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本編・第二部
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片桐さんが心底愉しそうに笑みを浮かべている。
「うん、昨日、喫煙ルームでね? 藤宮くん? あの子が智くんの後輩なんだね」
何故、ここで……藤宮くんの名前が出てきたのだろう。意味が分からなくて、私は手に持った鞄を握りしめた。心臓が……これでもか、と、跳ねている。
「…………確かに、昨日…藤宮が商談で極東商社に立ち寄ると言っていましたね。その時に接触した、ということですか」
ぎり、と。拳を握る音が聞こえた。激しい感情の渦を押し殺すように、智さんが片桐さんを静かに見ている。
「接触とは人聞き悪いね~ぇ? 偶然だよ、偶然」
智さんが握りしめた拳を、片桐さんがつまらなさそうに見つめた。
「彼、うちの水産販売部に用があったみたいだね? 俺、入ったばかりだから一緒に働く人たちとコミュニケーションを取ろうと思ってね。俺が煙草休憩行くたびに、喫煙ルームに居合わせた全員に話しかけてみたんだ。まさか……その中に社外の人がいるとは思わなかったけどね?」
愉しそうな笑い声を片桐さんがあげ、言葉を続けた。
「まぁ、藤宮くんがいなくても……粗方の見当はついてたからねぇ。彼を責めないでね?」
へにゃり、と、笑う姿に。この人の底知れない執念を感じて、鳥肌が立っていく。
「悪趣味ですね。他人のプライベートを暴くなんて」
片桐さんの表情に嫌悪感を隠すことなく、底冷えのする声で智さんが吐き捨てた。にこり、と。貼り付けているようなその笑顔が、智さんの怒りの度合いを現している。
その表情を見遣った片桐さんが、ふぅん、と。面白そうに声を上げた。
「君も小林くんと同じこというんだねぇ。全然似てないのに。一緒に働く人のことを知りたいって思うのは当然だと思うよ? 君も新卒の時そうじゃなかった?」
小林くん。……今、確かに、片桐さんは、そう言った。
そして……数秒、遅れて理解した。
昨日……総務部への案内をお願いした時に、片桐さんが小林くんを揺さぶった、ということ。だから……昨日。帰り道で、私に。わざわざ教えたのだ。小林くんの、本当の気持ちを。
小林くんの気持ちを悟らせて、私を揺さぶって。あわよくば、私を智さんから引き離そうとした、ということ、なのか。
視界が、チカチカし出す。グラグラと、世界が揺れている。
私のせいで、智さんだけでなく、小林くんも。いろんな人を巻き込んでいる、その事実に。眩暈が、する。
「あぁ、それと、知香ちゃんと元人事部エースの話も聞いたよ? 日本人って、本当に噂好きだよねぇ」
その言葉を紡いだ彼が、くすり、と小さく笑った。
私と凌牙の話を面白可笑しく話している連中がいることは知っていた。でも、気にした方が負けだと思って、放置してきた。……それが、仇となった。悔しさと、恥ずかしさが込み上げる。ぐっと唇を噛んで視線を逸らした。
「まぁ、同棲中とは思ってなかったけど? 時間はたくさんあるからねぇ」
その言葉に、智さんがまた僅かに身動ぎをした。
「………どういう、意味でしょう」
智さんの低く響く声と対照的に、ふわり、と。片桐さんが微笑んだ。まるで、花が綻ぶように、やわらかく。
「え? だってそうでしょ? 通関部は割と激務だからね、平日は平均して13時間前後を共にする。対して、君は平日、睡眠時間を除いてせいぜい5時間程度。土日も睡眠時間除いて18時間くらい?君は一週間で61時間前後、俺は65時間前後。知香ちゃんと一緒にいる時間は俺の方が長いって事だよ?」
あまりの言い分に言葉が出なかった。けれど、確かに片桐さんが話す事は、本当のことだ。一緒に働く以上、ともに過ごす時間は片桐さんのほうが長くなる。
「知香ちゃんも君も。お互いに残業になれば、君たちが一緒にいる時間はどんどん目減りするってわけだ。それって、俺にも十分チャンスがあるってことじゃな~い?」
くすくすと。片桐さんが余裕ぶった笑みを浮かべていた。その表情に、智さんがまたぎりっと拳を握る。
「………黙っておけば、また随分と勝手なこと宣ってくれますねぇ…」
いつも余裕を宿している智さんの瞳が、今は憤怒の感情で歪んでいる。その姿に私は息が出来なくなっていく。
不意に、昨晩の……殴る、という言葉がふっと蘇る。暴力沙汰に持っていかれては、こちらが不利だ。このエントランスだって、監視カメラが作動している。
智さんに限って……そんなことはないとは思うけれど。
いつもと違う余裕のない智さんの横顔にさぁっと血の気が引く。待って、と、智さんの背広の裾を引っ張って制止した。
「勝手なこと? 事実を述べただけ。………ま、そんな短い時間の逢瀬を邪魔するほど俺も野暮じゃないからねぇ。ひとまず退散するよ」
その間にも、片桐さんは悠々と言葉を紡いだ。まるで、自分の方が有利だというように。
「………一緒に過ごす時間の長さで決まると思ってもらっては困りますね」
私が背広を引っ張ったからか、智さんの声のトーンが少し落ち着いた。その様子に、片桐さんが再び嘲笑うかのように微笑んだ。
「う~ん、それは知香ちゃんが決めることだ。俺たちが決めることじゃない。………じゃ、知香ちゃん、また会社でね~」
ひらひらと手を振って、私に視線を合わせた。先ほどのヘーゼル色の瞳が、また、痛みを孕んだように鈍く光った。
(また、だ……また、あの違和感…)
遠くなる片桐さんの背中。その姿が見えなくなりようやく私は大きく息を吐いた。
「……守るって、言ったのにな。不安にさせた。すまない」
私に向き直った智さんが不安そうに顔を覗き込んできている。
「………大丈夫か?」
「は、い…大丈夫、です」
そう言葉を紡ぐけれど。まだ……バクバクと心臓が跳ねている。
わかったのは。片桐さんは、冗談でもなんでもなく、私を本気で智さんから奪い取ろうとしている、ということだった。
その為には、手段を選ばない、ということ。小林くんの気持ちさえも、利用して。今度は……どんな手段で、私を揺さぶってくるつもりなのだろう。
じわりと世界が歪み、目の奥が、胸の奥が熱くなる。
(……いやだ。泣いたら……片桐さんに、負けちゃう)
ぐっと唇を噛んで、堪える。そして、ゆっくり呼吸をするけれど……先ほどからずっと、得体の知れない恐怖感が足元を這いずっている。
固く握り締めた鞄の手に、智さんが優しく手を重ねてくれる。私はようやっと、強ばっていた身体が解れていくのを感じた。
智さんの手の、大きさに、あたたかさに。昨晩に続いてまた……助けられて、しまった。
「守ってくださって、ありがとうございました」
ふわり、と。智さんに向かって微笑んだ。どちらからと無く手を絡めて、駅に向かって歩き出す。
歩きながら、ぼんやりと先程の出来事を反芻していく。……ヘーゼル色の瞳に宿っていた鈍い光が、ずっと頭に残っている。あれは、なんなのだろう。
昨晩のは。私を見ているようで、私を見ていない。今さっきのは…私たちを見ているようで、私たちを見ていない。
どこか遠くを見るような、それいて…痛みを孕んで。
「……本当に、変な感じの、目…」
ぽつり、と呟いた言葉が、私たちの間に反響していく。
「変な、目?」
私の言葉に、智さんが首を傾げて、ぴたりと足が止まる。
「昨日も思ったんですけれど…片桐さん、の目が………時々、違和感があって」
智さんが、私と繋いでいた手を解いて、口元に持っていく。しばらく何かを考え込んでいた智さんから、思わぬ言葉をかけられた。
「………知香から見て、言葉にしたらどんな目?」
唐突な問い。上手く言語化出来ない違和感を表す言葉を必死に探していく。
「……え…と。なんと表現したらいいのか、わからないのですけど。……私を見ているようで、私を見ていない目、と言ったら、伝わりますか?」
ふうん、と。智さんが、面白くなさげに呟いて、再度左手を口元にあてた。
「俺にはその目の話はよく分からなかったが………片桐が知香に執着している理由はわかってるから」
「え?」
智さんから紡がれた「わかっている」という言葉。……話が、見えない。私には、わからないことだらけなのに。智さんには……わかっていることがある、ということなのだろうか。
その事実に、何とも言えない感覚に。心の奥が騒めいた。
(……なんなんだろう、これ。この、モヤモヤする気持ち)
上手く言語化できない、このモヤモヤした気持ち。その正体がわからなくてその場でじっと考え込んだ。
「知香は、本当に。本当に、無自覚に人を堕としていくよなぁ……」
その間にも、智さんが酷くつまらなさそうに呟いて、ゆっくりと歩き出す。
私はその言葉の意味が理解できずにいたれけど。はっと我に返って、出社時間に遅れないように智さんの後を追って歩き出した。
ーーー
「……歓迎会?」
私が呆然と呟くと「そう」と。田邉部長が頷いた。
「13日。今週の金曜日の夜、片桐の歓迎会兼通関部の新年会を予定しているからな。通関部1課と2課全員で、だ。そのつもりで、みな仕事を進めるように」
ぱんっ、と手を合わせて「では今日も頑張りましょう」と田邉部長が朝礼を締めた。一斉に人がはけていく。私も、ゆっくりと自分のデスクに戻り席に着いた。
目の前に座る水野課長代理が、私に向き直った。
「一瀬、三木に一報いれておいてくれ。今日が告別式で、明日から出社するとは言っていたから」
「あ………はい、承知しました」
「三木には、忌引きあとだから不参加でも良いと添えておいてくれ。……片桐、今日は税関に顔出しに行くぞ、着いてこい」
カタン、と軽い音を立てて席を立ち上がり、水野課長代理が艶のある黒髪をなびかせながら踵を返す。
「わかりました」
片桐さんがいつもの飄々とした雰囲気を封印し、硬い声で返事を返して水野課長代理の後ろを歩いていく。
……流石は、私よりも、7つ年上といったところか。今朝、私を待ち伏せしていたような雰囲気は全く無く。淡々と業務を遂行する姿は、思わず感嘆の息が溢れてしまう程だった。
ふるり、と頭を振り、デスクに向き直る。12月分の月次処理を優先的に行っていたため、後回しにしていた1月分の請求書発行が遅れている。今日は……やはり残業になってしまうだろう。
「一瀬さん、三井商社への請求書の確認と捺印をお願いしたいのですが」
かたり、と、右手に座る小林くんが私に書類を手渡してくれた。
片桐さんが入社するにあたり、2課はデスク配置を変えた。私の右隣は三木ちゃんから小林くんに。小林くんのいた席に片桐さん、片桐さんの隣に新しくデスクを追加して、三木ちゃん。
……片桐さんは3月末までは契約社員で、4月1日より係長として採用されることが内定しているらしい。水野課長代理以下、係長や主任という立場の社員がおらず、なんとなくアンバランスだった2課の内情を考えてのことだろう。
片桐さんは現時点であくまでも契約社員だから、歓迎会は正式に採用された4月以降にするものだと考えていた。けれど、今週末に新年会兼歓迎会を開く、ということは、上層部としては片桐さんを手放す気は無いという意思表示でもあるのだろう。
……気が、重い。片桐さんがいう、時間は沢山あると。それを事実と認めなければならないからだ。
いっその事。ぱっぱと智さんと結婚してしまうか。そうすれば……片桐さんも、簡単に手が出せなくなるだろう。
けれど、付き合って2週間で結婚を即決するのは……私と凌牙のことを面白可笑しく話している連中に、あらぬ噂の種を追加させることに成りかねない。凌牙に振られた腹いせで、交際もそこそこに結婚した女、と見られてしまう。
それに……智さんが、本心から私と結婚したいと思ってくれているのか。それも、わからない。
そもそも、智さんのご家族や私の両親が、交際期間2週間で結婚することを許してくれるはずもない。
……どの道、色々と詰んでいるのだ。
そんなことをぼんやりと考えながら、小林くんから手渡された請求書に目を通していく。
「……ん、オッケーよ。田邉部長の印鑑もらって郵送お願いね」
そう口にしながら、制服のポケットから浸透印を取り出してぽんと捺印する。
「はい、ありがとうございます。……夕方、藤宮と会う予定があるので、手渡してきてもいいでしょうか」
藤宮くん。私は、年末に1階下の水産販売部ですれ違ってからは会っていない。会う予定、ということは、飲む予定、ということだろう、けれども。合コンの時の藤宮くんの様子が瞬時に思い出された。
「……藤宮くんが飲んで正体をなくして、その請求書を紛失しないならね」
くすり、と、笑みを小林くんに向ける。
小林くんが、私に向ける視線のこと。片桐さんが、小林くんを揺さぶった、ということ。
その事実に、胸の鼓動が早まるのを感じたけれど……それをおくびにも出さず小林くんに接するように心がけた。
小林くんは聡い子だから。私が、小林くんが隠している本心に気付いた、ということも。片桐さんが小林くんを揺さぶり、私も片桐さんから揺さぶられた、ということも。
きっと……彼には伝わってしまうだろう。胸にチクリ、と、小さな縫い針を刺された気持ちだった。
だけれども。小林くんが抱えている気持ちを、踏み躙らないように。私は、自分の気持ちを押し殺して。いつも通りに……ふわり、と、笑いかけた。
「……紛失されたら僕の責任になりそうなので、やはり郵送にします」
困ったような、そんな顔で小林くんが笑い返してくれた。その笑顔に、私は。
巻き込んで、ごめんね。
あなたの気持ちに応えられなくて……ごめんね。と。
心の中で、小さく呟いた。
「うん、昨日、喫煙ルームでね? 藤宮くん? あの子が智くんの後輩なんだね」
何故、ここで……藤宮くんの名前が出てきたのだろう。意味が分からなくて、私は手に持った鞄を握りしめた。心臓が……これでもか、と、跳ねている。
「…………確かに、昨日…藤宮が商談で極東商社に立ち寄ると言っていましたね。その時に接触した、ということですか」
ぎり、と。拳を握る音が聞こえた。激しい感情の渦を押し殺すように、智さんが片桐さんを静かに見ている。
「接触とは人聞き悪いね~ぇ? 偶然だよ、偶然」
智さんが握りしめた拳を、片桐さんがつまらなさそうに見つめた。
「彼、うちの水産販売部に用があったみたいだね? 俺、入ったばかりだから一緒に働く人たちとコミュニケーションを取ろうと思ってね。俺が煙草休憩行くたびに、喫煙ルームに居合わせた全員に話しかけてみたんだ。まさか……その中に社外の人がいるとは思わなかったけどね?」
愉しそうな笑い声を片桐さんがあげ、言葉を続けた。
「まぁ、藤宮くんがいなくても……粗方の見当はついてたからねぇ。彼を責めないでね?」
へにゃり、と、笑う姿に。この人の底知れない執念を感じて、鳥肌が立っていく。
「悪趣味ですね。他人のプライベートを暴くなんて」
片桐さんの表情に嫌悪感を隠すことなく、底冷えのする声で智さんが吐き捨てた。にこり、と。貼り付けているようなその笑顔が、智さんの怒りの度合いを現している。
その表情を見遣った片桐さんが、ふぅん、と。面白そうに声を上げた。
「君も小林くんと同じこというんだねぇ。全然似てないのに。一緒に働く人のことを知りたいって思うのは当然だと思うよ? 君も新卒の時そうじゃなかった?」
小林くん。……今、確かに、片桐さんは、そう言った。
そして……数秒、遅れて理解した。
昨日……総務部への案内をお願いした時に、片桐さんが小林くんを揺さぶった、ということ。だから……昨日。帰り道で、私に。わざわざ教えたのだ。小林くんの、本当の気持ちを。
小林くんの気持ちを悟らせて、私を揺さぶって。あわよくば、私を智さんから引き離そうとした、ということ、なのか。
視界が、チカチカし出す。グラグラと、世界が揺れている。
私のせいで、智さんだけでなく、小林くんも。いろんな人を巻き込んでいる、その事実に。眩暈が、する。
「あぁ、それと、知香ちゃんと元人事部エースの話も聞いたよ? 日本人って、本当に噂好きだよねぇ」
その言葉を紡いだ彼が、くすり、と小さく笑った。
私と凌牙の話を面白可笑しく話している連中がいることは知っていた。でも、気にした方が負けだと思って、放置してきた。……それが、仇となった。悔しさと、恥ずかしさが込み上げる。ぐっと唇を噛んで視線を逸らした。
「まぁ、同棲中とは思ってなかったけど? 時間はたくさんあるからねぇ」
その言葉に、智さんがまた僅かに身動ぎをした。
「………どういう、意味でしょう」
智さんの低く響く声と対照的に、ふわり、と。片桐さんが微笑んだ。まるで、花が綻ぶように、やわらかく。
「え? だってそうでしょ? 通関部は割と激務だからね、平日は平均して13時間前後を共にする。対して、君は平日、睡眠時間を除いてせいぜい5時間程度。土日も睡眠時間除いて18時間くらい?君は一週間で61時間前後、俺は65時間前後。知香ちゃんと一緒にいる時間は俺の方が長いって事だよ?」
あまりの言い分に言葉が出なかった。けれど、確かに片桐さんが話す事は、本当のことだ。一緒に働く以上、ともに過ごす時間は片桐さんのほうが長くなる。
「知香ちゃんも君も。お互いに残業になれば、君たちが一緒にいる時間はどんどん目減りするってわけだ。それって、俺にも十分チャンスがあるってことじゃな~い?」
くすくすと。片桐さんが余裕ぶった笑みを浮かべていた。その表情に、智さんがまたぎりっと拳を握る。
「………黙っておけば、また随分と勝手なこと宣ってくれますねぇ…」
いつも余裕を宿している智さんの瞳が、今は憤怒の感情で歪んでいる。その姿に私は息が出来なくなっていく。
不意に、昨晩の……殴る、という言葉がふっと蘇る。暴力沙汰に持っていかれては、こちらが不利だ。このエントランスだって、監視カメラが作動している。
智さんに限って……そんなことはないとは思うけれど。
いつもと違う余裕のない智さんの横顔にさぁっと血の気が引く。待って、と、智さんの背広の裾を引っ張って制止した。
「勝手なこと? 事実を述べただけ。………ま、そんな短い時間の逢瀬を邪魔するほど俺も野暮じゃないからねぇ。ひとまず退散するよ」
その間にも、片桐さんは悠々と言葉を紡いだ。まるで、自分の方が有利だというように。
「………一緒に過ごす時間の長さで決まると思ってもらっては困りますね」
私が背広を引っ張ったからか、智さんの声のトーンが少し落ち着いた。その様子に、片桐さんが再び嘲笑うかのように微笑んだ。
「う~ん、それは知香ちゃんが決めることだ。俺たちが決めることじゃない。………じゃ、知香ちゃん、また会社でね~」
ひらひらと手を振って、私に視線を合わせた。先ほどのヘーゼル色の瞳が、また、痛みを孕んだように鈍く光った。
(また、だ……また、あの違和感…)
遠くなる片桐さんの背中。その姿が見えなくなりようやく私は大きく息を吐いた。
「……守るって、言ったのにな。不安にさせた。すまない」
私に向き直った智さんが不安そうに顔を覗き込んできている。
「………大丈夫か?」
「は、い…大丈夫、です」
そう言葉を紡ぐけれど。まだ……バクバクと心臓が跳ねている。
わかったのは。片桐さんは、冗談でもなんでもなく、私を本気で智さんから奪い取ろうとしている、ということだった。
その為には、手段を選ばない、ということ。小林くんの気持ちさえも、利用して。今度は……どんな手段で、私を揺さぶってくるつもりなのだろう。
じわりと世界が歪み、目の奥が、胸の奥が熱くなる。
(……いやだ。泣いたら……片桐さんに、負けちゃう)
ぐっと唇を噛んで、堪える。そして、ゆっくり呼吸をするけれど……先ほどからずっと、得体の知れない恐怖感が足元を這いずっている。
固く握り締めた鞄の手に、智さんが優しく手を重ねてくれる。私はようやっと、強ばっていた身体が解れていくのを感じた。
智さんの手の、大きさに、あたたかさに。昨晩に続いてまた……助けられて、しまった。
「守ってくださって、ありがとうございました」
ふわり、と。智さんに向かって微笑んだ。どちらからと無く手を絡めて、駅に向かって歩き出す。
歩きながら、ぼんやりと先程の出来事を反芻していく。……ヘーゼル色の瞳に宿っていた鈍い光が、ずっと頭に残っている。あれは、なんなのだろう。
昨晩のは。私を見ているようで、私を見ていない。今さっきのは…私たちを見ているようで、私たちを見ていない。
どこか遠くを見るような、それいて…痛みを孕んで。
「……本当に、変な感じの、目…」
ぽつり、と呟いた言葉が、私たちの間に反響していく。
「変な、目?」
私の言葉に、智さんが首を傾げて、ぴたりと足が止まる。
「昨日も思ったんですけれど…片桐さん、の目が………時々、違和感があって」
智さんが、私と繋いでいた手を解いて、口元に持っていく。しばらく何かを考え込んでいた智さんから、思わぬ言葉をかけられた。
「………知香から見て、言葉にしたらどんな目?」
唐突な問い。上手く言語化出来ない違和感を表す言葉を必死に探していく。
「……え…と。なんと表現したらいいのか、わからないのですけど。……私を見ているようで、私を見ていない目、と言ったら、伝わりますか?」
ふうん、と。智さんが、面白くなさげに呟いて、再度左手を口元にあてた。
「俺にはその目の話はよく分からなかったが………片桐が知香に執着している理由はわかってるから」
「え?」
智さんから紡がれた「わかっている」という言葉。……話が、見えない。私には、わからないことだらけなのに。智さんには……わかっていることがある、ということなのだろうか。
その事実に、何とも言えない感覚に。心の奥が騒めいた。
(……なんなんだろう、これ。この、モヤモヤする気持ち)
上手く言語化できない、このモヤモヤした気持ち。その正体がわからなくてその場でじっと考え込んだ。
「知香は、本当に。本当に、無自覚に人を堕としていくよなぁ……」
その間にも、智さんが酷くつまらなさそうに呟いて、ゆっくりと歩き出す。
私はその言葉の意味が理解できずにいたれけど。はっと我に返って、出社時間に遅れないように智さんの後を追って歩き出した。
ーーー
「……歓迎会?」
私が呆然と呟くと「そう」と。田邉部長が頷いた。
「13日。今週の金曜日の夜、片桐の歓迎会兼通関部の新年会を予定しているからな。通関部1課と2課全員で、だ。そのつもりで、みな仕事を進めるように」
ぱんっ、と手を合わせて「では今日も頑張りましょう」と田邉部長が朝礼を締めた。一斉に人がはけていく。私も、ゆっくりと自分のデスクに戻り席に着いた。
目の前に座る水野課長代理が、私に向き直った。
「一瀬、三木に一報いれておいてくれ。今日が告別式で、明日から出社するとは言っていたから」
「あ………はい、承知しました」
「三木には、忌引きあとだから不参加でも良いと添えておいてくれ。……片桐、今日は税関に顔出しに行くぞ、着いてこい」
カタン、と軽い音を立てて席を立ち上がり、水野課長代理が艶のある黒髪をなびかせながら踵を返す。
「わかりました」
片桐さんがいつもの飄々とした雰囲気を封印し、硬い声で返事を返して水野課長代理の後ろを歩いていく。
……流石は、私よりも、7つ年上といったところか。今朝、私を待ち伏せしていたような雰囲気は全く無く。淡々と業務を遂行する姿は、思わず感嘆の息が溢れてしまう程だった。
ふるり、と頭を振り、デスクに向き直る。12月分の月次処理を優先的に行っていたため、後回しにしていた1月分の請求書発行が遅れている。今日は……やはり残業になってしまうだろう。
「一瀬さん、三井商社への請求書の確認と捺印をお願いしたいのですが」
かたり、と、右手に座る小林くんが私に書類を手渡してくれた。
片桐さんが入社するにあたり、2課はデスク配置を変えた。私の右隣は三木ちゃんから小林くんに。小林くんのいた席に片桐さん、片桐さんの隣に新しくデスクを追加して、三木ちゃん。
……片桐さんは3月末までは契約社員で、4月1日より係長として採用されることが内定しているらしい。水野課長代理以下、係長や主任という立場の社員がおらず、なんとなくアンバランスだった2課の内情を考えてのことだろう。
片桐さんは現時点であくまでも契約社員だから、歓迎会は正式に採用された4月以降にするものだと考えていた。けれど、今週末に新年会兼歓迎会を開く、ということは、上層部としては片桐さんを手放す気は無いという意思表示でもあるのだろう。
……気が、重い。片桐さんがいう、時間は沢山あると。それを事実と認めなければならないからだ。
いっその事。ぱっぱと智さんと結婚してしまうか。そうすれば……片桐さんも、簡単に手が出せなくなるだろう。
けれど、付き合って2週間で結婚を即決するのは……私と凌牙のことを面白可笑しく話している連中に、あらぬ噂の種を追加させることに成りかねない。凌牙に振られた腹いせで、交際もそこそこに結婚した女、と見られてしまう。
それに……智さんが、本心から私と結婚したいと思ってくれているのか。それも、わからない。
そもそも、智さんのご家族や私の両親が、交際期間2週間で結婚することを許してくれるはずもない。
……どの道、色々と詰んでいるのだ。
そんなことをぼんやりと考えながら、小林くんから手渡された請求書に目を通していく。
「……ん、オッケーよ。田邉部長の印鑑もらって郵送お願いね」
そう口にしながら、制服のポケットから浸透印を取り出してぽんと捺印する。
「はい、ありがとうございます。……夕方、藤宮と会う予定があるので、手渡してきてもいいでしょうか」
藤宮くん。私は、年末に1階下の水産販売部ですれ違ってからは会っていない。会う予定、ということは、飲む予定、ということだろう、けれども。合コンの時の藤宮くんの様子が瞬時に思い出された。
「……藤宮くんが飲んで正体をなくして、その請求書を紛失しないならね」
くすり、と、笑みを小林くんに向ける。
小林くんが、私に向ける視線のこと。片桐さんが、小林くんを揺さぶった、ということ。
その事実に、胸の鼓動が早まるのを感じたけれど……それをおくびにも出さず小林くんに接するように心がけた。
小林くんは聡い子だから。私が、小林くんが隠している本心に気付いた、ということも。片桐さんが小林くんを揺さぶり、私も片桐さんから揺さぶられた、ということも。
きっと……彼には伝わってしまうだろう。胸にチクリ、と、小さな縫い針を刺された気持ちだった。
だけれども。小林くんが抱えている気持ちを、踏み躙らないように。私は、自分の気持ちを押し殺して。いつも通りに……ふわり、と、笑いかけた。
「……紛失されたら僕の責任になりそうなので、やはり郵送にします」
困ったような、そんな顔で小林くんが笑い返してくれた。その笑顔に、私は。
巻き込んで、ごめんね。
あなたの気持ちに応えられなくて……ごめんね。と。
心の中で、小さく呟いた。
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