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本編・第二部
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智がバーテンダーに声をかけて、水を硝子製のウォーターポットで持ってきてくれる。
「知香………飲めるか?」
その水を、智がコップに注いで、ゆっくりと私の口元に持ってきてくれる。ただただ、ひたすらに、私はそれを飲み下していく。
噛み砕いて言うと、私は片桐さんに盛られた、らしい。梅酒を飲みすぎて悪酔いした結果、身体が動かないのかと思っていた。
日本で流通している媚薬は漫画やアニメで表現されるような催淫効能は無く、基本的には健康食品に使われるものの組み合わせ。水を飲んで、成分を薄め、体内から排出するように促せば特に問題ないだろう、というのが智の見解だった。
「気分は、大丈夫か? 頭の中に嫌なイメージが浮かんでくるとかは無いか?」
更に言うなら、心理学を応用した催眠暗示をかけられた、らしい。……結果的に、私には、効かなかったけれど。
諜報機関に居た時に身に付けたと片桐さんは言っていた。第一次世界大戦の頃、あるいはもっと前から続く諜報機関を持っている国が世界にはあると、大学の世界史のゼミで学んだ気がする。きっと、それのことだろう。
「……あん時。片桐が、エントランスで待ち伏せしてた時。俺のことを調べた、と言ったろう。普通の人間はただ偶然会っただけの人間のことを調べられる術は皆無なはずなんだ。だから、それで……片桐の素性に、片桐の過去に、ピンと来るべきだった。……ヒントは十分に与えられていたんだ」
視線が絡まった切れ長の瞳が後悔で強く揺れていた。
ううん、と、私は頭を振った。普通は、そんなこと気がつけるはずもない。
それでも……それでも、片桐さんを心底憎む気にはなれなかった。
赦せない気持ちは、当然ある。
多分、これは、凌牙に向ける感情と同じ。恨んで、憎んで、私の大切な……智と一緒に歩むと決めた、大事な人生の時間を奪われたくないから。
甘いとは分かっているし、今日の出来事は一生をかけても赦せない。……でも。
「どうか……片桐さんには、片桐さんの幸せを掴んで欲しい」
マーガレット、さん。きっと、彼女を……とても理不尽な理由で亡くしたのだろう。ぽろぽろと涙を零す片桐さんの驚いた顔を脳裏に浮かべながら、ゆっくりと、水を口に含んでいく。
じっと私を見つめていた智が、ふっと息を漏らして、笑った。
「……知香なら、そういうと思った。俺が惚れた、惚れたままの、知香だから」
だが、と、そう続けた智の声が低くなる。
「俺は、絶対に、赦せない。一生かけても、赦すことはできない。片桐を憎む気持ちは、あいつを恨む気持ちは…俺がこの世界から消える瞬間でさえも、消えてはくれないと思う。……法で裁けるなら、今すぐにでも警察に突きだしてやりたい」
「……うん…」
智の気持ちも、理解出来る。
誰かを恨む、ということは。負の感情を持ち続ける、ということ。それは……途方もないエネルギーを使い続けること。だからこそ、私は智に恨みの気持ちを持ちながら、この先の未来を生きていって欲しくない。
でも……でも。今回の件に関しては、私のせいだから。私が、口を出せる立場じゃない。
迸る怒りの感情をそのままに、爛々と憤怒の光を宿しているダークブラウンの瞳を見つめながら、自分自身が情けなくなる。
私の不用意な行動のせいで。どれだけ心配をかけただろう。片桐さんに警戒しろ、と言われたにも関わらず、あんな言葉に、あんな態度に油断して、こんなことになってしまった。
「……ごめんなさい…」
智の心の内を想像すると、柄にも言われぬほどの衝撃を受けたのだろうと思う。
「なーんで、知香が謝んの? 俺は、片桐に怒ってるだけ」
ふわり、と智が切れ長の瞳に優しさを灯しながら……ゆっくり、頭を撫でてくれた。その優しい声にに、ポツリと返答する。
「……私に、知識があれば、こんなことにはならなかった」
智の本棚に置いてあった心理学の本。あれを読んでいれば、心理学の応用で揺さぶられている、と気がつけたはず。そして、その隣に。認知行動療法の……催眠療法の本もあったのに。
知識があれば。片桐さんの思惑を見抜いて、跳ね返せていた。こんなことには、ならなかった。情けなさから、ぎゅう、と水が注がれた手元のコップを握りしめる。
『人間ってのは、知識を得た方が勝ちだ。知識は、自分の身を助ける。世間っつうのは、知っている奴が、勝ちをもぎ取っていくんだ』
智が、ホワイトデーでラナンキュラスの花束をくれた時。私に話してくれたこと。
知識を得た方が、勝ち。それで言えば、今回は片桐さんの方が勝っていた。片桐さんは、自力で解けるはずがない暗示だと言っていた。私がそんな強い暗示を跳ね除けられたのは、本当に…本当に、偶然のことで。
天秤に置かれた錘は、片桐さんの方が知識という錘の数が多くて、重たくて。片桐さんが優勢だったはずなのだ。それを覆せたのは……そもそもの天秤が狂っていた、という、不測の事態が起きていたから、という可能性の方が高い。
私たちが勝ちをもぎ取れたのは、本当に…運命の歯車が欠けてもたらされた、偶然の結末、なのだと思う。
「……まぁ、俺も心理学の応用をこれまでの恋愛や仕事での商談に使ってきたから、そこは…まぁ、仕方ないとしても、な? ………催眠を恋愛に持ち込むのは反則だ。相手を操作してるんだから。だから、知香は悪くない」
ゆっくりと、智が大きな手のひらで、私の頭を撫でてくれる。それだけなのに、凄く……安心する。
「……ん。ありがと……」
ダークブラウンの瞳が、私に心配そうな目線を向けている。その視線に、胸がぎゅうと傷んだ。不意に、腫れ上がった額が目にとまって。
「おでこ。腫れちゃってる。帰ったら、ちゃんと冷やそ?」
手に持っていたコップをテーブルに置いて、私の手のひらを、智の額に当てた。そして、智の切れた唇に指をあてる。
「これ……どうしたの?」
私は智と片桐さんが話をしているシーンしか見ていないから、どうしてこんなに智の服装が乱れているのか、唇が切れているのか、額が腫れ上がっているのか。訳が分からなくて。
智が、どう話そうかと考え込むような表情を浮かべた。私はその表情を、じっと見つめる。
「……順を追って話せば…飛行機から降りた時に、日記アプリにログインした。二次会の場所、覚えてないって書いてたから、知香の居場所を見つけようとGPSを見たんだが……GPSが、機能してなかった」
「え? うそ、私、GPSのアプリ立ち上げたままだよ?」
その言葉に、私は思わずスカートをまさぐって、ポケットのスマホを手に取り慌てて確認する。私の慌てた様子に、智が苦笑いを浮かべた。
「知香。電磁遮蔽って知ってるか? この店みてぇに、鉄筋コンクリに囲まれた場所だと…電波が入らない。GPSも機能しなくなる」
「えっ……?」
「俺、かなり電話かけたんだ。でも、電波が届かないってアナウンスが流れるだけだった」
そう言葉を紡ぎながら、智が自分のスマホの電話画面を私に見せてくれる。そこには、飛行機を降りた時間と思われる頃から、絶え間なく私に発信した記録が残っていて。
「…やっぱり、知識って大事なんだ………」
これも。知っていれば……こまめに店外に出て智からの連絡が入っていないかどうかの確認が取れたはず。
私の知識不足が。この状況を作り出した。そう思うと、申し訳なさが先にたった。
「じゃ、じゃぁ…どうやって、ここが……?」
GPSも追えない、電話も繋がらない。それなら、どうしてここがわかったのだろう。私の問いかけに、ダークブラウンの瞳がやわらかい光を宿して、その瞳に私を捉えて…笑った。
「小林が、ここにいることを教えてくれたんだ」
思わぬ人物の名前に、私は思考回路が停止した気がした。ゆっくりと、その名前を、その意味を噛み砕いて。
「……そっか…」
小林くんにとって、智は恋敵のはず。どんな気持ちで、どんな想いで、智に連絡を取ったのだろう。彼の気持ちに想いを馳せると、何も言葉が出てこない。思わず視線を自分の手元に落とした。
「一次会は会社の近くだろうと踏んで、空港からタクシーに飛び乗った。けど、そこから先は見当もつかなかった。無力な自分が悔しくて、電柱に八つ当たりした。そしたら……小林から連絡が入って。走って、ここに来た」
電柱に八つ当たり。それが、腫れ上がった額。無力な自分が悔しくて、唇を切れるほど噛み締めた。小林くんの連絡を受けて、心臓が破裂してもいいと思うくらい、懸命に、走ってきた。
まるで映画を見ているように、智のその行動のひとつひとつが目の前で再生されていくようだった。
胸の奥がヒリヒリする。視界がゆっくり歪んで、灼熱のしずくが、頬を伝っていく。
「……ごめ……ほんとうに……私の、せいだ……」
止められない涙が次々にこぼれ落ちていく。智がその長い指で、こぼれ落ちていく涙を、やさしく、やさしく拭ってくれる。ゆっくりと、やさしく、顎を持たれて、ダークブラウンの瞳と視線が交差して。
「知香が強かったから、小林が行動した。知香が強かったから、俺が間に合った。知香が強かったからこそ……知識というハンデを抱えた負け試合に勝てた。片桐も言ってたろ、勝てる試合だった、って。だから、知香のおかげで、俺たちは……俺たち3人は、負け試合を逆転させられた。知香の、おかげだ」
俺たち3人。その言葉に、智が小林くんの気持ちをも慮ってくれていることを知って、更に涙が零れていく。
智が、その大きな手で私の背中をさすって、驚くようなセリフを口にした。
「だから……もう、泣くな。笑ってくれ、知香。俺たちは、笑った知香の顔が、みたいんだ。……な、小林」
「……え?」
日本語なのに、理解が追いつかない。流れていた涙が瞬時に止まり、智の視線を追って、軽く10秒は硬直した。
「…………噛ませ犬を演じさせられているっつーのはわかっていても、この状況はさすがに酷すぎやしませんかね? 邨上さん」
はぁっ、と、大きなため息をついて。ブースの横に立ったままの小林くんが、ガシガシと頭を掻いた。
「想い人とあんたがいちゃついてるのを見せつけられるって、なんっつう罰ゲーム? 俺、あんたにとって恩人なはずなんだけど?」
そうして、ぶっきらぼうに、智を見つめて言葉を紡ぐ。
「……ここに来たのは、別にあんたの言葉に説得力を持たせるためじゃないからな。つか、勝手に俺の気持ちを代弁すんな、ばーか」
小林くんの、乱暴な言葉遣い。それはまるで、小林くんが藤宮くんに話しかけているような、そんな言葉遣いで。いつの間にか、智と小林くんの間に、不思議な空気が漂っていた。
小林くんが、一重の澄んだ瞳をすっと細めた。まるで、遠くを見るように。そうして、誰に伝えるでもなく、小さく呟いた。
「………取り戻せたんだな」
その言葉に、智も……小さく、呟いた。
「言ったろ。奪われたら、奪い返してやるって」
ふたりの間に、長い、長い沈黙が続いた。
「知香………飲めるか?」
その水を、智がコップに注いで、ゆっくりと私の口元に持ってきてくれる。ただただ、ひたすらに、私はそれを飲み下していく。
噛み砕いて言うと、私は片桐さんに盛られた、らしい。梅酒を飲みすぎて悪酔いした結果、身体が動かないのかと思っていた。
日本で流通している媚薬は漫画やアニメで表現されるような催淫効能は無く、基本的には健康食品に使われるものの組み合わせ。水を飲んで、成分を薄め、体内から排出するように促せば特に問題ないだろう、というのが智の見解だった。
「気分は、大丈夫か? 頭の中に嫌なイメージが浮かんでくるとかは無いか?」
更に言うなら、心理学を応用した催眠暗示をかけられた、らしい。……結果的に、私には、効かなかったけれど。
諜報機関に居た時に身に付けたと片桐さんは言っていた。第一次世界大戦の頃、あるいはもっと前から続く諜報機関を持っている国が世界にはあると、大学の世界史のゼミで学んだ気がする。きっと、それのことだろう。
「……あん時。片桐が、エントランスで待ち伏せしてた時。俺のことを調べた、と言ったろう。普通の人間はただ偶然会っただけの人間のことを調べられる術は皆無なはずなんだ。だから、それで……片桐の素性に、片桐の過去に、ピンと来るべきだった。……ヒントは十分に与えられていたんだ」
視線が絡まった切れ長の瞳が後悔で強く揺れていた。
ううん、と、私は頭を振った。普通は、そんなこと気がつけるはずもない。
それでも……それでも、片桐さんを心底憎む気にはなれなかった。
赦せない気持ちは、当然ある。
多分、これは、凌牙に向ける感情と同じ。恨んで、憎んで、私の大切な……智と一緒に歩むと決めた、大事な人生の時間を奪われたくないから。
甘いとは分かっているし、今日の出来事は一生をかけても赦せない。……でも。
「どうか……片桐さんには、片桐さんの幸せを掴んで欲しい」
マーガレット、さん。きっと、彼女を……とても理不尽な理由で亡くしたのだろう。ぽろぽろと涙を零す片桐さんの驚いた顔を脳裏に浮かべながら、ゆっくりと、水を口に含んでいく。
じっと私を見つめていた智が、ふっと息を漏らして、笑った。
「……知香なら、そういうと思った。俺が惚れた、惚れたままの、知香だから」
だが、と、そう続けた智の声が低くなる。
「俺は、絶対に、赦せない。一生かけても、赦すことはできない。片桐を憎む気持ちは、あいつを恨む気持ちは…俺がこの世界から消える瞬間でさえも、消えてはくれないと思う。……法で裁けるなら、今すぐにでも警察に突きだしてやりたい」
「……うん…」
智の気持ちも、理解出来る。
誰かを恨む、ということは。負の感情を持ち続ける、ということ。それは……途方もないエネルギーを使い続けること。だからこそ、私は智に恨みの気持ちを持ちながら、この先の未来を生きていって欲しくない。
でも……でも。今回の件に関しては、私のせいだから。私が、口を出せる立場じゃない。
迸る怒りの感情をそのままに、爛々と憤怒の光を宿しているダークブラウンの瞳を見つめながら、自分自身が情けなくなる。
私の不用意な行動のせいで。どれだけ心配をかけただろう。片桐さんに警戒しろ、と言われたにも関わらず、あんな言葉に、あんな態度に油断して、こんなことになってしまった。
「……ごめんなさい…」
智の心の内を想像すると、柄にも言われぬほどの衝撃を受けたのだろうと思う。
「なーんで、知香が謝んの? 俺は、片桐に怒ってるだけ」
ふわり、と智が切れ長の瞳に優しさを灯しながら……ゆっくり、頭を撫でてくれた。その優しい声にに、ポツリと返答する。
「……私に、知識があれば、こんなことにはならなかった」
智の本棚に置いてあった心理学の本。あれを読んでいれば、心理学の応用で揺さぶられている、と気がつけたはず。そして、その隣に。認知行動療法の……催眠療法の本もあったのに。
知識があれば。片桐さんの思惑を見抜いて、跳ね返せていた。こんなことには、ならなかった。情けなさから、ぎゅう、と水が注がれた手元のコップを握りしめる。
『人間ってのは、知識を得た方が勝ちだ。知識は、自分の身を助ける。世間っつうのは、知っている奴が、勝ちをもぎ取っていくんだ』
智が、ホワイトデーでラナンキュラスの花束をくれた時。私に話してくれたこと。
知識を得た方が、勝ち。それで言えば、今回は片桐さんの方が勝っていた。片桐さんは、自力で解けるはずがない暗示だと言っていた。私がそんな強い暗示を跳ね除けられたのは、本当に…本当に、偶然のことで。
天秤に置かれた錘は、片桐さんの方が知識という錘の数が多くて、重たくて。片桐さんが優勢だったはずなのだ。それを覆せたのは……そもそもの天秤が狂っていた、という、不測の事態が起きていたから、という可能性の方が高い。
私たちが勝ちをもぎ取れたのは、本当に…運命の歯車が欠けてもたらされた、偶然の結末、なのだと思う。
「……まぁ、俺も心理学の応用をこれまでの恋愛や仕事での商談に使ってきたから、そこは…まぁ、仕方ないとしても、な? ………催眠を恋愛に持ち込むのは反則だ。相手を操作してるんだから。だから、知香は悪くない」
ゆっくりと、智が大きな手のひらで、私の頭を撫でてくれる。それだけなのに、凄く……安心する。
「……ん。ありがと……」
ダークブラウンの瞳が、私に心配そうな目線を向けている。その視線に、胸がぎゅうと傷んだ。不意に、腫れ上がった額が目にとまって。
「おでこ。腫れちゃってる。帰ったら、ちゃんと冷やそ?」
手に持っていたコップをテーブルに置いて、私の手のひらを、智の額に当てた。そして、智の切れた唇に指をあてる。
「これ……どうしたの?」
私は智と片桐さんが話をしているシーンしか見ていないから、どうしてこんなに智の服装が乱れているのか、唇が切れているのか、額が腫れ上がっているのか。訳が分からなくて。
智が、どう話そうかと考え込むような表情を浮かべた。私はその表情を、じっと見つめる。
「……順を追って話せば…飛行機から降りた時に、日記アプリにログインした。二次会の場所、覚えてないって書いてたから、知香の居場所を見つけようとGPSを見たんだが……GPSが、機能してなかった」
「え? うそ、私、GPSのアプリ立ち上げたままだよ?」
その言葉に、私は思わずスカートをまさぐって、ポケットのスマホを手に取り慌てて確認する。私の慌てた様子に、智が苦笑いを浮かべた。
「知香。電磁遮蔽って知ってるか? この店みてぇに、鉄筋コンクリに囲まれた場所だと…電波が入らない。GPSも機能しなくなる」
「えっ……?」
「俺、かなり電話かけたんだ。でも、電波が届かないってアナウンスが流れるだけだった」
そう言葉を紡ぎながら、智が自分のスマホの電話画面を私に見せてくれる。そこには、飛行機を降りた時間と思われる頃から、絶え間なく私に発信した記録が残っていて。
「…やっぱり、知識って大事なんだ………」
これも。知っていれば……こまめに店外に出て智からの連絡が入っていないかどうかの確認が取れたはず。
私の知識不足が。この状況を作り出した。そう思うと、申し訳なさが先にたった。
「じゃ、じゃぁ…どうやって、ここが……?」
GPSも追えない、電話も繋がらない。それなら、どうしてここがわかったのだろう。私の問いかけに、ダークブラウンの瞳がやわらかい光を宿して、その瞳に私を捉えて…笑った。
「小林が、ここにいることを教えてくれたんだ」
思わぬ人物の名前に、私は思考回路が停止した気がした。ゆっくりと、その名前を、その意味を噛み砕いて。
「……そっか…」
小林くんにとって、智は恋敵のはず。どんな気持ちで、どんな想いで、智に連絡を取ったのだろう。彼の気持ちに想いを馳せると、何も言葉が出てこない。思わず視線を自分の手元に落とした。
「一次会は会社の近くだろうと踏んで、空港からタクシーに飛び乗った。けど、そこから先は見当もつかなかった。無力な自分が悔しくて、電柱に八つ当たりした。そしたら……小林から連絡が入って。走って、ここに来た」
電柱に八つ当たり。それが、腫れ上がった額。無力な自分が悔しくて、唇を切れるほど噛み締めた。小林くんの連絡を受けて、心臓が破裂してもいいと思うくらい、懸命に、走ってきた。
まるで映画を見ているように、智のその行動のひとつひとつが目の前で再生されていくようだった。
胸の奥がヒリヒリする。視界がゆっくり歪んで、灼熱のしずくが、頬を伝っていく。
「……ごめ……ほんとうに……私の、せいだ……」
止められない涙が次々にこぼれ落ちていく。智がその長い指で、こぼれ落ちていく涙を、やさしく、やさしく拭ってくれる。ゆっくりと、やさしく、顎を持たれて、ダークブラウンの瞳と視線が交差して。
「知香が強かったから、小林が行動した。知香が強かったから、俺が間に合った。知香が強かったからこそ……知識というハンデを抱えた負け試合に勝てた。片桐も言ってたろ、勝てる試合だった、って。だから、知香のおかげで、俺たちは……俺たち3人は、負け試合を逆転させられた。知香の、おかげだ」
俺たち3人。その言葉に、智が小林くんの気持ちをも慮ってくれていることを知って、更に涙が零れていく。
智が、その大きな手で私の背中をさすって、驚くようなセリフを口にした。
「だから……もう、泣くな。笑ってくれ、知香。俺たちは、笑った知香の顔が、みたいんだ。……な、小林」
「……え?」
日本語なのに、理解が追いつかない。流れていた涙が瞬時に止まり、智の視線を追って、軽く10秒は硬直した。
「…………噛ませ犬を演じさせられているっつーのはわかっていても、この状況はさすがに酷すぎやしませんかね? 邨上さん」
はぁっ、と、大きなため息をついて。ブースの横に立ったままの小林くんが、ガシガシと頭を掻いた。
「想い人とあんたがいちゃついてるのを見せつけられるって、なんっつう罰ゲーム? 俺、あんたにとって恩人なはずなんだけど?」
そうして、ぶっきらぼうに、智を見つめて言葉を紡ぐ。
「……ここに来たのは、別にあんたの言葉に説得力を持たせるためじゃないからな。つか、勝手に俺の気持ちを代弁すんな、ばーか」
小林くんの、乱暴な言葉遣い。それはまるで、小林くんが藤宮くんに話しかけているような、そんな言葉遣いで。いつの間にか、智と小林くんの間に、不思議な空気が漂っていた。
小林くんが、一重の澄んだ瞳をすっと細めた。まるで、遠くを見るように。そうして、誰に伝えるでもなく、小さく呟いた。
「………取り戻せたんだな」
その言葉に、智も……小さく、呟いた。
「言ったろ。奪われたら、奪い返してやるって」
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