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本編・第三部

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 ……本当に、気持ちよく微睡んでいたのに。夢と現実の狭間を揺蕩うような心地よい感覚の中で、智にキスされていたから。

 けれど。あまりのリアルな感覚に瞼を開けると、それは夢ではなくて現実だった。

「……??…ふ………むっ……んっ!」

 軽いリップ音を立てて唇を解放され、目の前に智のダークブラウンの瞳があって。やたら上機嫌ににっこりと微笑んでいた。

「おはよ?」

「……っ、お、はよう……」

 智の、男の人にしては長いまつ毛が瞬いた。

「今日は?嫌な夢見てねぇか?」

 そうして、ダークブラウンの瞳が、不安気に小さく揺れる。

 ……やっぱり、不安なんだろう。一度は私が片桐さんの手に堕ちてしまったから。暗示、なんていう、目に見えないものを掛けられてしまったのだから。

 智の不安を取り除くように、しっかりと笑いながら返答する。

「うん、大丈夫」

 私の返答に、智がふっと微笑んで。

「さて。弁当作るか」

 ギシリとスプリングが軋む音がして、智が身体を起こした。それに倣って私も身体を起こすけれど。

「……ちょっと智。私の寝間着、返して」

 智の右手に、綺麗に畳まれた私の寝間着があった。

 そう。昨日はお風呂に入る前に襲われ、その後、汗ばんだ身体を綺麗にしてやると言いつつお風呂で襲われ。まぁ、もちろんその後はしっかりとベッドで襲われた。

 ……それはもう、2週間分、たっぷりと。しばらくセックスはしたくないと思えるほどに。

(……ていうか、あんなに求めて射精して…朝からこんなにケロっとしてるだなんて…)

 やっぱり智は性欲おばけだ。そう考えつつ、掛布団で胸元を隠しながら、真横の智をぎゅうと睨みあげた。

 私の寝間着を手に持ったまま、くっと智が喉の奥を鳴らして。

「……男のロマンなんだけど?裸エプ……痛ッ」

 智が言いたいことを察して先に腕を抓った。それだけは絶対にやらないから!

 頬を膨らませてふたたび智を睨みあげる。智は不服そうに切れ長の瞳を歪ませ、私が抓った腕を擦って。寝間着を私に渡してくれる。それを身につけつつ、お弁当?と智に訊ねた。

「桜。見に行くんだろ?」

 智が、不服そうな表情から一転して楽しそうに声を上げた。その様子に、遠足に心躍らせた子どもみたいだなと感じて、くすりと笑みが零れる。

「今、家にあるもので作ろっか」

 智に恋人繋ぎをされながら身体を起こしてもらう。ふたりで連れ立って、キッチンへ向かって、寝間着の上からエプロンを身につけた。

 冷蔵庫の中を覗き込んで、お弁当の中身を脳内で考え始める。

(ウィンナーと、玉子焼き。ほうれん草とベーコンの炒め物と…ミニトマトもあるし、ご飯を炊いておにぎりにしたらいいかな。それから林檎をウサギカットにしてデザートに持って行って……うん、一通りは作れそう)

 智がキッチンの後ろの棚から食パンの袋を取り出して。

「サンドイッチにするか?この前、浅田から燻製ハムを貰ったんだ」

「浅田さんから?」

 イタリア出張に一緒に行ったという、三井商社畜産チームの担当さん。





 あの日。私を助けに来るために、空港についてすぐ智の荷物をまるっと託したそうだ。そのお礼として、私の地元の銘菓を近くのアンテナショップで購入し、手土産として持たせて、翌日に智ひとりで浅田さんの自宅まで引き取りに行った際に、今回の事情を掻い摘んで話しているそう。

 もっとも、私が極東商社に勤めているということだけは、伏せているらしい。私のせいで迷惑をかけたのだから私も同行したいと申し出たけれど、黒川さんの一件があるからか、浅田さんにも私の顔は見せたくないらしく、拒否されてしまった。

「今の段階で、俺と知香のことを知ってるのは池野課長だけ。藤宮にも話してねぇんだ。大っぴらにしてやれなくて……すまない。わかって、くれ」

 切れ長の瞳が、不安気に小さく揺れながらそう告げられた、あの時の光景が目の前に甦った。

 智と浅田さんは同期ではないけれど同い年で、今回のイタリア出張で浅田さんと打ち解け、あっという間に親友と呼べるような親しい間柄になったらしいのだけれど。……智の中で、それとこれは別、なんだそうだ。





 ぼんやりと過去に思考を飛ばしていると、智が楽しそうに笑った。

「そう。新部門のテストとして下請けに作ってもらった加工品の試作なんだ」

 智が冷蔵庫のチルド室から取り出して、燻製ハムをキッチンのワークトップに置いた。私はそれを手に取ってしげしげと眺める。

「へぇ~!こんな感じのをこれから展開していくんだね」

「ん。こんな感じのやつをスーパーや量販店に卸して行くようになるな」

 そうなれば。私が輸入の通関を担当する原料の最終形態の商品を、近くのスーパーで実際に手に取れるようになれるかもしれない。グリーンエバー社で見学した時に感じたような胸の熱さを感じて。

(……私も…お仕事頑張らなきゃなぁ)

 ぽつり、と、心の中で改めて呟きながら、燻製ハムに包丁を入れていく。野菜室からレタスを取り出して軽く刻み、林檎の酸化止め用の塩水をボウルに準備して林檎の芯を取り除いていると、智が鍋にお湯を沸かして、食料庫から卵を数個持ってきていた。

「ゆでたまご?」

「ん。サンドイッチには欠かせねぇだろ?」

 智はいつの間にか白いTシャツに深い藍色のジーパンというラフな格好に着替えていた。

「たまごフィリング作っておくから、知香は着替えてメイクしてきな」

 その言葉に素直に従い、エプロンを外してキッチンから離れて洗面台に向かった。

(……こーいうのなら、素直になれるのになぁ…)

 洗顔をしながら、昨晩抱かれている時に…素直になれよ、と、言われたことを思い出す。それでも。セックスで素直になるのは、まだまだ恥ずかしくて、難しい。

 むぅ、と口の先を尖らせつつ、化粧水をパッティングしていく。

 いつになったら、そういう面で素直になれるのやら。どんな私でも好きだと口にしてくれる智がいるからこそ、現状に甘んじている私がいるのだろうな、とぼんやり考えた。

 節分の時。初めて、奉仕をした時。相手にイイという反応があると、嬉しいということに気がつかされた。だからこそ。

(…ちょっとくらい、素直になれるように……うん、気をつけよう…)

 本当はかなり恥ずかしいけれど!そう小さく決意して、私の洋服を入れている棚を開いて。

「ん~……きっと、歩く感じよね…」

 歩くからこそ、智もジーパンだったのだろうと思い立ち、私もジーパンを選ぶ。智の深い藍色と正反対の、淡い色のジーパンに、くすんだ淡いピンクのトップスと、ここ最近のお気に入りのアイボリーのスプリングコートを合わせることにした。靴棚から私のスニーカーを取り出して、ついでに智のスニーカーも準備する。智はたぶん、今日のコーディネートだと赤のスニーカーを履くと思う。

 ふと、寝室のクローゼットの奥に、冬にリビングでも使っていた大きめの膝掛けを仕舞ったことを思い出した。

(……お弁当食べる時に使うかな?)

 もう4月1日。それでも、春先は急に冷え込むこともあるから。ぱたぱたと寝室まで戻り、クローゼットから引っ張り出して、膝掛けも持って行くことに決めた。

 ある程度荷物を纏め終えて、私の家から持ってきた白い化粧台の前に座り、手早くメイクをしていく。今日は春要素満載の、ピンクパープルで軽くグラデーションを施したアイメイクにした。口紅は優しげな赤を選んで、髪を軽く巻いて。

「準備できたよ~」

 くるりと身体を反転させてキッチンに顔を向けると、智がコーヒーを入れてタンブラーに移し替えているところだった。智から贈ってもらったイヤリングを付けながら、さっきふたりで作ったサンドイッチをタッパーに入れる。

「ん、じゃ、行くか」

「うん」

 ふたりで玄関に向かい、智が車の鍵を持ったのを確認して、玄関の鍵を閉めた。










 今日は快晴。風も比較的穏やか。けれど時折、春先特有の強い風が吹いている様子を、車の窓から見つめる。

「……ほんと、いい天気だね」
 
「そうだなぁ」

 後ろに飛んでいく景色をぼんやり見つめながら、何処に桜を見に行くつもりなのかを訊ねる。だって、この道は……国際空港の方向に向かう道だから。

「国際空港の近くにな?川縁に桜並木がある道があるらしいんだ。よく海外出張に行ってる浅田が偶然見つけたらしいんだが、水面に反射する桜が特に綺麗で穴場なんだそうだ」

 高速となっている環状線の分岐路で、右にウインカーを上げながら、智が返答してくれる。

「へぇ~……」

 国際空港の近くにそんな穴場のスポットがあるなんて知らなかった。初めて行く場所にドキドキして、胸が踊るような感覚があった。

 空港の手前の料金所で環状線を降りて、少し走った場所のコインパーキングに智が車を停める。

「ちょっと歩くから」

「はーい」

 やっぱりジーパンにスニーカーで来ていて正解だった。助手席から降りて智に手を引かれながら、昔ながらの商店街を通り抜けて、細い路地に入り込む。

 他愛もない話をしながらその細い路地を通り抜けると、開けた道に出て。




 私は言葉もなく、目を見開いて…その景色に魅入った。




 川縁に等間隔で植えられた桜の木を見上げながら、智と手を絡めて、ゆっくりと歩く。川の水面が春の暖かい日差しを浴びてキラキラと煌めきながら、枝垂れた枝の先にぽつぽつと咲き誇る桜の花が映り込んで。一言では言い表せないほど、とても幻想的な光景だった。

 開花したばかりの今もこんなに綺麗なら、満開になった時にはどれほど美しい光景が広がるのだろう。

 決算業務明けで疲れているのにも厭わず、わざわざ遠方の空港近くまで運転してここまで連れてきてくれた、と言うことが、途方もなく、嬉しかった。

「…ありがとう……」

 私が呟いた言葉に、智が満足そうに笑った。






 春の穏やかな風が枝垂れ桜の枝を揺らして、少しづつ、花びらを乱して散らしていく。

 ふと、智が足を止めて立ち止まった。くんっと腕が引っ張られる。

「……?」

 隣の智を訝しげに見上げると、警戒したような視線を目前に送っている。つぃ、と、その視線を追って、私は呼吸が止まった。





 ざぁっと風が吹き抜けて、桜の花びらが舞っていく。少し先に設置してあるベンチに、人影があって。そこに座っている人の明るい髪が、風に揺れた。






 ふわり、と…開花したての甘い桜の香りの中に、シトラスの香りが漂った。




 真横から見ても、すっとした高い鼻立ち。ぼんやりと、頭上を見上げている……ヘーゼル色の瞳。その瞳は、真上の桜を見ているのに、どこか、遠くの……空を、見ているようで。




 その景色を仰ぎ見ている横顔が、まるで風景画の中で描写されているかのように錯覚させて。その人の横顔に魅入る事しかできなくなってしまった。




 ……やがて、その人が私たちに気がついたようで、ゆっくりと顔だけをこちらに向ける。






「やぁ。智くん。…知香ちゃんも。久しぶりだね~ぇ?」






 へにゃり、と。片桐さんが、微笑んだ。





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