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本編・第二部
74 俺の全てを、捧げても。
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パンっと乾いた音が響き、頬を思いっきり叩かれたことを認識する。
「……あんた、今頃になってどういうつもりなの」
じんじんと腫れ上がる痛みを堪え、そっと手で押さえた。ブラックのアイライナーに彩られた勝気な瞳が目の前にある。
「せっかく先輩が幸せを掴んだのに、どういうつもり!?」
黙った俺に痺れを切らしたのか、勢いよく胸ぐらを掴まれる。肩甲骨まで伸びた明るい髪が大きく揺れた。
あぁ、女性に叩かれるなんて、胸ぐらを掴まれるなんて。何時ぶりだろう。大学3年の時に、九十銀行ではなく、極東商社への内定話をした遊び相手に叩かれた時、以来か……。
月曜日。片桐が、俺に揺さぶりをかけた日。その言葉の意味を、彼女の隣で1日中考えていた。
『彼女は……君が傷ついていても、自分をずっと好きでいることを、望むのかなぁ?』
何度、このセリフを反芻したことか。俺が彼女を好きでいること自体が、彼女を傷付けてしまうかもしれない、という事実に。俺はそんな単純なことにも…気が付けやしなかった。
もう、彼女は邨上を選んでしまっている。
俺は間に合わなかった。あの日、邨上が彼女を泣かせた日に。混乱する彼女を前に、想いだけを伝えてそのまま引いてしまったから。
俺は、間に合わなかったんだ。彼女を想って自分を慰めた日……自分の気持ちに気付かないフリをした日に。あの時に、自分の気持ちに気付かないフリをしなければ。どれだけ苦しくても、その現実を受け入れなくてはならないのだ。胸を抉られるほどの激しい感情を彼女から与えられるとわかっていても、それでも。
彼女は知らない。俺を、九十銀行頭取の甥、としてではなく。ただの……ただひとりの。小林達樹という男として、俺を見てくれていると気がついた時の……俺が打ち震えた、歓びを。
その歓びにすら、気が付かなかったフリをした……罰として。俺は、現実を受け入れなくてはならないのだ。
だからこそ…だからこそ。陰から、彼女の幸せを願おうと。彼女が笑ってくれるなら、それでいい、と。そう思っていたのに。
火曜日。一瀬さんが、俺の隠している本心に気がついた、ということを悟った。
俺が隠している本心に気が付いてなお、今まで通り接しようとする彼女の気配りに。彼女の強さに。
……途方もなく、嫉妬した。
俺だったら。もし、俺が一瀬さんの立場だったら……そんな態度は、できないから。片桐に、俺に。傷つけられてもなお、彼女の凛とした姿に…俺はまた、俺が抱える彼女への気持ちを、再認識した。
片桐の挑発に、乗るべきではない。
けれど、今後…彼女とどう接するべきか。どうしようかと考えあぐねている時に、昼休みに1課の大迫係長から声をかけられた。業務上の話から、席替えをして一瀬さんの隣になったことを羨ましがられる。
「ここだけの話、平山と別れた時は可哀想だなって感情しかなかったけど、ここ最近の一瀬さん綺麗になってさぁ………別れたことが結果的にいい経験になったんだなって思ったぜ。だからお前が羨ましいよ」
「……え?」
「お前が一番近くにいるんだからな。優良物件、お前が落とさなくてど~するよ」
「……どう、とは」
ふい、と。肘で軽く小突いてくる大迫係長から視線を逸らした。
……クリスマス翌日に、三木さんに言われたこと。俺が一瀬さんに向ける視線は、露骨だということ。ならば……大迫係長も、俺が抱える劣情に気づいているのかもしれない。
「すっとぼけるなぁ……好きなんだろ? 彼女のこと」
「……なんのことでしょうか」
ただでさえ、一瀬さんと平山のことが面白可笑しく噂されているのだ。……そこに、余計な火種は追加したくない。
彼女と邨上の想いが通じたあの日から禁煙をやめ、喫煙ルームに足を運ぶようになり……尾ひれのついた噂を幾度となく耳にした。
一瀬さんが平山の奥さんに嫌がらせして、それが原因で離婚した、だとか。当てつけで総合職に転換し、新たな道を歩みだした平山自身へ嫌がらせしている、だとか。
その度に、俺は抱え込んだ劣情をふつふつと甦らせることになったのだ。だからこそ、俺は……彼女への気持ちを封印しなければならない。彼女の笑顔のために、なんだってするのだと決めているから。
「……ま、いいけどよ。いきなり現れた片桐に掻っ攫われたら、男が廃れるぜ?」
「………」
大迫係長の言葉に。ふつり、と。自分の中で張り詰めていた糸が切れた。
挑発に、乗りたくはない。けれど…このまま、やられたままで終わりたくは、ない。
ならば。少しくらい、邨上と片桐に意趣返しをしたって赦されるだろう。
そう。これは、挑発に乗ったのではない。俺が……片桐を、嵌めるための、落とし穴。
俺が、着火剤になればいい。そうすれば、彼女が………邨上から離れることは、なくなるだろう。
俺が彼女を奪うフリをして。ふたりの信頼関係の底上げをして。片桐がそこに入り込んだとしても、邨上と彼女を引き離せないようにすればいいのだ。
「気が、変わりました……宣戦布告です。片桐に奪われるくらいなら、俺が奪ってみせる」
わかっているのだ。なにをしたって、彼女が俺に振り向いてくれることはないのだから。
だったら……彼女が笑っていられる未来のために。俺は、血反吐を吐いて、地面を這いつくばって、もがき苦しんだって構わない。
俺は、なんだってやってやる。彼女の笑顔を、守ることができるなら。
三木さんの怒った顔を見ながら、あの日邨上に放った言葉をぼんやりと思い出していた。そうして、頬にあてた反対の手で頭を掻きながら、俺は偽物の言葉を紡いだ。
「…………どうもこうも。片桐に奪われるくらいなら…邨上から奪うつもりになった、それだけです」
「………ふざけんじゃないわよ」
掴まれていた胸ぐらから、手が離される。はぁっと、三木さんが大きく息を吐いた。
「あんたって……ほんっと、ばかね……」
勝気な瞳に、大粒の涙が浮かんでいた。その瞳は、……ひどく切なそうで。意味が、分からなかった。
「…………わかってないの? あんた…今、自分がどんな顔してるのか……」
三木さんが…いつもの整った美しい顔を、苦痛に歪めているのが。ひどく痛々しかった。
「どんなって…」
「……ものすごく、傷ついた顔をしてるわよ……」
その言葉に、俺は、思わず頬に当てていた手を離していた。
「ほんっと、あんたって、ばかね。心にもないことを言って…」
心にもないこと。それに気が付かれるとは、思っていなかった。ぐっと、唇を噛み締めて俯く。
本心は、これからも隠していく、そう決めたはずなのに。彼女の笑顔のためなら、俺は泥水を啜って生きていく、そう決めたはずなのに。それを……こんなにも早く、暴かれてしまうなんて。
「そんなばかを好きになった、私も大ばかだけどね……」
その言葉の意味が分からず、のろのろと顔を上げた。ハラハラと涙を流す、三木さんが。くしゃりと顔を歪めながら言葉を紡いでいる。これまで見たことのない三木さんの表情に、その紡がれた言葉に、激しく動揺する。
「な……」
身体が固まった。呼吸が、できなくなる。呆然と、三木さんを見下ろした。
俺にはまだ。三木さんが放った言葉が、頭に届いてないらしい。三木さんは、じっと…俺の頭に、心に。言葉が届くのを待っていてくれた。ゆっくり噛み砕いて、やっと。三木さんが、俺のことを好きだと言ってくれたのだと、理解した。あまりの事態に狼狽えながら三木さんに問う。
「さっき、合コン行って、付き合い始めたって…」
「片桐の牽制のための作り話」
その一言に、思わず俺は息を飲んだ。その場でありもしない作り話をしてまで。三木さんも一瀬さんのことを守りたいと…そう思っているのか。
ずび、と、三木さんが鼻を啜って、言葉を紡いでいく。
「……私は…先輩を想ってるあんたが、好きなの。叶わなくても、それでも一途に想いを持てるあんたが…青臭くて、泥臭くて…それでいて愛しくて」
俺は、いつの間にか…三木さんが零す言葉を真剣に聞き入っていた。
「あんたのこと、ずっと見てたから。だから、あんたの恋が………叶えばいいって、思ってた。ううん、叶わなければいいとも、思ってた」
人間の、醜い感情を隠さずに口にする三木さんが俺には、眩しかった。俺には無理だ。三木さんの気持ちは、眩しすぎる。俺は、俺の抱える劣情を。素直に口にできるような、そんな人間じゃない。
「俺は…そんな風に思ってもらえるような、人間じゃありません」
拳をぎりぎりと握って、三木さんから視線を逸らす。
……一瀬さんのためなら、これから先もずっと、辛酸を舐め続けてもいい。俺のこの気持ちは…恋慕や思慕ではなく、単なる……自己満足の、執着に過ぎないのだから。
「………あんたが、自分の身を引き裂くような選択をしたんだって、気づいたら……もう、戻れなくなっちゃったのよ……」
俺の言葉に構わず、三木さんが続ける。身を引き裂くような、選択。三木さんが、思っているような…そんな、キレイなものではない。
「先輩が、幸せを掴もうとしている。その姿をみて、ほっとしたのも、事実。だけど、あんたの想いが届かなくて、悔しい思いをしたのも、事実。……自分でも…わけ、わかんない…」
ゆっくりと、視線をあげた。いつも強気に輝いている瞳から、大粒の涙が…まるで真珠のように落ちていく。その様子を眺めながら、喉の奥から絞り出すような声で……今の俺に出来る、精一杯の返答をした。
「………俺は…三木さんの、気持ちに応えることは…できません」
俺には。三木さんの、気持ちに応える資格は、ない。俺みたいに、澱んでいない…こんなにも、真っ直ぐな人だから。
「わかってる」
その言葉を紡いで、三木さんが腫れ上がった俺の頬をそっと撫でた。
「叩いて、ごめん。だけど、あんたは…幸せになるべき人間よ。例え、身を引き裂くような選択をしたとしても」
彼女は最後に「それを忘れないで」と呟いた。俺の横を通って………その奥にある、お手洗いに消えていく。
じんじんと痛む頬に、また手を当てた。この痛みが、現実だと。三木さんの気持ちや、言葉が、現実だと。俺にはっきりと認識させていく。
たった10分程度だったが、心身ともに疲弊した。そう考えながら、ゆっくりと酒の席に戻る。
いつの間にか、歓迎会はお開きを迎えていた。大きく息を吐きながら自分が座っていた席に荷物を取りに行って、俺が座っていた座布団の脇に光る…鈍いブロンズの光を視界の端に捉えた。
「……ロケット、ペンダント…?」
俺の隣に、さっきまで座っていたのは…片桐。片桐の、忘れ物か。ひどく緩慢な動作で鈍い光を手に取ると、カチリと。丸いペンダントが開いた。
そこには、モノクロ写真が入っていた。
何度も指で撫でられたのか、表面が随分と毛羽立っている。
けれど、モノクロ写真だからこそ…そこに写る女性が、とても美しく、気高い表情で。
豊かなブロンドの髪を弄んでいるような様子が、写っていた。
「……?」
この女性は…誰なのか。そもそも、このご時世にモノクロ写真?まるで、女優のような…気品溢れる女性。片桐が抱える一瀬さんへの執着の深さを認識したからこそ、湧き出てくるたくさんの疑問。
ペンダントを手に取るだけで、カチリと開いてしまうほど留め具が緩んでいる。その事実から…この写真を、片桐が大層大事にしているのだろうと推測できる。
想いの届かない女性に。……一瀬さんを、被せている?
そう理解した瞬間、ぶわりと全身が粟立った。頭が沸騰して……それでいて、心が氷点下まで冷えていく。
一瀬さん本人を見ているのなら。まだ、赦せた。でも…この女性を被せているのなら。
俺という人間を、真っ直ぐにみてくれた一瀬さんだからこそ。
片桐を……赦すことは、出来ない。
「だったら、なおさら……」
なおさら。彼女を、片桐に奪わせるわけには、いかない。
まだ、近くに片桐がいれば。これを渡して、片桐にも…正面から、宣戦布告をしなければならない。
弾かれたように、当てられた席から店の入り口に走り出す。扉を乱暴に開けて、足を縺れさせながらも周囲を見遣った。周囲で一際暗い交差点に目を遣って。
呼吸が、止まった。
彼女が。邨上のネクタイを引っ張って、強引に口付けるその瞬間が、視界に飛び込んできた。
身体が、固まる。呼吸が、出来ない。目を離したいのに、離せない。
ゆっくりと、ふたりの顔が離れていく。俺は、ようやっと。首を動かして、空を見上げた。
見上げた先の空は。俺の心を表すかのように、真っ黒に染まっていた。
わかっていた。わかっていたことだ。
彼女が帰る場所のことを。
わかって、いたことだ。
彼女が望む、彼女の居場所のことを。
わかって、いた。
………わかって、いたんだ。
俺は、彼女に……とても遠くて、とても近い場所にいるのに。
彼女は、俺という存在を見ているのに…今ここに立っている俺を、見てくれはしない。
喩え、俺の全てを、捧げても。
「……あんた、今頃になってどういうつもりなの」
じんじんと腫れ上がる痛みを堪え、そっと手で押さえた。ブラックのアイライナーに彩られた勝気な瞳が目の前にある。
「せっかく先輩が幸せを掴んだのに、どういうつもり!?」
黙った俺に痺れを切らしたのか、勢いよく胸ぐらを掴まれる。肩甲骨まで伸びた明るい髪が大きく揺れた。
あぁ、女性に叩かれるなんて、胸ぐらを掴まれるなんて。何時ぶりだろう。大学3年の時に、九十銀行ではなく、極東商社への内定話をした遊び相手に叩かれた時、以来か……。
月曜日。片桐が、俺に揺さぶりをかけた日。その言葉の意味を、彼女の隣で1日中考えていた。
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何度、このセリフを反芻したことか。俺が彼女を好きでいること自体が、彼女を傷付けてしまうかもしれない、という事実に。俺はそんな単純なことにも…気が付けやしなかった。
もう、彼女は邨上を選んでしまっている。
俺は間に合わなかった。あの日、邨上が彼女を泣かせた日に。混乱する彼女を前に、想いだけを伝えてそのまま引いてしまったから。
俺は、間に合わなかったんだ。彼女を想って自分を慰めた日……自分の気持ちに気付かないフリをした日に。あの時に、自分の気持ちに気付かないフリをしなければ。どれだけ苦しくても、その現実を受け入れなくてはならないのだ。胸を抉られるほどの激しい感情を彼女から与えられるとわかっていても、それでも。
彼女は知らない。俺を、九十銀行頭取の甥、としてではなく。ただの……ただひとりの。小林達樹という男として、俺を見てくれていると気がついた時の……俺が打ち震えた、歓びを。
その歓びにすら、気が付かなかったフリをした……罰として。俺は、現実を受け入れなくてはならないのだ。
だからこそ…だからこそ。陰から、彼女の幸せを願おうと。彼女が笑ってくれるなら、それでいい、と。そう思っていたのに。
火曜日。一瀬さんが、俺の隠している本心に気がついた、ということを悟った。
俺が隠している本心に気が付いてなお、今まで通り接しようとする彼女の気配りに。彼女の強さに。
……途方もなく、嫉妬した。
俺だったら。もし、俺が一瀬さんの立場だったら……そんな態度は、できないから。片桐に、俺に。傷つけられてもなお、彼女の凛とした姿に…俺はまた、俺が抱える彼女への気持ちを、再認識した。
片桐の挑発に、乗るべきではない。
けれど、今後…彼女とどう接するべきか。どうしようかと考えあぐねている時に、昼休みに1課の大迫係長から声をかけられた。業務上の話から、席替えをして一瀬さんの隣になったことを羨ましがられる。
「ここだけの話、平山と別れた時は可哀想だなって感情しかなかったけど、ここ最近の一瀬さん綺麗になってさぁ………別れたことが結果的にいい経験になったんだなって思ったぜ。だからお前が羨ましいよ」
「……え?」
「お前が一番近くにいるんだからな。優良物件、お前が落とさなくてど~するよ」
「……どう、とは」
ふい、と。肘で軽く小突いてくる大迫係長から視線を逸らした。
……クリスマス翌日に、三木さんに言われたこと。俺が一瀬さんに向ける視線は、露骨だということ。ならば……大迫係長も、俺が抱える劣情に気づいているのかもしれない。
「すっとぼけるなぁ……好きなんだろ? 彼女のこと」
「……なんのことでしょうか」
ただでさえ、一瀬さんと平山のことが面白可笑しく噂されているのだ。……そこに、余計な火種は追加したくない。
彼女と邨上の想いが通じたあの日から禁煙をやめ、喫煙ルームに足を運ぶようになり……尾ひれのついた噂を幾度となく耳にした。
一瀬さんが平山の奥さんに嫌がらせして、それが原因で離婚した、だとか。当てつけで総合職に転換し、新たな道を歩みだした平山自身へ嫌がらせしている、だとか。
その度に、俺は抱え込んだ劣情をふつふつと甦らせることになったのだ。だからこそ、俺は……彼女への気持ちを封印しなければならない。彼女の笑顔のために、なんだってするのだと決めているから。
「……ま、いいけどよ。いきなり現れた片桐に掻っ攫われたら、男が廃れるぜ?」
「………」
大迫係長の言葉に。ふつり、と。自分の中で張り詰めていた糸が切れた。
挑発に、乗りたくはない。けれど…このまま、やられたままで終わりたくは、ない。
ならば。少しくらい、邨上と片桐に意趣返しをしたって赦されるだろう。
そう。これは、挑発に乗ったのではない。俺が……片桐を、嵌めるための、落とし穴。
俺が、着火剤になればいい。そうすれば、彼女が………邨上から離れることは、なくなるだろう。
俺が彼女を奪うフリをして。ふたりの信頼関係の底上げをして。片桐がそこに入り込んだとしても、邨上と彼女を引き離せないようにすればいいのだ。
「気が、変わりました……宣戦布告です。片桐に奪われるくらいなら、俺が奪ってみせる」
わかっているのだ。なにをしたって、彼女が俺に振り向いてくれることはないのだから。
だったら……彼女が笑っていられる未来のために。俺は、血反吐を吐いて、地面を這いつくばって、もがき苦しんだって構わない。
俺は、なんだってやってやる。彼女の笑顔を、守ることができるなら。
三木さんの怒った顔を見ながら、あの日邨上に放った言葉をぼんやりと思い出していた。そうして、頬にあてた反対の手で頭を掻きながら、俺は偽物の言葉を紡いだ。
「…………どうもこうも。片桐に奪われるくらいなら…邨上から奪うつもりになった、それだけです」
「………ふざけんじゃないわよ」
掴まれていた胸ぐらから、手が離される。はぁっと、三木さんが大きく息を吐いた。
「あんたって……ほんっと、ばかね……」
勝気な瞳に、大粒の涙が浮かんでいた。その瞳は、……ひどく切なそうで。意味が、分からなかった。
「…………わかってないの? あんた…今、自分がどんな顔してるのか……」
三木さんが…いつもの整った美しい顔を、苦痛に歪めているのが。ひどく痛々しかった。
「どんなって…」
「……ものすごく、傷ついた顔をしてるわよ……」
その言葉に、俺は、思わず頬に当てていた手を離していた。
「ほんっと、あんたって、ばかね。心にもないことを言って…」
心にもないこと。それに気が付かれるとは、思っていなかった。ぐっと、唇を噛み締めて俯く。
本心は、これからも隠していく、そう決めたはずなのに。彼女の笑顔のためなら、俺は泥水を啜って生きていく、そう決めたはずなのに。それを……こんなにも早く、暴かれてしまうなんて。
「そんなばかを好きになった、私も大ばかだけどね……」
その言葉の意味が分からず、のろのろと顔を上げた。ハラハラと涙を流す、三木さんが。くしゃりと顔を歪めながら言葉を紡いでいる。これまで見たことのない三木さんの表情に、その紡がれた言葉に、激しく動揺する。
「な……」
身体が固まった。呼吸が、できなくなる。呆然と、三木さんを見下ろした。
俺にはまだ。三木さんが放った言葉が、頭に届いてないらしい。三木さんは、じっと…俺の頭に、心に。言葉が届くのを待っていてくれた。ゆっくり噛み砕いて、やっと。三木さんが、俺のことを好きだと言ってくれたのだと、理解した。あまりの事態に狼狽えながら三木さんに問う。
「さっき、合コン行って、付き合い始めたって…」
「片桐の牽制のための作り話」
その一言に、思わず俺は息を飲んだ。その場でありもしない作り話をしてまで。三木さんも一瀬さんのことを守りたいと…そう思っているのか。
ずび、と、三木さんが鼻を啜って、言葉を紡いでいく。
「……私は…先輩を想ってるあんたが、好きなの。叶わなくても、それでも一途に想いを持てるあんたが…青臭くて、泥臭くて…それでいて愛しくて」
俺は、いつの間にか…三木さんが零す言葉を真剣に聞き入っていた。
「あんたのこと、ずっと見てたから。だから、あんたの恋が………叶えばいいって、思ってた。ううん、叶わなければいいとも、思ってた」
人間の、醜い感情を隠さずに口にする三木さんが俺には、眩しかった。俺には無理だ。三木さんの気持ちは、眩しすぎる。俺は、俺の抱える劣情を。素直に口にできるような、そんな人間じゃない。
「俺は…そんな風に思ってもらえるような、人間じゃありません」
拳をぎりぎりと握って、三木さんから視線を逸らす。
……一瀬さんのためなら、これから先もずっと、辛酸を舐め続けてもいい。俺のこの気持ちは…恋慕や思慕ではなく、単なる……自己満足の、執着に過ぎないのだから。
「………あんたが、自分の身を引き裂くような選択をしたんだって、気づいたら……もう、戻れなくなっちゃったのよ……」
俺の言葉に構わず、三木さんが続ける。身を引き裂くような、選択。三木さんが、思っているような…そんな、キレイなものではない。
「先輩が、幸せを掴もうとしている。その姿をみて、ほっとしたのも、事実。だけど、あんたの想いが届かなくて、悔しい思いをしたのも、事実。……自分でも…わけ、わかんない…」
ゆっくりと、視線をあげた。いつも強気に輝いている瞳から、大粒の涙が…まるで真珠のように落ちていく。その様子を眺めながら、喉の奥から絞り出すような声で……今の俺に出来る、精一杯の返答をした。
「………俺は…三木さんの、気持ちに応えることは…できません」
俺には。三木さんの、気持ちに応える資格は、ない。俺みたいに、澱んでいない…こんなにも、真っ直ぐな人だから。
「わかってる」
その言葉を紡いで、三木さんが腫れ上がった俺の頬をそっと撫でた。
「叩いて、ごめん。だけど、あんたは…幸せになるべき人間よ。例え、身を引き裂くような選択をしたとしても」
彼女は最後に「それを忘れないで」と呟いた。俺の横を通って………その奥にある、お手洗いに消えていく。
じんじんと痛む頬に、また手を当てた。この痛みが、現実だと。三木さんの気持ちや、言葉が、現実だと。俺にはっきりと認識させていく。
たった10分程度だったが、心身ともに疲弊した。そう考えながら、ゆっくりと酒の席に戻る。
いつの間にか、歓迎会はお開きを迎えていた。大きく息を吐きながら自分が座っていた席に荷物を取りに行って、俺が座っていた座布団の脇に光る…鈍いブロンズの光を視界の端に捉えた。
「……ロケット、ペンダント…?」
俺の隣に、さっきまで座っていたのは…片桐。片桐の、忘れ物か。ひどく緩慢な動作で鈍い光を手に取ると、カチリと。丸いペンダントが開いた。
そこには、モノクロ写真が入っていた。
何度も指で撫でられたのか、表面が随分と毛羽立っている。
けれど、モノクロ写真だからこそ…そこに写る女性が、とても美しく、気高い表情で。
豊かなブロンドの髪を弄んでいるような様子が、写っていた。
「……?」
この女性は…誰なのか。そもそも、このご時世にモノクロ写真?まるで、女優のような…気品溢れる女性。片桐が抱える一瀬さんへの執着の深さを認識したからこそ、湧き出てくるたくさんの疑問。
ペンダントを手に取るだけで、カチリと開いてしまうほど留め具が緩んでいる。その事実から…この写真を、片桐が大層大事にしているのだろうと推測できる。
想いの届かない女性に。……一瀬さんを、被せている?
そう理解した瞬間、ぶわりと全身が粟立った。頭が沸騰して……それでいて、心が氷点下まで冷えていく。
一瀬さん本人を見ているのなら。まだ、赦せた。でも…この女性を被せているのなら。
俺という人間を、真っ直ぐにみてくれた一瀬さんだからこそ。
片桐を……赦すことは、出来ない。
「だったら、なおさら……」
なおさら。彼女を、片桐に奪わせるわけには、いかない。
まだ、近くに片桐がいれば。これを渡して、片桐にも…正面から、宣戦布告をしなければならない。
弾かれたように、当てられた席から店の入り口に走り出す。扉を乱暴に開けて、足を縺れさせながらも周囲を見遣った。周囲で一際暗い交差点に目を遣って。
呼吸が、止まった。
彼女が。邨上のネクタイを引っ張って、強引に口付けるその瞬間が、視界に飛び込んできた。
身体が、固まる。呼吸が、出来ない。目を離したいのに、離せない。
ゆっくりと、ふたりの顔が離れていく。俺は、ようやっと。首を動かして、空を見上げた。
見上げた先の空は。俺の心を表すかのように、真っ黒に染まっていた。
わかっていた。わかっていたことだ。
彼女が帰る場所のことを。
わかって、いたことだ。
彼女が望む、彼女の居場所のことを。
わかって、いた。
………わかって、いたんだ。
俺は、彼女に……とても遠くて、とても近い場所にいるのに。
彼女は、俺という存在を見ているのに…今ここに立っている俺を、見てくれはしない。
喩え、俺の全てを、捧げても。
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