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本編・第二部
118 シナリオを、砕いてやる。
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終業時刻を20分ほど過ぎた頃。俺の目の前に座る明るい髪が揺れて、ふわりと立ち上がった。
「お疲れ様でした」
淡々と。感情を殺したような片桐の声が、2課のフロアに響いた。その声に俺は軽く頭を下げて、自分の荷物を片付け始める。ゆっくりと、それでも冷静に。
慌てるな。焦るな。跳ねた心臓を必死に元に戻せ。片桐に、俺の本心を悟られてはいけないのだから。
俺も、三木さんも。どちらも幸せにならない道を進んだ、その旅路に―――幕を引くと決めた、俺の本心を。
ビジネスバッグの奥底から今日のために準備した未開封の煙草の箱を引っ張り出した。側面の外ポケットから買ったばかりのライターを手に取りながら、自分の席を立つ。
「お疲れ様です、お先に失礼します」
そう口にして。俺は、脳裏に彼女の白い背中を思い浮かべながら……足を動かした。
がちゃり、と、音を立てて喫煙ルームの扉を開けた。幸か不幸か。ここには、今。俺たちふたりしか、いない。
この男は、終業後に一服付けてからロッカーに向かう。その行動を読んで……俺は2ヶ月振りに足を運んだ。
今日、ここで1本吸って、目的を果たしたら―――俺の人生で、もう二度と、吸わない。
そう決意して、喫煙ルームの奥にある椅子に腰かけ、長い脚を優雅に組んだヘーゼル色の瞳に視線を向けた。
「やぁ。小林くん」
泰然自若としたその姿に。フロアで見せていた悲愴な表情が、そのこけた頬さえ、作られたモノだと確信する。腸が煮えくり返るような激情を堪えながら、淡々と言葉を紡ぐ。
「御母堂様の魂の平安をお祈りします」
そう確信したとて、死者を冒涜する感情は持ち合わせていない。マナー本で調べたクリスチャンに向けてのお悔やみの言葉を口にした。
「お気遣いありがとう。俺の仕事、小林くんが受け持ってくれていたのかなぁ?」
へにゃり、と。いつものように、人懐っこそうに笑う男をじっと見つめた。
俺にだけ、腹の一物を隠すこともせずに接するこの男に。誰かに誰かを重ねて―――三木さんに一瀬さんを重ねてしまった、愚かで無意味な自分に。
俺は―――決別する。
片桐の問いに答えるつもりはない。この問いに答えれば、片桐が一瀬さんに話しかける話題がひとつ増えるだけ。自らを落ち着けて煙草を開封していく。
「……今夜。協力することは、止めさせてもらいますから」
俺が片桐に加担することを止めることで、俺が犯した過ちを、一瀬さんに知られるかもしれない。
それでも、もう、よかった。一瀬さんが片桐の毒牙から逃れられるなら。俺に対する視線なんて、もう、どうでもいい。
彼女が笑ってくれる為なら何でも出来る、なんて、思っているだけでは意味はない。宵闇だった俺の世界に、まるでカメラのフラッシュを焚くように、光を与えてくれた彼女だから。だからこそ……俺は一歩を踏み出す。彼女が俺を守ってくれたように、俺も彼女を守りたい。
喩え、彼女に軽蔑され、蔑んだような視線を向けられたとしても。
逸る気持ちを落ち着かせようと、ライターの横車をゆっくり擦った。この喫煙ルームは、立って吸える場所と、座って吸える場所がある。片桐の近くに座ることは本能が拒否していた。だから…立ったまま、ゆっくりと灰を落とす。
片桐に俺の本心を見透かされるわけにはいかない。こいつは、蛇のような狡猾な男だから。油断して、またこの前のように足元をすくわれたら、これまでの全てが…水の泡。
「ふぅん…」
俺の言葉に、片桐が面白くなさそうに顔を歪める。ふぅ、と、紫煙を天井の換気扇に向けて吐き出して、ヘーゼル色の瞳が俺を真っ直ぐに捉えた。
「本当に…君は自分のことしか考えていないんだね」
強い感情が籠った瞳で見据えられ、一瞬、呼吸が止まる。俺と片桐だけの、この空間の気温が。一気に下がった気がした。
「あのさ。君が知香ちゃんからどんな視線を向けられようと自業自得だから知らないけど。真梨ちゃんのことは考えたことある?」
俺は、過去の俺に決別する。そう決めたのに。
「君が今、考えていることを当ててあげる。愚かな行為の代償を受けるのは、この世界で、俺だけでいい。そんな風に思ってるでしょ」
決別するための術を。俺の小さな手から、ゆっくりと取り上げられていく。
「俺が君と真梨ちゃんの関係を知香ちゃんに伝えたとして。知香ちゃんが君に蔑んだ視線をむけるのは当然だろうけど、真梨ちゃんが知香ちゃんからどう見られるかって、君は考えたことないでしょ?」
全身から体温がゆっくりと下がるのを感じる。ヘーゼル色の瞳が、俺を雁字搦めに捕らえて、離さない。
「真梨ちゃんが身体を差し出したのは自分のせいだって、知香ちゃんは自分を責める。真梨ちゃんは、知香ちゃんのその『可哀想な三木ちゃん』という視線に耐えないといけなくなる」
指一本動かせない。身動きが―――取れない。
「君は本当に自分のことしか考えていないよ。知香ちゃんは君が傷ついていても自分のことを好きでいて欲しくないはずだ。彼女は強いからこそ、脆い。少し考えればすぐわかること」
噛み締めた唇から血の味がする。それでも俺は、ヘーゼル色の瞳から、目が離せなかった。
「どうしてそんな簡単なことがわからないんだろう、って、ずっと疑問だったんだ。九十銀行次期頭取、っていう肩書きに押さえ付けられて、己を閉じ込めている時間が長かったからなんだろうね」
片桐が、また煙草を口に咥えて吸い込んだ。ゆっくりと、その口から紫煙が立ち上るのを見つめる。
「彼女の幸せを願うのは、それで君自身が満たされるから。そうでしょ。彼女に寄り添うように見せかけて、本心では自分と彼女の幸せを決めつけて、一緒くたにして。俺からしてみれば君は虫唾が走るほど独善的だ。…………だから俺は、君が嫌いなんだ」
片桐が手に持った煙草を灰皿に押し付けた。ゆっくりと立ち上がり、俺のほうに近づいてくる。
俺よりも背が高い片桐が僅かに腰を曲げて、目線が同じ高さになる。いつもは高い位置から俺を見おろしているというのに、いつもよりもずっと…いや、遥かに、蔑まされている。
「その独善的な考えに真梨ちゃんを巻き込んだことも、俺は赦せない。喩えそれが彼女から伸ばされた救いの手だったとしても、君はそれを取るべきではなかったんだよ」
冷たく、冷酷に。俺が見えないフリを、気が付かないフリをしていた事実を。研ぎたての切れ味の鋭いナイフを、心に押し付けられていく。
「知香ちゃんは他人に共感する力が強い。真梨ちゃんのおばあちゃんの通夜の時に君も気づいたでしょ? だから、君が血反吐を吐いて彼女を守ろうとすること、真梨ちゃんが君を救おうとしたこと。それらを知った時の彼女の哀しみはどれほどだろうね」
あの夜。一瀬さんが三木さんを見遣って、呟いた一言が…脳裏に蘇った。
「君が真梨ちゃんの手を取ったから。彼女も追い詰められた。結果的に、君が追い詰めた」
片桐が、俺の顔の前で放ったその言葉に、思考が固まる。
「…ま、さか、三木、さんにも」
喉がひゅうひゅうと音を立てた。声が掠れる。俺の知らない間に。彼女にも……揺さぶりを、かけられている。そう気づいた時には、もう、遅かった。
「さぁ。どうなんだろうね?」
笑みを湛えたヘーゼル色の瞳が、酷く不気味だ。一瞬で……俺の喉を喰い千切るだけの力を持っている、その瞳が。
「君は、もう俺から逃れられないよ」
ゆっくりと、けれど確実に。俺は、片桐に、崖っぷちに追いやられている。
「わかる? 君が真梨ちゃんの手を取ったあの瞬間から。君はもう、俺に従うしかなくなっているんだよ?」
優しく、やわらかく問うのは声だけ。棘だらけの言葉が蔓となって、俺を搦め取った。
ポン、と、俺の肩を軽く叩いて、片桐が喫煙ルームから出ていった。俺の右手にある煙草が、あっという間に手元まで灰になる。
「……俺には…」
もう、何も、打つ手が、ない。
喫煙ルームの外で、片桐が一瀬さんと三木さんに声を掛けているのを遠のく意識の片隅で認識する。
「……すみません…三木さん……」
なぜ、三木さんの名前が出てきたのか、自分でもよくわからなかった。
ゆっくりと。決別すると決めた、己の心を捨て去るように。灰になった煙草を灰皿に放り込んだ。
一次会も、二次会も。とにかく、平静に、冷静に努めた。余計なことは話さないように。
ぼんやりと、一瀬さんが邨上との馴れ初めを俺の同期の徳永に話しているのを、適当な酒を呷りながら左から右に流して聞いた。
「……先輩、私、実家に行く電車がなくなっちゃうので、もう帰りますね?」
隣で座っていた三木さんが、一瀬さんに向けて名残惜しそうに声を上げる。一瀬さんが席を立って、三木さんがずりずりと通路側にずれた。
その動作に、心底ほっとした。
三木さんにも揺さぶりをかけられているのではないかと思っていた。だから、彼女がここで帰る、ということは、揺さぶりをかけられているわけではない、ということと同意義。
視界の隅で、三木さんが俺たちがいるブースに背中を向けた姿を捉えて、小さく息を吐き視線を膝に落とす。
「私もお手洗い行ってきます」
一瀬さんがそう声をあげて、席を立った。その声につられて、視線をつぅ、と、左に動かした、その時。長椅子に、見慣れない煙草の箱が落ちているのが目にとまった。瞬間的に、三木さんが吸っている煙草の箱だと認識する。クリスマス翌日に、あの喫煙ルームで吸っていた…女性向けの、細い煙草。
忘れ物、なのだろうか。そう考えて、遠くなっていく背中を目で追おうとして…呼吸が止まった。
箱の下に。なにか―――挟んである。
そのなにかが、この紙が……三木さんからのSOSなのだと瞬時に理解した。
俺の目の前に座る男へ向けての、湧き上がる怒りを抑えきれない。全身がゆっくり冷えていくのを感じた。
一瀬さんを邨上から奪い取るために。出来る手段は全て使う。そういう男なのだ、こいつは。
不自然ではないタイミングで、この場を離れて、そのSOSを受け取る。そう決めて、煙草の箱に手を伸ばし、ゆっくりと機会を伺う。
「彼女に一目惚れだったんです。今の時代は、ストレートに言わないと1ミリも恋愛が進展しない、だらだらと肉体関係を持っても友達だと平然と言い張れる時代なので」
片桐が、俺に向かって嫌みを投げつけた。俺はそれにすら動じなかった。動じてしまっては、負けだと思ったから。
三木さんが残したSOSの煙草の箱を握る手が汗ばんで来る頃、一瀬さんがお手洗いから戻ってきた。
「……俺も、お手洗い行ってきます」
ゆっくりとスーツのポケットに煙草の箱を忍ばせて席を立つ。一瀬さんが、ふわり、と。花が綻ぶように笑って、いってらっしゃい、と、言葉をくれた。
その笑顔を……守り、たい。
跳ねる心臓を抑えて、男子トイレの個室に入り、鍵をおろして勢いよく三木さんからのSOSを開いた。
『さっき喫煙ルームで何を揺さぶられたかは知らないけれど、あんたが死ぬ時に後悔をしない選択を選びなさい。今度こそ、間違えてはダメ』
この紙がSOSではなかった事に安堵して、大きく息をついた。そして、やはり三木さんには、俺のことは全てお見通しなのだと悟る。
(あの人には……適わねぇや…)
さっき喫煙ルームの外で三木さんの声がしていた事が脳裏を過ぎる。なんで、俺があの時に揺さぶられたとわかったのだろう。
込み上げてくる何かを必死に押さえて、頭を回転させていく。
俺が、死ぬ時に…後悔をしない、選択肢。
このまま一瀬さんを片桐に奪わせるのか。
……三木さんを、傷付けるのか。
(どっちを選んでも…後悔する選択肢しかないんだよな……)
結局は、俺の弱さがこの状況を作り出した。その事実に、この現状に。八つ当たりするように……思わず個室の壁を殴った。
ガンッと大きな音がして、拳がジンジンと痛む。
こんな痛み。奪われたあとの一瀬さんの痛みに比べたら、傷付けられたあと三木さんの痛みに比べたら、屁でもない。
どちらを選んでも、同じ。
一瀬さんを奪わせて、三木さんに軽蔑されるか。
三木さんを傷つけて、一瀬さんに軽蔑されるか。
叩きつけた右の拳を握りしめる。血が滲むのも構わずに、力の限り…己への怒りを込めて、握り締めた。
答えなんて、出なかった。
無力感に苛まれながらブースの近くまで戻ると、片桐の作った声色が聞こえてくる。
「気づいてたと思うけど俺、自分のこと全く他人に喋れない人間なんだよね。なんだか…弱みを見せるみたいで、嫌だったんだ。けど、知香ちゃんになら、抵抗なく話せた。だから聞いてくれて……ありがとう」
……アウェアネス。自分のこと全く他人に喋らない人間が、初めてこんなに喋ってくれた、と、特別感を感じさせることができる心理学。
(……心理学的手法を使って、口説くってことか)
飲んで酔わせて実力行使に出るつもりかと思っていた。そこまで非道ではなかったかと軽く息を吐いた、その瞬間。
「ねぇ、知香ちゃん。知香ちゃんが智くんを好きって気持ち、それが智くんによって意図的に作られたものだったら……どうする?」
(こいつ……!)
さぁっと、全身の血の気が引く。
「さっき、徳永ちゃんに話してた、付き合う前の話し。あれね…割と有名な心理学の応用なんだ」
人間の脳は、何かしらのコントロール感を探すようにできている。大昔の人が雨乞いをしていたのも、自分が天気をコントロールしていると思い込みたい心理が働いているから。
「付き合っちゃだめ、と思えば思うほど、付き合いたくなる。それは、カリギュラ効果っていうやつ」
相手の価値観を挿げ替え、心理をコントロールするのは訓練すれば簡単だ。俺が、丸永忠商社を心理学の応用で落としたように……人間の、無意識の部分のコントロールを利用すれば。
人間は、驚きと混乱を繰り返し与えられると、意識的な思考がストップすることになる。1+1=2が間違いで、答えは3だと何度も叩き込まれるようなもの。
特に……親しい人に関連すること。その驚きや混乱に対して、ほとんどの場合が必死に思考を巡らせ、そこに意味を読み込もうとし、その結果思考がパンクする。
この方法は、一瀬さんのように論理的思考を持った人間、かつ、感情が他者に引っ張られやすい人がよりかかりやすい。
所謂カルト教団などの団体が、優秀な人材を籠絡するために用いた手法に近いモノ。
そこから導き出される、片桐の思惑に、呼吸が止まった。
(催眠による……暗示!?)
催眠はインチキでもなんでもない、古代エジプト時代からある心理学の応用。
人間の中身は意識と無意識に分けられる。歩くのは意識、歩くために足を動かすのは無意識。
催眠は、その無意識にアプローチする方法。
意識的な思考を、停止させる。先ほどのように、驚きと混乱を繰り返し与えることによって、一時的に判断不能状態に陥り精神的機能をストップさせ…トランス状態に導く。
トランス状態に陥った人間に直接指示を出せば、相手は素直にそれに従って行動する。何もわからない状態は、人間の脳にとって非常にストレスフルな環境。その環境から一刻も早く抜け出したい、と本能的に感じる。故に…その状態で行動を指示される言葉を刻まれると、よくわからないけれど、本能的にその言葉に従ってしまう。
……つまり、トランス状態に落とし込み、暗示の言葉を投げかけられると、人間の根幹である無意識に、その言葉が刻み込まれる。
大抵の場合はその暗示は時間とともに抜けていく。けれど、その暗示を、元に戻せない暗示をかければ……心的外傷後ストレス障害の治療に用いられるような、後催眠暗示をかければ。話しは、別。
(クソッタレ…!!)
片桐は暗示をもって、一瀬さんが邨上へ向ける愛情を自分にスライドさせる気だ。
俺では、その後催眠暗示を解けない。だって、彼女が見ているのは、俺じゃないから。
弾かれたように店外に出る。足が縺れて階段を転がり落ちた。周りを飲み歩く人たちが、何事かと俺を振り返り、酔った男がこけたと認識してすっと視線をずらしていく。
「ってぇ……」
俺は、階段を転がり落ちた拍子に打った、右腕の痛みを無視して、震える手でスマホの連絡先から藤宮の名前を探し出した。
俺の生命が尽きる瞬間に。今日の出来事を……一瀬さんの心を見殺しにした、と。後悔、したくない。それが、俺の……選択。
スマホを左耳にあてると、あの白い背中が脳裏に蘇る。
(三木さん…すみません…)
俺は―――あなたを犠牲にする選択をした。
呼び出し音が途切れた瞬間、親友の名を叫んだ。
「藤宮!」
『なんだよ、どーした?』
この場に似つかわしくない、呑気な声が電話口から聞こえてくる。それでも、声の限り叫んだ。
「邨上の連絡先を教えてくれっ……!」
『……は?』
恋敵の連絡先なんて、知りたくもなかった。仕事上、何度か電話を交わし、メールを交わした。メールの署名欄に記載された電話番号は、俺にとっては忌まわしい数字の羅列でしかなかった。でも……今、この瞬間ほど…俺を嘲笑うかのような無機質な数字の羅列を、この頭に叩き込んでおけばよかったと思うことは、なかった。
切羽詰まった俺の声に、藤宮が声を失くしている。どういう心境の変化だ。何があった。きっと、たくさんの言葉が、藤宮の頭に浮かんでいるはずだ。それでも今は詳しく説明している時間はなかった。最短で…あの忌まわしい数字を、知らなければならないんだ、俺は。
「俺じゃ、助けらんねぇんだ、あの人じゃなきゃ……」
心臓がじくじくと痛む。去来する多くの感情を処理できない。一瀬さんの笑顔を守りたい。彼女を俺の手で幸せにしたかった。彼女のやさしい笑顔を、甘い声を俺に向けて欲しかった。三木さんを見つめるあのやさしい視線を、俺のこの手で守りたかった。
でも……もう、すべてが、俺の手には負えなくなってしまった。俺が間違って選び取った選択は、それほどに大きかった。もう……ヤツにしか、頼れない。
長い長い沈黙ののちに、ゆっくりと言葉が紡がれる。
『……先輩、イタリアに出張中だぞ。繋がるかどうか怪しいが、……先輩の電話番号、ショートメール送っておく』
「すまない、ありがとう」
『お前から今回の件でありがとうって言われたの初めてだな』
藤宮がふっと笑った。
震える手で、画面をショートメールアプリに切り替えて、表示された番号をタップする。
(……繋がってくれ……頼むから……)
血が滲んだ右の手のひらを、ゆっくり開いた。
何度―――この手に、血を滲ませただろう。
何度、繰り返すのか。何度、悔しさを噛み締めるのか。
それでも、俺は。この小さな手を、力の限り伸ばすしかないんだ。
もう、二度と―――間違えない、ために。
接続音が呼び出し音に変わる。その音に、小さく安堵した。あとは。知らない番号からの電話に、ヤツが出てくれるかどうか。
一か八かの、賭け。
(出てくれよ……頼む…………)
手が震える。足が震える。
無機質な呼び出し音だけが、延々と響く。……あの日と同じ真っ黒な曇天を見上げながら、歯噛みする。
「……これが、運命、というなら」
邨上が間に合わず、一瀬さんが片桐の手に堕ちてしまうなら。
運命なんて、クソ喰らえだ。
俺は、抗って、抗って、抗ってやる。
呼び出し音が続く中、次の手を考え出した、その瞬間。
呼出音が、途切れて。
俺は弾かれたようにその場から走り出す。
俺は、俺のやり方で。
―――運命のシナリオを、砕いてやる。
「お疲れ様でした」
淡々と。感情を殺したような片桐の声が、2課のフロアに響いた。その声に俺は軽く頭を下げて、自分の荷物を片付け始める。ゆっくりと、それでも冷静に。
慌てるな。焦るな。跳ねた心臓を必死に元に戻せ。片桐に、俺の本心を悟られてはいけないのだから。
俺も、三木さんも。どちらも幸せにならない道を進んだ、その旅路に―――幕を引くと決めた、俺の本心を。
ビジネスバッグの奥底から今日のために準備した未開封の煙草の箱を引っ張り出した。側面の外ポケットから買ったばかりのライターを手に取りながら、自分の席を立つ。
「お疲れ様です、お先に失礼します」
そう口にして。俺は、脳裏に彼女の白い背中を思い浮かべながら……足を動かした。
がちゃり、と、音を立てて喫煙ルームの扉を開けた。幸か不幸か。ここには、今。俺たちふたりしか、いない。
この男は、終業後に一服付けてからロッカーに向かう。その行動を読んで……俺は2ヶ月振りに足を運んだ。
今日、ここで1本吸って、目的を果たしたら―――俺の人生で、もう二度と、吸わない。
そう決意して、喫煙ルームの奥にある椅子に腰かけ、長い脚を優雅に組んだヘーゼル色の瞳に視線を向けた。
「やぁ。小林くん」
泰然自若としたその姿に。フロアで見せていた悲愴な表情が、そのこけた頬さえ、作られたモノだと確信する。腸が煮えくり返るような激情を堪えながら、淡々と言葉を紡ぐ。
「御母堂様の魂の平安をお祈りします」
そう確信したとて、死者を冒涜する感情は持ち合わせていない。マナー本で調べたクリスチャンに向けてのお悔やみの言葉を口にした。
「お気遣いありがとう。俺の仕事、小林くんが受け持ってくれていたのかなぁ?」
へにゃり、と。いつものように、人懐っこそうに笑う男をじっと見つめた。
俺にだけ、腹の一物を隠すこともせずに接するこの男に。誰かに誰かを重ねて―――三木さんに一瀬さんを重ねてしまった、愚かで無意味な自分に。
俺は―――決別する。
片桐の問いに答えるつもりはない。この問いに答えれば、片桐が一瀬さんに話しかける話題がひとつ増えるだけ。自らを落ち着けて煙草を開封していく。
「……今夜。協力することは、止めさせてもらいますから」
俺が片桐に加担することを止めることで、俺が犯した過ちを、一瀬さんに知られるかもしれない。
それでも、もう、よかった。一瀬さんが片桐の毒牙から逃れられるなら。俺に対する視線なんて、もう、どうでもいい。
彼女が笑ってくれる為なら何でも出来る、なんて、思っているだけでは意味はない。宵闇だった俺の世界に、まるでカメラのフラッシュを焚くように、光を与えてくれた彼女だから。だからこそ……俺は一歩を踏み出す。彼女が俺を守ってくれたように、俺も彼女を守りたい。
喩え、彼女に軽蔑され、蔑んだような視線を向けられたとしても。
逸る気持ちを落ち着かせようと、ライターの横車をゆっくり擦った。この喫煙ルームは、立って吸える場所と、座って吸える場所がある。片桐の近くに座ることは本能が拒否していた。だから…立ったまま、ゆっくりと灰を落とす。
片桐に俺の本心を見透かされるわけにはいかない。こいつは、蛇のような狡猾な男だから。油断して、またこの前のように足元をすくわれたら、これまでの全てが…水の泡。
「ふぅん…」
俺の言葉に、片桐が面白くなさそうに顔を歪める。ふぅ、と、紫煙を天井の換気扇に向けて吐き出して、ヘーゼル色の瞳が俺を真っ直ぐに捉えた。
「本当に…君は自分のことしか考えていないんだね」
強い感情が籠った瞳で見据えられ、一瞬、呼吸が止まる。俺と片桐だけの、この空間の気温が。一気に下がった気がした。
「あのさ。君が知香ちゃんからどんな視線を向けられようと自業自得だから知らないけど。真梨ちゃんのことは考えたことある?」
俺は、過去の俺に決別する。そう決めたのに。
「君が今、考えていることを当ててあげる。愚かな行為の代償を受けるのは、この世界で、俺だけでいい。そんな風に思ってるでしょ」
決別するための術を。俺の小さな手から、ゆっくりと取り上げられていく。
「俺が君と真梨ちゃんの関係を知香ちゃんに伝えたとして。知香ちゃんが君に蔑んだ視線をむけるのは当然だろうけど、真梨ちゃんが知香ちゃんからどう見られるかって、君は考えたことないでしょ?」
全身から体温がゆっくりと下がるのを感じる。ヘーゼル色の瞳が、俺を雁字搦めに捕らえて、離さない。
「真梨ちゃんが身体を差し出したのは自分のせいだって、知香ちゃんは自分を責める。真梨ちゃんは、知香ちゃんのその『可哀想な三木ちゃん』という視線に耐えないといけなくなる」
指一本動かせない。身動きが―――取れない。
「君は本当に自分のことしか考えていないよ。知香ちゃんは君が傷ついていても自分のことを好きでいて欲しくないはずだ。彼女は強いからこそ、脆い。少し考えればすぐわかること」
噛み締めた唇から血の味がする。それでも俺は、ヘーゼル色の瞳から、目が離せなかった。
「どうしてそんな簡単なことがわからないんだろう、って、ずっと疑問だったんだ。九十銀行次期頭取、っていう肩書きに押さえ付けられて、己を閉じ込めている時間が長かったからなんだろうね」
片桐が、また煙草を口に咥えて吸い込んだ。ゆっくりと、その口から紫煙が立ち上るのを見つめる。
「彼女の幸せを願うのは、それで君自身が満たされるから。そうでしょ。彼女に寄り添うように見せかけて、本心では自分と彼女の幸せを決めつけて、一緒くたにして。俺からしてみれば君は虫唾が走るほど独善的だ。…………だから俺は、君が嫌いなんだ」
片桐が手に持った煙草を灰皿に押し付けた。ゆっくりと立ち上がり、俺のほうに近づいてくる。
俺よりも背が高い片桐が僅かに腰を曲げて、目線が同じ高さになる。いつもは高い位置から俺を見おろしているというのに、いつもよりもずっと…いや、遥かに、蔑まされている。
「その独善的な考えに真梨ちゃんを巻き込んだことも、俺は赦せない。喩えそれが彼女から伸ばされた救いの手だったとしても、君はそれを取るべきではなかったんだよ」
冷たく、冷酷に。俺が見えないフリを、気が付かないフリをしていた事実を。研ぎたての切れ味の鋭いナイフを、心に押し付けられていく。
「知香ちゃんは他人に共感する力が強い。真梨ちゃんのおばあちゃんの通夜の時に君も気づいたでしょ? だから、君が血反吐を吐いて彼女を守ろうとすること、真梨ちゃんが君を救おうとしたこと。それらを知った時の彼女の哀しみはどれほどだろうね」
あの夜。一瀬さんが三木さんを見遣って、呟いた一言が…脳裏に蘇った。
「君が真梨ちゃんの手を取ったから。彼女も追い詰められた。結果的に、君が追い詰めた」
片桐が、俺の顔の前で放ったその言葉に、思考が固まる。
「…ま、さか、三木、さんにも」
喉がひゅうひゅうと音を立てた。声が掠れる。俺の知らない間に。彼女にも……揺さぶりを、かけられている。そう気づいた時には、もう、遅かった。
「さぁ。どうなんだろうね?」
笑みを湛えたヘーゼル色の瞳が、酷く不気味だ。一瞬で……俺の喉を喰い千切るだけの力を持っている、その瞳が。
「君は、もう俺から逃れられないよ」
ゆっくりと、けれど確実に。俺は、片桐に、崖っぷちに追いやられている。
「わかる? 君が真梨ちゃんの手を取ったあの瞬間から。君はもう、俺に従うしかなくなっているんだよ?」
優しく、やわらかく問うのは声だけ。棘だらけの言葉が蔓となって、俺を搦め取った。
ポン、と、俺の肩を軽く叩いて、片桐が喫煙ルームから出ていった。俺の右手にある煙草が、あっという間に手元まで灰になる。
「……俺には…」
もう、何も、打つ手が、ない。
喫煙ルームの外で、片桐が一瀬さんと三木さんに声を掛けているのを遠のく意識の片隅で認識する。
「……すみません…三木さん……」
なぜ、三木さんの名前が出てきたのか、自分でもよくわからなかった。
ゆっくりと。決別すると決めた、己の心を捨て去るように。灰になった煙草を灰皿に放り込んだ。
一次会も、二次会も。とにかく、平静に、冷静に努めた。余計なことは話さないように。
ぼんやりと、一瀬さんが邨上との馴れ初めを俺の同期の徳永に話しているのを、適当な酒を呷りながら左から右に流して聞いた。
「……先輩、私、実家に行く電車がなくなっちゃうので、もう帰りますね?」
隣で座っていた三木さんが、一瀬さんに向けて名残惜しそうに声を上げる。一瀬さんが席を立って、三木さんがずりずりと通路側にずれた。
その動作に、心底ほっとした。
三木さんにも揺さぶりをかけられているのではないかと思っていた。だから、彼女がここで帰る、ということは、揺さぶりをかけられているわけではない、ということと同意義。
視界の隅で、三木さんが俺たちがいるブースに背中を向けた姿を捉えて、小さく息を吐き視線を膝に落とす。
「私もお手洗い行ってきます」
一瀬さんがそう声をあげて、席を立った。その声につられて、視線をつぅ、と、左に動かした、その時。長椅子に、見慣れない煙草の箱が落ちているのが目にとまった。瞬間的に、三木さんが吸っている煙草の箱だと認識する。クリスマス翌日に、あの喫煙ルームで吸っていた…女性向けの、細い煙草。
忘れ物、なのだろうか。そう考えて、遠くなっていく背中を目で追おうとして…呼吸が止まった。
箱の下に。なにか―――挟んである。
そのなにかが、この紙が……三木さんからのSOSなのだと瞬時に理解した。
俺の目の前に座る男へ向けての、湧き上がる怒りを抑えきれない。全身がゆっくり冷えていくのを感じた。
一瀬さんを邨上から奪い取るために。出来る手段は全て使う。そういう男なのだ、こいつは。
不自然ではないタイミングで、この場を離れて、そのSOSを受け取る。そう決めて、煙草の箱に手を伸ばし、ゆっくりと機会を伺う。
「彼女に一目惚れだったんです。今の時代は、ストレートに言わないと1ミリも恋愛が進展しない、だらだらと肉体関係を持っても友達だと平然と言い張れる時代なので」
片桐が、俺に向かって嫌みを投げつけた。俺はそれにすら動じなかった。動じてしまっては、負けだと思ったから。
三木さんが残したSOSの煙草の箱を握る手が汗ばんで来る頃、一瀬さんがお手洗いから戻ってきた。
「……俺も、お手洗い行ってきます」
ゆっくりとスーツのポケットに煙草の箱を忍ばせて席を立つ。一瀬さんが、ふわり、と。花が綻ぶように笑って、いってらっしゃい、と、言葉をくれた。
その笑顔を……守り、たい。
跳ねる心臓を抑えて、男子トイレの個室に入り、鍵をおろして勢いよく三木さんからのSOSを開いた。
『さっき喫煙ルームで何を揺さぶられたかは知らないけれど、あんたが死ぬ時に後悔をしない選択を選びなさい。今度こそ、間違えてはダメ』
この紙がSOSではなかった事に安堵して、大きく息をついた。そして、やはり三木さんには、俺のことは全てお見通しなのだと悟る。
(あの人には……適わねぇや…)
さっき喫煙ルームの外で三木さんの声がしていた事が脳裏を過ぎる。なんで、俺があの時に揺さぶられたとわかったのだろう。
込み上げてくる何かを必死に押さえて、頭を回転させていく。
俺が、死ぬ時に…後悔をしない、選択肢。
このまま一瀬さんを片桐に奪わせるのか。
……三木さんを、傷付けるのか。
(どっちを選んでも…後悔する選択肢しかないんだよな……)
結局は、俺の弱さがこの状況を作り出した。その事実に、この現状に。八つ当たりするように……思わず個室の壁を殴った。
ガンッと大きな音がして、拳がジンジンと痛む。
こんな痛み。奪われたあとの一瀬さんの痛みに比べたら、傷付けられたあと三木さんの痛みに比べたら、屁でもない。
どちらを選んでも、同じ。
一瀬さんを奪わせて、三木さんに軽蔑されるか。
三木さんを傷つけて、一瀬さんに軽蔑されるか。
叩きつけた右の拳を握りしめる。血が滲むのも構わずに、力の限り…己への怒りを込めて、握り締めた。
答えなんて、出なかった。
無力感に苛まれながらブースの近くまで戻ると、片桐の作った声色が聞こえてくる。
「気づいてたと思うけど俺、自分のこと全く他人に喋れない人間なんだよね。なんだか…弱みを見せるみたいで、嫌だったんだ。けど、知香ちゃんになら、抵抗なく話せた。だから聞いてくれて……ありがとう」
……アウェアネス。自分のこと全く他人に喋らない人間が、初めてこんなに喋ってくれた、と、特別感を感じさせることができる心理学。
(……心理学的手法を使って、口説くってことか)
飲んで酔わせて実力行使に出るつもりかと思っていた。そこまで非道ではなかったかと軽く息を吐いた、その瞬間。
「ねぇ、知香ちゃん。知香ちゃんが智くんを好きって気持ち、それが智くんによって意図的に作られたものだったら……どうする?」
(こいつ……!)
さぁっと、全身の血の気が引く。
「さっき、徳永ちゃんに話してた、付き合う前の話し。あれね…割と有名な心理学の応用なんだ」
人間の脳は、何かしらのコントロール感を探すようにできている。大昔の人が雨乞いをしていたのも、自分が天気をコントロールしていると思い込みたい心理が働いているから。
「付き合っちゃだめ、と思えば思うほど、付き合いたくなる。それは、カリギュラ効果っていうやつ」
相手の価値観を挿げ替え、心理をコントロールするのは訓練すれば簡単だ。俺が、丸永忠商社を心理学の応用で落としたように……人間の、無意識の部分のコントロールを利用すれば。
人間は、驚きと混乱を繰り返し与えられると、意識的な思考がストップすることになる。1+1=2が間違いで、答えは3だと何度も叩き込まれるようなもの。
特に……親しい人に関連すること。その驚きや混乱に対して、ほとんどの場合が必死に思考を巡らせ、そこに意味を読み込もうとし、その結果思考がパンクする。
この方法は、一瀬さんのように論理的思考を持った人間、かつ、感情が他者に引っ張られやすい人がよりかかりやすい。
所謂カルト教団などの団体が、優秀な人材を籠絡するために用いた手法に近いモノ。
そこから導き出される、片桐の思惑に、呼吸が止まった。
(催眠による……暗示!?)
催眠はインチキでもなんでもない、古代エジプト時代からある心理学の応用。
人間の中身は意識と無意識に分けられる。歩くのは意識、歩くために足を動かすのは無意識。
催眠は、その無意識にアプローチする方法。
意識的な思考を、停止させる。先ほどのように、驚きと混乱を繰り返し与えることによって、一時的に判断不能状態に陥り精神的機能をストップさせ…トランス状態に導く。
トランス状態に陥った人間に直接指示を出せば、相手は素直にそれに従って行動する。何もわからない状態は、人間の脳にとって非常にストレスフルな環境。その環境から一刻も早く抜け出したい、と本能的に感じる。故に…その状態で行動を指示される言葉を刻まれると、よくわからないけれど、本能的にその言葉に従ってしまう。
……つまり、トランス状態に落とし込み、暗示の言葉を投げかけられると、人間の根幹である無意識に、その言葉が刻み込まれる。
大抵の場合はその暗示は時間とともに抜けていく。けれど、その暗示を、元に戻せない暗示をかければ……心的外傷後ストレス障害の治療に用いられるような、後催眠暗示をかければ。話しは、別。
(クソッタレ…!!)
片桐は暗示をもって、一瀬さんが邨上へ向ける愛情を自分にスライドさせる気だ。
俺では、その後催眠暗示を解けない。だって、彼女が見ているのは、俺じゃないから。
弾かれたように店外に出る。足が縺れて階段を転がり落ちた。周りを飲み歩く人たちが、何事かと俺を振り返り、酔った男がこけたと認識してすっと視線をずらしていく。
「ってぇ……」
俺は、階段を転がり落ちた拍子に打った、右腕の痛みを無視して、震える手でスマホの連絡先から藤宮の名前を探し出した。
俺の生命が尽きる瞬間に。今日の出来事を……一瀬さんの心を見殺しにした、と。後悔、したくない。それが、俺の……選択。
スマホを左耳にあてると、あの白い背中が脳裏に蘇る。
(三木さん…すみません…)
俺は―――あなたを犠牲にする選択をした。
呼び出し音が途切れた瞬間、親友の名を叫んだ。
「藤宮!」
『なんだよ、どーした?』
この場に似つかわしくない、呑気な声が電話口から聞こえてくる。それでも、声の限り叫んだ。
「邨上の連絡先を教えてくれっ……!」
『……は?』
恋敵の連絡先なんて、知りたくもなかった。仕事上、何度か電話を交わし、メールを交わした。メールの署名欄に記載された電話番号は、俺にとっては忌まわしい数字の羅列でしかなかった。でも……今、この瞬間ほど…俺を嘲笑うかのような無機質な数字の羅列を、この頭に叩き込んでおけばよかったと思うことは、なかった。
切羽詰まった俺の声に、藤宮が声を失くしている。どういう心境の変化だ。何があった。きっと、たくさんの言葉が、藤宮の頭に浮かんでいるはずだ。それでも今は詳しく説明している時間はなかった。最短で…あの忌まわしい数字を、知らなければならないんだ、俺は。
「俺じゃ、助けらんねぇんだ、あの人じゃなきゃ……」
心臓がじくじくと痛む。去来する多くの感情を処理できない。一瀬さんの笑顔を守りたい。彼女を俺の手で幸せにしたかった。彼女のやさしい笑顔を、甘い声を俺に向けて欲しかった。三木さんを見つめるあのやさしい視線を、俺のこの手で守りたかった。
でも……もう、すべてが、俺の手には負えなくなってしまった。俺が間違って選び取った選択は、それほどに大きかった。もう……ヤツにしか、頼れない。
長い長い沈黙ののちに、ゆっくりと言葉が紡がれる。
『……先輩、イタリアに出張中だぞ。繋がるかどうか怪しいが、……先輩の電話番号、ショートメール送っておく』
「すまない、ありがとう」
『お前から今回の件でありがとうって言われたの初めてだな』
藤宮がふっと笑った。
震える手で、画面をショートメールアプリに切り替えて、表示された番号をタップする。
(……繋がってくれ……頼むから……)
血が滲んだ右の手のひらを、ゆっくり開いた。
何度―――この手に、血を滲ませただろう。
何度、繰り返すのか。何度、悔しさを噛み締めるのか。
それでも、俺は。この小さな手を、力の限り伸ばすしかないんだ。
もう、二度と―――間違えない、ために。
接続音が呼び出し音に変わる。その音に、小さく安堵した。あとは。知らない番号からの電話に、ヤツが出てくれるかどうか。
一か八かの、賭け。
(出てくれよ……頼む…………)
手が震える。足が震える。
無機質な呼び出し音だけが、延々と響く。……あの日と同じ真っ黒な曇天を見上げながら、歯噛みする。
「……これが、運命、というなら」
邨上が間に合わず、一瀬さんが片桐の手に堕ちてしまうなら。
運命なんて、クソ喰らえだ。
俺は、抗って、抗って、抗ってやる。
呼び出し音が続く中、次の手を考え出した、その瞬間。
呼出音が、途切れて。
俺は弾かれたようにその場から走り出す。
俺は、俺のやり方で。
―――運命のシナリオを、砕いてやる。
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