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本編・第二部
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「……あら?」
新規顧客開拓の営業の帰り道。いつもの交差点で、真っ黒で艶の良い、金色の瞳の猫と出会った。地平線にほとんど隠れてしまった日差しが、黒い毛並みにキラキラと反射している。
座り込んで手を伸ばす。チッチッと舌を鳴らすと、すぐ私に寄ってきた。脚に身体を擦り付けてくる。ストッキング越しに感じるサラリとした毛並みが気持ち良い。
背中を撫でていると、ぴょん、と。膝の上に飛び乗ってきた。
「……人懐っこいね、キミ」
「ニャォ」
膝の上で座り込み、ここを撫でろと言わんばかりに喉を仰け反らせてくる。要求通りに撫でてやると、目を瞑りゴロゴロと喉を鳴らした。
「ふふ、気持ちいいのかな?」
すっと手を離すと、金色の瞳が不服そうに私を見つめた。その不服そうな目が、なんとなく…ダークブラウンの瞳に、そっくりで。
「んー。色も全然違うのに」
ふふ、と声を上げながら、ふたたび喉を撫でていく。
ふと、スマホを取り出した。ラナンキュラスが映されたロック画面を解除する。ホーム画面は……智さんの、穏やかな寝顔。智さんが日本を経つ前の日の夜、いつもより早めに布団に入った智さんを、こっそりと隠し撮りした写真。
目の前の黒猫が気持ちよさそうに目を瞑っている表情が、スマホに写し出される穏やかな寝顔にそっくりだった。
「……似てる…笑えちゃうくらいに」
くすり、と声を上げて、スマホに表示された時刻を確認する。もうそろそろ、オフィスに戻らなければ。
「ごめんね? また今度出会ったら撫でてあげる。私ね、お仕事中なの」
ゆっくり頭を撫でて、前足と胴に手を差し入れて。するりとその場に猫を降ろした。ぱたん、ぱたん、と。不機嫌そうに、尻尾が路面に叩きつけられて。金色の瞳に射すくめられる。
「……ごめんね。また、今度」
その瞳を見つめながら、目の前のオフィスビルに足を向けた。
ホーム画面の智さんの寝顔を眺めながら、エントランスでエレベーターを待つ。
片桐さんのお母様の葬儀に参列した翌朝。智さんから、他人の死に引きずられるのは感情を持つ人間である以上仕方の無いことだ、だから大丈夫、と、日記アプリに返信をもらって、心底ほっとした。
この感情は、欺瞞や偽善なのかな、と思うところもあったから。だから、私の気持ちをそう認めてもらえて良かったと、思った。
智さんの本棚の奥の方に。カウンセリングの本がたくさんあった。それが、お母様を亡くした時に智さんがどれだけ悲しんだのかを物語っている気がした。
ひととの別れは、すべての生きている者に例外なく迫ってくる。だからこそ、私が命を終えるときに…後悔をしないように。晴れていようと、雨が降ろうと。私の、この小さな命を振り絞って、生きていこうと思えた。
智さんの寝顔を眺めていると、上の階からエレベーターが到着した。扉が開き、退勤する人たちがどっと波のように押し出される。その中で、1課の徳永さんのやわらかい声が響いた。
「お疲れ様でした、お先に失礼いたします」
「うん、お疲れ様でした」
もう、18時過ぎ。退勤する人たちで溢れるのも当然の時間。ふと、期末慰労会の幹事が三木ちゃんと徳永さんだったことを思い出す。
「明日の期末慰労会、楽しみにしてるよ」
「はい! いいお店見つけたので、楽しみにしてくださいね」
期待しててください! と言わんばかりの、キラキラした笑顔を向けられている。くすりと笑みがこぼれた。
じゃぁ、また明日ね、と声をかわしながら、私は誰もいない上りのエレベーターに乗り込んだ。手に持ったスマホが震えて、メッセージアプリの通知を知らせる。
『中河さん:ごめーん! 今日、少し残業になりそう。遅れちゃうかも』
ロック画面に中河さんからのメッセージが表示された。先日、組織再編の挨拶で偶然の邂逅を果たした後、ちょこちょことメッセージのやり取りをしていて、今夜は一緒に食事に行くことにしていた。
中河さんが残業なら私も考えていたよりは長く残業してもいいかな、と、ぼんやり考えながら通関部のフロアに足を踏み入れ、行動予定表のマグネットを在席に移動させる。三木ちゃんと小林くんのマグネットが帰社になっていることを視界の端で確認し、忌引き中の片桐さんのデスクに足を向ける。デスクの上を確認して、処理できるものを自分のデスクに持ち帰った。私の目の前に座る水野課長代理が、ふぃ、と、私に視線を向ける。
「……明日から片桐は出社するとのことだから、そう根詰めて捌かなくてもいいぞ」
水野課長代理の言葉に目をぱちくりとさせる。
「…え、明日から? ですか?」
土曜日にお母様が亡くなられて…今日は木曜日。明日までは忌引きでお休みされるものだと思っていた。
「午前中に初七日法要にあたる礼拝を終えて午後から出社する、とのことだ。……まぁ、何かしらをやっている方が気が紛れていいだろう」
そう呟いた水野課長代理が、哀愁の漂う瞳で私を見つめた。
……確かに、延々と哀しみに浸るより、無理矢理にでも仕事に出て気を紛らわせる方がよっぽどいいだろう。大切な人の死を受け入れる、というのは、一筋縄ではいかないだろうから。
そう考えて、片桐さんの担当分の書類に目を落とす。
「……そう、ですね…」
今、ここで、私が手元に持ってきた書類を全て処理をしてしまえば。彼の気を紛らわすための手段を奪ってしまうことになるだろう。
「………」
私の仕事に関わる分だけ、先に処理して。あとは片桐さんのデスクに戻そう。そう考えて、書類を再度選別して、片桐さんのデスクに戻した。
ある程度処理を終えたところで、水野課長代理にお疲れ様でしたと声をかけてフロアを退出する。更衣室で私服に着替えながら、日記アプリを立ち上げた。
今、イタリアは、お昼前。日本時間でいうところの、明日の朝には飛行機に乗ってしまう。長かった出張ももうすぐ終わり。明日の夜遅くには…あのダークブラウンの瞳を、この目に映せる。そう考えると、心が踊る。
脳裏に浮かんだダークブラウンの瞳から、さっき遭遇した、黒猫の金色の瞳を連想した。日記アプリの書き出しは、これだろう。
『今日は智さんに似ている猫に遭遇したの。可愛かったよ』
文章の最後に猫の絵文字を付けて、中河さんと食事に行くことを報告した。
『今日は、中学時代の同級生の女の子と食事に行ってくるね』
そう書き込んで、日記アプリを閉じ、GPSアプリの起動を確認する。
(……黒川さん。仕事中も、終業後も、特に接触、無かったな…)
このまま何も起こらずに過ぎてくれそう。ほぅ、と安堵の溜息を零した。ロッカーの内鏡で身だしなみを整えていく。
「よし!」
鞄を手に取り、中河さんとの待ち合わせのお店に向かった。
人並みの向こうから、久しぶりに会う顔が飛び込んでくる。
「ごめん! 待たせた?」
「中河さん、お疲れさま」
パタパタと駆けてくる中河さんのミディアムヘアがふわりと揺れる。走らなくてよかったのに、と苦笑しながら、お店の暖簾をくぐった。中河さんが物珍しそうに店内をキョロキョロと見回している。
「ここ、初めて。一瀬さんよく来るの?」
「んっと、よく来るわけじゃないんだけど。私も2回目なの」
今日、待ち合わせに指定したのは……ハロウィンの時に智さんとのデートで訪れた、博多で修行を積んだという料理人さんが開いているモツ鍋専門店。
「なんか、地元思い出さん?(なんだか、地元思い出さない?)」
ふわり、と、中河さんが笑って、方言を使って話し出す。久しぶりに聞いた博多に近い地元の言葉。それだけでなんだか心がほっとする。
「うん、ここにせん? って言ったの正解やったね(ここにしない? って言ったの、正解だったね)」
そうして、私たちはくすくすと笑いながら席に着いた。乾杯をして、せっかくだしもう苗字じゃなくて、名前で呼び合おう、なんて話しをしたり、大学時代の話し、仕事の話しを交わしていく。
「ここのモツ、臭くなくて美味しいね!」
薫がモツを口に運び、驚いたように声を上げた。その顔にくすりと笑みが漏れる。
「そうでしょ? ここのお店は、マスキングがしっかりしてるから美味しいんだって」
あの時、智さんに教えてもらったことをまるっと話していく。
「……ね。その話ししてくれた人って、知香のいい人?」
薫が、悪戯っぽい微笑みで私に視線を向けた。……まぁ、年頃の女性である以上、恋バナにもなるわけで。その言葉に、気恥ずかしさを隠しきれずに返答する。
「ん……今、結婚前提でお付き合いしてる人、なの」
私の態度はそんなにあからさまだろうか。疑問に思いつつ「なんでわかったの?」と訊ねると、「恋する顔してたもん」と返されて顔が赤くなるのがわかった。
「まぁ、でもそうだよね。もう私たちの年代になると結婚前提、ってなっちゃうよね」
薫がちょっと気落ちしたように言葉を紡いだ。その様子に、首を傾げつつ「なんで?」と言葉を続けると。
「うん……仕事先の人でね? 気になる人がいるんだけど。どうも、結婚前提の相手がいるみたい。そうなると、アタックかけても勝てないよな~なんて思っちゃうのよねぇ」
はぁ、と、重いため息をついて、薫がレモンサワーを呷った。
「たぶん、ガツガツしてないから。余裕があって、かっこよく見えちゃうんだろうなぁ。あの余裕が憎らしいのに、好きだなって思う」
「そっか……」
薫の想い人がどういう性格の人かはわからないけれど。他人から想いを寄せられて、嫌な気持ちになることはないだろう。
……片桐さんみたいな感じじゃなければ。それは、実体験として確実にそう思う。
「ううん……難しいね」
箸を一旦置いて、考え込む。相手が結婚前提のお付き合いをしているならば、無理矢理奪うような形だけは避けて欲しい。薫には、片桐さんみたいになって欲しくない。
ホワイトデーの時に三木ちゃんにも伝えたけれど。今の私には……この言葉しか、出てこない。
「私、元カレに捨てられてすぐ結婚されたりしてね。すごい苦しかったけど……いつか報われる日がくると思うの。今は辛いと思うけど……」
「……ん。ありがと、知香」
少しだけ儚げに笑う、薫の笑顔に、胸が締め付けられる。なんだか、好きになったのに初めから諦めなきゃいけないとは、切なすぎる。
「ま、仕事はすごく楽しいし。ひとりで生きるのも悪くないかなって思ってるから、今想ってる人に完全に玉砕したらヤケ酒に付き合ってね!」
そう口にしながら、おどけたように笑いながら、レモンサワーの入ったグラスをカラカラと揺らした。
その仕草が、智さんと出会った合コンの時に見せた、自己紹介をする記憶の中の智さんの仕草に被ったような気がした。
(……早く、智さんに、会いたい)
そんな風に、思った。
食事を終えて、薫と店の前でわかれ帰路に着く。スマホを手に取ると、充電が切れそうだった。鞄からモバイルバッテリーを取り出して、ケーブルをスマホに差し込む。
電車に揺られながら、日記アプリを立ち上げた。さっき書き込んだ、猫のことと薫と食事に行く、という書き込みに返信が付いていなかった。それが……余計に、私の抱える寂しさを募らせる。
『今、何してるのかな?』
衝動的に打った文字を消した。今は、ちょうど……帰国前の、最後の交渉をしている時間だろう。今何してる、なんて、聞かなくてもわかる。智さんは、お仕事中、だ。
仕事忙しいかな? 体調は変わりない? と言葉を探して……打ち込んでは、文字を消す。
(本当に伝えたいのは……会いたい、声が聞きたい……寂しい…)
ぎゅう、と。スマホを握りしめて。目頭に浮かんだ涙を、乱暴に拭う。
きっと、智さんだって、我慢してる。あと一日だから。
(だから、この寂しさだって、我慢出来る……)
そう考えているのに、どうにも込み上げてくる涙を堪えることが出来ない。涙がこぼれ落ちないように、奥歯を必死に噛み締めながら、その気持ちを振り払うように……私は反対の言葉をたくさん書き込んだ。
『智さんが帰国するのは明日だね。長かった~! 今は最後の交渉中かな? そっちが夜になる頃にはホテルに行かずに飛行機に乗っちゃうよね。だから、日本の空港に着いたらこれ読んでくれると信じて書き込んでます。明日は、前も言ったと思うけど、私は期末慰労会なの。社内交際費の予算も残ってて、二次会も出なきゃいけなくなっちゃった。だから、智さんが帰国して家に帰ってくるタイミングと被ると思う。外で待ち合わせて一緒に家に帰ろう?』
そこまで書いて、期末慰労会や二次会の場所を確認していなかったことを思い出した。鞄に入れている手帳を引っ張り出すけれど、そこにも書いてない。
(まぁ……GPSアプリあるから、起動して確認してもらったら、私がいる場所はすぐわかるよね)
その旨を打ち込んで、書き込みボタンを押して送信すると同時に、目尻から涙が一筋零れ落ちていく。
「あれ……」
なんで…我慢出来ないんだろう。
あと―――たった一日なのに。
(なんか…智さんに出会って、泣き虫になっちゃったな………)
いつだって、私は泣いてる気がする。
絢子さんが智さんの前に現れた時も、付き合ってくださいと言われた時も、すれ違いをした時も、別れようと嘘をつかれた時も、……ホワイトデーの時も。
電車の窓に写る自分の泣き顔を見つめる。
「……智さん…」
小さく呟いた言葉と同時に、また、はらりと。
涙が滑り落ちていった。
新規顧客開拓の営業の帰り道。いつもの交差点で、真っ黒で艶の良い、金色の瞳の猫と出会った。地平線にほとんど隠れてしまった日差しが、黒い毛並みにキラキラと反射している。
座り込んで手を伸ばす。チッチッと舌を鳴らすと、すぐ私に寄ってきた。脚に身体を擦り付けてくる。ストッキング越しに感じるサラリとした毛並みが気持ち良い。
背中を撫でていると、ぴょん、と。膝の上に飛び乗ってきた。
「……人懐っこいね、キミ」
「ニャォ」
膝の上で座り込み、ここを撫でろと言わんばかりに喉を仰け反らせてくる。要求通りに撫でてやると、目を瞑りゴロゴロと喉を鳴らした。
「ふふ、気持ちいいのかな?」
すっと手を離すと、金色の瞳が不服そうに私を見つめた。その不服そうな目が、なんとなく…ダークブラウンの瞳に、そっくりで。
「んー。色も全然違うのに」
ふふ、と声を上げながら、ふたたび喉を撫でていく。
ふと、スマホを取り出した。ラナンキュラスが映されたロック画面を解除する。ホーム画面は……智さんの、穏やかな寝顔。智さんが日本を経つ前の日の夜、いつもより早めに布団に入った智さんを、こっそりと隠し撮りした写真。
目の前の黒猫が気持ちよさそうに目を瞑っている表情が、スマホに写し出される穏やかな寝顔にそっくりだった。
「……似てる…笑えちゃうくらいに」
くすり、と声を上げて、スマホに表示された時刻を確認する。もうそろそろ、オフィスに戻らなければ。
「ごめんね? また今度出会ったら撫でてあげる。私ね、お仕事中なの」
ゆっくり頭を撫でて、前足と胴に手を差し入れて。するりとその場に猫を降ろした。ぱたん、ぱたん、と。不機嫌そうに、尻尾が路面に叩きつけられて。金色の瞳に射すくめられる。
「……ごめんね。また、今度」
その瞳を見つめながら、目の前のオフィスビルに足を向けた。
ホーム画面の智さんの寝顔を眺めながら、エントランスでエレベーターを待つ。
片桐さんのお母様の葬儀に参列した翌朝。智さんから、他人の死に引きずられるのは感情を持つ人間である以上仕方の無いことだ、だから大丈夫、と、日記アプリに返信をもらって、心底ほっとした。
この感情は、欺瞞や偽善なのかな、と思うところもあったから。だから、私の気持ちをそう認めてもらえて良かったと、思った。
智さんの本棚の奥の方に。カウンセリングの本がたくさんあった。それが、お母様を亡くした時に智さんがどれだけ悲しんだのかを物語っている気がした。
ひととの別れは、すべての生きている者に例外なく迫ってくる。だからこそ、私が命を終えるときに…後悔をしないように。晴れていようと、雨が降ろうと。私の、この小さな命を振り絞って、生きていこうと思えた。
智さんの寝顔を眺めていると、上の階からエレベーターが到着した。扉が開き、退勤する人たちがどっと波のように押し出される。その中で、1課の徳永さんのやわらかい声が響いた。
「お疲れ様でした、お先に失礼いたします」
「うん、お疲れ様でした」
もう、18時過ぎ。退勤する人たちで溢れるのも当然の時間。ふと、期末慰労会の幹事が三木ちゃんと徳永さんだったことを思い出す。
「明日の期末慰労会、楽しみにしてるよ」
「はい! いいお店見つけたので、楽しみにしてくださいね」
期待しててください! と言わんばかりの、キラキラした笑顔を向けられている。くすりと笑みがこぼれた。
じゃぁ、また明日ね、と声をかわしながら、私は誰もいない上りのエレベーターに乗り込んだ。手に持ったスマホが震えて、メッセージアプリの通知を知らせる。
『中河さん:ごめーん! 今日、少し残業になりそう。遅れちゃうかも』
ロック画面に中河さんからのメッセージが表示された。先日、組織再編の挨拶で偶然の邂逅を果たした後、ちょこちょことメッセージのやり取りをしていて、今夜は一緒に食事に行くことにしていた。
中河さんが残業なら私も考えていたよりは長く残業してもいいかな、と、ぼんやり考えながら通関部のフロアに足を踏み入れ、行動予定表のマグネットを在席に移動させる。三木ちゃんと小林くんのマグネットが帰社になっていることを視界の端で確認し、忌引き中の片桐さんのデスクに足を向ける。デスクの上を確認して、処理できるものを自分のデスクに持ち帰った。私の目の前に座る水野課長代理が、ふぃ、と、私に視線を向ける。
「……明日から片桐は出社するとのことだから、そう根詰めて捌かなくてもいいぞ」
水野課長代理の言葉に目をぱちくりとさせる。
「…え、明日から? ですか?」
土曜日にお母様が亡くなられて…今日は木曜日。明日までは忌引きでお休みされるものだと思っていた。
「午前中に初七日法要にあたる礼拝を終えて午後から出社する、とのことだ。……まぁ、何かしらをやっている方が気が紛れていいだろう」
そう呟いた水野課長代理が、哀愁の漂う瞳で私を見つめた。
……確かに、延々と哀しみに浸るより、無理矢理にでも仕事に出て気を紛らわせる方がよっぽどいいだろう。大切な人の死を受け入れる、というのは、一筋縄ではいかないだろうから。
そう考えて、片桐さんの担当分の書類に目を落とす。
「……そう、ですね…」
今、ここで、私が手元に持ってきた書類を全て処理をしてしまえば。彼の気を紛らわすための手段を奪ってしまうことになるだろう。
「………」
私の仕事に関わる分だけ、先に処理して。あとは片桐さんのデスクに戻そう。そう考えて、書類を再度選別して、片桐さんのデスクに戻した。
ある程度処理を終えたところで、水野課長代理にお疲れ様でしたと声をかけてフロアを退出する。更衣室で私服に着替えながら、日記アプリを立ち上げた。
今、イタリアは、お昼前。日本時間でいうところの、明日の朝には飛行機に乗ってしまう。長かった出張ももうすぐ終わり。明日の夜遅くには…あのダークブラウンの瞳を、この目に映せる。そう考えると、心が踊る。
脳裏に浮かんだダークブラウンの瞳から、さっき遭遇した、黒猫の金色の瞳を連想した。日記アプリの書き出しは、これだろう。
『今日は智さんに似ている猫に遭遇したの。可愛かったよ』
文章の最後に猫の絵文字を付けて、中河さんと食事に行くことを報告した。
『今日は、中学時代の同級生の女の子と食事に行ってくるね』
そう書き込んで、日記アプリを閉じ、GPSアプリの起動を確認する。
(……黒川さん。仕事中も、終業後も、特に接触、無かったな…)
このまま何も起こらずに過ぎてくれそう。ほぅ、と安堵の溜息を零した。ロッカーの内鏡で身だしなみを整えていく。
「よし!」
鞄を手に取り、中河さんとの待ち合わせのお店に向かった。
人並みの向こうから、久しぶりに会う顔が飛び込んでくる。
「ごめん! 待たせた?」
「中河さん、お疲れさま」
パタパタと駆けてくる中河さんのミディアムヘアがふわりと揺れる。走らなくてよかったのに、と苦笑しながら、お店の暖簾をくぐった。中河さんが物珍しそうに店内をキョロキョロと見回している。
「ここ、初めて。一瀬さんよく来るの?」
「んっと、よく来るわけじゃないんだけど。私も2回目なの」
今日、待ち合わせに指定したのは……ハロウィンの時に智さんとのデートで訪れた、博多で修行を積んだという料理人さんが開いているモツ鍋専門店。
「なんか、地元思い出さん?(なんだか、地元思い出さない?)」
ふわり、と、中河さんが笑って、方言を使って話し出す。久しぶりに聞いた博多に近い地元の言葉。それだけでなんだか心がほっとする。
「うん、ここにせん? って言ったの正解やったね(ここにしない? って言ったの、正解だったね)」
そうして、私たちはくすくすと笑いながら席に着いた。乾杯をして、せっかくだしもう苗字じゃなくて、名前で呼び合おう、なんて話しをしたり、大学時代の話し、仕事の話しを交わしていく。
「ここのモツ、臭くなくて美味しいね!」
薫がモツを口に運び、驚いたように声を上げた。その顔にくすりと笑みが漏れる。
「そうでしょ? ここのお店は、マスキングがしっかりしてるから美味しいんだって」
あの時、智さんに教えてもらったことをまるっと話していく。
「……ね。その話ししてくれた人って、知香のいい人?」
薫が、悪戯っぽい微笑みで私に視線を向けた。……まぁ、年頃の女性である以上、恋バナにもなるわけで。その言葉に、気恥ずかしさを隠しきれずに返答する。
「ん……今、結婚前提でお付き合いしてる人、なの」
私の態度はそんなにあからさまだろうか。疑問に思いつつ「なんでわかったの?」と訊ねると、「恋する顔してたもん」と返されて顔が赤くなるのがわかった。
「まぁ、でもそうだよね。もう私たちの年代になると結婚前提、ってなっちゃうよね」
薫がちょっと気落ちしたように言葉を紡いだ。その様子に、首を傾げつつ「なんで?」と言葉を続けると。
「うん……仕事先の人でね? 気になる人がいるんだけど。どうも、結婚前提の相手がいるみたい。そうなると、アタックかけても勝てないよな~なんて思っちゃうのよねぇ」
はぁ、と、重いため息をついて、薫がレモンサワーを呷った。
「たぶん、ガツガツしてないから。余裕があって、かっこよく見えちゃうんだろうなぁ。あの余裕が憎らしいのに、好きだなって思う」
「そっか……」
薫の想い人がどういう性格の人かはわからないけれど。他人から想いを寄せられて、嫌な気持ちになることはないだろう。
……片桐さんみたいな感じじゃなければ。それは、実体験として確実にそう思う。
「ううん……難しいね」
箸を一旦置いて、考え込む。相手が結婚前提のお付き合いをしているならば、無理矢理奪うような形だけは避けて欲しい。薫には、片桐さんみたいになって欲しくない。
ホワイトデーの時に三木ちゃんにも伝えたけれど。今の私には……この言葉しか、出てこない。
「私、元カレに捨てられてすぐ結婚されたりしてね。すごい苦しかったけど……いつか報われる日がくると思うの。今は辛いと思うけど……」
「……ん。ありがと、知香」
少しだけ儚げに笑う、薫の笑顔に、胸が締め付けられる。なんだか、好きになったのに初めから諦めなきゃいけないとは、切なすぎる。
「ま、仕事はすごく楽しいし。ひとりで生きるのも悪くないかなって思ってるから、今想ってる人に完全に玉砕したらヤケ酒に付き合ってね!」
そう口にしながら、おどけたように笑いながら、レモンサワーの入ったグラスをカラカラと揺らした。
その仕草が、智さんと出会った合コンの時に見せた、自己紹介をする記憶の中の智さんの仕草に被ったような気がした。
(……早く、智さんに、会いたい)
そんな風に、思った。
食事を終えて、薫と店の前でわかれ帰路に着く。スマホを手に取ると、充電が切れそうだった。鞄からモバイルバッテリーを取り出して、ケーブルをスマホに差し込む。
電車に揺られながら、日記アプリを立ち上げた。さっき書き込んだ、猫のことと薫と食事に行く、という書き込みに返信が付いていなかった。それが……余計に、私の抱える寂しさを募らせる。
『今、何してるのかな?』
衝動的に打った文字を消した。今は、ちょうど……帰国前の、最後の交渉をしている時間だろう。今何してる、なんて、聞かなくてもわかる。智さんは、お仕事中、だ。
仕事忙しいかな? 体調は変わりない? と言葉を探して……打ち込んでは、文字を消す。
(本当に伝えたいのは……会いたい、声が聞きたい……寂しい…)
ぎゅう、と。スマホを握りしめて。目頭に浮かんだ涙を、乱暴に拭う。
きっと、智さんだって、我慢してる。あと一日だから。
(だから、この寂しさだって、我慢出来る……)
そう考えているのに、どうにも込み上げてくる涙を堪えることが出来ない。涙がこぼれ落ちないように、奥歯を必死に噛み締めながら、その気持ちを振り払うように……私は反対の言葉をたくさん書き込んだ。
『智さんが帰国するのは明日だね。長かった~! 今は最後の交渉中かな? そっちが夜になる頃にはホテルに行かずに飛行機に乗っちゃうよね。だから、日本の空港に着いたらこれ読んでくれると信じて書き込んでます。明日は、前も言ったと思うけど、私は期末慰労会なの。社内交際費の予算も残ってて、二次会も出なきゃいけなくなっちゃった。だから、智さんが帰国して家に帰ってくるタイミングと被ると思う。外で待ち合わせて一緒に家に帰ろう?』
そこまで書いて、期末慰労会や二次会の場所を確認していなかったことを思い出した。鞄に入れている手帳を引っ張り出すけれど、そこにも書いてない。
(まぁ……GPSアプリあるから、起動して確認してもらったら、私がいる場所はすぐわかるよね)
その旨を打ち込んで、書き込みボタンを押して送信すると同時に、目尻から涙が一筋零れ落ちていく。
「あれ……」
なんで…我慢出来ないんだろう。
あと―――たった一日なのに。
(なんか…智さんに出会って、泣き虫になっちゃったな………)
いつだって、私は泣いてる気がする。
絢子さんが智さんの前に現れた時も、付き合ってくださいと言われた時も、すれ違いをした時も、別れようと嘘をつかれた時も、……ホワイトデーの時も。
電車の窓に写る自分の泣き顔を見つめる。
「……智さん…」
小さく呟いた言葉と同時に、また、はらりと。
涙が滑り落ちていった。
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社会人ならではのじれったい片思いの果てに晴れて恋人同士になった2人。
「俺、めちゃくちゃ独占欲強いし、ずっと由奈のこと抱き尽くしたいって思ってた」
ハイスペなのは仕事だけではなく、彼のお家で、オフィスで、旅行先で、どろどろに愛されてしまう。
仕事中はあんなに冷静なのに、由奈のことになると少し甘えん坊になってしまう、紘人とらぶらぶ、元カノの登場でハラハラ。
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