66 / 273
本編・第二部
100
しおりを挟む
「は?」
私の、嘘、という言葉に。智さんが苛立ったように声を上げた。
ゆっくりと、顔を上げて。赤ワインのグラスから、智さんの顔に視線を向ける。目の前に……智さんの、氷のような。冷たい瞳。その視線を向けられるだけで、まるで冷凍庫に放り込まれたように、全身がゆっくりと冷えていく。
だけど。この瞳から、目を逸らしちゃいけない。
理由はわからない。でも、逸らしちゃ、いけない。
その一心で、細く、切れ長の瞳を見つめた。
じっくりと、智さんの瞳を見れば。その冷たさの奥底に……途方もない哀しさが…宿って、いる。
別れて欲しい、なんて。
智さんは、自分自身にも、嘘をついている。
智さんの思惑がどこにあるか、なんて、知らない。
(………思い通りになんか、させやしないんだから)
そう、心の中で呟いて、目の前の智さんを強く睨みつけた。
「………別れて欲しい、なんて、嘘」
「嘘じゃねぇ」
今までなかったような強く苛立った声がぶつけられる。
怖い。私に向けられるその言葉の迫力に、冷たい声色に。心に、鋭いナイフがぐさりと突き立てられていくような、そんな気がして。
でも、きっと。私のこの心の痛みよりも。
―――智さんの、心の痛みの方が、何十倍だって、痛いはずだから。
「じゃぁ。なんでワインなんか飲んでるの? なんで私の名前を呼ばないの?」
「………」
ダークブラウンの瞳がわずかに揺れた。その揺れは、ほんの僅かな動きだった。
けれど。
智さんが、私の言葉に動揺しているとわかるには、それで十分だった。
行ける。大丈夫。
そう考えて、私は言葉を立て続けに被せる。
「私が、どれだけ智さんを想ってるのか。智さんは知らない」
ぎゅ、と。私は唇を強く噛んで。智さんをふたたび睨みつけた。
「智さんが嘘をついてることくらい、すぐわかるよ」
智さんのダークブラウンの瞳に、強い光が再度宿った。その強い瞳を。私の、強い意思で、強い視線で。睨み返す。
「別れて欲しい、なんて、嘘。そうでしょ」
「嘘、じゃねぇ」
「違う。智さんは、嘘ついてる」
「嘘じゃねえって。本心から、別れて欲しいって思ってんだって」
「嘘よ」
ダンッ!! と、大きな音がする。その音に、心臓ごと全身が跳ねた。
「っ、どうして……!!」
智さんの拳で、真四角のテーブルが叩かれて。ガチャン、と、テーブルのお皿が揺れた。ガッソーサが注がれたゾンビグラスが、闘牛のように激しく踊った。炭酸の泡が、底から、側面から、大きく揺れて。一気に水面に浮かび上がる。
「どうして、俺の気持ちをわかってくれねぇんだ……」
ギリギリと。智さんが、拳を握り締めながら。私を、強い光を宿した瞳で睨みつける。
「わからないよ……嘘をつく智さんの気持ちなんて」
その瞳の強さに、私の心が挫けそうになる。じわりと世界が歪み、目の奥が、胸の奥が熱くなる。
(……ここで、泣いちゃだめ)
湧き上がる感情の波に、溺れないように。私はまた、智さんを真っ直ぐに見つめた。
「聞き分け悪すぎんだろ。俺は、別れてぇ、んだって」
智さんが呆れたような表情を浮かべた。その表情すら……演技、ってことくらい。私にはわかってるんだから。ふつふつと滾る感情を押さえつける。智さんを追い込むように、言葉を畳みかけていく。
「本当に、別れたいなら。智さんが抱えてる本当の気持ちを言ってくれたほうが割り切れる」
「だから、言ったろ。お前に興味を失ったんだっつの」
「それが嘘なのよ。別れる、って嘘を私に言う勇気を持つ前に、智さんが抱えてる本当の気持ちを私に曝け出す勇気を持って」
「っ、ほんっとに、聞き分け悪ぃ女だな……」
「下手な嘘が、いちばんタチ悪いのよ。優しさと勘違いしてるの? なにも優しくなんてない」
「だから、嘘なんかじゃねぇって。なんでここまで言ってわかんねぇんだよ」
はぁっ、と。智さんが大きく息を吐いて、頭をガシガシと搔いた。
智さんの、その様子に。私は確信を持った。
やっぱり。やっぱり、智さんは、嘘を言ってる。
「じゃぁ。なんで…」
すぅ、と。大きく息を吸って。
ダークブラウンの瞳を、強く見つめ返した。
「なんで、敬語じゃ、ないの?」
智さんが。大きく息を飲んだ。
別れたい、と、智さんが主張して。私が聞き分けが悪くて。私がそれを受け入れないこの状態を、智さんが本心から…本気で、怒っていたなら。
智さんの口調が。丁寧で、それでいて、冷酷な話し方に、変わるはずだから。
お正月に、私を拐かそうとした凌牙と相対したとき。
片桐さんが、あのエントランスで私を待っていたとき。
智さんは、本気で怒っていた。
その時の口調は―――敬語、だった。
だから。今の智さんは、本心から怒っていないし、嘘を言っている。演技、している。
私の言葉に、呆然とする智さんを睨みつけた。
「だから、言ったでしょ。……私が、どんなに、智さんを想っているのか。思い知れば、いい」
私たちの間に。重い、重い沈黙が訪れた。
ゾンビグラスの炭酸の泡が、ふわふわと水面に浮いていく様子を視界の端に捉えながら、今にも泣き出しそうな智さんを見つめていた。
「……やっぱ……知香には、適わねぇ、な」
「………」
智さんが、困ったように。それでいて、優しく。哀しそうに……笑った。ダークブラウンの瞳から、涙が、一筋零れていった。
「……なんで、嘘をついたの?」
キラリと光った涙に、その智さんの表情に。私の胸が、ぎゅう、と締め付けられていく。はぁ、と。智さんが大きなため息をついて、その角ばった親指で、目元を乱暴に拭った。
「池野課長から、釘を刺された。社内で………知香の存在を匂わせるな、と」
「釘? どうして?」
私の存在。脈絡のない話に目をぱちぱちと瞬かる。
「俺は……最年少幹部候補、だ。恨み辛みが、バレンタインの時は、俺に向けられた。けど…次があれば。今度は、もしかしたら…知香に直接、向けられるかもしれねぇんだ」
思わずひゅっと息を飲んだ。
そうだ。なぜ、そこに思い当たらなかったのか。智さんの出世を妬む人なら、あらゆる手を使って、智さんの妨害をする可能性だってある。
片桐さんが…私を手に入れようと、小林くんを揺さぶったように……智さんを引き摺りおろすために、私に接触してくる可能性だってあるのだ。
「……黒川は。俺を……引き摺り下ろそうと、している」
「………え」
黒川さん。あの、おどおどとしたような、それでいて、人の話しを聞かないような。先ほど相対した面長の細い瞳と、ねっとりとしたあの声が、脳裏に甦った。
『邨上……お前、また邪魔すんの?』
また。また、ということは、以前にも同じように…女性にしつこく絡む黒川さんを智さんが咎めたことがあった、ということだろう。
終始、苛立ったように智さんを見つめていたこと。
智さんは黒川さんに敬語を使っていたこと。
黒川さんは智さんに敬語でなかったこと。
(名刺……)
ふと思い立ち、中河さんの連絡先を追加して、そのままざっくり纏めてテーブルの端に置いていた名刺入れに手を伸ばす。逸る気持ちを押さえて、名刺を探し出す。
挨拶の時。名刺交換して、名前は確認した。けれど……役職までは、確認、していなかった。
「……主任、黒川…大輔…」
智さんは、課長代理。
黒川さんは、主任。
先ほどの会話の様子から見て。
黒川さんが先輩で……智さんが、後輩。
後輩に役職で追い抜かれて、プライドが許すはずもない、と…いうこと、だろうか。
「……さっき、知香をあの場から離した時。黒川は…知香と俺の関係を察した。俺が…失言、した」
細く切れ長の瞳が、深い後悔で揺れて。智さんの薄い唇が、苦しそうに歪んだまま。言葉が紡がれる。その表情に、私も胸を深く抉られていく。
「失言…?」
「……あん時、営業3課時代、って…言ったろ。俺は、対外的には未だ3課に所属していることになっている。黒川を欺くには今でもお世話になっている、と……口にするべきだった」
黒川さんが、智さんは私のことを知っているのか、と、問いかけた時のこと。
とても単純な、一言だったけれど。それでも、黒川さんの目には強烈な違和感として残ってしまった、ということだろう。
智さんが間に入ってくれる前に、私が話していた言葉すらも。もしかしたら……黒川さんが勘付くヒントになっていたかもしれない。そう考えると、ひどく…遣るせなく、なった。
まるで、津波のように…押し寄せては引いて、大きくなっていく後悔とともに。ぎゅう、と……唇を噛み締める。
「嫌がらせのチョコレート。アレは恐らく、黒川だ。証拠がねぇから、なんとも言えねぇが。元々、俺と黒川は折り合いが悪かったのが、今回の新部門のことで決定的になった」
バレンタインの時。紛れ込まされた、と、智さんが大きく舌打ちをした、あの朝の光景が脳裏に蘇った。すでに綺麗に治ったはずの指先が……じん、と。痛んで、熱を持ったような気がした。
智さんが赤ワインに手を伸ばして、残った全てのワインを呷っていく。私も、自分を落ち着けるように。ガッソーサに口を付けた。初めに口付けたよりも、炭酸が抜けてしまって仄かなレモンの香りだけが、喉を滑り落ちていく。
最後の一滴を口に含んで、グラスを口から離す。カラン、と、軽い音を立てて氷が音楽を奏でた。グラスに付いた水滴が、痛んで熱を持った人差し指を、ゆっくりと…冷やしてくれる。
「さっき、言ったろ……見たまんま、だって。仕事は出来ねぇけど、プライベートでは横柄だ。バレンタインの時みてぇに小賢しい嫌がらせの積み重ねであればいい。けど…あいつは、何をやらかすかわからねぇんだ。商談でも、斜め上の方向に持っていきやがる」
はぁっ、と。智さんが大きなため息をついて、視線をテーブルに落とした。食べかけのパスタは、もう、きっと…冷え切ってしまっている。
「だから…知香を、俺から離さないと。知香が、危ない。そう……思ったんだ」
智さんの、喉の奥から、身体の奥から絞り出すような声が、この個室の白い壁紙に吸収されていく。
「いつか、知香が…黒川から、刃物を向けられるかもしれない。スタンガンで痛めつけられるかもしれない。本当に、ドラマみてぇだけど……俺を憎んでいる黒川なら…………やりかねねぇんだ」
私は、やっと。『別れて欲しい』といった、智さんの真意を悟った。
「…だから……智さんは、自分の気持ちに蓋をして、そうして……私に、別れを告げて…私を、守ろうとしてくれたの……?」
私が、傷つかなくて、いいように。
私を、巻き込まなくて、いいように。
「知香の、指に…まち針が当たって、傷ついたあの紅さが。忘れられねぇ。池野課長に釘を刺されたあの日から……俺のそばに縛り付けて……いいのか、ずっと、考えてた」
いつも通りだった。私が接してきていた智さんは、いつもの、智さんだった。はずなのに。
私は、ちっとも。智さんの苦しみを、わかってあげられていなかった。
「……こんな、くだらねぇ争いに巻き込んで傷つける可能性があるかもしれねぇなら……俺以外の男と歩んで幸せになってほしかった。小林でも、片桐でも、知香が幸せならそれでいい」
「そんなことっ…」
智さんが紡いだ言葉に、思わず席から立ち上がった。哀しみに揺れるダークブラウンの瞳を見つめ返す。
勝手、すぎる。私をここまで智さんに溺れさせたのは、智さん自身なのに。それなのに、今更になって。
「…そんな、勝手なこと……言わないでよ……」
呼吸が、出来なくなっていく。
私の存在が、智さんの足枷になってしまうなら。私は潔く身を引くべきなんだろう。
智さんの真意も汲み取れず、抱えていた苦しみすらわかってあげられず。
そんな、私が……智さんのそばに、いて、いいのだろうか。
ぐるぐると急速に回りだす思考。負のイメージが延々と連鎖して。これほどまでに智さんが私に与えている影響が大きいということを、再認識した。
心が凍りつくほどの悲しみが押し寄せてくる。浅く呼吸をする。喉がひゅうひゅうと音を立てて。
ここが、レストランでよかった。自宅だったら。泣いて喚いて、我を忘れて智さんに詰め寄っていたはずだから。
智さんが絡むと、私はもうだめ。理性なんてほとんど意味をなさない。この狂おしいまでの感情を、理性で何とかしようと思う方が間違っている、と。……そう気がついた。
だって。私という存在が、智さんの足枷になるとわかっていても。それでも。
「私は……智さんのそばに、いたい……」
そばにいたいと、思ってしまうのだから。
私の、嘘、という言葉に。智さんが苛立ったように声を上げた。
ゆっくりと、顔を上げて。赤ワインのグラスから、智さんの顔に視線を向ける。目の前に……智さんの、氷のような。冷たい瞳。その視線を向けられるだけで、まるで冷凍庫に放り込まれたように、全身がゆっくりと冷えていく。
だけど。この瞳から、目を逸らしちゃいけない。
理由はわからない。でも、逸らしちゃ、いけない。
その一心で、細く、切れ長の瞳を見つめた。
じっくりと、智さんの瞳を見れば。その冷たさの奥底に……途方もない哀しさが…宿って、いる。
別れて欲しい、なんて。
智さんは、自分自身にも、嘘をついている。
智さんの思惑がどこにあるか、なんて、知らない。
(………思い通りになんか、させやしないんだから)
そう、心の中で呟いて、目の前の智さんを強く睨みつけた。
「………別れて欲しい、なんて、嘘」
「嘘じゃねぇ」
今までなかったような強く苛立った声がぶつけられる。
怖い。私に向けられるその言葉の迫力に、冷たい声色に。心に、鋭いナイフがぐさりと突き立てられていくような、そんな気がして。
でも、きっと。私のこの心の痛みよりも。
―――智さんの、心の痛みの方が、何十倍だって、痛いはずだから。
「じゃぁ。なんでワインなんか飲んでるの? なんで私の名前を呼ばないの?」
「………」
ダークブラウンの瞳がわずかに揺れた。その揺れは、ほんの僅かな動きだった。
けれど。
智さんが、私の言葉に動揺しているとわかるには、それで十分だった。
行ける。大丈夫。
そう考えて、私は言葉を立て続けに被せる。
「私が、どれだけ智さんを想ってるのか。智さんは知らない」
ぎゅ、と。私は唇を強く噛んで。智さんをふたたび睨みつけた。
「智さんが嘘をついてることくらい、すぐわかるよ」
智さんのダークブラウンの瞳に、強い光が再度宿った。その強い瞳を。私の、強い意思で、強い視線で。睨み返す。
「別れて欲しい、なんて、嘘。そうでしょ」
「嘘、じゃねぇ」
「違う。智さんは、嘘ついてる」
「嘘じゃねえって。本心から、別れて欲しいって思ってんだって」
「嘘よ」
ダンッ!! と、大きな音がする。その音に、心臓ごと全身が跳ねた。
「っ、どうして……!!」
智さんの拳で、真四角のテーブルが叩かれて。ガチャン、と、テーブルのお皿が揺れた。ガッソーサが注がれたゾンビグラスが、闘牛のように激しく踊った。炭酸の泡が、底から、側面から、大きく揺れて。一気に水面に浮かび上がる。
「どうして、俺の気持ちをわかってくれねぇんだ……」
ギリギリと。智さんが、拳を握り締めながら。私を、強い光を宿した瞳で睨みつける。
「わからないよ……嘘をつく智さんの気持ちなんて」
その瞳の強さに、私の心が挫けそうになる。じわりと世界が歪み、目の奥が、胸の奥が熱くなる。
(……ここで、泣いちゃだめ)
湧き上がる感情の波に、溺れないように。私はまた、智さんを真っ直ぐに見つめた。
「聞き分け悪すぎんだろ。俺は、別れてぇ、んだって」
智さんが呆れたような表情を浮かべた。その表情すら……演技、ってことくらい。私にはわかってるんだから。ふつふつと滾る感情を押さえつける。智さんを追い込むように、言葉を畳みかけていく。
「本当に、別れたいなら。智さんが抱えてる本当の気持ちを言ってくれたほうが割り切れる」
「だから、言ったろ。お前に興味を失ったんだっつの」
「それが嘘なのよ。別れる、って嘘を私に言う勇気を持つ前に、智さんが抱えてる本当の気持ちを私に曝け出す勇気を持って」
「っ、ほんっとに、聞き分け悪ぃ女だな……」
「下手な嘘が、いちばんタチ悪いのよ。優しさと勘違いしてるの? なにも優しくなんてない」
「だから、嘘なんかじゃねぇって。なんでここまで言ってわかんねぇんだよ」
はぁっ、と。智さんが大きく息を吐いて、頭をガシガシと搔いた。
智さんの、その様子に。私は確信を持った。
やっぱり。やっぱり、智さんは、嘘を言ってる。
「じゃぁ。なんで…」
すぅ、と。大きく息を吸って。
ダークブラウンの瞳を、強く見つめ返した。
「なんで、敬語じゃ、ないの?」
智さんが。大きく息を飲んだ。
別れたい、と、智さんが主張して。私が聞き分けが悪くて。私がそれを受け入れないこの状態を、智さんが本心から…本気で、怒っていたなら。
智さんの口調が。丁寧で、それでいて、冷酷な話し方に、変わるはずだから。
お正月に、私を拐かそうとした凌牙と相対したとき。
片桐さんが、あのエントランスで私を待っていたとき。
智さんは、本気で怒っていた。
その時の口調は―――敬語、だった。
だから。今の智さんは、本心から怒っていないし、嘘を言っている。演技、している。
私の言葉に、呆然とする智さんを睨みつけた。
「だから、言ったでしょ。……私が、どんなに、智さんを想っているのか。思い知れば、いい」
私たちの間に。重い、重い沈黙が訪れた。
ゾンビグラスの炭酸の泡が、ふわふわと水面に浮いていく様子を視界の端に捉えながら、今にも泣き出しそうな智さんを見つめていた。
「……やっぱ……知香には、適わねぇ、な」
「………」
智さんが、困ったように。それでいて、優しく。哀しそうに……笑った。ダークブラウンの瞳から、涙が、一筋零れていった。
「……なんで、嘘をついたの?」
キラリと光った涙に、その智さんの表情に。私の胸が、ぎゅう、と締め付けられていく。はぁ、と。智さんが大きなため息をついて、その角ばった親指で、目元を乱暴に拭った。
「池野課長から、釘を刺された。社内で………知香の存在を匂わせるな、と」
「釘? どうして?」
私の存在。脈絡のない話に目をぱちぱちと瞬かる。
「俺は……最年少幹部候補、だ。恨み辛みが、バレンタインの時は、俺に向けられた。けど…次があれば。今度は、もしかしたら…知香に直接、向けられるかもしれねぇんだ」
思わずひゅっと息を飲んだ。
そうだ。なぜ、そこに思い当たらなかったのか。智さんの出世を妬む人なら、あらゆる手を使って、智さんの妨害をする可能性だってある。
片桐さんが…私を手に入れようと、小林くんを揺さぶったように……智さんを引き摺りおろすために、私に接触してくる可能性だってあるのだ。
「……黒川は。俺を……引き摺り下ろそうと、している」
「………え」
黒川さん。あの、おどおどとしたような、それでいて、人の話しを聞かないような。先ほど相対した面長の細い瞳と、ねっとりとしたあの声が、脳裏に甦った。
『邨上……お前、また邪魔すんの?』
また。また、ということは、以前にも同じように…女性にしつこく絡む黒川さんを智さんが咎めたことがあった、ということだろう。
終始、苛立ったように智さんを見つめていたこと。
智さんは黒川さんに敬語を使っていたこと。
黒川さんは智さんに敬語でなかったこと。
(名刺……)
ふと思い立ち、中河さんの連絡先を追加して、そのままざっくり纏めてテーブルの端に置いていた名刺入れに手を伸ばす。逸る気持ちを押さえて、名刺を探し出す。
挨拶の時。名刺交換して、名前は確認した。けれど……役職までは、確認、していなかった。
「……主任、黒川…大輔…」
智さんは、課長代理。
黒川さんは、主任。
先ほどの会話の様子から見て。
黒川さんが先輩で……智さんが、後輩。
後輩に役職で追い抜かれて、プライドが許すはずもない、と…いうこと、だろうか。
「……さっき、知香をあの場から離した時。黒川は…知香と俺の関係を察した。俺が…失言、した」
細く切れ長の瞳が、深い後悔で揺れて。智さんの薄い唇が、苦しそうに歪んだまま。言葉が紡がれる。その表情に、私も胸を深く抉られていく。
「失言…?」
「……あん時、営業3課時代、って…言ったろ。俺は、対外的には未だ3課に所属していることになっている。黒川を欺くには今でもお世話になっている、と……口にするべきだった」
黒川さんが、智さんは私のことを知っているのか、と、問いかけた時のこと。
とても単純な、一言だったけれど。それでも、黒川さんの目には強烈な違和感として残ってしまった、ということだろう。
智さんが間に入ってくれる前に、私が話していた言葉すらも。もしかしたら……黒川さんが勘付くヒントになっていたかもしれない。そう考えると、ひどく…遣るせなく、なった。
まるで、津波のように…押し寄せては引いて、大きくなっていく後悔とともに。ぎゅう、と……唇を噛み締める。
「嫌がらせのチョコレート。アレは恐らく、黒川だ。証拠がねぇから、なんとも言えねぇが。元々、俺と黒川は折り合いが悪かったのが、今回の新部門のことで決定的になった」
バレンタインの時。紛れ込まされた、と、智さんが大きく舌打ちをした、あの朝の光景が脳裏に蘇った。すでに綺麗に治ったはずの指先が……じん、と。痛んで、熱を持ったような気がした。
智さんが赤ワインに手を伸ばして、残った全てのワインを呷っていく。私も、自分を落ち着けるように。ガッソーサに口を付けた。初めに口付けたよりも、炭酸が抜けてしまって仄かなレモンの香りだけが、喉を滑り落ちていく。
最後の一滴を口に含んで、グラスを口から離す。カラン、と、軽い音を立てて氷が音楽を奏でた。グラスに付いた水滴が、痛んで熱を持った人差し指を、ゆっくりと…冷やしてくれる。
「さっき、言ったろ……見たまんま、だって。仕事は出来ねぇけど、プライベートでは横柄だ。バレンタインの時みてぇに小賢しい嫌がらせの積み重ねであればいい。けど…あいつは、何をやらかすかわからねぇんだ。商談でも、斜め上の方向に持っていきやがる」
はぁっ、と。智さんが大きなため息をついて、視線をテーブルに落とした。食べかけのパスタは、もう、きっと…冷え切ってしまっている。
「だから…知香を、俺から離さないと。知香が、危ない。そう……思ったんだ」
智さんの、喉の奥から、身体の奥から絞り出すような声が、この個室の白い壁紙に吸収されていく。
「いつか、知香が…黒川から、刃物を向けられるかもしれない。スタンガンで痛めつけられるかもしれない。本当に、ドラマみてぇだけど……俺を憎んでいる黒川なら…………やりかねねぇんだ」
私は、やっと。『別れて欲しい』といった、智さんの真意を悟った。
「…だから……智さんは、自分の気持ちに蓋をして、そうして……私に、別れを告げて…私を、守ろうとしてくれたの……?」
私が、傷つかなくて、いいように。
私を、巻き込まなくて、いいように。
「知香の、指に…まち針が当たって、傷ついたあの紅さが。忘れられねぇ。池野課長に釘を刺されたあの日から……俺のそばに縛り付けて……いいのか、ずっと、考えてた」
いつも通りだった。私が接してきていた智さんは、いつもの、智さんだった。はずなのに。
私は、ちっとも。智さんの苦しみを、わかってあげられていなかった。
「……こんな、くだらねぇ争いに巻き込んで傷つける可能性があるかもしれねぇなら……俺以外の男と歩んで幸せになってほしかった。小林でも、片桐でも、知香が幸せならそれでいい」
「そんなことっ…」
智さんが紡いだ言葉に、思わず席から立ち上がった。哀しみに揺れるダークブラウンの瞳を見つめ返す。
勝手、すぎる。私をここまで智さんに溺れさせたのは、智さん自身なのに。それなのに、今更になって。
「…そんな、勝手なこと……言わないでよ……」
呼吸が、出来なくなっていく。
私の存在が、智さんの足枷になってしまうなら。私は潔く身を引くべきなんだろう。
智さんの真意も汲み取れず、抱えていた苦しみすらわかってあげられず。
そんな、私が……智さんのそばに、いて、いいのだろうか。
ぐるぐると急速に回りだす思考。負のイメージが延々と連鎖して。これほどまでに智さんが私に与えている影響が大きいということを、再認識した。
心が凍りつくほどの悲しみが押し寄せてくる。浅く呼吸をする。喉がひゅうひゅうと音を立てて。
ここが、レストランでよかった。自宅だったら。泣いて喚いて、我を忘れて智さんに詰め寄っていたはずだから。
智さんが絡むと、私はもうだめ。理性なんてほとんど意味をなさない。この狂おしいまでの感情を、理性で何とかしようと思う方が間違っている、と。……そう気がついた。
だって。私という存在が、智さんの足枷になるとわかっていても。それでも。
「私は……智さんのそばに、いたい……」
そばにいたいと、思ってしまうのだから。
0
お気に入りに追加
1,544
あなたにおすすめの小説
ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる
Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした
ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。
でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。
彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。

魔性の大公の甘く淫らな執愛の檻に囚われて
アマイ
恋愛
優れた癒しの力を持つ家系に生まれながら、伯爵家当主であるクロエにはその力が発現しなかった。しかし血筋を絶やしたくない皇帝の意向により、クロエは早急に後継を作らねばならなくなった。相手を求め渋々参加した夜会で、クロエは謎めいた美貌の男・ルアと出会う。
二人は契約を交わし、割り切った体の関係を結ぶのだが――
お見合いから始まる冷徹社長からの甘い執愛 〜政略結婚なのに毎日熱烈に追いかけられてます〜
Adria
恋愛
仕事ばかりをしている娘の将来を案じた両親に泣かれて、うっかり頷いてしまった瑞希はお見合いに行かなければならなくなった。
渋々お見合いの席に行くと、そこにいたのは瑞希の勤め先の社長だった!?
合理的で無駄が嫌いという噂がある冷徹社長を前にして、瑞希は「冗談じゃない!」と、その場から逃亡――
だが、ひょんなことから彼に瑞希が自社の社員であることがバレてしまうと、彼は結婚前提の同棲を迫ってくる。
「君の未来をくれないか?」と求愛してくる彼の強引さに翻弄されながらも、瑞希は次第に溺れていき……
《エブリスタ、ムーン、ベリカフェにも投稿しています》
あいにくですが、エリート御曹司の蜜愛はお断りいたします。
汐埼ゆたか
恋愛
旧題:あいにくですが、エリート御曹司の蜜愛はお受けいたしかねます。
※現在公開の後半部分は、書籍化前のサイト連載版となっております。
書籍とは設定が異なる部分がありますので、あらかじめご了承ください。
―――――――――――――――――――
ひょんなことから旅行中の学生くんと知り合ったわたし。全然そんなつもりじゃなかったのに、なぜだか一夜を共に……。
傷心中の年下を喰っちゃうなんていい大人のすることじゃない。せめてもの罪滅ぼしと、三日間限定で家に置いてあげた。
―――なのに!
その正体は、ななな、なんと!グループ親会社の役員!しかも御曹司だと!?
恋を諦めたアラサーモブ子と、あふれる愛を注ぎたくて堪らない年下御曹司の溺愛攻防戦☆
「馬鹿だと思うよ自分でも。―――それでもあなたが欲しいんだ」
*・゚♡★♡゚・*:.。奨励賞ありがとうございます 。.:*・゚♡★♡゚・*
▶Attention
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
独占欲強めな極上エリートに甘く抱き尽くされました
紡木さぼ
恋愛
旧題:婚約破棄されたワケアリ物件だと思っていた会社の先輩が、実は超優良物件でどろどろに溺愛されてしまう社畜の話
平凡な社畜OLの藤井由奈(ふじいゆな)が残業に勤しんでいると、5年付き合った婚約者と破談になったとの噂があるハイスペ先輩柚木紘人(ゆのきひろと)に声をかけられた。
サシ飲みを経て「会社の先輩後輩」から「飲み仲間」へと昇格し、飲み会中に甘い空気が漂い始める。
恋愛がご無沙汰だった由奈は次第に紘人に心惹かれていき、紘人もまた由奈を可愛がっているようで……
元カノとはどうして別れたの?社内恋愛は面倒?紘人は私のことどう思ってる?
社会人ならではのじれったい片思いの果てに晴れて恋人同士になった2人。
「俺、めちゃくちゃ独占欲強いし、ずっと由奈のこと抱き尽くしたいって思ってた」
ハイスペなのは仕事だけではなく、彼のお家で、オフィスで、旅行先で、どろどろに愛されてしまう。
仕事中はあんなに冷静なのに、由奈のことになると少し甘えん坊になってしまう、紘人とらぶらぶ、元カノの登場でハラハラ。
ざまぁ相手は紘人の元カノです。
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。