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本編・第二部

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 今期の保存帳票の纏めを行い、綴り紐でまとめる書類とフラットファイルにまとめる書類をざっくり分別したところで、三木ちゃんの、お疲れ様でした! と、元気な声がフロアに響いた。

 腕時計を見遣ると、終業時刻を少しすぎたところ。

 今日も一日早かったなぁ、と考えながら自分のデスクに向かい、デスク上の書類を確認しつつ、PCを操作して社外メールをチェックする。

(ん……全部明日の処理でもいい感じかな)

 つぃ、と。右隣の小林くんのデスクに視線を移す。今日は一日中税関に外出だから、小林くんのデスクの上が土日明けの月曜日のようにとんでもない事になっている。多分、もう少しで帰ってくるはず。

「……」

 少し逡巡して、右隣のデスクに手を伸ばした。書類に軽く目を通しながら、取引先別に纏め、カット日順に並べ変えてクリップ留めしデスクに裏返しで置いて。

「お疲れ様でした、お先に失礼いたします」

 そう声をあげて、田邉部長や水野課長代理、1課のメンバーにも声をかけた。行動予定表のマグネットを退勤に動かしてフロアを退出する。

 更衣室に滑り込み、カタン、とロッカーを開けながらスマホを手に取った。

『今日は少し残業。イタリア行く前に書類アホほどたまってて憂鬱。夕食はグラタンパイ。具材は作ってある。挟んで焼くだけにしてあるから腹減ってたら先に食べてて』

 メッセージアプリが、智さんからのメッセージを表示している。

 出張は6泊88日。一週間不在にする訳だから、そりゃあ事前に処理しておいて欲しい、なんていう書類も膨大になるはず。大変だろうな……なんて気持ちが湧き上がると同時に。

(あと……3回)

 あと3回、夜明けを迎えたら。智さんが日本を発つ。そして、スマホは使わないようにする、ということだから……88日間も、あの甘い声を聴けない。あのダークブラウンの瞳をこの目に写すことも、出来なくなる。

(……ううん。たった、8日間じゃない)

 世の中には遠距離恋愛を乗り越えて来た人だっている。何ヶ月、下手したら年単位で会えない人達だっている。そんな人達に比べたら、8日間なんて……あっという間、なはずなのだ。

 わかっているのに。胸がすごく、苦しくなる。

 ぎゅうと胸の奥が締め付けられるような痛みがする。その感覚の苦しさを振り払うように、制服のベストの前ボタンを開けた。

 ……イタリアとの時差は8時間。日本の方が、進んでいる。だから、私が目覚める頃に、智さんが眠りにつくはずで。私が眠りつく頃には、智さんはお仕事を頑張っている頃で。

(…寂しいなあ……本当に)

 制服のスキッパーブラウスを手早く脱いで、私服に着替える。

 今日は春の流行を取り入れたコーディネートにしてみた。すこしくすみがかったラベンダーカラーのトップスにスモーキーブルーのロングレーススカートを合わせた。

 出勤前の智さんが顔を綻ばせながら、似合ってる、可愛い……と、呟いて頬をそっと撫でてくれたことを思い出す。

 智さんがイタリアに行っている間のコーディネートも、玄関前の姿鏡で写真に撮っておこう。交換日記みたいにしよう、と探したアプリは、写真もアップロードできるから、今日のコーディネートだよ、とか、今日は晩御飯にこれ作ったよ、とか。そういう…些細なことだって、共有したい。

 ほぅ、と息をつきながら、ロッカーの内鏡を確認する。誕生日に智さんから貰ったイヤリングが、サイドの髪からキラリと煌めいた。

(そう言えば……髪型の話、聞きそびれてた)

 付き合い始める前に、智さんがショートヘアの女優さんが好きだと言っていたから、私は思い切ってロングヘアをバッサリと切り落としたけれど。……あれは私をための言葉であって、別にそう大してその女優さんたちが好きなわけじゃない、と暴露されて。本当は、どんな髪型の女性が好きなのか、聞いてみようと思っていたんだった。

 本当にショートヘアが好きなのか、はたまたロングヘアが好きなのか……三木ちゃんみたいな、ミディアムヘアが好きなのか。

 ふと、昼休みの三木ちゃんの涙が気になった。あれは、どういう意味だったんだろう。

 今日は三木ちゃんは実家に行くと言っていたから、終業と同時に退勤していた。おばぁ様が亡くなられてから、割と頻繁に実家に帰っているようだ。家業と仕事と……それらを両立している三木ちゃんのパワフルさは本当に凄いと思う。

 本当に、いい子なのになぁ。三木ちゃんを振った男の人、目の前に現れてくれないだろうか。全体重をかけてフルスイングで引っぱたいてやるのに。

 あちらこちらに散らばった思考を一旦押し込めて。自分の鞄と、三木ちゃんから貰ったホワイトデーのプレゼントが入った紙袋を手に持って、更衣室を出た。

 受付で社員証をタイムカードの機械に翳す。ネックストラップをくるくると社員証に巻き付けて鞄に仕舞いながら、エレベーターホールで下りのエレベーターを待っていると、チン、と軽い音がして右側のエレベーターが開いた。エレベーター内にいる人がするりと降りてくる。

「……あ、小林くん?」

 小林くんの整った顔に疲れが滲んでいて。一日中税関での講習だったのだから、それもそうか、とぼんやり考える。

「……一瀬さん。今、戻りました」
「そっか、長い時間お疲れさま。書類、ある程度纏めてあるよ。カット日が近い順番に並べ替えて置いてあるからね」

 私の言葉に、小林くんが明らかにほっとしたような表情を浮かべた。それもそうだろう。講習から帰ってきて、月曜日の早出担当ばりに書類が積み重なっていたらげんなりもするだろう。勝手だったけれど手をつけてよかった、と安堵した。

「ありがとうございます、助かります」
「んじゃ、お疲れさま。また明日ね」

 そう口にしてするりとエレベーターに乗り込んだ。

 ……片桐さんは、ちゃんと小林くんに謝るだろうか。ヘーゼル色の瞳が、真摯な光を宿していたあの光景を思い返す。

 イギリス人は日本人と同じくらいすぐ謝る、だなんていう豆知識を聞いたことがある。イギリスで育った片桐さんだから、きっと……ちゃんと謝る、はず。じゃなければ、あんな真摯な瞳は出来ないはずだから。

 ぼんやりと考えながら、そのままオフィスビルを出て帰路についた。



















 カチャリ、と無機質な音を立てて玄関を解錠する。

「ただいまぁ~」

 智さんがまだ帰ってきていない、誰もいない空間だとしても。ただいま、と声を上げることで、公私のオンオフの切り替えが出来るような、そんな気がする。だから私は、いつもただいまと声を出している。

 アイボリーのスプリングコートを脱いでハンガーにかけた。イヤリングを外して、誕生日に智さんがふわりと開けてくれたベルベットのジュエリーケースに収納する。

 一見、指輪が入ったような、深い青をしたベルベットの箱。つぃ、と。ジュエリーケースを指でなぞった。

 ここに。本当に、指輪が入っている、それをふわりと開けてくれる……そんな瞬間は、いつ訪れるだろう。

 そこまで考えて、はっと自らの思考を取り戻す。

(まだ、智さん、新部門のことも落ち着いていないし、きっと……当分、先、になるはず)

 私だって、通関士試験が今年の10月に控えている。総合職に転換したばかりだし。色恋にうつつを抜かしている状態ではいけない。お互いに責任のある仕事を担っているからこそ、結婚のタイミングは慎重にならなければ。きっと、智さんもそう考えているからこそ……それに代わるような形で、ダイヤモンドイヤリングを私の誕生日にくれたのだと思う。

 ふるふると軽く頭を振って、パタリとベルベットの上蓋を閉じた。

 手を洗い、エプロンを身につけてキッチンに立つ。冷蔵庫を開けると、ホワイトソースが絡まった具材がラップがかかったボールに入っている。冷凍庫を開けると、冷凍のパイシートがあった。パッケージを見ると常温で10分で解凍できるようなので、ひとまず冷凍庫から取り出してキッチンのワークトップに置いた。

 洗濯物を取り込んで、畳む。ふたり分だから、そう大して多くもない。腕まくりをしてお風呂掃除をして、三木ちゃんから貰った入浴剤を洗面台に置いた。ちょこん、と。薔薇のお花たちが、洗面台の鏡に反射している。

「……ほんと、可愛い」

 室内にお花の形をした何かがあるだけで、気分がとても高揚する、ような気がする。心理学的になにかあるのだろうか。博学な智さんなら……知っているかな。帰ってきたら、髪型の話しと一緒に聞いてみよう。

 洗面台の掃除も終えてキッチンに戻ると、パイシートが綺麗に解凍出来ていた。少し……考え込んで。包丁を持ち出して、ハート形に切り抜いていく。切り抜いた残りのパイシートで、智さんがバレンタインの時に持って帰ってきたチョコレートの中で、なるべくプレーンのチョコレートを選び出し、それを包んだ。チョコレートパイは、明日の朝食に出そう。

(ハート形のグラタンパイ。ちょっと恥ずかしいけど……)

 あと、3回。夜を過ごしたら、声が8日間も聴けなくなるから。だから、少しくらい……いつもよりも甘い時間を過ごしたって、バチは当たらないと思う。そう考えて、頬がにやけるのを自覚した。




 フローリングワイパーで軽く掃除をしていると、リビングに置いているスマホに着信があった。

 パタパタとリビングに向かって走り、スマホを手に取ると、そこに表示されていたのは智さんの名前。バレンタインの時も、電車を降りたらすぐに電話をかけて来てくれたのを思い出す。

(ほんとに、せっかちなんだから……)

 それでも、嬉しく感じてしまうのだから、私も相当重症だなと思う。応答ボタンをタップして、するりと左耳に当てる。

「智さん?」
『悪ぃ遅くなった』

 電話口の奥で、ピッと、改札を通り過ぎる甲高い音が聞こえてきた。ざわざわと喧騒が遠くに聞こえている。

「智さんってば、せっかちだよ~。あと5分もしたら顔合わせるでしょ? ちょっとくらい我慢したっていいじゃない」

 スマホを左肩に挟みながら、フローリングワイパーでの掃除をスルスルと進めていく。すると、私の言葉に智さんが不服そうな声を上げた。

『だって、あと3日もねぇんだぞ? 仕事以外は知香の声しか耳に入れたくねぇんだって』

 どストレートにそんなことを言われて。思わず、掃除をする手が止まる。

「……もっ、ほんとにっ、外でそんなことを堂々と言わないでよっ」

 今の私はきっと顔が真っ赤になっていると思う。そんな私の様子に、智さんがくくくっと喉の奥を鳴らした音が電話口で響いた。……きっと。あの切れ長の瞳が愉快そうに歪んでいるのだろうな、と思うと。

「本当に、智さんって意地悪だよね」

 見えないと分かっていても。この私の気持ちが伝わればいい。ぷぅ、と、頬を膨らませながら言葉を紡ぐ。

『だってさぁ、知香の反応がかわいーから』

 くすくすと、智さんの笑い声が響いた。

『反応がかわいーから、おもしろくってな? ついついやっちまうんだよなぁ』

 揶揄われている。私を動揺させる言葉は、いつだって確信犯なんだ、と気がついて、余計に顔が赤くなる。好きな子を揶揄って反応を楽しむ……子どもみたい。

「そんな小学生みたいなこと言わないでよっ」
『男はいつまでも子どもなんだっつの』

 その言葉に、むぅ、と眉間に皺が寄る。ああ言えばこう言う……!!

「………わかった。じゃぁ、反応しなければいいんでしょ?」

 名案だ。反応が可愛いから、なら、反応しなければいいのであって。そうすれば、揶揄われることも無くなる。

 電話の奥から、階段を登る智さんの呼吸と革靴の音が聞こえてくる。あと、2、3分で帰ってくるだろうな、と考えて、フローリングワイパーに着けたウエットシートを取り外す。

『……いーけど? 知香がしてしまえばいーんだし?』

 紡がれた言葉に、手に持ったウエットシートがひらりと床に落ちた。

「~~~っ、智さんの、バカっ!!!」

 電話口で、智さんの笑い声が響いた。
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