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本編・第二部

120 声が、響いた。(下)

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 路地を曲がると大きな繁華街に出た。華の金曜日、飲み歩く人なみでごった返す中を、縫うように、時に人にぶつかりながら、謝罪の言葉を紡ぎながら、全速力で走って。

「おい!」

 仔犬の顔を見つけて、スマホを耳から外した。

「3階の店! 入って左に曲がって5個目のブース!」

 仔犬が、今にも泣きそうな顔をして真横のビルを指差した。

「間に合った……」

 仔犬がそう呟いて、へなへなとその場に蹲った。仔犬のスーツも、乱れて汚れている。こめかみに痣ができているのを見ると、この階段を転がり落ちながらも電話をかけてきたのだと認識して。

 俺もその場に座り込み、蹲った仔犬に視線を合わせて仔犬の乱れた髪を撫でた。

「……あん時も、今も。伝えに来てくれて、ありがとうな」

 初めて宣戦布告をしに俺のもとに来た時。仔犬は、知香のトラウマを知っていた。満たしてやってくれ、と、俺に伝えにきた。

「あんたの、ため、じゃない……」

 あの時のように。仔犬の声が震えた。

 知香に心底惚れている仔犬が、どんな想いで俺に連絡を付けたのだろう。どんな想いで、俺に知香を託すという選択肢を選び取ったのだろう。

 俺は。仔犬の、その想いに報いなければならない。

「……ぐちゃくちゃのカッコでカッコつけんな、おせーんだよ、あんたが一瀬さんの彼氏だろ、あんたしか一瀬さんを守れねぇんだよ、それわかってんのかよ………」

 仔犬の瞳がじっとりと湿っていく。

「…だから………もっと…早く来いよ……心配させやがって………クソッタレが……」

 憎まれ口を叩く仔犬の瞳が小さく揺れて、その一重の眦から雫がこぼれ落ちていった。

 ぽんぽん、と、仔犬の頭を軽く叩きながら。



「大丈夫。……俺が、ちゃんと、お前に言ったように、奪い返してくっから」



 ふっと、いつかの時に見せた目をしてみせる。






 そうして、あの時のように…仔犬が、悔しそうに、笑った。














 立ち上がって、乱れたスーツを乱暴に整えて。伝えられた3階の店に続く階段を駆け上がった。店内に入り、カウンター席を足早に通り過ぎて左に曲がる。1…2…3…4……5つめの、ブース。



 愛しい顔が、一週間振りに見る恋しい人の寝顔が、視界に飛び込んできた。知香が……ブースの壁に凭れかかって、眠っている。

「知香っ……!」

 そう口にして駆け寄ろうとした瞬間。




「やぁ。智くん」




 にこり、と。ヘーゼル色の瞳が、俺に嗤いかけた。こけた頬が無性に腹立たしい。

 知香が座る隣に、知香の真横に、片桐が陣取っている。その事実に、視界が赤く染まっていく。

「んん~、思ったよりも早かったね~ぇ? 誰の手引き?」



 ―――あぁ、小林くんかな?



 そう口にして、片桐が、こてん、と。首を傾げる。その仕草に、ぶつり、と、俺の中のなにかが弾けた。

「……私の所有物モノを返して頂きますよ」

 そう。奪われたのなら……奪い返して、やる。
 俺の言葉に、くすり、と。片桐が嗤う。

からさ? 出来るものなら、奪い返してみせてよ」

 そう言葉を紡いで、暗に知香を奪ったと俺に突き付けた。くっと喉の奥を鳴らして片桐が俺を見遣る。

「立ってたら他の客に目立つよ。座りな?」

 くいっと、顎で座るように指示される。この場で騒ぎを大きくしたくはない。テーブルを挟んで、知香の目の前に座り込んだ。

 一週間振りに見る、愛しいひと。それが、こんな形で対面することになるとは。

 知香の顔が赤いのは、呼吸が荒いのは、酒のせいか。暗示の後に、アルコールで脈が速くなるのを利用して、睡眠誘導にまで持っていったのだろうと瞬時に判断した。

「知香ちゃんは、本当に君を愛しているんだねぇ。ちょーっと君のことを揺さぶって、君の口調を真似ただけで、すぐに堕ちた。手こずるかなと思っていたのだけどね~ぇ?」

 そうして、知香の左手を片桐が手に取って……に、口付けた。その仕草に、ぐわり、と、いいようのない感情が弾ける。

「その汚い手で、知香に触らないでくださいますかね……!!」
「汚い手とは心外だなぁ」

 くすくすと、片桐が心底愉しそうに笑い声を上げた。

 驚きと混乱を交互に与えられ、意識的な思考を無理矢理停止させられた知香は、俺の口調を真似た片桐を無意識下で俺と勘違いした、ということだろう。その事実に、無意識下の知香がどれほど俺の存在を求めていたかを突き付けられる。

 だからこそ…だからこそ、柄にもいわれぬほどの不気味さを湛えたヘーゼル色の瞳が、憎たらしかった。





「ね、智くん。勝負しよう。知香ちゃんが目覚めた時―――どちらの名前を先に口にするか」





 どんな暗示を入れ込まれたのかまでは、わからない。俺の名前を忘れさせる暗示かもしれない。これまで共に時間を過ごしてきたのは片桐だ、という暗示かもしれない。

 けれど。今は―――知香の強さに賭けるしかなかった。無意識下に叩き込まれた暗示を振り払うほどの、知香の意思の強さに。

「そんなに強い睡眠誘導はしてないからね~ぇ? 本気で寝られちゃったら俺がこのあとからさ?2、30分もすれば目覚めると思うんだ」

 楽しめない。その言葉に、この後、片桐が知香を犯すつもりだったと認識して、さらに感情が爆発した。

「ふ、ざけやがって……」

 小さく口の中で呟いた言葉を、片桐が拾った。

「ふざけてな~いよ。俺は大マジ」
「母親の死を利用して知香の同情を引き…強引に自分のモノにするつもりだったのですか。思っていたよりも小さい男だったんですね」
「自分のモノにするためには手段は選ばない。君も知香ちゃんを手に入れるためにそうしたんでしょ? 心理学の応用を使って、さ?」
「っ…!」

 にこり、と。片桐が嗤った。

 ダブルバインドにフットインザドア。BYAF法や一貫性の原理を利用して…俺自身をセルフプロデュースして、知香の意識を強烈に俺に引きつけた。

 それは、認めよう。
 どうしても…知香を、手に入れたかったから。

 ……だが。

 知香の自我を切り離し、俺が望む状態に心理誘導するような、分離法までは使っていない。それは相手を支配する行為だ。そうやって洗脳してしまっては、対等な恋愛関係は築けない。

 ……まして。こんな形で、暗示を入れ込むようなことは。

「俺は断じてそんな卑怯な手段使ってねぇ…」

 低く低く呟いた。その言葉に片桐が嘲笑うように声を上げる。

「どうだか。だって、俺、のこと嫌いだもん。同族だから。口が上手くて狡猾で、囲い込みを得意とするタイプ」
「てめぇと一緒にするな、吐き気がする」

 ぶつり、ぶつりと自分の中の何かが切れていく。自分を取り繕うこともできなくなる。

「だから、が考えてることも手に取るようにわかるよ? 今凄く怒ってることもね」

 目の前の男から、くすり、と。嗤う声があがった。

 人間のクズだ、こいつは。野放しにしておいていい人間じゃない。

 すっと、片桐の声が、一気に低くなった。

は、俺が、どれだけの人間を亡くしたと思っている? 平和な日本で安穏と暮らしてきたら如きに、俺の何がわかる? 手にしたいと思うものはすぐに手を伸ばさなければ失うんだ。大事なものほど手のひらからこぼれ落ちていく絶望が、酷く渇望するものほどこの世界から消えていく絶望が、……にわかるのか?」

 低く、低く問いかけられる。その声色に、一瞬、圧倒された。

「そんな俺に……母親の死が、効くと思うか? 常に死神が付き纏う。生きることと死ぬことの残酷さを突きつけられ続け、悲しむという感情が死んだ俺に……母親の死が、効くわけがないだろう」

 目の前の男の……ヘーゼル色の瞳が、鮮やかに、歪んだ。

「いくら明けない夜はないと言ったって、いくら生きたいと思っていても、死が救いに思われるほど辛い現実がある、ということを。明けない夜がある、ということを………泣くことすらできなくなる現実がある、ということを………平和ボケしたらは、知らないだろう」

 ……片桐が抱える闇は、俺には到底理解できないだろう。俺は『片桐柾臣』の人生を歩んでいないから。俺が歩むのは、『邨上智』の人生だ。

「それを救ってくれたのは、知香ちゃんだ。知香ちゃんが、俺に生きる理由をくれた。だから、俺は知香ちゃんと共に生きる。知香ちゃんを幸せにする。もう、泣くことさえ出来なくなるのは……うんざりだ」

 片桐が、低く、低く吐き捨てた。

 それでも。それでも俺は、知香を奪わせたままにする訳には、いかなかった。

 俺を救いあげてくれたのも、知香だ。生きる意味をもたらしてくれた、と吐露する片桐の気持ちは、痛いほどわかる。……だが。

「俺を救ってくれたのも、知香だ。お前だけが救われたわけじゃない。きっと小林も…知香に救われたから、知香に惚れた」

 涙をこぼしながら、悔しそうに笑った仔犬の顔が脳裏をよぎった。

 片桐が、俺の言葉に軽蔑したような視線を向ける。

「んで? お前は知香ちゃんに選ばれた勝者winnerだと言いたいわけ? 俺と小林くんは敗者loserだと。………酷く傲慢だね」

「違う! 俺は、そんなことを言いたいんじゃねぇ!」

 俺が言いたいのは。そんなことじゃない。




 知香に救われた人間は、たくさんいる。けれど、それを知香を手に入れるための免罪符とするのは、間違っている。





 そして……そして。―――本人の意思を捻じ曲げて、傍に置くのは、もっと、間違っている。





 それを口にしようと、大きく息を吸った瞬間。一瞬の違和感を抱く。

(な、んだ……? この香り)

 目の前で知香が荒い呼吸する度、ふわり、ふわりと香ってくる。

 深く息を吸う。違和感を抱いた香りを嗅いで、頭を回転させて、ひとつの可能性に行き当たる。



 この香りは。イタリアで、最後に立ち寄った―――東南アジア系の店で嗅いだ、蠱惑的な、香り。



 知香の目の前に置いてある、酒。勢いよくそれを手にとって、その液体を少量舌に乗せる。

 ブランデーで漬けられた梅の香りに混じっているモノの香りを感じ取り、疑念が確信に変わった。血の気が引いていく感覚に、瞼の裏が赤く染まる感覚に、ギリギリと奥歯を噛み締めた。

「てめぇ………知香に何飲ませやがった」

 喉の奥が震える。獣の咆哮を必死で抑える。ガラナと……の、苦い香り。

「あ~らら。気付かれちゃった?」

 片桐が唇を歪めて意味ありげな嘲笑いを浮かべた。

「俺は鼻と舌がよく利くんでな……おおかた、マカ、トンカットアリあたりを混ぜたか」

 震える声で唸り、片桐を見据える。

「うん、流石だねぇ。あのマスターが一目置くだけあるね。正解」

 纏わりつくようなエキゾチックな香りのガラナの果実の味が、マカやトンカットアリの強烈な苦味を上手いこと隠させた。知香が混ぜられた酒を躊躇いなく飲んだとしても不思議ではない。

 マカやトンカットアリは一般に興奮性飲料として用いる。下痢止め、止血、利尿、腸疾患、腸のガス抜き、便秘、解熱、筋痛、偏頭痛、動脈硬化症等の効能があり、幅広く用いられる…のだが。



 所謂―――媚薬、の、原料だ。



 今日本で出回っている媚薬は、ファンタジーのように感度があがるだとか、催淫効果を持たらすようなものではない。そんなものはこの世に存在しない。強制的に心拍数を上げさせ、この人にときめいている、と、心理的に勘違いを起こさせ、程度のもの。

 アルコールで脈が速まったところを睡眠誘導に利用したのかと思っていた。

 そうだ。知香は、前後不覚になるほど呑むような性格じゃない。自分のアルコール許容量をしっかり把握している。きちんと自分のペースを守って呑む方だ。だから、そもそも―――アルコールで正体を失くし、そこを睡眠誘導に利用された、という考え方が間違っている。

 マカやトンカットアリ、それに連なるいくつかのエキスを混ぜ、その効能で強制的に心拍数を上げさせ……知香の混乱した思考を、更に混濁させるように仕向けた。乱れた呼吸を整えさせるために、混濁した思考に深呼吸をするように指示して……段階的に肉体を弛緩させて、睡眠導入に持ち込む。


 ―――俺の、考えが、甘かった。


 自分の感情が、低く、暗いところまで堕ちていく。


「てめぇ………このまま警察に突き出すぞ」

 唸るような俺の声色に、片桐がくすりと嗤った。

「ん~。別にそれでもいいけど、なんの罪で?証拠は?」
「………は?」

 証拠…だと? 呆然とする俺に、片桐が悠々と言葉を紡いでいく。

「別に違法なものを飲ませたわけでもないよ、俺。知香ちゃんが二日酔いにならないように、滋養強壮に利くエキスを使った、ただそれだけ。日本でちゃんと流通している、正当なもの。しかも、ただの健康食品だよ? それがなんの罪になるの?」

 その言葉に我に返る。俺の選択肢が、ひとつずつ……潰されていく感覚に、背筋が凍っていく。

「催眠……暗示を、かけただろう」

 血の気が更に引いていく。眩暈がする。そんな俺の様子に、片桐が嘲笑うかのような視線を俺に向けた。

「なに言ってんの? ジョークでしょ、催眠なんて。ファンタジーじゃあるまいし。知香ちゃんとだけ。それで、知香ちゃんが寝ちゃった。それだけだよ?」

 あまりの言い分に頭がクラクラする。目の奥がチカチカと明滅している。

「これで警察が動くくらいなら、日本の司法は腐ってるね。俺、なにも悪くないよ? 知香ちゃんには、なーんにも、してないんだから」

 片桐が、芝居かがったように肩を竦めてみせた。そうして……ニヤリ、と、口の端を歪めた。


 確かに、片桐の言い分は正当だ。違法なものを違法な手口で強引に飲ませたわけでもない。マカやトンカットアリ等のエキスは正規のルートで日本に流通している。今のところ、知香の身体を無理矢理に犯してもいない。催眠、という不確かなものを実行した証拠もない。




 ―――詰んだ。




 目の前が暗くなっていく。



 やはり、この男は……形容するならば、蛇のような狡猾な男、なのだ。それを目の前で…俺という存在の全てに、ゆっくりと、叩き込まれていく。


 負けない。俺は、こんな…自分さえよければ、という蛇のような男に………負けない。そう心の中で呟いて、暗くなっていく思考を必死に堪え、目の前のヘーゼル色の瞳を、強く睨みつけた、その瞬間。








「……ぅ、…ん、ぅ……」

 知香が、眉を顰めて、声を上げた。

。おはよう?」

 片桐が、知香の左の耳元で、低く、甘く声を上げた。その声色は、俺の声色を真似て…もうひとりの俺が、知香の隣で囁いているよう、だった。





 知香の瞼が震えて、その瞳が、世界を捉えた。









 特筆して、美人でも、可愛くもない。







 丸っこい顔立ちに、薄い耳たぶ、薄く淡い色の唇。アーモンド型の二重のまぶたと。……焦げ茶色の瞳。








 その、凛とした、意思の強い瞳が。貫いて。








「……さ、としさ……ん…おかえり……」








 ふわりと。花が綻ぶように笑って。愛しい声が、響いた。


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