俺様エリートは独占欲全開で愛と快楽に溺れさせる

春宮ともみ

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本編・第二部

98 余韻に浸っていても、許されるだろうか。

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 気まずい空気が流れる。

「…こっちの箱、おろして」
「……」

 三木さんが指差した箱に手をかけてゆっくりとおろす。

 今日は三木さんとふたりで、トランクルームに置いている書類の整理に来た。もうすぐ決算期が切り替わる。

 企業である以上、帳票などは法令で定められた期間保存しておかなければならない。来期に廃棄できる書類を一時的に纏め、今期分の書類が収納できるように、2月の月次処理が終わったらこのトランクルームの整理を行うのが通例なのだそうだ。

 2月の月次処理を昨日終えて、今朝の朝礼で……時間があるうちに行ってこいと田邉部長から指示された。

 本当なら、俺の教育係だった一瀬さんとふたりで来る予定だった。俺はこのトランクルームの整理は初めて経験するから。けれど、今日は4月の組織改編の挨拶まわりで一瀬さんが不在。だから指導役に、三木さんが抜擢された、という形だ。

 片桐も連れてくる予定だったが、母親の容体がよくないということで早々に退社してしまった。だから、三木さんとふたりきり。

(逆に…ふたりきりで、良かったのかもしれない)

 三木さんとの関係が、片桐に見抜かれているとは思っていなかった。

 ……ここに片桐がいたら。三木さんにも、あの残業の時のように…強い揺さぶりをかけられていた、かもしれない。

 一瀬さんとふたりきり、というのも。耐えられる気がしない。三木さんに被せてしまっている、という事実を。あのフロアでなら、隠すことはできる。けれど…一瀬さんとこうしてふたりきりになってしまえば、後ろめたい事実を隠すことすらできなくなりそうだった。

 その上、その事実を盾に……片桐と、することになったことも、それに拍車をかけるような気がして。

 そう考えるなら。三木さんとふたりきりで、よかったのだ。そう自分に言い聞かせる。

「……今日は、実家に帰らなきゃいけないの」

 俺がおろした箱を開けながら、ぽつり、と。三木さんが呟く。

「……」

 今日は。3月3日…。おそらく、実家に帰るから、ということだろう。なんと返答してよいのかもわからなかった。

 水野課長代理との飲みの席のあとも。ズルズルと、三木さんとの関係は続いている。片桐にも…あの蛇のような冷たい目で『どちらかが一歩を踏み出さなければ』と言われた。



 でも……俺も、三木さんも。この関係が、傷の舐めあいだとわかっているから。わかっているからこそ…その一歩を、踏み出せずにいる。



 俺たちは黙々と、リストアップされた資料を探す。

 通関業務ではほとんどの資料を税関に提出している。通関の許可を受けた後に荷主からの問い合わせや不備があった場合に、税関から提出書類の貸し出しを受けることなく即座に回答できるように、細かく纏めてファイリングすることが望ましい。

「……三木さん。一昨年のコンテナ受取書EIRの綴りが昨年の保存箱の中に入っているようですが」
「……きっと去年の私が先輩と作業していて間違って入れているのね。一昨年の箱に仕舞っておいてちょうだい」
「了解です」

 お互いに、顔を合わせることなく。こんな関係で、こんな状況で。雑談なんて、できるはずもない。黙々と、ただただ、ひたすらに指示された作業を進めていく。

 三木さんが唐突に立ち上がり、背伸びして三段目の棚に手を伸ばす。横目で彼女の行動を追った。あと少しで三木さんの手が届くというところで、三木さんがバランスを崩して―――

「っ」

 弾かれたようにその場から立ち上がり、腕を伸ばして。向こう側に倒れそうになる三木さんを抱き留める。

 ふわりと。一瀬さんとは違う華やかな馨りが漂った。華奢な背中に、俺の腕が密着している。目の前に、ブラックのアイライナーに彩られた勝気な瞳があって。その瞳が…感情が読めない光で、揺れている。

 ふっくらとした赤い唇。小鼻の右横に、ちいさなホクロがあった。

 いつも、背中からしか、抱かないから。正面から、三木さんの顔をまじまじと見る機会なんてなくて。


 ぞくり、と。背筋がで、震えた。


(っ、やばい)

 なにがやばいかなんて、わからなかった。ドクドクと心臓が跳ねる。三木さんの身体のバランスがゆっくりと元に戻るのを確認して、咄嗟に伸ばした自分の腕を勢いよく引いた。

「す、みません。つい」
「……」

 三木さんが気まずそうにしながら俺から視線を外した。

 俺たちの距離が離れていく。俺は、跳ねた心臓を必死で宥め、元の位置に戻って書類に目を落とした。






 終業時刻が迫る。トランクルームの整理を終えて、社用車の運転席に乗り込もうとする三木さんを呼び止めた。

「道は覚えていますから。俺が運転します」
「……そ。じゃ、よろしく」

 行きは、トランクルームの場所がわからないだろうから、と、三木さんが運転した。後輩として。男として。女性に運転させるのは、なんとなく後味が悪いから。代わります、と口にして、鍵を受け取った。

 あと少しで社用車を停めている地下駐車場に着く、というところで。

「………あんた、煙草、やめたの」

 唐突に、三木さんの赤い唇が動いた。心臓ごと全身がびくりと跳ねる。

 三木さんと万が一にでも喫煙ルームで遭遇したくないから。そういう理由でやめたことなんて、きっとこの人には……お見通しだろう。

「……やめました」

「……そう」

 だって。
 俺が一瀬さんに想いを寄せていたこと。
 俺が一瀬さんのために、偽りの言葉を吐いたこと。





 全て、三木さんには、お見通しだったのだから。





 駐車場に入り、ギアをリバースに入れて、車を定位置に停めていく。無言の空間が続いた。

(やっぱり、ふたりきりになんか、なりたくなかった)

 グラグラと心が揺れる。いつか、けじめをつけなければならなくなる瞬間がくる。それまでにこの関係に終止符を打たなければ、ならないのに。



 ……いつまで、こうして。ズルズルと、色んな想いを引き摺っていくのだろう。



 サイドブレーキを引くと、独特のギアが噛みあう音がして。エンジンを切った。三木さんがシートベルトを外して、助手席から降りる。カツン、と。ヒールの音が、地下駐車場に響いた。

 ほう、と。三木さんに気が付かれないように軽くため息をついて、俺もシートベルトを外した。鍵と財布を手にしながら、運転席から降りる。

 ゆっくりと三木さんと一緒にエレベーターに乗り込んだ。横目でそっと、三木さんの顔を盗み見る。ゴウンゴウン、と、エレベーターの駆動音が響く中に、ただただ、無言の時間が続いて。

(……一瀬さんが、平山にフラれた時も、こんな感じだったな)

 あの時も、こうして。そっと、一瀬さんの顔を盗み見ていた。もう、半年近く前のこと。独特の浮遊感と同時に軽い音がして、目的の階に到着したことを知らせてくれる。

 扉が開いて、一歩を踏み出した瞬間。

「達樹」

 低く、渋い声が、エレベーターホールに響いた。






 なぜ、ここで。―――香川頭取叔父の声が、する、のだ。






 混乱のまま、のろのろと顔を上げる。

「やはり達樹だったか」

 ロマンスグレーの髪を撫でつけ、ゆっくりと顎をさすっている。グレーの背広と、深いグリーンのネクタイ。胸元に―――九十銀行の、バッジ。








 終わった。
 を悟って、呼吸が止まる。








 もう、この会社には、いられない。大勢の社員が退勤しようと下りのエレベーターを待っている、このエレベーターホールで声をかけられた……ということは。




 俺が、大口株主の九十銀行の関係者だと。極東商社のほとんどの社員にわかってしまうだろう。




 それは。色眼鏡でみられない、小林達樹というひとりの人間として生きていく道を封じられたも同然。



「ウチに就職せず行方を眩ませ、親戚中を騒がせて。半年前に突然電話をかけてきて今度は私にを作って……それからずっと音沙汰無しとはな。叔父さんは寂しいぞ?」



 ふふ、と。叔父が笑い声をあげた。騒めいていた周りの社員たちが、しん、と。静まり返って、俺を、叔父を、……見ている。

「……」
「あの時、私はお前がいうように動いただろう。そろそろ、お前も私のいうように動いてくれてもいい頃合いだと思うのだが?」

 止まっていた呼吸が、吹き返す。は、と、息を小さく漏らした。叔父の、黒い瞳が。『チェックメイト』と、俺に囁いたような気がした。選択肢は、もう。ひとつしか、残されていない。



 九十銀行に入って。叔父の跡を継ぐ。叔父に敷かれたレールを、ひたすらに…走るだけの、人生。



 ぐっと、拳を握って。叔父から視線を逸らした。

 この一年。苦しかったけれど、楽しかった。一瀬さんに出会い、三木さんに救われ、水野課長代理に俺の本質を気付かされ。

 それでも。楽しかった。

 俺がこの世界に産み落とされた時から定められていた……いずれは九十銀行の頭取として生きるという、叔父に敷かれたレールを走るだけの人生から、一瞬でも抜け出せた…この一年間は。


 倖せ、だった。


 来月からは。この倖せだった一年を胸に…ただただ、敷かれたレールを走って、この生命を燃やし尽くすだけ。

「……今月末をもっての、退職願を、出します」

 俺の言葉に、叔父が満足そうに頷くのを視界の端で捉えた。



 その瞬間。



「ふざけんじゃないわよ」



 三木さんの強い声が響いて。片桐の歓迎会のあの時のように、胸倉を掴まれた。目の前に、ブラックのアイライナーに彩られた勝気な瞳がある。

「あんたは通関部に必要なの。絶対に、辞めさせない」

 強い光を宿した瞳に、射抜かれた。乱暴に手が離される。三木さんが、叔父を一瞥してぺこりと頭を下げて……叔父の真横を通り過ぎた。そうして、明るい髪をふわりと揺らしながら、くるりと振り返って。

! トランクルームの鍵も、総務部に預けるの。そんなところで突っ立ってないで行くわよ!」

 本当に、久しぶりに。名前を、呼ばれた。

 こんな関係になってしまってから。あんた、としか呼ばれていなかった。それなのに。

 名前を呼ばれただけで。全身が心臓となったようにドクドクと跳ねている。

「………」

 叔父にぺこりと頭を下げて。三木さんの後を追う。この時、叔父がどんな顔をしていたかなんて、覚えてもいない。




 淡々と、総務部でトランクルームと社用車の鍵の返却手続きをして。1階下の通関部のフロアに戻るために、エレベーターホールを抜けて。階段への扉を、三木さんが開いた。

「…三木、さん。俺の…、俺の素性、わかったでしょう」

 俺の前を軽快な足取りで螺旋階段を降りて行く、三木さんの背中に問いかける。


 なんで、三木さんの態度は。大学のときに経験したように手のひらを返されたような態度にならないのか。俺の周りの人間は殆どそうだったのに。唯一変わらない態度をしてくれたのは、藤宮だけだったのに。

 俺は、受け止めきれない目の前の三木さんの態度に混乱した。


 三木さんはヒールの音をコツコツと螺旋階段に響かせながら、興味がなさそうにひどく冷たく言葉を紡いでいく。

「だからなに? あんたはあんたでしょう。あんたが九十銀行に連なるオボッチャマだとして、あんたがウチで築きあげてきたモノがまるっと無くなるとでも?」
「……」



 俺が、九十銀行の関係者だとわかっても。




 ―――俺を俺として、みて……いる。




 その事実に行き着いて、目を見開いた。



「あんた、ほんとばかよ。その独り善がりの自己犠牲の考え方、どうにかしないと自分が壊れるだけよ」

 ふわり、と。踊り場に三木さんが立ち止まって、俺を振り返った。明るい髪が翻って、三木さんの輪郭に纏わりついた。

 低い位置にある、その瞳が。ひどく優しくて、ひどく……冷たかった。

「あの人が言う貸しって、どうせ平山さんのことでしょ。あんたから退職願って言葉が出たってことは、半年前、自分が九十銀行に行くから力を貸してくれって言ったってことでしょう。ほんと、ばかなんじゃないの」

 呆れたように。それでいて、俺の事を労わるような声色で。三木さんが言葉を紡いでいく。平山の処遇のことすら…三木さんには、隠せない、のか。

「ばかを通り越して愚か者だわ。私、なんでこんなヤツが好きなのかしら」

 はぁっ、と。肩を上下させながら、大きなため息を三木さんがついて、視線が落ちた。数秒もしないうちに。三木さんの整った顔が再び俺を向いた。その勝気な瞳に……俺の姿が反射している。




「自分の人生は自分のためにあるのよ。誰のためでもない自分の人生。それをよく考えなさい」




 放たれた言葉に。世界が、歪んだ。胸の奥が。目の奥が。ヒリヒリと……焼けていく。



「じゃ、私。今日は実家に行くから。帰る」

 ぎぃ、と。エレベーターホールに続く扉が開いて、三木さんの姿が見えなくなった。




 俺は、ずるずると……その場に蹲って。




「……なんで」




 なんで、三木さんは。こんなに、強いのだろう。
 なんで、三木さんは……こんなに、眩しいのだろう。





 ぽたりと。灼熱の雫が、溢れていく。





 心臓が。これでもか、と…跳ねている。






 この、跳ねている心臓がおさまるまでは……





 もう少し、このに浸っていても、許されるだろうか。
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