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本編・第三部

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「今日から新しい決算期に入ります。会社のお正月ですね。2課は新入社員を2名迎えることになっています。特に2課は人の入れ替わりが多いため、出来るだけ連携して仕事を回していくように」

 田邉部長が朝礼を纏め上げて、今日も頑張りましょう、と締めくくった。その声に全員で一礼すると、田邉部長が私の方を向いて、含んだ笑みを浮かべる。

(……?)

 なんだろう。今、このタイミングで含みのある視線を向けられる、ということは、既に内示された人事異動とは別に、私に関わる人事異動があるのかもしれない。研修ルームに呼び出しがある想定で、今日の仕事を回すべきだろうか、と、思考の片隅で考えつつ、自分のデスクに戻った。

 10時に入社式があって、昼休みが明ければ新入社員が2名配属になる。2課は机が足りなくなるため、先週1席追加した。本当は小林くんと三木ちゃんが新入社員の教育係になるということだったけれど、小林くんが畜産販売部に異動となったため、私と三木ちゃんが教育係を担当することとなった。

 新入社員に渡すための業務資料を印刷しつつ、税関に提出する資料を纏めて、ついでに3月の月次処理に必要な書類を作っていると。

「せっ、センパイ~~ッ!人事の掲示板見ました!?」

 銀行に直行出社していた三木ちゃんが、フロアの入り口からぱたぱたと駆けて来つつ、悲鳴じみた声で私を呼んだ。三木ちゃんの首に下がっている社員証が、勢いよく揺らめく。

「え?どうしたの、三木ちゃん」

 その声に、きょとん、としながら声のする方向に首を向ける。

 極東商社では、月の始まりの第一週目のみ、エレベーターホールに人事の掲示板が設置され、社員の採用・退職・結婚や訃報などが張り出される。
 けれど、今日は月曜日、しかも私は早出担当だったから、土日開けの膨大な書類と格闘し、おまけに月次処理も進めている最中で。朝礼後に設置される掲示板を見に行けていなかった。
 通関部に関わる人事…片桐さんや小林くんの異動、水野課長代理の課長への昇進については既に先週、田邉部長からの内示で知っていたから、昼休みに確認に行こうと思っていた。

 いいから早く来てください、と、三木ちゃんが私の腕を引いて。三木ちゃんの細い身体からは想像できない強い力に、思わず身体のバランスを崩しながら席から立って、エレベーターホールに設置された人事の掲示板の前に足を運んだ。

「……え!?」

 三木ちゃんが、指差す紙に。私の名前と『主任(2等級)昇格』の文字を見つけて。ゲシュタルト崩壊を起こしたかのように、その文字が一瞬で読めなくなった。

「~~~~~っ、おめでとうございますぅぅ!!!」

 がばり、と。私の胸元に飛びつくように、三木ちゃんが私の身体を抱き締めた。

 三木ちゃんの、おめでとうございます、という言葉に、我に返って。やっと、目の前の文字の意味を飲み込めた。

 入社4年目、主任昇格。

 極東商社は完全に実力主義で昇進が決まる。年功序列、という言葉はこの会社には存在しない。入社5年目に史上最速で課長代理に昇進した『平山凌牙』という存在が、それを裏付けている。
 それ故に、私が頑張ってきたことがしっかりと評価されているのだと実感して、目頭が熱くなった。まるで夢をみているかのように、身体がふわふわする。

 ふっと。朝礼時の田邉部長の含み笑いの表情が脳裏に蘇る。どういうことだろう、と思っていたけれど、このことだったのかとぴんと来た。

 私の名前の上下にも、主任昇格の欄に同期の名前がちらほらと目につく。みんな頑張っているのだな、と、胸に熱く込み上げる何かを感じる。

(あとで…同期の子たちにも社内メール送っておこう)

 三木ちゃんのとびっきりの笑顔を眺めながら、そう心の中で呟いた。






 三木ちゃんと一緒に通関部のフロアに戻ると、水野課長に挨拶をしている男性と目が合った。

「商品開発部から異動になりました西浦です」

 物腰柔らかに声を発した西浦係長が、にこり、と、私たちに笑いかけた。その笑顔に、私も笑みを返しながら自己紹介を行う。

「一瀬です。よろしくお願いいたします」

 ぺこり、と頭を下げる。
 私のその仕草に、西浦係長が柔らかく微笑んだまま言葉を返してくれる。

「私は開発一筋でしたが、大学が研究課程でしたから英語が得意で。そこを田邉部長に買われたのだと思います。貿易に関してはからっきしですので、みなさんスパルタでよろしくお願いいたしますね」

 なんとなく、全体的に、ほわん、とした雰囲気を持つ人だ。優しそうなひとでよかった、とほっと胸を撫で下ろした。

 私の隣に立っていた三木ちゃんが自己紹介をしている。………片桐さんと初めて相対した時とは全く違う、いつもの溌剌とした声で。

(……まぁ、片桐さんは三木ちゃんが1番苦手なタイプだっただろうからね……)

 心の中で苦笑しつつ、西浦係長の顔を見つめた。

 笑うと目じりが下がる西浦係長の柔和な雰囲気は、片桐さんとは違う人懐っこさを感じさせる。

 片桐さんは、私と三木ちゃんの社員からの受けはよかった。へにゃり、とした人懐っこい笑顔で、ひょい、と、相手の懐に入り込んでいけるひとだったから。通関部としても、取引先からの評判は上々だった。

 片桐さんが抜けた穴を埋めるかのように、西浦係長のような人懐っこいタイプの人物が異動となった、ということは、田邉部長が西浦係長の英語ができるという面だけではなく、この穏やかな雰囲気も含みで通関部に引き込んだ、ということだろう。

 私を総合職に転換させた時のように、緻密に計算され尽くした人事に、田邉部長の底力を見せつけられた気がした。

 西浦係長の指導は水野課長が担当する、ということで、私の右斜め前の、片桐さんが座っていた席が割り当てられることになった。

 西浦係長が席に着くと同時に、ああ、そう言えば、と声を上げる。

「一瀬さんが例の人だね?」

「……え?」

 例の人、という意味が飲み込めず、思わず目を瞬かせた。すると、西浦係長がくすり、と笑い声をあげる。

「九十銀行の甥っ子さんのウワサを払拭したっていう女性社員」

「……はぁ…」

 片桐さんが、ホワイトデーの時に昼休みで話しかけてきた一件だろうか。なぜ、私が例の人扱いになっているのだろう。

「社員食堂、っていう人目があるところで、歳上の男性社員相手に堂々と啖呵を切った、だなんていう話だったから。かなり気の強い女性なんだろうなって、内心ビクビクしていたんだよ」

 そう言葉を紡いで、西浦係長が困ったように眉を歪めた。

「君が思ったより優しそうな女性でよかったよ。だからこそ、みんなに君の言葉が届いたんだろうね」

 ……私のことがそんな風に噂になっているだなんて、知らなかった。けれど、あの時のことは後悔はしていない。だって、小林くんのことを片桐さんにあんな風に言われて、黙ってなんていられなかったから。

 でも、それが結果的に、あの嫌な噂を払拭できていたのなら、私がどういう扱いを受けようとどうでもいい、と思えた。

 一瞬、考え込んだ私に、西浦係長が、ほわん、と笑って。

「一瀬さん、三木さん。ふたりより歳上の三十路の僕ですが、間違いがあればガンガン突っ込んでくださいね」

 西浦係長が戯けたような笑みを浮かべる。その表情に、三木ちゃんと顔を見合わせて、くすりと笑い合った。








 机の上に積み上げている明日の通関分の書類を捌いていると、あっという間に昼休みに入った。うんっと伸びをして、デスクの上の書類を見回す。

 今日付けの組織再編により畜産チームとなるはずだった小林くんや片桐さんがいなくなったから、私が主に担当することとなった農産品の通関の他にも、畜産品の通関の書類を水野課長と手分けして行っている。早いところ、西浦係長や新入社員のふたりが業務を覚えてくれないと、私も水野課長も業務の抱え込みで共倒れになってしまう。

(そういえば……配属になる新入社員ふたりの名前、知らないなぁ)

 かたり、と音を立てて、椅子から立ち上がり、エレベーターホールに向かう。さっき自分の昇進の掲示は確認したけれど、今日付けで採用となる新入社員の名簿一覧を確認していなかった。例年、その名簿に配属先も記載されているから、名前だけでも先に確認しておきたい。

 掲示板の採用欄を確認して、軽く読み上げた。

「えっと……南里なんり侑斗ゆうとくんと、加藤かとう莉奈りな…さん?あ、この子、総合職の女の子なんだ」

 新入社員で女性総合職として採用されるなんて、極東商社で初めてのことじゃないだろうか。私のように一般職から総合職に転換する女性は、各販売部に数名いたけれど。

(うちの会社も…徐々に変革を迎えているんだろうなぁ……)

 管理職は男性、なんていう古い慣習は捨てていかねばならない、と、上層部は考えているのだろう。

 それに応えよ、と言わんばかりの私の主任昇格に、改めて身が引き締まる思いだった。


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