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本編・第二部
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地図アプリが高い音を鳴らした。もうすぐ到着します、と知らせてくれる。
「……ここ、かな」
周りをキョロキョロと見渡すも、智さんの姿は無くて。先に入っていていいのかしら。
外壁は石畳。入口の扉は黒で、ダイヤ形のガラスがはめ込まれている。小さな段差の脇に木が植えてあって、その足元から照明に照らされて。外壁の石畳に木の形の影が落ちている。段差を上りあがって、チリン、と可愛い音を立てて扉を開けた。
お店の中は天井が高かった。内壁は打ちっぱなしのコンクリートに、蔦が這わされたようなペイントが所々にある。高い天井から吊り下がる照明がガラス瓶のようなカバーや、ステンドグラスのようなカバーで覆われていて。キラキラと眩く煌めいていた。
まぁるいテーブルに、四角のテーブルが混在して。左手にキッチンが見えるカウンター席もあった。カウンター席の頭上には、たくさんのワイングラスが吊り下がっている。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
水色のエプロンをした店員さんが、優しく微笑んで私に声をかけてきた。
「あの、待ち合わせで。2名です」
「……失礼ですが、邨上様のお連れ様でしょうか」
その言葉に、智さんがもうここに来ていることを認識する。
「あ、はい、そうです」
「すでにお着きですから、ご案内いたしますね」
ふたたび、にこり、と。店員さんに微笑まれて、店内奥に案内される。
店員さんの後ろを着いていくと、そこは個室に繋がるであろう扉だった。入口と同じような黒い扉が、きぃ、と、蝶番が軋む音を立てて開かれる。
そこは、さきほどの店内とは雰囲気が少し違った。白の内壁に、ダイヤ形の黒いペイントが点在している。こぢんまりとした空間の真ん中に、黒い真四角のテーブルと、同色の肘掛がついた椅子。
その向こう側で、智さんが難しい顔でスマホを触っていた。
「智、さん。遅くなってごめん」
私の声に、智さんが緩慢な動作でスマホから顔を上げた。その瞳は、やっぱりさっき見た複雑な感情が宿ったままで。胸が、チクリと痛む。
店員さんが入口側の椅子を引いて、私に座るように促してくれる。
「いや、俺が早かったから。……色々すまない」
「……ううん。さっきは、助けてくれてありがとう」
椅子に座り、荷物を足元に置いて。目の前の智さんを見据えた。
「……ん」
ふぃ、と。智さんに視線を外される。その仕草に、少しだけ違和感を感じた。
(……まぁ…ちょっと、気落ちしてるのかもね…)
私が、苗字を呼んだから。敬語を使ったから。取引先同士の恋愛、ということをわかっているから、黒川さんの前でお互いにそういう対応になった。
けれど、それを簡単に飲み込めるほど、私たちは軽い気持ちで付き合っているわけじゃない。私も……内心、落ち込んでいるから。
「ご注文がお決まりでしたらブザーでお声かけください」
店員さんがそう告げて、退出する。きぃ、と、また蝶番が軋む音がした。
何とも言えない沈黙が訪れる。智さんが、すっとテーブル脇のメニュー表を開いてくれた。メニューをざっと見ると、地中海料理がメインのようだった。
「どーする?」
智さんが、メニューを広げながら私に問いかける。
「ん……このパスタが気になる」
私が指差したのは、海老とアボガドのジェノベーゼパスタ。アボガドはむくみ解消に効果がある、と、聞いたことがある。今日は1日中挨拶回りで脚を酷使したから、きっと明日には脚がむくんでいるはずだろう。少しでもむくみが軽減されるような食べ物が食べたかった。
「俺は……これにすっかな」
智さんは生ハムとトマトとモッツァレラチーズが乗ったパスタを指差している。トマトソースの鮮やかな色味が食欲をそそる。
そっちも美味しそうだな。ひと口……わけて貰おうかしら。そんなことをぼんやり考えていると、智さんがメニュー表をドリンクの欄まで捲って。
「飲み物は? 俺、ガッソーサ」
「ガッソーサ?」
聞きなれない言葉を、思わずオウムのように聞き返してしまった。
「イタリアのメーカーが出している炭酸水。柑橘類の瑞々しさが特徴。ただの炭酸水よりは飲みやすい」
炭酸水だけど、柑橘類の瑞々しさがある、なんて。興味が唆られちゃう。
「ん~….じゃ、私もそれ」
ブザーを鳴らすと、すぐに店員さんが注文を取りに来てくれる。注文を復唱する店員さんの声をぼうっと聞いていた。店員さんが退出して、智さんがスマホに目を落とした。再び、無言の空間が広がる。
なんとなく居た堪れなくなって、私もスマホを手に取った。そういえば…中河さんから、連絡して、って言われたんだった。鞄から名刺ケースを取り出して、中河さんの名刺を探し出し、連絡先を打ち込んだ。すぐにメッセージアプリの友達に追加される。今日はありがとう、とメッセージを送ろうとすると。
「……今日は、3課の応援に行って残業だった」
智さんが、ぽつりと呟いた。その声に私はスマホから視線を外して目の前の智さんを見つめた。
「そっか。私は、4月からの組織改編で1日中挨拶回りだったから、日中の書類が溜まってて。それで残業だったの」
「……そ」
「……うん」
再び、沈黙が訪れた。お互いに……公に出来ない私たちの関係のことを、考えてしまっているのだと思う。
仕方ない、と…簡単に割り切れたらいいのに。
お待たせしました、という声が響いて、料理と飲み物が運ばれる。智さんが、退出する店員さんを呼び止めた。
「すみません。追加で赤ひとつ」
追加注文をしていくその様子を、ぼうっと眺める。
ガッソーサが注がれたグラスを持ち上げ、智さんのグラスと軽く合わせた。口をつけると、すっきりしたレモン風味の炭酸が喉を滑り降りていく。
「美味しい」
「……」
初めてガッソーサに口をつけた私の感想にすら、智さんは、無反応。少しくらい…会話してくれても、いいのに。
強烈な淋しさを感じて、それを振り払うようにカトラリーに手を伸ばす。ゆっくりと、フォークにパスタを絡めて、口にもっていく。
「……今日。うちの、農産チームに挨拶してたんだな」
ぽつり、と。智さんが言葉を発した。
「うん……それで、黒川さんと…名刺交換したの」
「……黒川、と、ね……」
ほう、と。智さんが、大きくため息をついた。こぢんまりした個室に、カチャカチャとカラトリーの音が響く。
そうだ。黒川さんの人となりを、智さんに聞こうと思っていたんだった。智さんと同じ会社の人の話だから、きっと、いつものように会話が続いていくはず。この居心地の悪い無言の時間を、打破できるはず。そう思って、カトラリーを一旦置いて智さんを向いた。
「名刺交換の時は思わなかったけど、さっきはすごく嫌な人だった。普段は、どういうひと?」
「……見たまんま、だ」
見たまんま、の人。きっと、私の直感が正しかった、ということだろう。仕事では、気弱だけれど。プライベートでは、オラオラ系の……大勢の人から好まれないタイプの人、ということだろう。
「……そっか」
そう答えると、再び個室のドアがノックされ、先ほど智さんが注文したグラスを店員さんがカタリと置いていく。
私はカトラリーを再度手に取って、フォークにパスタを絡めていく。アボガドの独特の食感が口の中に残る。
店員さんの水色のエプロンが翻って、ぎぃ、と蝶番が音を立てて個室の扉が閉まる。その様子を、智さんが目線で追っていた。
智さんが目の前に置かれたグラスを半分まで一気に呷って。
そして。
「すまない。別れて欲しい」
智さんの。ぞっとするような、冷たい声が、響いた。
意味が、わからなかった。
脳が、その言葉を理解することを拒否している。
呆然と、目の前の智さんを見つめる。
「……俺は実家に帰るから。あの家にしばらくいるといい。引っ越し先が決まったら連絡して。ああ、家電も持っていくなら持って行っていいから。この前俺が処分させたんだしな。それくらいは許容する」
まるで、別れることが決定事項のように。智さんが冷たい目をしたまま、つらつらと言葉を紡いでいく。
「金銭面、援助する。引っ越し代、敷金、そのほか諸々も、な。俺が出張に行っている間にいろいろ整理しておいてくれ。そうだな、ゴールデンウィークくらいには」
「ちょ……ちょっと、待って。なんで…そうなるの?」
急展開すぎる。頭がクラクラする。思わずカトラリーを全てテーブルに置いて、目の前の智さんを見つめた。
冷たい、感情の見えない……ダークブラウンの瞳と、視線が交差する。その瞳を向けられている、ということが…とても哀しくて。声が震えた。
「智さんが……どうして、そういう結論になったのか、わからない」
「わかんだろ? 取引先同士だから。公にできない関係に疲れた」
「っ」
目の前の智さんが。私に興味を失ったように。心底、つまらなさそうに。それでいて、冷酷に…私にナイフを突きつけるような、目線で。言葉を紡いでいく。
取引先同士の恋愛だから。
智さんが新部門を任されているからこそ、機密情報が漏れているかもしれない、と……痛くも無い腹を探られる可能性だってあるわけで。
私は、ちゃんとわかっている。しっかりわかっているのだ。智さんが置かれた立場的に、私のことを公に出来ない関係、ということを。
私のことが嫌いになったのなら。まだ、納得できた。でも……でも。
「そんな理由…納得、できないよ………」
涙が滲んだ。智さんの姿がブレていく。
「お前が納得できなくても俺が疲れた。疲れて情が無くなった。疲れたら、お前に興味がなくなった。それだけ」
お前。初めて、そう呼ばれた。
私を逃がさないって言ったくせに。
私の命が尽きるその最期まで…責任、取ってくれるって、言ったくせに。
(嘘、つき…)
この3ヶ月、嘘ばかり言われていた。そのことに、目の前が暗くなっていく。
冷たい智さんの視線に耐えられなくなって、智さんが握っている赤ワインのグラスに目線を落とした。
(……………え?)
赤、ワイン。普段、呑まないひと、なのに。ぐわり、と。思考放棄しそうなほど沈みかかった意識が上昇する。
『俺、別に呑めねぇわけじゃねぇんだ。呑みたいと思わないだけで』
引っ越した日。そんな風に言われながら、リビングで抱かれたことを思い出す。燦燦と降り注ぐ真昼の光の中で、智さんの汗が、私にポタリ、と、落ちてきたあの光景が脳裏をよぎった。
呑みたいと思わないだけ。では、よっぽどのことがあれば、呑む、ということだろう。
よっぽどのこと。私に別れを告げる後押しのために、今日は吞んでいる、ということなのだろうか。
いや、でも。俺が疲れた、情が無くなった、と言っていた。情が無くなったのなら、私に別れを告げるのに後押しなんていらないだろう。情がない、私への興味を失った、のなら。
……私に別れを告げることすら、なんとも思わないだろうから。
なんか、おかしい。
智さんの今までの言葉と、さっきの言葉が。
矛盾、してる。
なにかが………掴めそう。
ゆっくり息を吸って、吐いて。脳に酸素を必死で送りながら、頭をフル回転させる。
さっきから。私の名前を……一度も、呼んでいない。些細な事だって、知香、と名前を呼んでから、言葉を紡いで、会話を交わしてくれる、智さんが。
さっきから、一度も。私の、名前を……呼んで、いない。
それは、きっと。名前を呼んだら。
―――嘘をつく決意が揺らぐから。
(……うそ、つき)
そう。智さんが。別れて欲しい、といった、その言葉が。
「……嘘」
嘘、なんだ。
「……ここ、かな」
周りをキョロキョロと見渡すも、智さんの姿は無くて。先に入っていていいのかしら。
外壁は石畳。入口の扉は黒で、ダイヤ形のガラスがはめ込まれている。小さな段差の脇に木が植えてあって、その足元から照明に照らされて。外壁の石畳に木の形の影が落ちている。段差を上りあがって、チリン、と可愛い音を立てて扉を開けた。
お店の中は天井が高かった。内壁は打ちっぱなしのコンクリートに、蔦が這わされたようなペイントが所々にある。高い天井から吊り下がる照明がガラス瓶のようなカバーや、ステンドグラスのようなカバーで覆われていて。キラキラと眩く煌めいていた。
まぁるいテーブルに、四角のテーブルが混在して。左手にキッチンが見えるカウンター席もあった。カウンター席の頭上には、たくさんのワイングラスが吊り下がっている。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
水色のエプロンをした店員さんが、優しく微笑んで私に声をかけてきた。
「あの、待ち合わせで。2名です」
「……失礼ですが、邨上様のお連れ様でしょうか」
その言葉に、智さんがもうここに来ていることを認識する。
「あ、はい、そうです」
「すでにお着きですから、ご案内いたしますね」
ふたたび、にこり、と。店員さんに微笑まれて、店内奥に案内される。
店員さんの後ろを着いていくと、そこは個室に繋がるであろう扉だった。入口と同じような黒い扉が、きぃ、と、蝶番が軋む音を立てて開かれる。
そこは、さきほどの店内とは雰囲気が少し違った。白の内壁に、ダイヤ形の黒いペイントが点在している。こぢんまりとした空間の真ん中に、黒い真四角のテーブルと、同色の肘掛がついた椅子。
その向こう側で、智さんが難しい顔でスマホを触っていた。
「智、さん。遅くなってごめん」
私の声に、智さんが緩慢な動作でスマホから顔を上げた。その瞳は、やっぱりさっき見た複雑な感情が宿ったままで。胸が、チクリと痛む。
店員さんが入口側の椅子を引いて、私に座るように促してくれる。
「いや、俺が早かったから。……色々すまない」
「……ううん。さっきは、助けてくれてありがとう」
椅子に座り、荷物を足元に置いて。目の前の智さんを見据えた。
「……ん」
ふぃ、と。智さんに視線を外される。その仕草に、少しだけ違和感を感じた。
(……まぁ…ちょっと、気落ちしてるのかもね…)
私が、苗字を呼んだから。敬語を使ったから。取引先同士の恋愛、ということをわかっているから、黒川さんの前でお互いにそういう対応になった。
けれど、それを簡単に飲み込めるほど、私たちは軽い気持ちで付き合っているわけじゃない。私も……内心、落ち込んでいるから。
「ご注文がお決まりでしたらブザーでお声かけください」
店員さんがそう告げて、退出する。きぃ、と、また蝶番が軋む音がした。
何とも言えない沈黙が訪れる。智さんが、すっとテーブル脇のメニュー表を開いてくれた。メニューをざっと見ると、地中海料理がメインのようだった。
「どーする?」
智さんが、メニューを広げながら私に問いかける。
「ん……このパスタが気になる」
私が指差したのは、海老とアボガドのジェノベーゼパスタ。アボガドはむくみ解消に効果がある、と、聞いたことがある。今日は1日中挨拶回りで脚を酷使したから、きっと明日には脚がむくんでいるはずだろう。少しでもむくみが軽減されるような食べ物が食べたかった。
「俺は……これにすっかな」
智さんは生ハムとトマトとモッツァレラチーズが乗ったパスタを指差している。トマトソースの鮮やかな色味が食欲をそそる。
そっちも美味しそうだな。ひと口……わけて貰おうかしら。そんなことをぼんやり考えていると、智さんがメニュー表をドリンクの欄まで捲って。
「飲み物は? 俺、ガッソーサ」
「ガッソーサ?」
聞きなれない言葉を、思わずオウムのように聞き返してしまった。
「イタリアのメーカーが出している炭酸水。柑橘類の瑞々しさが特徴。ただの炭酸水よりは飲みやすい」
炭酸水だけど、柑橘類の瑞々しさがある、なんて。興味が唆られちゃう。
「ん~….じゃ、私もそれ」
ブザーを鳴らすと、すぐに店員さんが注文を取りに来てくれる。注文を復唱する店員さんの声をぼうっと聞いていた。店員さんが退出して、智さんがスマホに目を落とした。再び、無言の空間が広がる。
なんとなく居た堪れなくなって、私もスマホを手に取った。そういえば…中河さんから、連絡して、って言われたんだった。鞄から名刺ケースを取り出して、中河さんの名刺を探し出し、連絡先を打ち込んだ。すぐにメッセージアプリの友達に追加される。今日はありがとう、とメッセージを送ろうとすると。
「……今日は、3課の応援に行って残業だった」
智さんが、ぽつりと呟いた。その声に私はスマホから視線を外して目の前の智さんを見つめた。
「そっか。私は、4月からの組織改編で1日中挨拶回りだったから、日中の書類が溜まってて。それで残業だったの」
「……そ」
「……うん」
再び、沈黙が訪れた。お互いに……公に出来ない私たちの関係のことを、考えてしまっているのだと思う。
仕方ない、と…簡単に割り切れたらいいのに。
お待たせしました、という声が響いて、料理と飲み物が運ばれる。智さんが、退出する店員さんを呼び止めた。
「すみません。追加で赤ひとつ」
追加注文をしていくその様子を、ぼうっと眺める。
ガッソーサが注がれたグラスを持ち上げ、智さんのグラスと軽く合わせた。口をつけると、すっきりしたレモン風味の炭酸が喉を滑り降りていく。
「美味しい」
「……」
初めてガッソーサに口をつけた私の感想にすら、智さんは、無反応。少しくらい…会話してくれても、いいのに。
強烈な淋しさを感じて、それを振り払うようにカトラリーに手を伸ばす。ゆっくりと、フォークにパスタを絡めて、口にもっていく。
「……今日。うちの、農産チームに挨拶してたんだな」
ぽつり、と。智さんが言葉を発した。
「うん……それで、黒川さんと…名刺交換したの」
「……黒川、と、ね……」
ほう、と。智さんが、大きくため息をついた。こぢんまりした個室に、カチャカチャとカラトリーの音が響く。
そうだ。黒川さんの人となりを、智さんに聞こうと思っていたんだった。智さんと同じ会社の人の話だから、きっと、いつものように会話が続いていくはず。この居心地の悪い無言の時間を、打破できるはず。そう思って、カトラリーを一旦置いて智さんを向いた。
「名刺交換の時は思わなかったけど、さっきはすごく嫌な人だった。普段は、どういうひと?」
「……見たまんま、だ」
見たまんま、の人。きっと、私の直感が正しかった、ということだろう。仕事では、気弱だけれど。プライベートでは、オラオラ系の……大勢の人から好まれないタイプの人、ということだろう。
「……そっか」
そう答えると、再び個室のドアがノックされ、先ほど智さんが注文したグラスを店員さんがカタリと置いていく。
私はカトラリーを再度手に取って、フォークにパスタを絡めていく。アボガドの独特の食感が口の中に残る。
店員さんの水色のエプロンが翻って、ぎぃ、と蝶番が音を立てて個室の扉が閉まる。その様子を、智さんが目線で追っていた。
智さんが目の前に置かれたグラスを半分まで一気に呷って。
そして。
「すまない。別れて欲しい」
智さんの。ぞっとするような、冷たい声が、響いた。
意味が、わからなかった。
脳が、その言葉を理解することを拒否している。
呆然と、目の前の智さんを見つめる。
「……俺は実家に帰るから。あの家にしばらくいるといい。引っ越し先が決まったら連絡して。ああ、家電も持っていくなら持って行っていいから。この前俺が処分させたんだしな。それくらいは許容する」
まるで、別れることが決定事項のように。智さんが冷たい目をしたまま、つらつらと言葉を紡いでいく。
「金銭面、援助する。引っ越し代、敷金、そのほか諸々も、な。俺が出張に行っている間にいろいろ整理しておいてくれ。そうだな、ゴールデンウィークくらいには」
「ちょ……ちょっと、待って。なんで…そうなるの?」
急展開すぎる。頭がクラクラする。思わずカトラリーを全てテーブルに置いて、目の前の智さんを見つめた。
冷たい、感情の見えない……ダークブラウンの瞳と、視線が交差する。その瞳を向けられている、ということが…とても哀しくて。声が震えた。
「智さんが……どうして、そういう結論になったのか、わからない」
「わかんだろ? 取引先同士だから。公にできない関係に疲れた」
「っ」
目の前の智さんが。私に興味を失ったように。心底、つまらなさそうに。それでいて、冷酷に…私にナイフを突きつけるような、目線で。言葉を紡いでいく。
取引先同士の恋愛だから。
智さんが新部門を任されているからこそ、機密情報が漏れているかもしれない、と……痛くも無い腹を探られる可能性だってあるわけで。
私は、ちゃんとわかっている。しっかりわかっているのだ。智さんが置かれた立場的に、私のことを公に出来ない関係、ということを。
私のことが嫌いになったのなら。まだ、納得できた。でも……でも。
「そんな理由…納得、できないよ………」
涙が滲んだ。智さんの姿がブレていく。
「お前が納得できなくても俺が疲れた。疲れて情が無くなった。疲れたら、お前に興味がなくなった。それだけ」
お前。初めて、そう呼ばれた。
私を逃がさないって言ったくせに。
私の命が尽きるその最期まで…責任、取ってくれるって、言ったくせに。
(嘘、つき…)
この3ヶ月、嘘ばかり言われていた。そのことに、目の前が暗くなっていく。
冷たい智さんの視線に耐えられなくなって、智さんが握っている赤ワインのグラスに目線を落とした。
(……………え?)
赤、ワイン。普段、呑まないひと、なのに。ぐわり、と。思考放棄しそうなほど沈みかかった意識が上昇する。
『俺、別に呑めねぇわけじゃねぇんだ。呑みたいと思わないだけで』
引っ越した日。そんな風に言われながら、リビングで抱かれたことを思い出す。燦燦と降り注ぐ真昼の光の中で、智さんの汗が、私にポタリ、と、落ちてきたあの光景が脳裏をよぎった。
呑みたいと思わないだけ。では、よっぽどのことがあれば、呑む、ということだろう。
よっぽどのこと。私に別れを告げる後押しのために、今日は吞んでいる、ということなのだろうか。
いや、でも。俺が疲れた、情が無くなった、と言っていた。情が無くなったのなら、私に別れを告げるのに後押しなんていらないだろう。情がない、私への興味を失った、のなら。
……私に別れを告げることすら、なんとも思わないだろうから。
なんか、おかしい。
智さんの今までの言葉と、さっきの言葉が。
矛盾、してる。
なにかが………掴めそう。
ゆっくり息を吸って、吐いて。脳に酸素を必死で送りながら、頭をフル回転させる。
さっきから。私の名前を……一度も、呼んでいない。些細な事だって、知香、と名前を呼んでから、言葉を紡いで、会話を交わしてくれる、智さんが。
さっきから、一度も。私の、名前を……呼んで、いない。
それは、きっと。名前を呼んだら。
―――嘘をつく決意が揺らぐから。
(……うそ、つき)
そう。智さんが。別れて欲しい、といった、その言葉が。
「……嘘」
嘘、なんだ。
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