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本編・第二部
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「んん~~……だいたい、決まったけど……」
2月14日。バレンタイン、当日。朝から早めに出社して、昨日のミスを取り返せるように動いた。
小林くんに私のミスを報告して、申し訳ないと頭を下げて。三木ちゃんや片桐さんに手伝ってもらって……何とか午前中にカタが付いた。
久しぶりに定時で上がって、デパートのバレンタイン特設売り場に足を運び、チョコレートを物色する。
(……う~……片桐さんにも、ちゃんと渡さなきゃ、だよね……)
片桐さんだけじゃなくて、三木ちゃんにも、小林くんにも。お礼とお詫びを含めて、ちゃんとバレンタインチョコレートを渡そう。そう考えて、特設売り場をぐるりと回った。
義理だとしても。片桐さんに渡したら、智さんに凄くヤキモチを妬かれる、どころか、きっと嫉妬させてしまうと思う。その事実に、心の中で少し落ち込みながらも。
言い寄られていることと、同僚としてきちんと叱って、私のミスのフォローまでしてくれた。それは別問題、だと思っているから。
(……あとで…話せる範囲で、事情、話しておこう…)
何より、黙って片桐さんに渡したことがバレたら、いつものあの口調でお仕置きされるだけだ。その事実に行きついてふるりと身体が震える。
そう心に決めて、会社メンバーへ向けてのチョコレートを籠にいれたけれど。
「………そもそも、智さんってどんなチョコレートが好きなんだろう……」
智さんにあげるためのチョコレートが、決まらない。
むぅ、と、ショーケースの前で考え込む。外食をした時に、デザートを食べている姿は何度か見たことがあるから、甘いものが嫌いな訳では無いはず。
でも、ビター系がいいとか、ミルク系がいいとか、生チョコが好きとか、プラリネが入っているものが好きとか……そういうのを全く知らない。
「ん~……飲まない人だからウイスキーボンボンとかはダメだろうし。好みを聞いておけばよかったなぁ……」
また1周回って、もう一度全部見てみよう。それから智さんのイメージで決めちゃおう。そうしようと考え、催事場の中をふたたびぐるりと歩いてみる。
「……あ」
目に映ったのは、ひとつの機械。
「………これだと、チョコレートだけじゃなくて、チーズフォンデュにも使えるんだ」
その機械の宣伝をする手書きのポップをじいっと見つめ、箱を手に取った。智さんと買い物に行くと、チーズコーナーでうんうん唸りながらチーズを眺めている時がある。晩御飯にパスタを私が作ったりした時に、チーズを削って味変えをしている姿を見ていたから、チーズフォンデュも出来る、という謳い文句にとても惹かれた。
「チョコレートフォンデュなら、好きなのだけ食べてもらえるし、いいかも……」
チョコレートの好みがわからないのもある。チョコレートフォンデュなら、フルーツやマシュマロ、ポテトチップスなどを用意していれば好きな具材だけ食べてもらえる。……うってつけ、じゃないか!
「これにしよう!」
チョコレートフォンデュの機械を籠に追加して、意気揚々とレジに並んだ。帰り道にあるスーパーで、いちごやバナナ、キュウイやスナック菓子、そして溶かす用のチョコレートと生クリームを買って、智さん宅への帰り道を急いだ。
雪がチラチラと舞っている。
「…寒い……」
指先が冷えている。思わず手袋をした指先を擦り合わせる。
先日、嬉々として行っていたシャワーお灸の後のマッサージは、感度を上げる効果もある、と智さんに暴露されてしまったから。ここ数日は何となくやめてしまっていた。たった数日、やめただけなのに。末端冷え性が復活しているような、気がする。
あんなに悩まされていた生理痛と冷え性が軽減した、という事実をこうやって改めて突きつけられて。
(……マッサージ……悔しいけど、本当に悔しいけど…続けてみる価値はあるのかな…)
智さんに嵌められた、ということは本当に癪に障るけれども、このままずっとやめてのたうち回るような生理痛が復活してはたまらない。だから、2日に1回のペースで続けてみよう、と決意して、玄関の鍵を開けた。
「ただいま~……あれ?」
智さんの革靴が、ない。ということは、今日は久しぶりに残業、ということだろう。パタパタとコートに付いた雪を落として、マフラーと一緒にハンガーにかける。
手を洗って、冷蔵庫をあけた。1番手前に置いてある食材を確認する。
「んん……お豆腐と、きのこ類……」
ちらり、と横目で調味料棚を見遣ると、未開封の片栗粉。
「……餡掛け豆腐を作る予定だったのかなぁ?」
餡掛け豆腐でもいいけど。今日は雪降ってるくらい寒いから、鍋が食べたい。確か、調味料棚のどこかに重曹もあったはず。冷蔵庫をパタリと閉めて、調味料棚をゴソゴソと漁ると。
「重曹、あった!じゃ、温泉湯豆腐鍋にしよう」
温泉湯豆腐鍋は私の故郷の方ではメジャーな料理だけれど、こちらでは見たことがない。
1リットルの水に小さじ1の重曹を入れて豆腐を茹でると、豆腐が溶けだす。まさに、豆乳鍋のようになるのだ。それでお肉をしゃぶしゃぶさせたり、きのこ類を茹でたりして、胡麻だれで食べる、というもの。
買ってきたチョコレートフォンデュの機械はコンロを使うタイプだったから、カセットコンロをテーブルに出しておけば、温泉湯豆腐を食べた後にチョコレートフォンデュの機械をそのままセット出来る。一石二鳥。
「そうと決まれば、準備しなきゃね!」
エプロンを身につけて、手早く豆腐を切って、きのこ類やお肉なども準備していく。コトコトと豆腐を煮て、豆乳鍋のような白みが出てきたところで、一旦火を止める。
「……洗濯物畳むのと、お風呂掃除もしておこうかな」
パタパタと家事をすませていくと、あっという間に21時前。ソファに沈みこんでいると、スマホの軽い通知音が耳に届いた。
『すまん。残業になった。今電車乗ったから、あと45分くらいで帰る』
あと45分くらい。なら、先にお風呂入っておこう。
『はーい! 気をつけてね。先にお風呂入ってるね』
そう打ち込んで送信ボタンをタップする。しばらくして既読が付いたのを確認して、私はお風呂に向かった。
ドライヤーをかけ終わると同時に、スマホが振動して着信を知らせてくれる。
「……智さんだ」
電車を降りてすぐかけてきてくれたんだろう。あと5分もすれば顔を合わせることになるのに。
「ふふ、せっかちだなぁ」
頬がにやけるのを抑えられやしなかった。そのまま、応答ボタンをタップする。
「智さん?」
『知香……すまん。急に3課に呼び出されて残業になって…』
耳にあてた電話口から、階段を登る智さんの足音が聞こえてくる。改札に定期券を翳して通り過ぎる音と、周りの喧騒。やっぱり、電車を降りてすぐかけてきてくれたんだ。
「いいよ、いつも私の方が遅いんだから」
残業になったことを謝り倒されては私の立つ瀬がない。少しだけ苦笑しながら返答する。
『夕食、どうした? 何か食べた?』
心配そうな智さんの声が聞こえて、本当に私のことを大事にしてくれているのだと実感して、心がこそばゆくなる。
「ん~ん、食べてない。作って待ってた」
『……そうか。何から何まですまんな…』
「謝らないでよ~私がいつもしてもらってることだから」
そう。いつも、私がしてもらっていること。お互いを補って、日々を過ごしていく。こうやって、お互いを補いながら過ごす時間が、本当に、怖いくらい。幸せだと感じている。
少しだけ仕事の話しをしていると、ガチャリと音がして、玄関が開いた。
「ただいま」
電話越しでない、智さんの声が聞こえる。ぱっとソファから立ち上がり玄関に向かう。
「おかえり!」
雪に濡れた智さんの黒髪からぽたりと水滴が落ちているのを認めて、私は鞄とコートとマフラーを智さんから奪い取るようにして、そのまま脱衣所に押し込んだ。
「私、先に入っちゃったけど、まだお湯も温かいはずだから。風邪引かないうちに早く入っておいで」
私の言葉に、智さんが少し不満そうに眉を寄せた。その表情の意味がわからなくて、私は智さんの瞳を困惑気味に見つめ返す。
ふっと、その切れ長の瞳が面白そうに歪んで。
「……知香。ここはさ、お風呂? ごはん? それとも私? って聞くところだと思うけど?」
「…………えっ!?」
かぁっと顔が赤くなる。そんな私の様子に、にやり、と智さんの口の端が上がって。
「……冗談。風呂入ってくる」
脱いだジャケットを私に手渡して、ぱたり、と音を立てて脱衣所のドアが閉められる。私はコートとマフラーを持ったまま呆然とその場に立ちすくんでいた。しばらくして、我に返って。
「………も、ほんとに、意地悪なんだからっ」
全身が真っ赤になったまま、憎まれ口を叩いた。ゆっくりとリビングに向かい、コートとマフラー、ジャケットをハンガーにかけていく。
お風呂から上がってきた智さんが、大きなバスタオルを肩にかけたまま、物珍しそうにテーブルの上を覗き込んだ。
「…湯豆腐?」
「正確には、温泉湯豆腐鍋、かな。私の地元では有名なんだ。地元だとスーパーにも専用調理水が売ってあるんだけど、こっちじゃ手に入らないから、食用の重曹で代用」
智さんが考え込むように左手を唇に当てている。これも、同棲を始めて気が付いた癖。考え事をするときは、こんな仕草をしている。
「……なるほどな? 重曹で水をアルカリ性にして、豆腐が溶けやすくなる性質を上手く利用している、ってことか」
納得したように頷きながら、ソファに座り込んで、お皿とお箸を並べるのを手伝ってくれる。
「詳しい理屈はわからないけど、豆乳鍋みたいにして食べるの。お肉をしゃぶしゃぶして、胡麻だれにつけると最高なんだよね」
胡麻だれは練り胡麻とお酢・砂糖・醤油を混ぜ、味噌で軽く味付けをしたもの。豆腐がとろとろと溶けた出汁をお玉で掬い上げて、胡麻だれを入れていたお椀に出汁をいれて溶かし、つけだれにしていく。
「へぇ……こんな食べ方があるのか。ゴールデンウィークに知香の実家に行ったときに本場のも食べてみてぇな」
ぽつり、と智さんが呟いた言葉で、私はざっと地元のお店を脳内で検索する。
「………じゃぁ、ちょっと実家から離れた郊外に行くけど…近くなったら予約しておくね」
「ん、任せた」
お皿を並べ終わり、ふたりでソファに座り込む。
「じゃ、食べるか」
「うん。いただきます」
ふたりで手を合わせて、黙々と箸を動かしていく。
「………うまいな」
「でしょ~~?」
智さんは料理上手だから、私が作ることはあまりないけれど。こうして美味しいと言ってもらえるとすごく嬉しい。
そうこうしているうちにあっという間に食べ終えてしまった。
「ごちそうさま」
「いえいえ。お粗末様でした」
「片付け、俺がやるよ」
その言葉に少し固まる。チョコレートフォンデュの機械を、キッチンに置きっぱなしだ。智さんにそれを見られたら……ちょっと、困る。せっかくのバレンタインなのだから、サプライズ気味に出したい。
「や、私やる」
そう考えて智さんの申し出を断るものの。
「いいって。今日は全部家事してもらったし」
サッと器類を纏めてキッチンに向かう智さんの寝間着の裾を、思わずパシッと掴む。
「……知香?」
困惑した表情を浮かべた智さんが、私を見つめている。……サプライズしたかったけれども、今回は諦めた方が良さそう。正直に、バレンタインを渡したいと言った方がいい、と結論付け、おずおずと声を上げた。
「えっと、ね? その………バレンタインの、デザートがあるんだけど」
「え?」
きょとん、としたような智さんの顔があって。そして、みるみるうちにその顔が綻んでいく。
「……マジか…知香、残業続きだったから、貰えねぇだろうなって思ってた」
ふわりと微笑む智さんの笑顔で、実は智さんがバレンタインを楽しみにしていたことを知って。ここ数日、そんなことおくびにも出さずにいたから、智さん、バレンタインとかイベントごとに興味がないのだろうか、と思っていた。だから……なんとなく、私も嬉しくなった。
「……準備、したいから。片付けも私にさせてほしい」
……期待に添えられるようなチョコレートかどうかは、わからないけれど。智さんが嬉しそうな笑顔のまま、私に向き直る。
「わかった。じゃぁ…メールチェックしてるから、準備終わったら呼んで」
そうして、智さんが寝室に向かう。
「ねぇ。楽しみにして欲しいから、扉……閉め切っちゃっても、いい?」
寝室の扉を開けっ放しにしていると、何を準備しているのかが丸見えになってしまうから。せっかくなら、扉を閉め切って、何が出てくるのかびっくりさせたい。
「……ん、わかった」
智さんが再び心底嬉しそうに笑って、寝室の扉をぱたり、と閉めた。
「……よし。準備するぞっ」
びっくり、させられるかな。そんなことを考えながら、食器洗いに手をつけ始めて。
「……ふふふっ」
本当に、幸せな日常。こんな日常が、ずぅっと続けばいいのに。
そう考えながら、私は手に付いた泡を洗い流していった。
2月14日。バレンタイン、当日。朝から早めに出社して、昨日のミスを取り返せるように動いた。
小林くんに私のミスを報告して、申し訳ないと頭を下げて。三木ちゃんや片桐さんに手伝ってもらって……何とか午前中にカタが付いた。
久しぶりに定時で上がって、デパートのバレンタイン特設売り場に足を運び、チョコレートを物色する。
(……う~……片桐さんにも、ちゃんと渡さなきゃ、だよね……)
片桐さんだけじゃなくて、三木ちゃんにも、小林くんにも。お礼とお詫びを含めて、ちゃんとバレンタインチョコレートを渡そう。そう考えて、特設売り場をぐるりと回った。
義理だとしても。片桐さんに渡したら、智さんに凄くヤキモチを妬かれる、どころか、きっと嫉妬させてしまうと思う。その事実に、心の中で少し落ち込みながらも。
言い寄られていることと、同僚としてきちんと叱って、私のミスのフォローまでしてくれた。それは別問題、だと思っているから。
(……あとで…話せる範囲で、事情、話しておこう…)
何より、黙って片桐さんに渡したことがバレたら、いつものあの口調でお仕置きされるだけだ。その事実に行きついてふるりと身体が震える。
そう心に決めて、会社メンバーへ向けてのチョコレートを籠にいれたけれど。
「………そもそも、智さんってどんなチョコレートが好きなんだろう……」
智さんにあげるためのチョコレートが、決まらない。
むぅ、と、ショーケースの前で考え込む。外食をした時に、デザートを食べている姿は何度か見たことがあるから、甘いものが嫌いな訳では無いはず。
でも、ビター系がいいとか、ミルク系がいいとか、生チョコが好きとか、プラリネが入っているものが好きとか……そういうのを全く知らない。
「ん~……飲まない人だからウイスキーボンボンとかはダメだろうし。好みを聞いておけばよかったなぁ……」
また1周回って、もう一度全部見てみよう。それから智さんのイメージで決めちゃおう。そうしようと考え、催事場の中をふたたびぐるりと歩いてみる。
「……あ」
目に映ったのは、ひとつの機械。
「………これだと、チョコレートだけじゃなくて、チーズフォンデュにも使えるんだ」
その機械の宣伝をする手書きのポップをじいっと見つめ、箱を手に取った。智さんと買い物に行くと、チーズコーナーでうんうん唸りながらチーズを眺めている時がある。晩御飯にパスタを私が作ったりした時に、チーズを削って味変えをしている姿を見ていたから、チーズフォンデュも出来る、という謳い文句にとても惹かれた。
「チョコレートフォンデュなら、好きなのだけ食べてもらえるし、いいかも……」
チョコレートの好みがわからないのもある。チョコレートフォンデュなら、フルーツやマシュマロ、ポテトチップスなどを用意していれば好きな具材だけ食べてもらえる。……うってつけ、じゃないか!
「これにしよう!」
チョコレートフォンデュの機械を籠に追加して、意気揚々とレジに並んだ。帰り道にあるスーパーで、いちごやバナナ、キュウイやスナック菓子、そして溶かす用のチョコレートと生クリームを買って、智さん宅への帰り道を急いだ。
雪がチラチラと舞っている。
「…寒い……」
指先が冷えている。思わず手袋をした指先を擦り合わせる。
先日、嬉々として行っていたシャワーお灸の後のマッサージは、感度を上げる効果もある、と智さんに暴露されてしまったから。ここ数日は何となくやめてしまっていた。たった数日、やめただけなのに。末端冷え性が復活しているような、気がする。
あんなに悩まされていた生理痛と冷え性が軽減した、という事実をこうやって改めて突きつけられて。
(……マッサージ……悔しいけど、本当に悔しいけど…続けてみる価値はあるのかな…)
智さんに嵌められた、ということは本当に癪に障るけれども、このままずっとやめてのたうち回るような生理痛が復活してはたまらない。だから、2日に1回のペースで続けてみよう、と決意して、玄関の鍵を開けた。
「ただいま~……あれ?」
智さんの革靴が、ない。ということは、今日は久しぶりに残業、ということだろう。パタパタとコートに付いた雪を落として、マフラーと一緒にハンガーにかける。
手を洗って、冷蔵庫をあけた。1番手前に置いてある食材を確認する。
「んん……お豆腐と、きのこ類……」
ちらり、と横目で調味料棚を見遣ると、未開封の片栗粉。
「……餡掛け豆腐を作る予定だったのかなぁ?」
餡掛け豆腐でもいいけど。今日は雪降ってるくらい寒いから、鍋が食べたい。確か、調味料棚のどこかに重曹もあったはず。冷蔵庫をパタリと閉めて、調味料棚をゴソゴソと漁ると。
「重曹、あった!じゃ、温泉湯豆腐鍋にしよう」
温泉湯豆腐鍋は私の故郷の方ではメジャーな料理だけれど、こちらでは見たことがない。
1リットルの水に小さじ1の重曹を入れて豆腐を茹でると、豆腐が溶けだす。まさに、豆乳鍋のようになるのだ。それでお肉をしゃぶしゃぶさせたり、きのこ類を茹でたりして、胡麻だれで食べる、というもの。
買ってきたチョコレートフォンデュの機械はコンロを使うタイプだったから、カセットコンロをテーブルに出しておけば、温泉湯豆腐を食べた後にチョコレートフォンデュの機械をそのままセット出来る。一石二鳥。
「そうと決まれば、準備しなきゃね!」
エプロンを身につけて、手早く豆腐を切って、きのこ類やお肉なども準備していく。コトコトと豆腐を煮て、豆乳鍋のような白みが出てきたところで、一旦火を止める。
「……洗濯物畳むのと、お風呂掃除もしておこうかな」
パタパタと家事をすませていくと、あっという間に21時前。ソファに沈みこんでいると、スマホの軽い通知音が耳に届いた。
『すまん。残業になった。今電車乗ったから、あと45分くらいで帰る』
あと45分くらい。なら、先にお風呂入っておこう。
『はーい! 気をつけてね。先にお風呂入ってるね』
そう打ち込んで送信ボタンをタップする。しばらくして既読が付いたのを確認して、私はお風呂に向かった。
ドライヤーをかけ終わると同時に、スマホが振動して着信を知らせてくれる。
「……智さんだ」
電車を降りてすぐかけてきてくれたんだろう。あと5分もすれば顔を合わせることになるのに。
「ふふ、せっかちだなぁ」
頬がにやけるのを抑えられやしなかった。そのまま、応答ボタンをタップする。
「智さん?」
『知香……すまん。急に3課に呼び出されて残業になって…』
耳にあてた電話口から、階段を登る智さんの足音が聞こえてくる。改札に定期券を翳して通り過ぎる音と、周りの喧騒。やっぱり、電車を降りてすぐかけてきてくれたんだ。
「いいよ、いつも私の方が遅いんだから」
残業になったことを謝り倒されては私の立つ瀬がない。少しだけ苦笑しながら返答する。
『夕食、どうした? 何か食べた?』
心配そうな智さんの声が聞こえて、本当に私のことを大事にしてくれているのだと実感して、心がこそばゆくなる。
「ん~ん、食べてない。作って待ってた」
『……そうか。何から何まですまんな…』
「謝らないでよ~私がいつもしてもらってることだから」
そう。いつも、私がしてもらっていること。お互いを補って、日々を過ごしていく。こうやって、お互いを補いながら過ごす時間が、本当に、怖いくらい。幸せだと感じている。
少しだけ仕事の話しをしていると、ガチャリと音がして、玄関が開いた。
「ただいま」
電話越しでない、智さんの声が聞こえる。ぱっとソファから立ち上がり玄関に向かう。
「おかえり!」
雪に濡れた智さんの黒髪からぽたりと水滴が落ちているのを認めて、私は鞄とコートとマフラーを智さんから奪い取るようにして、そのまま脱衣所に押し込んだ。
「私、先に入っちゃったけど、まだお湯も温かいはずだから。風邪引かないうちに早く入っておいで」
私の言葉に、智さんが少し不満そうに眉を寄せた。その表情の意味がわからなくて、私は智さんの瞳を困惑気味に見つめ返す。
ふっと、その切れ長の瞳が面白そうに歪んで。
「……知香。ここはさ、お風呂? ごはん? それとも私? って聞くところだと思うけど?」
「…………えっ!?」
かぁっと顔が赤くなる。そんな私の様子に、にやり、と智さんの口の端が上がって。
「……冗談。風呂入ってくる」
脱いだジャケットを私に手渡して、ぱたり、と音を立てて脱衣所のドアが閉められる。私はコートとマフラーを持ったまま呆然とその場に立ちすくんでいた。しばらくして、我に返って。
「………も、ほんとに、意地悪なんだからっ」
全身が真っ赤になったまま、憎まれ口を叩いた。ゆっくりとリビングに向かい、コートとマフラー、ジャケットをハンガーにかけていく。
お風呂から上がってきた智さんが、大きなバスタオルを肩にかけたまま、物珍しそうにテーブルの上を覗き込んだ。
「…湯豆腐?」
「正確には、温泉湯豆腐鍋、かな。私の地元では有名なんだ。地元だとスーパーにも専用調理水が売ってあるんだけど、こっちじゃ手に入らないから、食用の重曹で代用」
智さんが考え込むように左手を唇に当てている。これも、同棲を始めて気が付いた癖。考え事をするときは、こんな仕草をしている。
「……なるほどな? 重曹で水をアルカリ性にして、豆腐が溶けやすくなる性質を上手く利用している、ってことか」
納得したように頷きながら、ソファに座り込んで、お皿とお箸を並べるのを手伝ってくれる。
「詳しい理屈はわからないけど、豆乳鍋みたいにして食べるの。お肉をしゃぶしゃぶして、胡麻だれにつけると最高なんだよね」
胡麻だれは練り胡麻とお酢・砂糖・醤油を混ぜ、味噌で軽く味付けをしたもの。豆腐がとろとろと溶けた出汁をお玉で掬い上げて、胡麻だれを入れていたお椀に出汁をいれて溶かし、つけだれにしていく。
「へぇ……こんな食べ方があるのか。ゴールデンウィークに知香の実家に行ったときに本場のも食べてみてぇな」
ぽつり、と智さんが呟いた言葉で、私はざっと地元のお店を脳内で検索する。
「………じゃぁ、ちょっと実家から離れた郊外に行くけど…近くなったら予約しておくね」
「ん、任せた」
お皿を並べ終わり、ふたりでソファに座り込む。
「じゃ、食べるか」
「うん。いただきます」
ふたりで手を合わせて、黙々と箸を動かしていく。
「………うまいな」
「でしょ~~?」
智さんは料理上手だから、私が作ることはあまりないけれど。こうして美味しいと言ってもらえるとすごく嬉しい。
そうこうしているうちにあっという間に食べ終えてしまった。
「ごちそうさま」
「いえいえ。お粗末様でした」
「片付け、俺がやるよ」
その言葉に少し固まる。チョコレートフォンデュの機械を、キッチンに置きっぱなしだ。智さんにそれを見られたら……ちょっと、困る。せっかくのバレンタインなのだから、サプライズ気味に出したい。
「や、私やる」
そう考えて智さんの申し出を断るものの。
「いいって。今日は全部家事してもらったし」
サッと器類を纏めてキッチンに向かう智さんの寝間着の裾を、思わずパシッと掴む。
「……知香?」
困惑した表情を浮かべた智さんが、私を見つめている。……サプライズしたかったけれども、今回は諦めた方が良さそう。正直に、バレンタインを渡したいと言った方がいい、と結論付け、おずおずと声を上げた。
「えっと、ね? その………バレンタインの、デザートがあるんだけど」
「え?」
きょとん、としたような智さんの顔があって。そして、みるみるうちにその顔が綻んでいく。
「……マジか…知香、残業続きだったから、貰えねぇだろうなって思ってた」
ふわりと微笑む智さんの笑顔で、実は智さんがバレンタインを楽しみにしていたことを知って。ここ数日、そんなことおくびにも出さずにいたから、智さん、バレンタインとかイベントごとに興味がないのだろうか、と思っていた。だから……なんとなく、私も嬉しくなった。
「……準備、したいから。片付けも私にさせてほしい」
……期待に添えられるようなチョコレートかどうかは、わからないけれど。智さんが嬉しそうな笑顔のまま、私に向き直る。
「わかった。じゃぁ…メールチェックしてるから、準備終わったら呼んで」
そうして、智さんが寝室に向かう。
「ねぇ。楽しみにして欲しいから、扉……閉め切っちゃっても、いい?」
寝室の扉を開けっ放しにしていると、何を準備しているのかが丸見えになってしまうから。せっかくなら、扉を閉め切って、何が出てくるのかびっくりさせたい。
「……ん、わかった」
智さんが再び心底嬉しそうに笑って、寝室の扉をぱたり、と閉めた。
「……よし。準備するぞっ」
びっくり、させられるかな。そんなことを考えながら、食器洗いに手をつけ始めて。
「……ふふふっ」
本当に、幸せな日常。こんな日常が、ずぅっと続けばいいのに。
そう考えながら、私は手に付いた泡を洗い流していった。
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副社長氏の一途な恋~執心が結んだ授かり婚~
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