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本編・第三部
148 ただ、吐き捨てた。
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終業時刻を過ぎたけれど、俺はずっと席に座っていた。1月から契約社員として勤めていたとはいえ、異動したばかりの農産事業部。しかも食品の営業マンとしては新人…というテイなのだから、勉強したいと申し出て過去の資料を漁るのは簡単だった。
「片桐さん、お疲れさまでした。お昼は通関部からの預かり物、助かりました!ありがとうございました」
「とんでもない。お疲れさまです」
へにゃり、と。人懐っこい笑みを浮かべて、一般職の木村さんに返答する。
農産販売部に異動して引き継いだ業務は、三井商社の農産チームとの取引だった。相手は、俺と同い年の黒川という男。
智くんとは正反対にオドオドした人物で、こんな人間が営業をして大丈夫なのだろうかと心配になっていた矢先。
(…………ん~、BINGO…かなぁ?)
農産販売部所属の営業マンのみがアクセス出来る過去の取引データを引っ張り出してポツリと心の中で独りごちる。そこには俺が目をつけていた資料がPDFで保管されていた。
(循環取引……)
心の中のみで大きくため息をついた。左肘を着いて、トントンと右手の人差し指でデスクを軽く叩く。
諜報機関に在籍していた頃、一般人を装っていくつかの企業に潜入していたこともあり、こういった知識は持ち得ている。
複数の商社を巻き込み、特定の商品在庫を指定倉庫に保管したまま売買を繰り返す。倉庫は荷主から依頼される名義変更を行うのみ。それは貨物を預かる倉庫においては通常の業務のひとつであり、その不審な点に気付くこともあまりない。
商社は500円で仕入れた商品を1000円で売り500円を儲ける商売だ。この儲けを口銭ともいう。営業力である口を動かし、儲ける銭。つくづく、日本語とはよく出来ていると実感する。
通常であれば営業マンが商品を探し出して仕入れ、営業マンが営業力を駆使して売り上げ先を見つけて売り上げに繋げる。
しかし、このような循環取引では在庫を動かさず売買を繰り返すことで双方の会社で口銭を得ることが可能だ。自分の売り上げノルマが足りていない時の足しにすることが出来る。
正常な取引意識においては「一度売り上げた商品を買い戻す」と監査の際に引っかかる、と考える。が、このように巧妙な手口で通謀した行為は監査の対象から洩れる状態となっていることが多く、複数の会社を巻き込むことで売上操作の抜け道となっている。
(……知香ちゃんが通関を担当してる商品だね、これ)
彼女が輸入の際の担当をしている。その商品が、グリーンエバー社の倉庫に保管されたまま、三井商社と極東商社の間を行き来している。
正直なところ、通関部から異動してきた俺でなければ、恐らく今の段階で気付けていないと思う。通関時に必要な書類であるインボイスと原産地証明書の内容が、今年の3月下旬から繰り返されている取引の、外部証憑として添付してあるものと全く一緒なのだ。
そうして、それが今度は輸入先であるグァテマラに輸出されようとしている。今回の輸出も、乙仲は極東商社。それも、農産チームである知香ちゃんが担当するはず。
初めは品質不良等による返品処理かと思った。けれど、売上単価が数円…場合によっては銭単位で微妙に割り増しされているわけだ。これは循環取引と言えよう。
俺は昨年入社した新人の相良くんからこの業務を引き継いだ。恐らく、相良くんはシロ。だって、循環取引ということに気がついていれば、自分の手から離すはずがない。循環取引は不正、だから。
そこから導き出されるAnswer。首謀は恐らく、三井商社の担当……黒川。
テラテラと脂ぎった髪が脳裏に浮かんだ。ほぅ、と、ため息を小さく吐く。
今日、名刺交換を行った黒川は、俺と同い年で主任。それに対して、智くんはふたつ歳下で、課長代理。
そして……その智くんの大事な人である、知香ちゃんが。輸入の際の通関を担当している。
(偶然ではないよね~ぇ?これは)
ふぅ、とため息を吐いて、ゆっくりと脚と腕を組んだ。
仕組まれている。恐らく、死なば諸共、という心意気か。
自分の不正がバレても構わない。知香ちゃん本人も知らなかったとはいえ知香ちゃんがこの循環取引に少しでも関わっていたという事実が残せればいい。
そうすれば、智くんの……課長代理という立場も。不正に関わっていた知香ちゃんと交際している、となれば、その立場が危うくなる。
(嫉妬に狂った男はいやだね。正々堂々と営業で勝負したらいいのに)
「どうするかなぁ」
色々と考え込んでいたら、残業していた面々はあっという間に帰ってしまっていた。誰もいない農産販売部のブースに俺の声だけがポツリと響いて消えていく。
黒川、という男。今日、知香ちゃんが例の資料を持って来た際に遭遇した時の、あの態度に。なんとなく引っかかるものがあって。
あの後立ち寄った喫煙ルームで、ちょっとした伝手を使って経歴を少し調べた。
伊達や酔狂で諜報機関に在籍していたわけじゃない。諜報機関を退いて4年にはなるけれども直感は当たるものなのだ。
(三井商社、三井社長の私生児。……これ、智くんは知っているんだろうか)
社長の私生児、という立場にも関わらず。年功序列の企業が多いこの日本で、10年近く勤めて主任止まり。恐らくは社内でもある種、疎まれた存在。
ましてこんなことを画策するくらいだ。黒川はよっぽど智くんが憎いのだろう。
(これはねぇ……)
はぁっ、と、大きなため息を吐きながら苦笑する。
智くんに告げた、知香ちゃんから手を引く、という言葉は。よっぽどのことがない限り違えるつもりは、なかった。
よっぽどのこと。
喩えば、智くんを狙って、あるいは、智くんの地位を狙って。智くんの大切な存在である知香ちゃんを脅かそうと……知香ちゃんを害そうとする存在が現れない限りは。違えるつもりは、ない、はずだった。
「よっぽどのこと、に、該当しちゃうねぇ……」
ゆっくりと。口の端が歪んでいくのを自覚した。
ただ、今は。動く時じゃない。だって、まだ証拠が弱すぎる。これは品質不良による返品だ、卸す予定だった会社から言われてやったこと、と言われてしまえば、苦しいけれどもそれで言い逃れが出来てしまう。まだ、少し……黒川を泳がせる時期。
(そもそも……俺を巻き込むってことは大層な覚悟があるってことだよね~ぇ?)
俺はこの会社でゼロから人生を始めると決めたのだ。こんな小賢しい諍いに巻き込まれたくない。
ある程度証拠が纏ったら、農産販売部の部長……中川取締役に要相談だろう。俺は食品の営業マンとしては新人……というテイなのだから、証拠を揃えて提出したところで褒められはすれどお咎めはないだろう。
極東商社は上場会社だ。監査法人もついている。曖昧な対応で逃れられる訳がない。
そうなれば、相手方の出方次第で三井商社と極東商社は全面の取引停止になるだろう。
けれど、正直、そこまで知ったことか。
「これくらいは自力で片付けてね、智くん。この件で知香ちゃんが傷付けられるような事態になれば、容赦なく奪いに行くから」
齢30歳で課長代理に抜擢されるくらい優秀なのだ。
ならば、黒川の尻尾を掴むのは朝飯前だろう。
今回の件に関して俺は不問となったとして。知香ちゃんはそうはならない可能性が高い。三井商社の新部門を率いている智くんと交際していることが明るみに出れば、極東商社の情報を三井商社に横流ししていた可能性を指摘されるやもしれない。
「……ふふふ」
俺からのヒントが無くったって。これくらいは。
(彼女のために、片付けてくれないとね~ぇ?)
三井商社のビルがある方向を見つめながら、椅子に深く座り込む。ギシリ、と。椅子が軋む音が、俺しか残っていないフロアに響いた。
「……俺の証拠集めが終わるまで、待っててあげる」
期限は俺が証拠を集め切るまで。それまでに……三井商社側からこの件を片付ける動きが見えなければ。
(奪いにいってあげる。今度は、正々堂々と)
彼女が傷付けられる前に。俺が、キミから奪ってあげる。
忌まわしい顔が、後悔と憤怒に歪む様を想像して。
くつくつと、喉を鳴らした。
ふわふわと、異空間を漂っているような感覚。
真っ白な壁に囲まれている。真っ白で、何もない、空間。俺しか、存在しない、空間。
それなのに。
遠い遠い場所で。
黒い髪をした小さな女の子が泣いている。
まるで見えない糸に引き寄せられるかのように。
その子にゆっくりと近寄った。
しゃくりを上げながら、目の周りを真っ赤にして、涙をぼろぼろと流す女の子。
見た目の年齢にそぐわない、生えかけの黒髪。
その子の頭に、そのふわふわの髪に、俺の手を伸ばしたところで。
ガタン、と、身体が揺れた。
(……眠ってたのか)
電車独特の揺れによって眠りに誘われてしまったのだと気がつく。そういえば、今週はイギリスから帰国し、従兄叔父と相続の相談や、今後のことの話し合いを行なったり、異動先での業務の引き継ぎでバタついていて。ろくに睡眠を取れていなかった。
(………あの子は誰だ…?)
手で目尻を擦り、欠伸を噛み殺しながら、ぼんやりと思考を巡らせる。
夢に女性が出てくるのは、Maisie以外では初めてのことだ。黒髪だから、きっと日本で出会った人物。
初めは知香ちゃんかと思ったけれど、知香ちゃんの幼少期なんて知るはずもない。彼女は地方の出身だ。俺がイギリスに移住する前に住んでいた地域からは、飛行機の距離。すれ違いすら、していないだろう。
母は、俺が15歳になる頃にイギリスの病院で癌と診断され、医療が進んでいる日本の専門病院に入院した。日本国籍を放棄していなかったことが幸いした。
俺は面会のために時折、父親とイギリスから一時帰国をしていた。その母の病室が、小児癌患者の病室と近かった。そこで触れ合った誰かしらの記憶。
自分自身ですらもう忘れてしまった……古い記憶が掘り起こされたのだろう、と結論づける。
もうすぐ、自宅の最寄り駅。そろそろ降りる準備をしようと鞄を握り締めて、席を立って。出口のドアに近い手すりに手をかける。
真っ黒な窓に自分の顔が映り込んでいる。それをぼうっと眺めた。
『Why can't I move on, while the world has let it go to move on forward?』
ただただ、小さな疑問だった。俺はMaisieを失ったあの瞬間から、あのテロが全世界に中継された瞬間から、俺は一歩も動けていない。
それなのに、世界はあの日から動いていっている。今日、知香ちゃんから預かった資料に書いてあった、ベネフィット認証、という国際的な取り組みを経て。きっと、俺が知らないだけでそれ以外にも色々な取り組みがあるのだろう。
一歩ずつ、一歩ずつ。牛歩の歩みかもしれないけれど、それでも着実に。
世界は、動き始めている、のに。
『That person would have wanted you to be happier than anyone. You are alive right now, so you can step forward.』
昼間の、俺の小さな疑問に。日本人とは思えないような流暢な英語で、俺に言葉をぶつけてきた、あの女。
艶のある黒髪をなびかせて。俺が一番嫌いな、日本の量産型アイドルのような幼い見た目をして。二重のぱっちりとした瞳で、真っ直ぐに俺を見つめてきた、あの女。
「……くだらない」
そう。くだらない、のだ。Maisieが俺に誰よりも幸せになって欲しかったなんて、俺が今を生きているなんて。
そんな月並みにくだらないことは、わかりきってる。
それでも、俺は進めないのだ。あの、瞬間から。
知香ちゃんと一緒にいた、ということは、通関部に配属された今年の新入社員。俺よりも10歳も歳下の青二才。
平和な日本で安穏と日々を過ごしてきた、『光』の世界に生きてきた人間。苦しみも悲しみも、怒りも絶望も、居もしない神には届かない『闇』の世界を生きてきた、俺とは正反対の、人間。
そんな人間に、真っ直ぐに言葉をぶつけられたことが、思ったよりも俺の神経を逆撫でた。
あの瞬間から、こんなにも―――心の中の騒めきが、おさまらない。
(くだらない)
日本の女に植え付けられた、年齢よりも幼く見える方が得をすると心得ている、あの髪型。腰まで届く黒髪をそのままに、サラサラと揺らしながら歩く。
瞳を大きく魅せるためのアイメイク。綺麗にカールされた長い睫毛。眉下で真っ直ぐに切り揃えられた、前髪。
清楚系アイドルのような見た目。
あの女も、恐らく俺の整った容姿に惹かれた。そうして、俺の気を惹きたくて、耳障りの良い言葉を並べ立てた。そうに、決まっている。
窓から見える、満月から新月に欠けていく臥待月を眺めながら。
あんな小娘の一言で感情を乱されている自分自身に向けて。
「………Bollocks.」
『面白くない』という意味が含まれる汚い言葉を。
ただ、吐き捨てた。
「片桐さん、お疲れさまでした。お昼は通関部からの預かり物、助かりました!ありがとうございました」
「とんでもない。お疲れさまです」
へにゃり、と。人懐っこい笑みを浮かべて、一般職の木村さんに返答する。
農産販売部に異動して引き継いだ業務は、三井商社の農産チームとの取引だった。相手は、俺と同い年の黒川という男。
智くんとは正反対にオドオドした人物で、こんな人間が営業をして大丈夫なのだろうかと心配になっていた矢先。
(…………ん~、BINGO…かなぁ?)
農産販売部所属の営業マンのみがアクセス出来る過去の取引データを引っ張り出してポツリと心の中で独りごちる。そこには俺が目をつけていた資料がPDFで保管されていた。
(循環取引……)
心の中のみで大きくため息をついた。左肘を着いて、トントンと右手の人差し指でデスクを軽く叩く。
諜報機関に在籍していた頃、一般人を装っていくつかの企業に潜入していたこともあり、こういった知識は持ち得ている。
複数の商社を巻き込み、特定の商品在庫を指定倉庫に保管したまま売買を繰り返す。倉庫は荷主から依頼される名義変更を行うのみ。それは貨物を預かる倉庫においては通常の業務のひとつであり、その不審な点に気付くこともあまりない。
商社は500円で仕入れた商品を1000円で売り500円を儲ける商売だ。この儲けを口銭ともいう。営業力である口を動かし、儲ける銭。つくづく、日本語とはよく出来ていると実感する。
通常であれば営業マンが商品を探し出して仕入れ、営業マンが営業力を駆使して売り上げ先を見つけて売り上げに繋げる。
しかし、このような循環取引では在庫を動かさず売買を繰り返すことで双方の会社で口銭を得ることが可能だ。自分の売り上げノルマが足りていない時の足しにすることが出来る。
正常な取引意識においては「一度売り上げた商品を買い戻す」と監査の際に引っかかる、と考える。が、このように巧妙な手口で通謀した行為は監査の対象から洩れる状態となっていることが多く、複数の会社を巻き込むことで売上操作の抜け道となっている。
(……知香ちゃんが通関を担当してる商品だね、これ)
彼女が輸入の際の担当をしている。その商品が、グリーンエバー社の倉庫に保管されたまま、三井商社と極東商社の間を行き来している。
正直なところ、通関部から異動してきた俺でなければ、恐らく今の段階で気付けていないと思う。通関時に必要な書類であるインボイスと原産地証明書の内容が、今年の3月下旬から繰り返されている取引の、外部証憑として添付してあるものと全く一緒なのだ。
そうして、それが今度は輸入先であるグァテマラに輸出されようとしている。今回の輸出も、乙仲は極東商社。それも、農産チームである知香ちゃんが担当するはず。
初めは品質不良等による返品処理かと思った。けれど、売上単価が数円…場合によっては銭単位で微妙に割り増しされているわけだ。これは循環取引と言えよう。
俺は昨年入社した新人の相良くんからこの業務を引き継いだ。恐らく、相良くんはシロ。だって、循環取引ということに気がついていれば、自分の手から離すはずがない。循環取引は不正、だから。
そこから導き出されるAnswer。首謀は恐らく、三井商社の担当……黒川。
テラテラと脂ぎった髪が脳裏に浮かんだ。ほぅ、と、ため息を小さく吐く。
今日、名刺交換を行った黒川は、俺と同い年で主任。それに対して、智くんはふたつ歳下で、課長代理。
そして……その智くんの大事な人である、知香ちゃんが。輸入の際の通関を担当している。
(偶然ではないよね~ぇ?これは)
ふぅ、とため息を吐いて、ゆっくりと脚と腕を組んだ。
仕組まれている。恐らく、死なば諸共、という心意気か。
自分の不正がバレても構わない。知香ちゃん本人も知らなかったとはいえ知香ちゃんがこの循環取引に少しでも関わっていたという事実が残せればいい。
そうすれば、智くんの……課長代理という立場も。不正に関わっていた知香ちゃんと交際している、となれば、その立場が危うくなる。
(嫉妬に狂った男はいやだね。正々堂々と営業で勝負したらいいのに)
「どうするかなぁ」
色々と考え込んでいたら、残業していた面々はあっという間に帰ってしまっていた。誰もいない農産販売部のブースに俺の声だけがポツリと響いて消えていく。
黒川、という男。今日、知香ちゃんが例の資料を持って来た際に遭遇した時の、あの態度に。なんとなく引っかかるものがあって。
あの後立ち寄った喫煙ルームで、ちょっとした伝手を使って経歴を少し調べた。
伊達や酔狂で諜報機関に在籍していたわけじゃない。諜報機関を退いて4年にはなるけれども直感は当たるものなのだ。
(三井商社、三井社長の私生児。……これ、智くんは知っているんだろうか)
社長の私生児、という立場にも関わらず。年功序列の企業が多いこの日本で、10年近く勤めて主任止まり。恐らくは社内でもある種、疎まれた存在。
ましてこんなことを画策するくらいだ。黒川はよっぽど智くんが憎いのだろう。
(これはねぇ……)
はぁっ、と、大きなため息を吐きながら苦笑する。
智くんに告げた、知香ちゃんから手を引く、という言葉は。よっぽどのことがない限り違えるつもりは、なかった。
よっぽどのこと。
喩えば、智くんを狙って、あるいは、智くんの地位を狙って。智くんの大切な存在である知香ちゃんを脅かそうと……知香ちゃんを害そうとする存在が現れない限りは。違えるつもりは、ない、はずだった。
「よっぽどのこと、に、該当しちゃうねぇ……」
ゆっくりと。口の端が歪んでいくのを自覚した。
ただ、今は。動く時じゃない。だって、まだ証拠が弱すぎる。これは品質不良による返品だ、卸す予定だった会社から言われてやったこと、と言われてしまえば、苦しいけれどもそれで言い逃れが出来てしまう。まだ、少し……黒川を泳がせる時期。
(そもそも……俺を巻き込むってことは大層な覚悟があるってことだよね~ぇ?)
俺はこの会社でゼロから人生を始めると決めたのだ。こんな小賢しい諍いに巻き込まれたくない。
ある程度証拠が纏ったら、農産販売部の部長……中川取締役に要相談だろう。俺は食品の営業マンとしては新人……というテイなのだから、証拠を揃えて提出したところで褒められはすれどお咎めはないだろう。
極東商社は上場会社だ。監査法人もついている。曖昧な対応で逃れられる訳がない。
そうなれば、相手方の出方次第で三井商社と極東商社は全面の取引停止になるだろう。
けれど、正直、そこまで知ったことか。
「これくらいは自力で片付けてね、智くん。この件で知香ちゃんが傷付けられるような事態になれば、容赦なく奪いに行くから」
齢30歳で課長代理に抜擢されるくらい優秀なのだ。
ならば、黒川の尻尾を掴むのは朝飯前だろう。
今回の件に関して俺は不問となったとして。知香ちゃんはそうはならない可能性が高い。三井商社の新部門を率いている智くんと交際していることが明るみに出れば、極東商社の情報を三井商社に横流ししていた可能性を指摘されるやもしれない。
「……ふふふ」
俺からのヒントが無くったって。これくらいは。
(彼女のために、片付けてくれないとね~ぇ?)
三井商社のビルがある方向を見つめながら、椅子に深く座り込む。ギシリ、と。椅子が軋む音が、俺しか残っていないフロアに響いた。
「……俺の証拠集めが終わるまで、待っててあげる」
期限は俺が証拠を集め切るまで。それまでに……三井商社側からこの件を片付ける動きが見えなければ。
(奪いにいってあげる。今度は、正々堂々と)
彼女が傷付けられる前に。俺が、キミから奪ってあげる。
忌まわしい顔が、後悔と憤怒に歪む様を想像して。
くつくつと、喉を鳴らした。
ふわふわと、異空間を漂っているような感覚。
真っ白な壁に囲まれている。真っ白で、何もない、空間。俺しか、存在しない、空間。
それなのに。
遠い遠い場所で。
黒い髪をした小さな女の子が泣いている。
まるで見えない糸に引き寄せられるかのように。
その子にゆっくりと近寄った。
しゃくりを上げながら、目の周りを真っ赤にして、涙をぼろぼろと流す女の子。
見た目の年齢にそぐわない、生えかけの黒髪。
その子の頭に、そのふわふわの髪に、俺の手を伸ばしたところで。
ガタン、と、身体が揺れた。
(……眠ってたのか)
電車独特の揺れによって眠りに誘われてしまったのだと気がつく。そういえば、今週はイギリスから帰国し、従兄叔父と相続の相談や、今後のことの話し合いを行なったり、異動先での業務の引き継ぎでバタついていて。ろくに睡眠を取れていなかった。
(………あの子は誰だ…?)
手で目尻を擦り、欠伸を噛み殺しながら、ぼんやりと思考を巡らせる。
夢に女性が出てくるのは、Maisie以外では初めてのことだ。黒髪だから、きっと日本で出会った人物。
初めは知香ちゃんかと思ったけれど、知香ちゃんの幼少期なんて知るはずもない。彼女は地方の出身だ。俺がイギリスに移住する前に住んでいた地域からは、飛行機の距離。すれ違いすら、していないだろう。
母は、俺が15歳になる頃にイギリスの病院で癌と診断され、医療が進んでいる日本の専門病院に入院した。日本国籍を放棄していなかったことが幸いした。
俺は面会のために時折、父親とイギリスから一時帰国をしていた。その母の病室が、小児癌患者の病室と近かった。そこで触れ合った誰かしらの記憶。
自分自身ですらもう忘れてしまった……古い記憶が掘り起こされたのだろう、と結論づける。
もうすぐ、自宅の最寄り駅。そろそろ降りる準備をしようと鞄を握り締めて、席を立って。出口のドアに近い手すりに手をかける。
真っ黒な窓に自分の顔が映り込んでいる。それをぼうっと眺めた。
『Why can't I move on, while the world has let it go to move on forward?』
ただただ、小さな疑問だった。俺はMaisieを失ったあの瞬間から、あのテロが全世界に中継された瞬間から、俺は一歩も動けていない。
それなのに、世界はあの日から動いていっている。今日、知香ちゃんから預かった資料に書いてあった、ベネフィット認証、という国際的な取り組みを経て。きっと、俺が知らないだけでそれ以外にも色々な取り組みがあるのだろう。
一歩ずつ、一歩ずつ。牛歩の歩みかもしれないけれど、それでも着実に。
世界は、動き始めている、のに。
『That person would have wanted you to be happier than anyone. You are alive right now, so you can step forward.』
昼間の、俺の小さな疑問に。日本人とは思えないような流暢な英語で、俺に言葉をぶつけてきた、あの女。
艶のある黒髪をなびかせて。俺が一番嫌いな、日本の量産型アイドルのような幼い見た目をして。二重のぱっちりとした瞳で、真っ直ぐに俺を見つめてきた、あの女。
「……くだらない」
そう。くだらない、のだ。Maisieが俺に誰よりも幸せになって欲しかったなんて、俺が今を生きているなんて。
そんな月並みにくだらないことは、わかりきってる。
それでも、俺は進めないのだ。あの、瞬間から。
知香ちゃんと一緒にいた、ということは、通関部に配属された今年の新入社員。俺よりも10歳も歳下の青二才。
平和な日本で安穏と日々を過ごしてきた、『光』の世界に生きてきた人間。苦しみも悲しみも、怒りも絶望も、居もしない神には届かない『闇』の世界を生きてきた、俺とは正反対の、人間。
そんな人間に、真っ直ぐに言葉をぶつけられたことが、思ったよりも俺の神経を逆撫でた。
あの瞬間から、こんなにも―――心の中の騒めきが、おさまらない。
(くだらない)
日本の女に植え付けられた、年齢よりも幼く見える方が得をすると心得ている、あの髪型。腰まで届く黒髪をそのままに、サラサラと揺らしながら歩く。
瞳を大きく魅せるためのアイメイク。綺麗にカールされた長い睫毛。眉下で真っ直ぐに切り揃えられた、前髪。
清楚系アイドルのような見た目。
あの女も、恐らく俺の整った容姿に惹かれた。そうして、俺の気を惹きたくて、耳障りの良い言葉を並べ立てた。そうに、決まっている。
窓から見える、満月から新月に欠けていく臥待月を眺めながら。
あんな小娘の一言で感情を乱されている自分自身に向けて。
「………Bollocks.」
『面白くない』という意味が含まれる汚い言葉を。
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