72 / 273
本編・第二部
106
しおりを挟む
夕食を食べ終えて、智さんが食後のコーヒーを手淹れしてくれている。私は、目の前に置かれた高級百貨店の包装紙を前に緊張していた。
だって。この高級百貨店、本当に……お高いモノしか置いていない百貨店だから。
智さんがコーヒーサーバーをコトリと置いて、マグカップにコーヒーを注いで。キッチンからリビングに長い脚を向けて、ソファに座り込む私にマグカップを手渡してくれる。
「……開けねぇの?」
「や、だって…この百貨店……」
おずおずと智さんを見つめて、「高かったよね?」と視線だけで訊ねる。私のその表情に、困ったように智さんが笑ってソファに深く沈みこんだ。
「いーの。ここのが一番評判が良かったし、自分で買って食っても美味かったからさ」
「ここの……? 評判? 食べた?」
ということは、随分と前から私に気が付かれないように、いくつかのお店を回ってどれにするか検討してくれていたのだろう。手間暇をかけて……選んでくれた、大切な贈り物。そう考えると、言葉に出来ないほどの感情が湧き上がってくる。
開けてみて、と、ダークブラウンの瞳から視線だけで促される。緊張しながらゆっくりと包みを解いていく。淡いレモン色の箱の上蓋をもちあげると、そこには。
「マ、カロン……!!」
チョコレート色の、ふわりとしたマカロンが現れた。
「マカロンってな? 『特別に大切な存在』にプレゼントするものらしーんだ」
「えっ……」
特別に、大切な、存在。ふわり、と。智さんが私を見つめて、穏やかに笑っている。その言葉の意味をゆっくり噛み砕いて……ふたたび、顔が赤く染っていくのを自覚した。
「コーヒーとマカロンのマリアージュを考えて、今日のコーヒーはエチオピアのイルガチェフェ」
智さんが淹れてくれたコーヒーに口をつけると、華やかな香りと、フルーツのような豊かな酸味が広がっていく。ゆっくりとマカロンに手を伸ばして、そっと一口…齧ると。
「……合う!」
マカロンには紅茶だと思っていたけれど、このイルガチェフェは、喉を滑り落ちたあとから森や木や葉を連想させるような風味がする。それが、より紅茶に近い感覚の味わいを生んでいるのだろう、と感じた。
こんなに美味しいマカロンは初めて食べた。さすが……食に精通する智さんが、美味しかった、というお店のマカロン。
「美味しい……ありがとう、智さん」
「……喜んでくれてよかった」
智さんがほっとしたように笑った。穏やかな時間が、私たちの間に流れていく。
「……あと。3回朝を迎えたら。知香を…しばらくひとりにさせるから」
「……うん…」
智さんの言葉に、忘れかけていた現実を突きつけられる。しばらく……ひとりで、夜と朝を迎えることになる。そう考えると、無性に……寂しく、なる。
「毎日。ラナンキュラスの世話してくれたら、俺の世話をしてる気持ちになってくれねぇかなって思ってさ」
「智さんのお世話って」
大の大人に向けた言葉とは思えない単語に、思わずくすりと笑みが漏れる。
「そうだろ? 世話って、その人に尽力するって意味だからな。だからお互い家事をしてるのって、お互いにお互いの足りないところを補って、お互いの世話を焼いてる、って認識だ、俺は」
お互いに、世話を焼いている。そう考えると……仕事から帰ってきて義務的に行う家事も、智さんの為に、と思えて。なんだか、凄く楽しくこなせそうな気がする。
智さんに出会ってから。私には考えつかなかった、全く新しい考え方を学んでいる気がする。
足りないところを補う、という話しも然り、機能価値と存在価値の話しも然り、さっきの、知識の話しも……今の、お世話の話しも然り。
智さんに出会ったからこそ……学べた、私が私の幸せを掴むために、大事なことばかりだ。
「だから……な? 寂しくなったら……ラナンキュラスを見て。俺を…思い出して」
ふわり、と。智さんが、カウンターキッチンに生けられた色鮮やかなラナンキュラスの花束に視線を向けた。
「うん……ありがとう」
智さんが私に向ける愛情の深さに、あたたかい心配りに。途方もない―――幸せを、感じた。
「ゆっくり食べな? 俺は荷造り始めるから」
智さんが、コトリ、と。マグカップをテーブルに置いて、ソファから立ち上がる。
荷造り。その言葉の寂しさに、胸の奥がぎゅうと締め付けられる感覚があった。心の中で頭を振って、立ち上がった智さんに声をかける。
「なにか手伝えることあったら言ってね?」
「ん。ありがと」
ぽん、と。頭に手を置かれて、智さんがリビングの扉を開いて、玄関横の物置から黒の大きなスーツケースを取り出してきた。
コーヒーを口に含みながら、横目でそのスーツケースを観察する。
……掃除する時にも何度か見ていたけれど。やっぱり。
「……智さんの出張の歴史を感じるねぇ」
スーツケースのチャックの部分に、チェックイン時に貼られるバーコードのシールが貼られたままになっている。これまでお仕事で何度も出張に行っている、その歴史を感じた。
「しばらく出張行ってなかったから手入れもしてねぇんだよな……まずはこのバーコード剥がさねぇと」
「え? バーコード剥がすの?」
智さんが口にした言葉に驚いて思わず目を見開いた。パスポートの印鑑と同じく、行った場所の記念になるから剥がさないもの……だと思っていたのだけれど。私の言葉に、智さんが苦笑しながら口を開いた。
「昔のバーコードが貼ってあると、ロストバゲッジ……荷物が他の飛行機に載せられちまう可能性が高まるらしいんだ。今は空港の預かり機の読み取り性能も上がってるから、そういう事はあまりないらしいけどな? ……ウチに入社する前に世界を飛び回ってた池野課長の受け売り」
「へぇ……」
私だったらバーコードはペタペタと貼ったままにして、いざと言う時に思いっきりロストバゲッジに遭いそうだ。
マカロンに手を伸ばして、それを齧る。チョコレートの香りが口の中いっぱいに広がっていく感覚に酔いしれながら、ぼんやりと言葉を紡いだ。
「……こういう時に、知っているか否かの違いが出るんだね…」
しみじみと感じた。知識を持つ、ということは、本当に大事なことなんだ。
「ん、そうだなぁ。知ってる、っつうのは、最大の武器だ」
智さんがゆっくりとバーコードを剥がして手で丸め、丸めた塊をゴミ箱の中に放り込んだ。
「うん……確かに。智さんが出張してる間、本棚の本全部読み倒す勢いで読んじゃおうかな」
最後のひと欠片になったマカロンを口に入れて、マグカップに口付けた。ほぅ、と、吐息を吐くと、コーヒーの酸味とマカロンの甘さが絶妙に絡み合って、まろやかな風味が口の中に広がる。
「通関士の勉強もあんだろ? 無理すんなよ?」
智さんが苦笑しながら私に視線を合わせてくれる。いつだって……智さんは、私を甘やかしてくれる。
「大丈夫。息抜きしながら読むから」
マグカップに残ったコーヒーを飲み干して、ソファから立ち上がる。スーツケースを広げた智さんに視線を向けて。
「美味しかった。ごちそうさまでした! お風呂入れてくるね?」
「ん、よろしく」
リビングの扉を開いて、脱衣所に身体を滑り込ませた。洗面台に置いた三木ちゃんからのプレゼントを手に取る。
「……ん~、とりあえず、赤い薔薇から使おう」
箱を開けると、ふわり、と。薔薇の淡い香りが漂った。本当に…細部まで凝って作ってある入浴剤だなぁと感じる。
三木ちゃんに説明されたように、花びらを1枚1枚剥がしながら湯船の底に置いて。ゆっくりと、カランの蛇口を捻る。
「……わ! ほんとに泡立ってきた!」
お湯が湯船に注がれていく勢いで、表面がゆっくりと泡立っていく。泡立っていくお湯を確認して、脱衣所に足を運んだ。
(えっと……シャンプーとか、リンスとか。向こうで泊まるホテルに置いてあるだろうけど)
海外のホテルに備え付けのアメニティは、日本人の髪質には合わない場合が多い、と聞いたことがある。備え付けのアメニティが智さんの肌に合わなかったら?と考えると、シャンプーやリンスは持っていってもらった方が……私としても安心できる気がする。
そう考えて、私が会社の慰安旅行に行く時に使っていた持ち運び容器にシャンプーとリンスを詰め替えて、トラベルケースに収納する。
再び湯船を覗くと、もうそろそろちょうどいいくらいに溜まっている。表面にしっかり泡が立っていて、口元が綻んだ。キュッと軽い音をさせてカランの蛇口を締める。
パタパタとリビングに戻り、スーツケースにワイシャツやネクタイを収納している智さんに声をかけた。
「智さん、お風呂入ったよ」
私の声に智さんが首だけをひねって私の方を向いた。
「ん、りょーかい」
「はい、これ。シャンプーとリンス」
先ほど詰め替えた容器が入ったトラベルケースを手渡した。目の前に差し出されたトラベルケースを見て、智さんがやわらかく微笑んだ。
「さすが知香。助かった、ありがとう」
この笑顔を…8日間、見られないから。この目に焼き付けておきたい。そう考えて、智さんから目を逸らさずに言葉を紡いだ。
「先にお風呂入ってきて?」
その言葉に、智さんが、わかった、と頷いて立ち上がる。パタリと脱衣所の扉が閉まる音を聞いて、私はそのままリビングのソファに沈みこんだ。
家事もほとんど終えてしまった。手持ち無沙汰になり、ぼんやりと……硝子の花瓶に生けられたラナンキュラスに視線を向ける。
「……綺麗」
エプロンのポケットからスマホを取り出しながら、ソファから立ち上がる。カメラを起動して、生けられたラナンキュラスを写真に収めた。その写真を……スマホのロック画面の背景に設定する。
「……ふふっ」
お花を撮って、ロック画面にしただけなのに。智さんがそばに居てくれるような。仕事中も、一緒にいてくれるような……そんな気がして。
「これで……きっと、寂しくない」
ぽつり、と、呟いた。
智さんがお風呂から上がって、泡風呂の感想を聞くと。
「……入って確かめといで?」
と、屈託のない笑顔を向けられた。期待に胸を膨らませながら、私はお風呂に足を向ける。
ゆっくりとお風呂のドアを開くと、真っ白な湯気が充満していた。湯船に浸かる前に、ざばり、と身体を流して。ゆっくりと湯船に足を入れた。
「ひゃ~。ほんとにしゅわしゅわする!」
湯船に浸かると、泡が肌に触れる独特の感覚と、ほのかな薔薇の香りを感じた。
泡風呂なんて……なんだか、セレブになった気分。テレビで見るように、泡風呂から足だけを持ち上げる。
「……なんか様になってて…笑えちゃう」
そんなことを考えながらゆっくりと浸かったあとは、鼻歌を歌いながら身体を洗い、もうしっかりと日課になったシャワーお灸をして、洗面台の前に立った。
ふと鏡を見遣ると、デコルテに散らばった所有痕に目を奪われる。バスタオルを身体に巻きながらくるりと身体を反転させ、背中も鏡に映し出す。
「……1週間もしたら、全部消えちゃうかなぁ」
セックスの度に増える、智さんの所有痕。最後にシたのは……3日前の、土曜日の夜。ところどころ……所有痕が薄くなっている。
恥ずかしいからつけないでと懇願してしまうけれど。いざ……消えてしまうかもしれない、と思うと、言いようのない寂しさが込み上げる。
「……いやいや、そんなこと言っちゃったら嬉々としてこれでもかってほどつけられちゃう!」
寂しいから…つけて、なんて。口が裂けても言えない。かぁっと顔を赤くしながらぶんぶんと頭を振ってその思考を頭から追い出す。
スキンケアをしてドライヤーをかけていると、唐突に脱衣所の扉がノックされた。
『知香。そこに置いてるシェーバーの予備バッテリーを取りたいんだ。入っていいか?』
扉越しに智さんの声が聞こえる。シャワーお灸の効果なのか、サラサラの汗が引くのを待ってから下着を身につけるようにしているから、今の私は…バスタオル一枚を身体に巻き付けただけ。
(………ま、いっか。素っ裸じゃないし)
少し躊躇ったけれど、全裸というわけでもないから。洗面台の下の収納棚を開けながら、いいよ、と声を上げた。キィ、と、蝶番が音を立てる。
「……えっと、これ?」
予備バッテリーを手にしながら立ち上がって、智さんに手渡す。
「ん、サンキュ」
「どういたしまして」
私は笑いながらそう口にして、智さんが脱衣所から出たら横長の天板に置いた下着や寝間着を身につけようと洗面台に向き直る。
けれど……一向に、智さんが、その場から動こうとしない。
「……智さん? どうしたの?」
きょとん、と。背の高い智さんを見上げると。
「……や。帰ってきたら消えちまってるかなって」
智さんのダークブラウンの瞳が、私のデコルテを見つめて…角張った長い指が、私の鎖骨ににすっと這わされていく。
「っ、」
その指の感覚に、びくりと身体が大きく跳ねた。すると、智さんがふっと笑って。その大きな手が、私の肩に触れて、私を後ろから抱き締めた。
「……シよ?」
洗面台の鏡に映り込む智さんが、私の左の耳元で、低く、甘く―――囁いた。
だって。この高級百貨店、本当に……お高いモノしか置いていない百貨店だから。
智さんがコーヒーサーバーをコトリと置いて、マグカップにコーヒーを注いで。キッチンからリビングに長い脚を向けて、ソファに座り込む私にマグカップを手渡してくれる。
「……開けねぇの?」
「や、だって…この百貨店……」
おずおずと智さんを見つめて、「高かったよね?」と視線だけで訊ねる。私のその表情に、困ったように智さんが笑ってソファに深く沈みこんだ。
「いーの。ここのが一番評判が良かったし、自分で買って食っても美味かったからさ」
「ここの……? 評判? 食べた?」
ということは、随分と前から私に気が付かれないように、いくつかのお店を回ってどれにするか検討してくれていたのだろう。手間暇をかけて……選んでくれた、大切な贈り物。そう考えると、言葉に出来ないほどの感情が湧き上がってくる。
開けてみて、と、ダークブラウンの瞳から視線だけで促される。緊張しながらゆっくりと包みを解いていく。淡いレモン色の箱の上蓋をもちあげると、そこには。
「マ、カロン……!!」
チョコレート色の、ふわりとしたマカロンが現れた。
「マカロンってな? 『特別に大切な存在』にプレゼントするものらしーんだ」
「えっ……」
特別に、大切な、存在。ふわり、と。智さんが私を見つめて、穏やかに笑っている。その言葉の意味をゆっくり噛み砕いて……ふたたび、顔が赤く染っていくのを自覚した。
「コーヒーとマカロンのマリアージュを考えて、今日のコーヒーはエチオピアのイルガチェフェ」
智さんが淹れてくれたコーヒーに口をつけると、華やかな香りと、フルーツのような豊かな酸味が広がっていく。ゆっくりとマカロンに手を伸ばして、そっと一口…齧ると。
「……合う!」
マカロンには紅茶だと思っていたけれど、このイルガチェフェは、喉を滑り落ちたあとから森や木や葉を連想させるような風味がする。それが、より紅茶に近い感覚の味わいを生んでいるのだろう、と感じた。
こんなに美味しいマカロンは初めて食べた。さすが……食に精通する智さんが、美味しかった、というお店のマカロン。
「美味しい……ありがとう、智さん」
「……喜んでくれてよかった」
智さんがほっとしたように笑った。穏やかな時間が、私たちの間に流れていく。
「……あと。3回朝を迎えたら。知香を…しばらくひとりにさせるから」
「……うん…」
智さんの言葉に、忘れかけていた現実を突きつけられる。しばらく……ひとりで、夜と朝を迎えることになる。そう考えると、無性に……寂しく、なる。
「毎日。ラナンキュラスの世話してくれたら、俺の世話をしてる気持ちになってくれねぇかなって思ってさ」
「智さんのお世話って」
大の大人に向けた言葉とは思えない単語に、思わずくすりと笑みが漏れる。
「そうだろ? 世話って、その人に尽力するって意味だからな。だからお互い家事をしてるのって、お互いにお互いの足りないところを補って、お互いの世話を焼いてる、って認識だ、俺は」
お互いに、世話を焼いている。そう考えると……仕事から帰ってきて義務的に行う家事も、智さんの為に、と思えて。なんだか、凄く楽しくこなせそうな気がする。
智さんに出会ってから。私には考えつかなかった、全く新しい考え方を学んでいる気がする。
足りないところを補う、という話しも然り、機能価値と存在価値の話しも然り、さっきの、知識の話しも……今の、お世話の話しも然り。
智さんに出会ったからこそ……学べた、私が私の幸せを掴むために、大事なことばかりだ。
「だから……な? 寂しくなったら……ラナンキュラスを見て。俺を…思い出して」
ふわり、と。智さんが、カウンターキッチンに生けられた色鮮やかなラナンキュラスの花束に視線を向けた。
「うん……ありがとう」
智さんが私に向ける愛情の深さに、あたたかい心配りに。途方もない―――幸せを、感じた。
「ゆっくり食べな? 俺は荷造り始めるから」
智さんが、コトリ、と。マグカップをテーブルに置いて、ソファから立ち上がる。
荷造り。その言葉の寂しさに、胸の奥がぎゅうと締め付けられる感覚があった。心の中で頭を振って、立ち上がった智さんに声をかける。
「なにか手伝えることあったら言ってね?」
「ん。ありがと」
ぽん、と。頭に手を置かれて、智さんがリビングの扉を開いて、玄関横の物置から黒の大きなスーツケースを取り出してきた。
コーヒーを口に含みながら、横目でそのスーツケースを観察する。
……掃除する時にも何度か見ていたけれど。やっぱり。
「……智さんの出張の歴史を感じるねぇ」
スーツケースのチャックの部分に、チェックイン時に貼られるバーコードのシールが貼られたままになっている。これまでお仕事で何度も出張に行っている、その歴史を感じた。
「しばらく出張行ってなかったから手入れもしてねぇんだよな……まずはこのバーコード剥がさねぇと」
「え? バーコード剥がすの?」
智さんが口にした言葉に驚いて思わず目を見開いた。パスポートの印鑑と同じく、行った場所の記念になるから剥がさないもの……だと思っていたのだけれど。私の言葉に、智さんが苦笑しながら口を開いた。
「昔のバーコードが貼ってあると、ロストバゲッジ……荷物が他の飛行機に載せられちまう可能性が高まるらしいんだ。今は空港の預かり機の読み取り性能も上がってるから、そういう事はあまりないらしいけどな? ……ウチに入社する前に世界を飛び回ってた池野課長の受け売り」
「へぇ……」
私だったらバーコードはペタペタと貼ったままにして、いざと言う時に思いっきりロストバゲッジに遭いそうだ。
マカロンに手を伸ばして、それを齧る。チョコレートの香りが口の中いっぱいに広がっていく感覚に酔いしれながら、ぼんやりと言葉を紡いだ。
「……こういう時に、知っているか否かの違いが出るんだね…」
しみじみと感じた。知識を持つ、ということは、本当に大事なことなんだ。
「ん、そうだなぁ。知ってる、っつうのは、最大の武器だ」
智さんがゆっくりとバーコードを剥がして手で丸め、丸めた塊をゴミ箱の中に放り込んだ。
「うん……確かに。智さんが出張してる間、本棚の本全部読み倒す勢いで読んじゃおうかな」
最後のひと欠片になったマカロンを口に入れて、マグカップに口付けた。ほぅ、と、吐息を吐くと、コーヒーの酸味とマカロンの甘さが絶妙に絡み合って、まろやかな風味が口の中に広がる。
「通関士の勉強もあんだろ? 無理すんなよ?」
智さんが苦笑しながら私に視線を合わせてくれる。いつだって……智さんは、私を甘やかしてくれる。
「大丈夫。息抜きしながら読むから」
マグカップに残ったコーヒーを飲み干して、ソファから立ち上がる。スーツケースを広げた智さんに視線を向けて。
「美味しかった。ごちそうさまでした! お風呂入れてくるね?」
「ん、よろしく」
リビングの扉を開いて、脱衣所に身体を滑り込ませた。洗面台に置いた三木ちゃんからのプレゼントを手に取る。
「……ん~、とりあえず、赤い薔薇から使おう」
箱を開けると、ふわり、と。薔薇の淡い香りが漂った。本当に…細部まで凝って作ってある入浴剤だなぁと感じる。
三木ちゃんに説明されたように、花びらを1枚1枚剥がしながら湯船の底に置いて。ゆっくりと、カランの蛇口を捻る。
「……わ! ほんとに泡立ってきた!」
お湯が湯船に注がれていく勢いで、表面がゆっくりと泡立っていく。泡立っていくお湯を確認して、脱衣所に足を運んだ。
(えっと……シャンプーとか、リンスとか。向こうで泊まるホテルに置いてあるだろうけど)
海外のホテルに備え付けのアメニティは、日本人の髪質には合わない場合が多い、と聞いたことがある。備え付けのアメニティが智さんの肌に合わなかったら?と考えると、シャンプーやリンスは持っていってもらった方が……私としても安心できる気がする。
そう考えて、私が会社の慰安旅行に行く時に使っていた持ち運び容器にシャンプーとリンスを詰め替えて、トラベルケースに収納する。
再び湯船を覗くと、もうそろそろちょうどいいくらいに溜まっている。表面にしっかり泡が立っていて、口元が綻んだ。キュッと軽い音をさせてカランの蛇口を締める。
パタパタとリビングに戻り、スーツケースにワイシャツやネクタイを収納している智さんに声をかけた。
「智さん、お風呂入ったよ」
私の声に智さんが首だけをひねって私の方を向いた。
「ん、りょーかい」
「はい、これ。シャンプーとリンス」
先ほど詰め替えた容器が入ったトラベルケースを手渡した。目の前に差し出されたトラベルケースを見て、智さんがやわらかく微笑んだ。
「さすが知香。助かった、ありがとう」
この笑顔を…8日間、見られないから。この目に焼き付けておきたい。そう考えて、智さんから目を逸らさずに言葉を紡いだ。
「先にお風呂入ってきて?」
その言葉に、智さんが、わかった、と頷いて立ち上がる。パタリと脱衣所の扉が閉まる音を聞いて、私はそのままリビングのソファに沈みこんだ。
家事もほとんど終えてしまった。手持ち無沙汰になり、ぼんやりと……硝子の花瓶に生けられたラナンキュラスに視線を向ける。
「……綺麗」
エプロンのポケットからスマホを取り出しながら、ソファから立ち上がる。カメラを起動して、生けられたラナンキュラスを写真に収めた。その写真を……スマホのロック画面の背景に設定する。
「……ふふっ」
お花を撮って、ロック画面にしただけなのに。智さんがそばに居てくれるような。仕事中も、一緒にいてくれるような……そんな気がして。
「これで……きっと、寂しくない」
ぽつり、と、呟いた。
智さんがお風呂から上がって、泡風呂の感想を聞くと。
「……入って確かめといで?」
と、屈託のない笑顔を向けられた。期待に胸を膨らませながら、私はお風呂に足を向ける。
ゆっくりとお風呂のドアを開くと、真っ白な湯気が充満していた。湯船に浸かる前に、ざばり、と身体を流して。ゆっくりと湯船に足を入れた。
「ひゃ~。ほんとにしゅわしゅわする!」
湯船に浸かると、泡が肌に触れる独特の感覚と、ほのかな薔薇の香りを感じた。
泡風呂なんて……なんだか、セレブになった気分。テレビで見るように、泡風呂から足だけを持ち上げる。
「……なんか様になってて…笑えちゃう」
そんなことを考えながらゆっくりと浸かったあとは、鼻歌を歌いながら身体を洗い、もうしっかりと日課になったシャワーお灸をして、洗面台の前に立った。
ふと鏡を見遣ると、デコルテに散らばった所有痕に目を奪われる。バスタオルを身体に巻きながらくるりと身体を反転させ、背中も鏡に映し出す。
「……1週間もしたら、全部消えちゃうかなぁ」
セックスの度に増える、智さんの所有痕。最後にシたのは……3日前の、土曜日の夜。ところどころ……所有痕が薄くなっている。
恥ずかしいからつけないでと懇願してしまうけれど。いざ……消えてしまうかもしれない、と思うと、言いようのない寂しさが込み上げる。
「……いやいや、そんなこと言っちゃったら嬉々としてこれでもかってほどつけられちゃう!」
寂しいから…つけて、なんて。口が裂けても言えない。かぁっと顔を赤くしながらぶんぶんと頭を振ってその思考を頭から追い出す。
スキンケアをしてドライヤーをかけていると、唐突に脱衣所の扉がノックされた。
『知香。そこに置いてるシェーバーの予備バッテリーを取りたいんだ。入っていいか?』
扉越しに智さんの声が聞こえる。シャワーお灸の効果なのか、サラサラの汗が引くのを待ってから下着を身につけるようにしているから、今の私は…バスタオル一枚を身体に巻き付けただけ。
(………ま、いっか。素っ裸じゃないし)
少し躊躇ったけれど、全裸というわけでもないから。洗面台の下の収納棚を開けながら、いいよ、と声を上げた。キィ、と、蝶番が音を立てる。
「……えっと、これ?」
予備バッテリーを手にしながら立ち上がって、智さんに手渡す。
「ん、サンキュ」
「どういたしまして」
私は笑いながらそう口にして、智さんが脱衣所から出たら横長の天板に置いた下着や寝間着を身につけようと洗面台に向き直る。
けれど……一向に、智さんが、その場から動こうとしない。
「……智さん? どうしたの?」
きょとん、と。背の高い智さんを見上げると。
「……や。帰ってきたら消えちまってるかなって」
智さんのダークブラウンの瞳が、私のデコルテを見つめて…角張った長い指が、私の鎖骨ににすっと這わされていく。
「っ、」
その指の感覚に、びくりと身体が大きく跳ねた。すると、智さんがふっと笑って。その大きな手が、私の肩に触れて、私を後ろから抱き締めた。
「……シよ?」
洗面台の鏡に映り込む智さんが、私の左の耳元で、低く、甘く―――囁いた。
0
お気に入りに追加
1,544
あなたにおすすめの小説
ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる
Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした
ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。
でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。
彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。

魔性の大公の甘く淫らな執愛の檻に囚われて
アマイ
恋愛
優れた癒しの力を持つ家系に生まれながら、伯爵家当主であるクロエにはその力が発現しなかった。しかし血筋を絶やしたくない皇帝の意向により、クロエは早急に後継を作らねばならなくなった。相手を求め渋々参加した夜会で、クロエは謎めいた美貌の男・ルアと出会う。
二人は契約を交わし、割り切った体の関係を結ぶのだが――
お見合いから始まる冷徹社長からの甘い執愛 〜政略結婚なのに毎日熱烈に追いかけられてます〜
Adria
恋愛
仕事ばかりをしている娘の将来を案じた両親に泣かれて、うっかり頷いてしまった瑞希はお見合いに行かなければならなくなった。
渋々お見合いの席に行くと、そこにいたのは瑞希の勤め先の社長だった!?
合理的で無駄が嫌いという噂がある冷徹社長を前にして、瑞希は「冗談じゃない!」と、その場から逃亡――
だが、ひょんなことから彼に瑞希が自社の社員であることがバレてしまうと、彼は結婚前提の同棲を迫ってくる。
「君の未来をくれないか?」と求愛してくる彼の強引さに翻弄されながらも、瑞希は次第に溺れていき……
《エブリスタ、ムーン、ベリカフェにも投稿しています》
独占欲強めな極上エリートに甘く抱き尽くされました
紡木さぼ
恋愛
旧題:婚約破棄されたワケアリ物件だと思っていた会社の先輩が、実は超優良物件でどろどろに溺愛されてしまう社畜の話
平凡な社畜OLの藤井由奈(ふじいゆな)が残業に勤しんでいると、5年付き合った婚約者と破談になったとの噂があるハイスペ先輩柚木紘人(ゆのきひろと)に声をかけられた。
サシ飲みを経て「会社の先輩後輩」から「飲み仲間」へと昇格し、飲み会中に甘い空気が漂い始める。
恋愛がご無沙汰だった由奈は次第に紘人に心惹かれていき、紘人もまた由奈を可愛がっているようで……
元カノとはどうして別れたの?社内恋愛は面倒?紘人は私のことどう思ってる?
社会人ならではのじれったい片思いの果てに晴れて恋人同士になった2人。
「俺、めちゃくちゃ独占欲強いし、ずっと由奈のこと抱き尽くしたいって思ってた」
ハイスペなのは仕事だけではなく、彼のお家で、オフィスで、旅行先で、どろどろに愛されてしまう。
仕事中はあんなに冷静なのに、由奈のことになると少し甘えん坊になってしまう、紘人とらぶらぶ、元カノの登場でハラハラ。
ざまぁ相手は紘人の元カノです。
あいにくですが、エリート御曹司の蜜愛はお断りいたします。
汐埼ゆたか
恋愛
旧題:あいにくですが、エリート御曹司の蜜愛はお受けいたしかねます。
※現在公開の後半部分は、書籍化前のサイト連載版となっております。
書籍とは設定が異なる部分がありますので、あらかじめご了承ください。
―――――――――――――――――――
ひょんなことから旅行中の学生くんと知り合ったわたし。全然そんなつもりじゃなかったのに、なぜだか一夜を共に……。
傷心中の年下を喰っちゃうなんていい大人のすることじゃない。せめてもの罪滅ぼしと、三日間限定で家に置いてあげた。
―――なのに!
その正体は、ななな、なんと!グループ親会社の役員!しかも御曹司だと!?
恋を諦めたアラサーモブ子と、あふれる愛を注ぎたくて堪らない年下御曹司の溺愛攻防戦☆
「馬鹿だと思うよ自分でも。―――それでもあなたが欲しいんだ」
*・゚♡★♡゚・*:.。奨励賞ありがとうございます 。.:*・゚♡★♡゚・*
▶Attention
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。