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本編・第二部

99 俺の心が、壊れても。

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 2月の冷たい風が吹きつけて、思わず顔を顰める。スマホを触る指先がゆっくりと冷えていく。このまま知香に触れたら知香の体温を根こそぎ奪ってしまいそうだ。

 この交差点は……思い入れが深い。知香と恋人となる前に、恋人となってからも。知香と、幾度となく言葉を交わした場所。



『言動に気を付けなさい』



 無機質な声が脳裏に響いた。

 ここを終業後の待ち合わせ場所にするのは、今日を最後にする。そう、決めた。地下鉄の駅に直結する出入口が三井商社が入居するオフィスビルの近くにあるとはいえ。この交差点では……ウチの社員に目撃される可能性がある。

 俺と知香の関係は、可愛がっている後輩の藤宮にすら伝えていないこと。唯一……バレンタインで告白された女子社員には、結婚前提の彼女がいるとは言ったが、それが取引先の人間だとは明言していない。だからこそ……このまま、知香の存在を隠し通さなければ。

 ふと視線をあげると、あくびをしている知香の姿が目に入った。今朝も寝起きが悪かったということと、周期的に考えて……恐らく、もう少しで生理が始まるのだろう。ならば、今日は身体が温まる食事を作ろう。

「知香」

 俺が手を伸ばすと、知香は俺の手を躊躇いなく握ってくれる。この、華奢な手を……守り抜きたい。

「……知香。待ち合わせ場所、ちょっと変えよう」
「え? なんで?」

 知香が困惑したように俺を見上げる。背が低い知香が、上目遣いでぎゅっと俺を見る表情が、途方もなく愛おしい。

 その表情、だけじゃない。

 俺が作った料理を食べる時。とても美味しそうに…とても、幸せそうに食べている表情。
 一緒にテレビを見て。面白いシーンで、同じタイミングで笑いだした時の、楽しそうな表情。
 俺が食後に煙草を吸っている姿を、うっとりと眺めるその艶っぽい表情。
 セックスの時、俺が与える愛と快楽に溺れきって啼き叫ぶ、その淫らで美しい表情。
 毎日見せてくれる、とても楽しそうな……極上の、笑顔。

 すべてが愛おしい。狂おしいほどに、愛している。俺は、知香のすべてに恋焦がれている。

 知香の、すべてを。


(守り、抜きたい)


 だから。俺は……小さな嘘をつく。本心は隠したまま、最もらしい理由をつけて。

「……ここだと今日みてぇに風が強い時、くっそ寒ぃんだ。俺が冷えたら、知香の手の体温まで俺が奪っちまうから、さ」



 知香。すまない。
 嘘を重ねていく、俺を。赦してくれ。



 やわらかい笑顔を意識して顔に貼り付ける。俺は、今は営業から外れて企画管理に携わってはいるが。腐っても、営業マンだ。……ポーカーフェイスなんて、お手の物。



「智さん…ちょっと、寝ていい? なんか眠くて…」
「ん? いーよ、肩貸してやるから」
「ありがと…ごめんね?」

 ゆっくりと。知香が俺に寄りかかってくる。ガタン、ガタンと揺れる電車内で、知香の香りが漂って。俺と同じシャンプーのにおいが、鼻腔をくすぐっていく。

 すぅすぅと規則的な寝息を立てている、知香。安心しきったようなその表情を視界の端に捉える。






 ……俺が、世界一愛している知香の顔が。一時的に、哀しみに歪んだとしても。
 知香が命尽きるその最期の瞬間に、幸せだったと思ってほしい。


 だから。

 俺のそばから、解き放って。くだらない諍いに巻き込んで傷つけることもなく、俺以外の男と…幸せになってくれた方が。



 心が軋む音がする。



『逃がさないで。諦めないで。捕まえていて。何があっても……私を、離さ、ないで』

 ふと。すれ違いをしたあの日に。知香が、俺の胸にしがみついて、震える声で紡いだ言葉が脳裏に蘇る。


 そう、だ。

 例え……死んでも、俺は、知香を離さないと……あの時、宣言したではないか。だから……知香を、解き放つなんて。俺が、やれる訳がない。



 人間に忘れ去られた公園にポツンと佇む、錆びたシーソーのように。ぎぃ、ぎぃ、と……不快な音を立てて、心が軋む。

 左に傾いては、右に傾いて。
 ぐらぐらと、心が軋んで……揺れる。



 池野課長に釘を刺されてから、ずっとこの調子だ。今ほど、営業でよかったと思う瞬間はない。こんなグラグラした気持ちを、知香に悟らせる訳にはいかない。骨の髄まで叩き込まれているポーカーフェイスを駆使して。


 俺のこの心のうちは、知香には、絶対に。悟らせない。





 ぼんやりと考えていると、もう最寄り駅の一駅手前。ゆっくりと、知香の身体を揺らす。

 手を繋ぎ、いつものスーパーに立ち寄る。今日は身体が温まるメニューにすると決めた。白菜やカブ、ほうれん草を籠に放り込み、セルフレジに並ぶ。


 セルフレジで精算をするも、5円玉が1枚だけ足りない。

「知香…5円玉持ってねぇ?」

「5円? あったと思う、待ってて」

 知香が、鞄をごそごそと探って財布を引っ張り出して、5円玉を投入した。

「……小銭ってさ。持ってなくていいときはじゃらじゃらある癖に、欲しいときにねぇんだよな」

 俺のこの言葉に、深い意味があったわけでもない。ただただ、感じたことをそのまま口にした、ただ、それだけ。

 それでも。

「そういうものかもしれないね?」

 知香が、セルフレジから印刷されたレシートを受け取りながら、俺と視線を合わせた。その表情は……どこまでも、やわらかくて、あたたかくて。それでいて……幸福感に満ちた、微笑みで。

(……失いたく、ねぇ)

 俺に向けられる、この途方もなくあたたかい微笑みを。失うなんて、考えたくもない。

 知香を手放すなんて、俺には、出来や、しない。















 そう、思っていたのに。

「黒川さん、今度は何をやっているんですか」

 トン、と。努めて冷静に、黒川の肩を叩いた。

 黒川が知香に声をかけている、その光景をみた瞬間。言葉にならない感情が全身を駆け巡った。

 つぅ、と。紅い珠が膨らんで艶を帯びていく、時間にして数秒にも満たなかったであろう、あの日の光景が目の前に現れた。

 ただの、幻覚、だとわかっている。それでも……あの紅さは。俺の無力さを、俺に容赦なく、冷酷に叩きつけていった。

「邨上……お前、邪魔すんの?」

 黒川の細い目が、怒りでぎりぎりと歪む。

 また、という言葉は。昨年の納涼会で、新卒の女子社員をしつこく口説いている姿を咎めた時のことを言っているのだろう。

 黒川に目を向けて、知香を庇うように間に立った。

「邪魔、というより、、どう見たって嫌がってらっしゃるでしょう」

 敢えて、『この方』と口にした。

 俺の真意を、知香は瞬時に汲み取った。黒川の前では、あくまでも知香を取引先の人間として扱おうとしている、という、俺の真意を。いつも俺に向けられている親し気な視線が、他人行儀な……つん、とした視線に切り替わるのを背中で認識した。

 あぁ、そうだ。知香は、聡い。

 片桐がエントランスで知香を待っていたとき。俺のことを調べたと、揺さぶりをかけてきたとき。我を忘れて片桐に殴り掛かりそうになった。今にも千切れそうな縄橋の上を渡り歩くような、理性と野性のせめぎ合いをしていた俺に気が付いて。背広を引っ張って、知香が俺を現実に引き戻してくれた。

 知香が、聡い、とわかっていても。知香のその視線が、ザクリと。俺の心にナイフを大きく突き立てていく。

 引き攣れるようなその痛みを無視して、努めて冷静に現状把握に意識を向けた。

「今度は取引先の社員さんを口説いているんですか。いい加減になさったらどうでしょう」
「……邨上は一瀬さんのこと知ってんの?」
「存じていますよ。営業3課時代は随分とお世話になりましたから」

 互いに苛立った口調で会話が続く。元々折り合いが悪い俺たちが。こんな状況で、冷静に会話などできるはずもない。

「む、邨上さん、あの、私、大丈夫ですから」

 鈴が転がるような。知香の声が響いた。びくり、と。身体が震える。久しぶりに…知香の声から、名前ではなく苗字が奏でられたことに。自分で思っていたよりも、ひどく動揺した。

「一瀬さん。うちの会社の者がすみません」

 その動揺を隠すように。黒川に悟られないように。他人行儀に。知香を振り返った。知香の顔が。一瞬、翳った。きっと―――同じ気持ちを、抱いた、はず。



 心の底の暗闇が、融解を始めたような気がした。
 俺のすべてが、嵐の海のような渦潮に、飲み込まれていく。



 取引先同士の、恋愛。

 新部門を率いる俺。俺が携わる新部門の業務は、原料を調達、加工品にし、市場に流通させること、だ。

 そして、この新部門は。……極東商社の、農産販売部・畜産販売部・水産販売部のライバル的存在になりえる。極東商社には商品開発部があり、そして通関部がある。輸入出から加工にかけて他社を介在させることなく一貫サービスを提供する、というのが、極東商社の強みだ。

 それ故に。機密情報が、極東商社に流れているやもしれない、という疑念の目を向けられてはいけない。

 だからこそ。俺を追い落とそうとしている黒川に。悟らせるわけには、いかない。



 いつもは、あんなに、安心しきったような表情を向けてくれる知香だというのに。今、目の前にいる知香は、俺という人間を、ほとんど知らないような表情で俺を見つめている。

 わかっている。社会人として一線を引き、割り切らなければならないことくらい。
 でも……それが出来るくらいなら、そんなに簡単な気持ちなのであれば。こんなに苦しまなくて済んだ。

 恨めしいような、悔しいような。そんな感情が湧き上がってくる。


 そんな感情をポーカーフェイスで隠しながら、知香の翳った表情を見つめ返した。

「い、いえ。では、すみません、彼氏が待っていると思うので、失礼します」

 知香が、そう言葉を紡いで頭を下げ、踵を返す。短い髪が左右に揺れながら、テラス席から離れていった。







 知香の姿が見えなくなって。黒川が嗤った。

「……お前、あの女、狙ってんの?」

 髪の脂がてらりと光る。ニタリ、と。その面長の顔に、薄気味の悪い嗤いを浮かべた。

 狙う、など。息を吹きかければ吹き飛ぶ、薄っぺらいカーボン紙のような言葉だ。

 お前にはわかるまい。俺が、どんな気持ちでここにいるのか。ここに立っているのか。

「黒川さんには関係ないでしょう」

 ふつふつと滾る感情を押し殺し、努めて冷静に、冷酷に。普段通りの態度で、黒川の細い瞳を見つめ返した。

 そう。冷静さを装うあまり。黒川のその瞳に、勝った、とでもいうような感情が宿っていることに気が付くのが……遅れた。

「……さっき。営業3課、と口にしたな? お前は対外的には未だ3課所属になっているはずだが?」



 ―――やらかした。



 テラス席の喧騒が。遠くなっていく。
 黒川の声しか……耳に届かない。



「あの女を抑えれば。お前を追い込める。……あの女を守り切れればいいな?」

 くくく、と。黒川が、喉を鳴らして。薄汚れた背広を翻した。

 ほんの、3分前。3課時代、と、口にするべきではなかった。現在進行形でお世話になっている、と。そう返答するべきだったのだ。






 知香は知らない。
 俺にとって、知香自身がどれほどの価値を持つ存在かを。

 最年少幹部候補。三井商社の、今後の舵取りをする存在。
 その男を潰したいのならば。

 ―――ただひとり。一瀬知香を、抑えればいい。

 そうすれば。『邨上智』の動きは、止まる。



















 知香に勘付かれないように、そっと、アルコールを注文した。

 俺の心にザクリと突き立てられたナイフが、もうひとりの俺の腕で、十文字に斬り刻まれていく。
 引き攣れるようなその痛みを。嘘を重ねる俺自身に向けた激情を……必死で、堪える。



 知香のためにも。できるだけ、手酷い別れの方がいいだろう。そう……それは、百年の恋も冷めるような。

 けれど。

 嘘だとしても、他の女が出来た、とは、言えなかった。他の女を作って知香を捨てた狂犬と同じ痛みを与えたくは、なかった。


 我ながら、ひどく……矛盾、していると思う。


 だから……だから。公にできない関係に、疲れた、と。興味を失った、と、言えばいい。

 そう。俺は、元からそういう人間だ。

 使えないものには無関心を。満たしてくれるものには―――寵愛を。

 元から、そういう人間なのだ。だから、俺が興味を失った、別れて欲しい、と言えば…いい。



 嘘を、つけばいい。共に過ごして、楽しかった時間を……幸せだった日々を、この胸に抱いて。
 嘘を、つけばいい。俺は、知香のためにならない、存在だから。




 俺に向けられた憎悪の痛みと苦しみを、知香に与えずに済むのなら。


 それで、いい。





 知香を……醜い悪意の波に、溺れさせやしない。






 知香。俺からの最後の願いだ。
 嘘を重ねていく、俺を。赦さないでくれ。





 半年ぶりに呷ったアルコールの灼熱の喉越し。それに任せて好き勝手に巡る思考。論理はとっくの昔に俺の手の内を離れて……破綻、している。





「すまない。別れて欲しい」






 論理なんて、破綻していたっていい。



 ―――遠い未来で。知香が、幸せになってくれれば、それでいい。








 喩え……その嘘で。俺の心が、壊れても。
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