俺様エリートは独占欲全開で愛と快楽に溺れさせる

春宮ともみ

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本編・第二部

72 ただ、唇を噛み締めた。

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 タイムカードを打刻し、ガタリ、と。古巣である営業3課のブースへ続く扉を開けた。

「あ、邨上先輩! おはようございます」

 元が坊主頭で伸びた髪があらゆる方向に跳ねたままの目的の人物は、複合機の前でFAXで届いた書類を受け取りながら、俺にニカッと笑った。

「藤宮、ちょっと来い」
「え?」

 有無を言わさず、その腕をぐっと掴んだ。そのまま3課から引き摺りだし、空いていた応接室に引き込む。俺と藤宮以外誰も入れないように鍵を下ろし、藤宮に向き直った。

「お前、昨日極東商社の喫煙ルームで何喋った」

 きょとん、と、藤宮が首を傾げる。
 
「ええ? 何って、極東商社の通関部の方がいたので、新部門を作ったから通関部さんに今まで以上にお世話になりそう、ということとか……」

 その言葉に、俺は頭を抱えた。

 新部門の立ち上げは、まだ表立って公表する段階ではない。3月には決算がある。それまでに新部門の方向性を確定させ、6月の株主総会の場で幹部陣が株主に報告をしてから、取引先に順次公表することにしていた。

 だからこそ、俺は新部門……暫定名称の企画開発部に異動となっているが、表立ってはまだ営業3課に所属している、ということになっている。現時点である程度、三井商社が今後立ち上げる新部門の事で取引先に風の噂が流れているのは把握しているが。その話題になっても、商談の場では煙に巻くよう話を逸らしている。

 故に。……他社の社員である知香に、俺がプライベートの場で話すことと、他社内で藤宮が堂々と公言することは、重みが違うのだ。

「あ、それと、邨上先輩が狙ってる例のカノジョさんの同僚さんだっていう方がいましたよ! カノジョさんのことを応援してるっぽい話しぶりだったから、一気に進展するかもしれません!」

 心底嬉しそうに。それは、もう、大型犬がしっぽを振るように、藤宮が笑った。

 思わず大きなため息がでた。片桐が言っていた話がコレの事だと察する。

(応援? ……ふざけるのも大概にしろ。俺から奪おうとしている癖に)

 ふつふつと込み上げる怒りを堪えながら、藤宮がに意識を集中させる。

「俺の事話すのはいい。ただ、な。あまり社外でペラペラうちの内情のこと喋んな。うちは株式会社だ。運が悪ければインサイダー取引になっちまったりするんだ」
「……あ……」

 咎めるような俺の声に、藤宮の顔からさぁっと血の気が引いていく。

「お前はまだ若いから、そこわかってねぇんだろうが、まだ正式に発表していない情報から相手方が推測して商売上の便宜をはかろうとしてくる輩だっている」

 会社にはそれぞれの秘密情報があり、それを守らなければならない。そのため新しく雇い入れる社員に秘密保持契約を結ばせる。これには、業務上知り得た情報を外部に漏らさないという条件をベースに、情報漏洩によって損害が発生した場合には損害賠償請求をする、などの項目が設けられ、経営上必要な秘密情報の漏洩を防いでいる。

 今回については……明らかに秘密情報の漏洩にあたる。

「……申し訳、ありません」

 先程まで楽しそうに笑っていた藤宮が、一気に青ざめていく様を見て、俺は少しだけ同情した。

「事が事だから、念のため俺から池野課長に報告する。何喋ったかしっかりお前の口からも報告しておけよ。譴責処分になるかもしれねぇが、胸に留めろ」
「は、い……申し訳、ございませんでした」

 震える声で、藤宮が頭を下げた。ふっと笑って、俺は声をかける。

「誰だってやらかす時はくるさ。それが今回だっただけの話しだ。取り返せるように営業成績で努力しろ、今の俺が言えるのはそれだけだ」
「……本当に…先輩の努力を、無駄にするところでした……申し訳ございません……」
「俺は何があろうと新部門を軌道に乗せる自信があるから気にすんな? 池野課長にこってり絞られるだろうが、自分の糧にしろ」

 正直、幹部からの期待に応えられるという自信は持てていない。俺の営業成績は……まだ池野課長には遠く及ばない。

 新部門のリーダーに抜擢され、課長代理に昇進はしたが、新部門の成果をあげなければ俺の処遇はどうなるのか、検討もつかない。その上に、池野課長の課題だ。新部門が軌道に乗れば課長になり、三井商社の幹部となり……この会社を、藤宮やその他の大勢の社員を守る立場になる。

 それでも、俺はやらなければならない。他人からビックマウスだと嗤われたとしても。そう公言して、叶えなければならない。

 言葉は、言霊だ。自信がないと口にしてしまえば、失敗する。

 知香と一緒に幸せになるために。俺は、必ず新部門を軌道に乗せる。

「……本当に、申し訳ございませんでした」
「わーってるから。ほら、仕事戻れ」

 しょぼくれる藤宮の背中をパンっと叩き、ガチャリと、鍵を開けて、俺はそのまま応接室から1階上の役員室へ足を運んだ。

 池野課長は毎朝、役員室で定例会議を行ってから営業課のブースへ降りてくる。コンコン、と、役員室のドアをノックし、扉を開けた。

「池野課長」
「邨上? おはよう、どうしたの?」

 にこり、と。池野課長がいつもの柔和な微笑みを浮かべた。マスターにそっくりの、琥珀色の瞳と視線が交差する。池野課長以外にも役員が数人いたが、まだ定例会議を行っている様子では無かった。

「…ご報告があるのですが」

 ぐっと。池野課長を見遣る。その視線で、ここでは話したくないということが僅かに伝わったらしい。

「……応接室、行きましょうか」

 ふわり、と、アーモンド色の髪が揺れた。




「そう……極東商社の喫煙ルームで、ね」
「はい。藤宮が、そのように」

 すうっと、池野課長が足を組んだ。この人の考え事をする時の癖だ。特に、今後どう挽回するかの考え事の時にみせる仕草。


 俺が池野課長の下に着いていた頃も、俺がやらかした時にこういう仕草をして、しっかり俺の尻拭いをしてくれた。

 あの時は、まだ入社2年目で。畜産チームに所属していた俺は、丸永忠商社へ取り置きしていた在庫を、全く別の商社に売り渡してしまった。売り渡した次の日に在庫台帳をチェックして気がついた。それを池野課長に泣きつき、池野課長が先方へ頭を下げ、売り渡した商品をまるっと返品してもらったのだ。

『帰り道に社用車のラジオから流れる曲を熱唱しながら帰ったの。次やらかさなければいいわ。だから、もう気にしなくていいわよ?』

 初めての失態に縮こまる俺に向かって柔和な笑みを浮かべてくれたことは、今でも鮮明に覚えている。

 池野課長だからこそ、先方もまるっと返品してくれたのだ。池野課長でなければ、文句をつけられた上にその後の取引で大幅に値下げを要求されただろう。遠い昔の、まだ青かった自分を思い出し……ふるりと頭を振った。


 ふわり、と。池野課長が笑みを浮かべて、言葉を紡いでいく。

「まぁ、懸念はあるけれど、大丈夫だと思うわ?」
「……は?」

 大丈夫、とは。未確定情報が、公に漏れてしまった、というのに。

「極東商社の通関部の人に話したのでしょう。通関部には、水野さんという私の昔からの知り合いがいるの。……上手いこと丸め込んでおくわ」
「……そう、ですか」
「藤宮には、しっかりお灸を据えないといけないけれどね……」

 形の良い唇が「あの子もまだ幼いわねぇ」と、言葉を紡いだ。

 唇の左下にホクロがあり、それがなんとも言えない妖艶さを漂わせているのだ。それが、40代だというのに、40代には見えない美貌に拍車をかけている。絢子と付き合っていた時は、絢子が年齢を重ねたらこうなるのではないか…と、思っていたことをぼんやりと思い出す。

 ふっと、池野課長が意味ありげな笑みを俺に向けた。

「あなたからも、に一言言っておいてね」
「っ…」

 ふふふ、という笑い声が応接室に響いた。

 俺が知香と付き合い始めた、ということは藤宮にすら伝えてはいない。

 唯一……池野課長の兄であるマスターの前で、付き合っていると認めた。けれどそれはほんの数日前のこと。そして、マスターはそういった顧客に関することは口にしないタイプだ。例外として、片桐のことを伝えてきたが。それは、本当に例外なことだと俺も認識している。

 それなのに……なぜ、池野課長が。

 艶のある口紅に彩られた唇の口角をあげて楽しそうに微笑みながら、池野課長が立ち上がった。

「私の大事なを泣かせたら容赦しないわよ? せいぜい、彼女を幸せにすることね」

 そう言い残して、応接室から退出していく、その後ろ姿に。一瞬、呼吸を忘れた。この人の営業成績に俺が遠く及ばない、本当の理由。

 ―――この人が持つ、情報網の果てしなさ。

 それを改めて、突きつけられてしまった。思わず、左手を額にあてる。

「池野課長を、超えられる気がしねぇ……」

 ぽつり、と、柄にもない言葉が口から漏れ出ていく。ふるふると頭を振り、ぐっと拳を握りしめ、俺は企画開発部にあてられたブースへ戻った。





「この度は、申し訳ございませんでした」

 ぺこり、と。タイムカードを打刻して退社する俺に、藤宮が頭を下げた。

「わーってるよ。悪気があったわけじゃねぇってことくらい」
「……本当に……申し訳ございません…」

 いつもなら、大型犬のようにきゃんきゃんとまとわりついてくる大柄な藤宮が、心無しか小さく見えた。

「んで? 譴責処分で済んだか?」
「はい……明日までに、始末書を書き上げるようにと」

 俯きながら「池野課長に絞られました…」と、力無く呟く藤宮の姿に、入社当時にやらした自分の姿が被った。

「やらかす時っていうのはな? 大抵、パターンが決まってんだ。お前には、圧倒的に知識が不足している。法律、常識、そういったものがな」
「……」

 俺の言葉がぐさりと刺さったのか、藤宮が唇を強く噛んだ。

「今回のことだって、秘密保持の知識があれば防げたことだ。知識は、お前の身を助ける。営業成績を上げたいなら、あらゆる情報を得ろ。貪欲に、あらゆる方面の知識を貪れ」

 俺の言葉に、俯いていた顔がぱっと上がる。その瞳は、いつもよりも真剣な光を帯びていた。

 人間は。独りでは…限りなく、弱い。だからこそ。だからこそ……強者と渡り合う知識を、身につける。

「顧客との商談でも、な。なにが切っ掛けで商売が成立するかわからねぇんだ。だったら、知識を得ろ。……営業ってのは、騙し騙されの部分もある。知識を得たからこそ、顧客に騙されることも減る」

 池野課長が、まだ青かった俺の尻拭いをしてくれたように。俺も、藤宮のやらかした事の尻拭いをしてやりたい。けれど…今回の件は俺の手に余る。ならば、俺は……その尻拭いの手助けをしたい。

「例えば、どんなに足を運んでも商談成立0%の顧客がいるとするだろ? そいつに正面から勝負しかけても、商談成立は0%のままだ。んじゃ……そいつが、例えばゴルフが好きだったら?」
「あ……」

 藤宮が、ゆっくりと瞠目した。

「んで、お前にゴルフの知識があるとしたら? ……雑談という手段を取ることで、商談成立の可能性が99%に反転するんだ。要するに…必然的にをもぎ取ってくんだよ、この営業っつう世界は」

 知識を得れば藤宮は、俺をも大きく超えるような歯車になれる。スポンジのように……沢山の事を吸収できる、その強い土台があるから。その一心で、言葉を紡いだ。

「生粋の人誑しだったら正面から勝負しかけても商談成立するけどな? そうじゃねぇんなら、あらゆる方面の知識を得て、そいつを信用させるしかねぇんだ。お前は、それを今回学ぶためにやらかしたんだと思うぜ、俺は」

 その言葉を一気に吐き出して、にっと、藤宮に笑いかける。

 そう、人は、取り返しのない過ちを繰り返して、成長する。それを悔やんで嘆いても、変わらない。ならば、その過ちを糧に、少しでも一歩前へ歩いて行った方が、いい。

 ……絢子との事で。俺は、それを痛いほど学んだ。

「そう考えると建設的だろう? お前は、そのために今回やらかしたんだ。意味の無い間違いにするのか、意味のある間違いにするのかは、お前にかかってるぜ」

 ひらひらと。藤宮に手を振って、俺はオフィスビルを出た。




 暗い夜の帳に。見知った顔があった。ずうっと光が沈まない街。そのいつもの交差点に。

 ―――いつかの、時のように。

 俺より少し背が低い……仔犬の一重の瞳が、俺を貫いた。クリスマス翌日に視線を交わしたその瞳は。痛みを伴った視線を俺に向けて、噛ませ犬を演じさせられていた、と。仔犬なりの強がりを吐いていた。

「……」

 ゆっくりと。一重の瞳と、視線が交差する。

「………今週末。片桐の歓迎会をすることになりました」
「……」
「片桐に奪われるくらいなら。俺が、奪いますから」

 じっと。俺を強く貫く、澄んだ瞳がそこにあった。

「……奪わせるつもりは、毛頭ねぇよ」

 俺も強い意志を持って、仔犬の瞳を見つめ返す。



 奪う? どの口が、言うのだ。

 知香の幸せを、誰よりも願っているこの仔犬が。
 知香の笑顔を、誰よりも願っている、この…男が。

 知香の幸せを願っているからこそ、あの時……手を引いた、お前には。知香本人の意志を無視して、俺から知香を奪うということなんか、出来やしないのに。



 その俺の言葉に、仔犬が嘲るように嗤った。

「どうだか。あんたのこと、俺は信用はしてませんから。あんたは一度、一瀬さんを泣かせているのだから」
「……」

 その言葉に、俺は…ギリギリと、血が滲むほど……拳を、握った。

 そう、なのだ。一度、俺は知香泣かせてしまっている。泣かす気はない、と、仔犬に断言したにも関わらず。

「……そう言われれば、返す言葉もねぇ」
「随分と弱気ですね。あんたらしくもない。本当に片桐に奪われてしまうのではないですか」

 仔犬がふたたび、嘲るように嗤った。強い光を宿した瞳で睨みつけてくる。

「……奪わせる、つもりは、ねぇ。奪えるものなら、奪ってみろ」

 俺は、力の限り。想いの限り、仔犬の強い瞳を睨み返す。

「……いいでしょう。一瀬さんが幸せであればそれでいいと思っていましたが。気が、変わりました」
「……」
「宣戦布告です。片桐に奪われるくらいなら、俺が奪ってみせる」

 仔犬が、ふたたび。俺に宣戦布告をした。

「……受けて立とう」

 じっと、睨み合いが続く。


 ふい、と。仔犬が視線を外して、俺の横を通り過ぎていった。


 遠い後ろから、藤宮の声が聞こえる。




『意味の無い間違いにするのか、意味のある間違いにするのかは、お前にかかってるぜ』


 ついさっき、藤宮にかけた言葉が蘇って。ふっと、自らを冷笑した。

(なんだ。俺も……そうじゃねぇか)

 藤宮に偉そうに講釈を垂れるような立場では、ないじゃないか。





 仔犬が放った、言葉の重みに。『宣戦布告』という……仔犬の、全身全霊をかけた覚悟に。






 俺はただ、唇を噛み締めた。
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