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本編・第二部

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 ふわり、ふわりと雪が舞っている。

「寒いぃぃぃ」

 息を吸い込むと鼻の奥がツンとした。思わず肩を竦めて、マフラーに口と鼻を埋めながら、思わず息を長く吐いた。白く彩られた智さんと私の吐息が、朝の日差しに煌めいている。

「ほんと、冷えるなぁ…」

 智さんも珍しくマフラーを巻いていた。

「ね? 寒いよねぇ…」
「もう2月に入るもんな」

 早いもので、1月も今日で終わり。あっという間に、1ヶ月が過ぎてしまった。

「季節が巡るのは早ぇなぁ……」
「だねぇ……あっという間に春になって、あっという間に智さんのお誕生日が来ちゃいそう」

 ほぅ、とため息をつくと、白い吐息が大きく顔に纏わりついた。

「もう俺も31かぁ……」

 少しばかり落ち込んだような智さんの声が響いて、私はくすりと笑った。

「……智さんは、どの季節が好き?」

 手袋をした手を繋ぎ、智さん宅の最寄り駅まで歩く。同棲を始めて3週間。この道の風景も随分と見慣れてきた。

「俺は秋だな~。どの食材も美味しくなる」
「もう、また料理の話?」

 智さんは本当に料理が好きだ。外食に行き美味しい物を食べると、自宅でそれを再現しようと奮闘しだすくらいだ。そして、それがさくっと再現出来てしまうのだから末恐ろしい。

 一度気になって尋ねたことがある。お店で食べた料理が、どの程度分析できるのか、ということ。

『どこのメーカーの調味料使ってるとか、ここはレトルトのあのスープ使ってるとか。生クリームが動物性か、植物性か…っていうのとか。その生クリームを牛乳で代用してるっつーのとか……あとは隠し味もなんとなくわかるぞ?』

 ……という一言で、マスターの言う通り、鼻と舌が効く、というのを強烈に実感した。私が作った料理なんて、目の前に出せたもんじゃない。……美味しい、とは言ってくれるのだけど。智さんに作ってもらった方が、遥かに美味しいのだから。

(智さんの新部門と、池野さんの課題が落ち着いたら、料理教えて貰おうかな……)

 智さんは、新部門へ異動となって。元いた営業3課へのサポートも最近は行かなくて良くなったこともあり、ここ1週間ずっと定時上がり。新部門の立ち上げといっても、情報収集や公官庁への届け出が主なんだそう。

 定時上がり出来るようになった分、自宅で池野さんの課題に向き合って。俺はやっぱり人と接して商売を成立させる仕事のほうが好きだなぁ……とぼやいていた。

 逆に私が残業で遅くなることが増えてしまった。必然的に家事も智さんがほとんど担当してくれていて、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。そんなことを考えていたら、智さんが少し膨れたように言葉を続けた。

「いいだろ、料理好きなんだから。知香は?」

 ぼんやりとした思考を目の前の智さんに戻していく。そうだった、季節の話だった。

「私は……やっぱり冬かな。田舎生まれだから、冬の星空が好きなんだよね。あと、毛布にくるまってアイス食べるの最高」

 結局は、私も季節の話から食べ物に落ち着いてしまった。似てきたなぁと笑いが込み上げてくる。

「じゃぁ今日は帰りアイス買ってくる。何がいい?」
「本当!? じゃ、バニラアイス!」
「りょーかい。……っと思ったけど、知香生理来てたろ…やっぱ無し」
「ええええ~」

 天国から地獄に落とされた気分だ。好きな物を買ってきてくれる、という言葉がものすごく嬉しかった分、その落差に口の先を思いっきり尖らせた。

「身体冷やしちゃだめなんだって。言ったろ?」
「でも、今回生理痛ほとんどないんだって。全然痛くない」

 年末に智さんに教わったシャワーお灸のおかげか、今回の生理はほとんど痛みを感じないのだ。

「たまたまかもしれねぇだろ? 明日から痛くなるかもしれねぇし、用心しておくに越したことはないんだって。だからアイスは却下」

 背の高い智さんを、不満げにじとっと睨みつけた。

「智さんのケチ」
「どうとでも言え」

 ふん、と余裕ぶった笑みが癪に障る。なんとかやり返してやりたいけれど、私にはネタがなくて。


 敬語を使うな、と言われてから2週間。なんとなく、日々の会話は敬語を使わず出来るようになってきた。……そりゃぁ、敬語を使った瞬間に『知香さん?』と微笑まれるようになれば、私も少しは学習する。身体に教え込む、という智さんの作戦が功を奏している……ということに、物凄く腹が立つけれども。

 そうこうしているうちに、電車を降りて会社の最寄り駅の……三井商社に近い、3番出口に近づいた。

「じゃ、今日もお互い頑張ろ?」
「ん。残業なりそうなら、早めに連絡くれよ? 迎え行ってやるから」

 その言葉に苦笑いが漏れた。最近、智さんの過保護っぷりが加速している気がする。……先週、残業をして、タイムカードを押すタイミングが片桐さんと被った時……初日のように、マンション下まで見送られるという事件があってからというもの、私が残業になったら出来うる限り智さんが車で迎えに来るから、ということになってしまっているのだ。

「もう、智さん、心配性なんですって。わかってますよ」
「知香さん?」

 にこり、という笑みとともに、智さんの声のトーンが変わった。

(………聞き逃してはくれないのか…)

 ふわりと微笑まれたその表情に、一瞬で冷や汗が流れた。

「……わ、わかってるってば…」
「わかってんならいーけど?」

 ふっ、と智さんが不敵に笑みを浮かべ、3番出口の階段を登って行った。



 カツカツと、ヒールの音をさせながら軽快に歩いていく。智さんとの日常生活は、本当に夢のように幸せで。こんなに幸せでいいのか、と思う瞬間すらある。

(あの時、ちゃんとお互いに向き合えたから……だろうなぁ)

 蚊帳の外にされたと怒った時。実は、そうでなかったとわかった時。あの時のことを思い出すと、自分の至らなさに涙が出る。けれど、後悔して日々を過ごすより、どう活かすか、を考えた方が効率的。だから、前を向いて歩いていく。智さんと、一緒に。



 他社の社員さんに混じり、エレベーターに乗り込んだ。

「あれ? 先輩?」

 エレベーターの中に見知った顔があって。ゴソゴソと社員証を取り出しながら声をかけた。

「三木ちゃん。おはよ」
「おはようございます、先輩」

 エレベーターを降りて、受付で社員証を機械に翳す。ふたりで更衣室に入って、寒いねと話しながら制服に着替えていく。

「……彼氏さんと、順調なの?」

 私の隣で身だしなみを整えている三木ちゃんに、思わず訊ねてしまっていた。彼氏が出来たという報告は片桐さんの歓迎会の席で聞いたものの、その先のことを聞いていなくて。惚気話……聞きたいな、という安易な気持ちだったから、三木ちゃんが、びくりと震えたことに驚いた。その勝気な瞳を少しだけ目を赤くして。

「……振られちゃいました」

 彼女はそれだけを口にして緩やかに俯いた。その様子を眺めて、私は「そっか」とだけ、返答する。


 私が凌牙と別れた時。三木ちゃんは、ただただ、そばにいてくれた。腫れ物を扱うような態度でもない。今まで通りの態度を向けてくれていた。

 ……それがどれだけ有難いことか。

 だから、私もそうありたい。


「……今日から月末だし、お互い頑張ろうねぇ。銀行周り、大変だろうけど、あったかくしてね?」

 ふわり、と、微笑むと、三木ちゃんがキラキラとした笑顔で私を振り向いてくれて。

 …………私は、本当に出来た後輩を持ったなぁ、と、実感した。






 外線電話が何本も鳴り響いているなか、目の前の水野課長代理から声をかけられた。

「一瀬。丸永忠商社のチキンの通関、明日だったよな?」
「はい、明日です」
「そうか。ドレージ料の請求は?」
「済んでいます。本日、入金確認済みです」

 私の返答に、水野課長代理が満足そうに頷いた。

 丸永忠商社との取り引きは、通関2課の長年の宿願だったから。長いこと贔屓にしていた通関業者から鞍替えしてくれるよう、値段交渉をしたり、極東商社のネットワークをアピールしたり等、さまざまな営業活動をしていたのだけれど。どんなに足を運んでも、話すら聞いてくれなかった先方の担当者をのは……なんと、小林くんなのだ。

 銀行へ行く準備をしていた三木ちゃんに、水野課長代理が機嫌良さそうに声をかける。

「じゃ、これは郵送していいやつだな。………三木、銀行に行くついでにこれ持って行ってくれ」
「はい、承知しました」

 その会話を聞きつけたのか、1課側のパーティションの奥から徳永さんがひょこっと顔を出して三木ちゃんを呼び止めている。

「三木さん、1課の分も併せて銀行行くのお願いできませんか」
「は~い、わかりました!」

 元気な三木ちゃんの声が響いて、更衣室での光景が一瞬蘇った。それを打ち消すように頭を振って、私は斜め前の片桐さんに声をかけた。

「片桐さん、うちの水産販売部の漁獲証明書の件、進捗はどうですか?」
「今日には取得できるって言ってたよ~」 
「了解です。……小林くん、三井商社への輸入許可通知書I / Dは?」
「仕上がってます。チェックお願いします」

 ここ最近の、小林くんの営業成績は目覚ましいほどだ。凌牙が……小林くんの適性を見抜いて采配した、ということに、素直に感謝したい。

 目を見張るような成長度合いと、仕事に対する打ち込み方は…なんというか、智さんへのを意識したもの、だと思っている。智さんは、弱冠30歳にして管理職へ王手という営業マンだ。……小林くんは、対抗心を剥き出しにしないと勝てない…と思ったのだろうか。

 けれど。あまりにも…鬼気迫るような、そんな気迫が漂っていて。私は、だと思うと、とても居た堪れない気持ちになるとともに。あまりにも……その狂気を孕んだような小林くんの雰囲気が、正直…とても心配でたまらない。

 けれど、それを私が出してしまえば。小林くんの気持ちを踏み躙ることに繋がるだろう。だから、隣で仕事をしていても。私が抱える感情を、必死で抑えている。

「……ん~、これ船荷証券B  /  L番号、違うんじゃない?」
「あ……本当だ。すみません、すぐ訂正します」


 1月も終わりに近づき、通関部は全体的にバタバタと目まぐるしい時間が流れている。小林くんが落としてきてくれた丸永忠商社は、東南アジア系への輸入出を行っていて、旧正月を挟んで2~3月の荷動きがとても激しくなる。その他の会社も3月決算の会社が多いため、どうしても通関が集中してしまうのだ。


「知香ちゃん、はい。水産販売部の漁獲証明書」

 へらっと、ヘーゼル色の瞳が私に笑いかけてくる。

「ありがとうございました」

 片桐さんは社内でも仕事中以外は堂々と私に絡んでくる。その対応に初めの頃は苦慮していたけれど、最近は軽くあしらえるようになってきていた。

「もう、本当につれないよねぇ…はい、今日寒いから、ホットレモン買ってきたよ。あんまり仕事抱え込んじゃだめだよ?」
「……ありがとう、ございます」

 堂々と絡んでくるものの、結局は身体を大事にと言われて去っていく。今日みたいに、飲み物の差し入れや、ミニカイロの差し入れだったり、口にすぐ入れれるような小さめのお菓子だったり。


 やはり性根から悪い人ではないのかもしれない。いや、性根から悪くなければ、どんな手段を使ってでも智さんから私を奪おうとはしないだろう。けれど、結局は身体を大事に、という話に落ち着くのだ。優しい人では……あるのかもしれない。


 先週、残業時間が被ってしまって、智さん宅のエントランスまで見送られた時も。

『今日も寒いからね? ちゃんとあったかくして寝るんだよ? 智くんにも伝えてね?』

 ……と。あの痛みを孕んだ瞳で、見つめられたのだ。


 結局、片桐さんが何をしたいのか、私をどうしたいのかが、全く読めないでいる。

「……あったかい」

 ホットレモンのペットボトルをカイロ代わりに手で握りしめて、私はポツリと呟いた。
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