きつけた。

 吹き抜けていった風に乗って、桜の甘い香りが漂った。瞬間的に、シトラスの香りが蘇る。

「……」

 あの夜のことが、映画のシーンのようにチラチラと脳裏をよぎっていく。



 片桐さんがお母様が亡くなったことをひどく哀しんでいたこと。これは、智曰く……嘘、だった。智もお母様を亡くしているからこそ、お母様の死を、片桐さんがあの場である意味したことも、智の中に巣食う『赦せない』という感情に拍車をかけているのだと思う。

 智が心理学の応用をして私を絡めとった、という話しをされたこと。これは……個人的には、心理学の応用を使うくらい、私のことを欲してくれていた、手に入れたいと思ってくれていたのだ、と思えば、むず痒くなるくらい……嬉しく感じる。

 こんな感情を抱くなんて、自分でも少し、いや、割とどうかしていると思うけれど。

 今思えば、どうしてあの場であんなに動揺してしまったのか、と、自分を殴りたくなるくらいだ。智は、その前にお酒に媚薬を盛られて思考が混濁するように仕向けられ、更に、片桐さんの話の持っていき方が、所謂カルト教団などの団体が対象者を籠絡するために用いた手法に近かったのだから、私があの場でひどく動揺してしまったのは本当に仕方ないことなのだ、と言っていた。

 そして。あのお酒…何か隠し味があるんじゃないかと直感的に思った。片桐さんに勧められたあの梅酒カクテル。甘いのに、少しだけ苦味もあって。そのバランスが絶妙に計算されたカクテルなのだと認識していたけれど。

(……そういえば…お酒から目を外したタイミングって多かったな…)

 もしかしなくても。その隠し味に紛れ込ませられたから、盛られたことに気が付けなかったのだろうか。結局、私があまりにも無防備すぎた、のだ。だから…結果的に、智をこんなにも…不安にさせる事態に繋がってしまった。

(………ごめん…)

 ただただ、それしか出てこない。片桐さんに気を付けろ、と言われていたにも関わらず。

 暗示…なんていう、目に見えないものを刻まれた私は。きっと智からしてみれば以前の私とは違う風にみえているのだろう。もしかしたら、片桐さんに気持ちを持っていかれているのではないかと思っているのかも。

(だから…こうしてくっついてくるのかなぁ)

 さわさわと智の髪を触りながらぼんやりと考える。そう思ってしまっているからこそ、私にくっついているのかもしれない。まるで、私の気持ちを確かめるかのように。

 片桐さんとの繋がりが完全に途絶える形ではなかった今回の異動は、智の思惑とは外れてしまって…それも、智が抱える不安な感情に繋がっているのだと思う。

 智が…負の感情を持ち続けてこれから先の人生を歩んでいくのも、全て私のせいだ、と考えるたびに、気持ちが落ち込んでいく。

「……」

 膝の上の智を眺めていると、すう、と、規則的な寝息が聞こえてくる。寝惚けているのか、鼻先をすりすりと私のお腹に擦り付けてきた。

「ふふ…」

 なんだか、猫みたいな仕草だ。思わず笑みが零れた。その仕草が、智がイタリアに出張していた間に出会った、金色の目をしたあの黒猫を彷彿とさせる。智のその仕草が可愛くて、落ち込んだ気持ちが少しだけ浮上する。

 横になってそんなに時間も経っていないのに、こんなに早く寝入ってしまうなんて。さっき片桐さんに話していた内容からして、きっと毎晩…私が魘されていないか、時折起きて確認しているのだろう。智自身も気が付かないうちに、慢性的な寝不足に陥っているのかもしれない。

(……仕事中とか、大丈夫なんだろうか)

 慢性的に寝不足になっているとしたら、仕事で集中力を欠いてしまう瞬間だってあるのかもしれない。智が、今日まで私にあの夜の出来事を明かさなかったように、私に言わないだけで。

 …だったら、私は。
 少しでも、智の不安を取り除けるように。

(智が好き、って、言い続けるしか、ない……)

 今の私には、それしか…できない。





 智と出会って…ちょうど、半年になる。

 初めは…傷の舐め合いだから、智といる時間が心地よいのだと思っていた。女として中途半端だし、傷を持った者同士はいつか破綻するのだ、と……だから、深入りしてはだめなのだ、と…思っていた。

 でも。智と過ごす時間だけは……この世界に存在してもいいのだと。そう実感したら…あっという間に、智に捕らえられてしまっていた。

 肉食系に見えて、実は意外に心は繊細で。こっちなんか見てない振りして、それでいて実は私の色んなところを見ていて。

 商談中の智はもちろん見たことはないけれど、休日だって情報収集をしたりして努力しているから。真剣に取引先の人に向き合う姿勢は、きっととても凛々しいのだと思う。

 とびっきり意地悪だけど、その分、優しい。私のことを一番に考えてくれるからこそ、あの時、嘘をつかれた。傷ついて涙したけれど、それも、私のためを想って取ってくれた行動で。

 いつだって、私の意思を尊重してくれて、私が喜ぶことをやってくれる。私の名前を呼んで、好きだ、と……愛してる、と。付き合った当初から変わらずに、ずっと口にしてくれている。



 そこまで考えたら、顔が一気に火照ってきた。



(……あ、私、本当に智のことが好きなんだ…)

 これまでもわかっていたことを、一気に思い知らされた感じだ。自覚すると、胸がひどくむず痒い。

 今思えば、私からは……抱かれている時以外で、好き、愛している、って言葉は…あまり智に伝えていない気がする。


 私たちは人間だ。テレパスでも、エスパーでもなんでもない。だからこそ、思っていることは伝えなければ、始まらない。


 あのすれ違いの時に、智は言ってくれた。身体だけでなく、言葉も重ねよう、と。

 私の膝の上で眠る智の頬に、自分の手をそっと置いて。

「………私、智が大好きだよ」

 さっきから変わらずに規則的な寝息が続いているから。初めて抱かれた翌朝みたいに、狸寝入りってこともないはずで。これから口にする言葉は、智にはきっと届いていないのだろうけれど。それでも。

「自信家で、それでいて繊細で、誰よりも優しくて、だけど底なしに意地悪な智が、好き。片桐さんになんか、これっぽっちも、こんな感情持ってない。私が好きなのは、智だけ」

 私の中に、一時的にでも暗示を刻まれたから。智は…私の心が片桐さんにあるのかもしれない、と、思っているとしたら。それは、私にしてみたらものすごく哀しいことだから。

『てめぇの言葉なんざ今更信じられるか』

 智が片桐さんに、言葉を投げつけるように低く発した声が、耳元で響いた気がした。頭を軽く振って、幻聴を振り払う。

 片桐さんの言葉は信じられなくても、私の言葉なら、きっと…智に、届くはず。
 智の中に渦巻く、負の感情が少しでも軽くなるように。ゆっくりと、慈しむように、智の頬を撫でていく。

「私は智が好きだよ……愛してる」

 私の中には、智しかいない。それをこうして…夢の中にいる智にも、語り掛けて。何度だって、智の心の中に、私を刻んでいくしかないんだ。

「智が私の隣にいてくれたら、それでいい。ほかに、何も要らない…」

 そう呟いた瞬間、ふわり、と。また、風が私たちの間を吹き抜けていった。

 甘い桜の香りだけが、ほわん、と漂って。

「…ずっと、この先もずっと…智と、こうして…」

 こうして、淡い景色を見たり、青々とした空を見上げたり、真っ赤に染まった山を見たり、深々と降り積もる雪を眺めたりしながら。私の生命が燃え尽きるまで―――智とともにありたい。

「だから、ね?…大丈夫。私、どこにも行かないよ……」

 つぅ、と。固く閉じられた智の瞼の隙間に、春の穏やかな陽射しを浴びて。

 きらりと光る何かが、見えた気がした。


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