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本編・第二部
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がたん、と乱暴な音を立てて、弁当箱を社員食堂のテーブルに置く。
「……っ、ほんとに、なんで……」
僅かな毒を吐き出し、ぐったりと身体を弛緩させた。予想出来ただろうか。あのマスターとの会話で、うちに来る中途さんが彼だと。
―――片桐 柾臣。
本名は片桐 Andrew 柾臣。
日本生まれ、イギリス育ち。来月には32歳。父親がイギリス人で、母親が日本人のハーフ。ミドルネームになっているアンドリュー、これが父親なんだそう。5歳になるまで日本で過ごし、イギリスへ移住。イギリスの大学を卒業し、一昨年まであちらで働いていたが、母親が体調を崩したのを機に医療体制が整っている日本に戻ってきた。その母親が、極東商社役員である槻山取締役のいとこに当たるらしい。
今日は本来の教育係の三木ちゃんの代わりに水野課長代理が代理で教育についたが、ひとつを伝えてそこに付随する情報を芋づる式にほぼ理解していく頭の回転の速さが目に付いた。
母国語が英語というだけあって、英会話もお手の物。しっかり仕事を覚えてくれれば通関部の即戦力になり得る。
「……はぁ」
即戦力になり得る、とは言っても気が重い。けれど、彼と関わらずに仕事をすることはできない。通関部の仕事は多岐にわたり、ほとんどの作業を分担して行っているから。
『君が気に入った。君が欲しい。君を手に入れたい』
……初めて顔を合わせたあの日に、こんなセリフを言われて。今後、彼とどう接していけば良いのだろう。
パクリ、と、智さんが作ってくれたお弁当のサラダを一口摘む。
(ひとまず彼のことは置いておこう)
今日は三木ちゃんのおばぁ様のお通夜に参列するから、午後も効率よく仕事をしなければ。目の前のことをひとつずつ片付けていくだけでも違うはずだ。
「一瀬さん」
午後の仕事の流れをぼうっとイメージしていると、唐突に前方から名前を呼ばれた。ふい、と顔をあげると、テーブルを挟んで小林くんが「ここ、いいですか?」と視線だけで訊ねて来ていた。その視線にこくんと頷く。
「小林くん。朝は力仕事ありがとうね」
「いえ」
朝は小林くんがいてくれて本当に助かった。力仕事もそうだけれど。もし、あの時小林くんがいなければ、彼を総務部まで連れて行くのは私の役目だっただろう。……考え、たくもなかった。
「片桐さんと、どこかでお会いしたんですか?」
唐揚げ定食に箸を付け出した小林くんから、音量控えめな質問が投げかけられた。朝の私と片桐さんの様子から、顔見知りであることはきっとバレているだろうとは予想していた。彼の質問に苦笑しながら返答していく。
「んっと。土曜日に立ち寄った喫茶店でね。なんか……気に入られちゃったみたい」
気に入られた、という言葉で誤魔化せるかどうかもわからないけれど、私は口にしながら素知らぬ顔でお弁当の最後の一口を頬張った。
「……あの人、しつこそうですから。気をつけてください。何かあれば、防波堤になりますから」
「ありがとう。でも、会社でなにか起こしてくるつもりはないと思うわ? 入社直後に問題起こして解雇されるわけにはいかないだろうから。お母様のためにね」
じっと、小林くんが私を見つめている。小林くんの、澄み切った瞳を見る度に。私なんかよりもずっと素敵な人と出会えるはず、と、彼の人生を応援したくなる。
「午後も頑張ろ?」
そう声をかけて、私は社員食堂を後にした。
---
「この度はお悔やみ申し上げます」
受付で記帳をして、香典返しを受け取り、斎場に入る。すでに焼香が始まっていて、慌てて列に並んだ。遺影に向かって一礼したのち、遺族席へ目を向ける。
目を真っ赤に腫らした三木ちゃんと視線が合って、ぺこりと頭を下げられた。
その痛ましげな表情に、心を抉られる。
「三木、ちゃん……」
そっと呟いた言葉が、隣にいた小林くんに聞こえたようで。小林くんが小さく身動ぎした。
参列客が思った以上に多かった。「三木には忌引き明けにしっかりお悔やみの言葉を伝えましょう」と田邉部長から告げられ、喪主挨拶ののちに私たちはすぐ退場した。
「お疲れさまでした、お先に失礼します」
一緒に参列した通関部のメンバーにそう告げて、私は斎場を離れた。智さんの家まで、徒歩で行けなくもない距離の斎場だった。私の自宅へは、反対方向。
(……今夜まで泊まらせて貰うことにすれば良かったな、かなぁ…)
駅のお手洗いかどこかで喪服から洋服に着替えて、ゆっくり買い物して帰っても、大丈夫な時間だろうか。纏まらない思考の中で、ゆるゆると思いを馳せていると、さわり、と、喪服のスカートがふくらはぎを撫でていった。
「……」
人の死に触れると、生きること、死ぬことの意味を考えさせられる。
生まれたから死ぬ。
生まれないものは死なない。
生あるものは、いつか必ず滅ぶ。
花の美しさはずっとは続かない。いつか、枯れる。
だからこそ、花は美しいと感じるのだろう。
「……帰ろう」
そう。帰る。今というこの瞬間を、愛でるために。
「家まで送りますよ、お嬢さん」
聞き慣れない声が響いて、ぎくり、と身体が強ばった。緩慢な動作で真後ろを振り向くと、いつの間にか彼が立ってた。
「……片桐、さん」
「マサでいいってば。そんなに警戒しないで?」
思いっきり苦笑した顔を私に向けてくる。暗闇の中でも直ぐにわかる、明るい髪。じっと、そのヘーゼル色の瞳を見つめる。何を考えているのか、わからない。飄々とした空気がそこにあって。
「日も暮れたし、女性をひとりで歩かせるなんてできない性分だからね」
「……結構です」
彼の言葉を冷静に跳ね除け、言葉でも態度でも拒否を示し踵を返して歩き始めた。
「つれないなぁ~」
くすり、と、笑い声がする。
「あの業務ノート、知香ちゃんが作ったんだって?」
私が三木ちゃんを教育するのにあたって作成した業務ノート。通常業務から、イレギュラー処理まで、全て書面に起こし、ワープロソフトに打ち込んで保存してあるもの。小林くんの教育をする時も使っていた。
今回三木ちゃんが教育係をするにあたって、私が作成したこの業務資料を三木ちゃんに託し、自分が教えやすいように作り替えてごらん、と課題を出した。
仕事は、記憶よりも記録でするもの。何よりも記録が大事。それを私も水野課長代理から教えこまれたのだから。
「……原型は私ですが、アレンジを加えたのはあなたの教育係の三木ちゃんです」
少し後ろを歩いている彼に言葉を投げつけ、歩く速度を早めた。
「へぇ。でも、あれだけの情報が丁寧に纏めてあって凄くわかりやすくて驚いたよ。助かっている」
「……片桐さんの飲み込みが早いからですよ」
私の冷えた声に、くすり、と。彼がふたたび笑った。
「ほんと~につれないね? そんなに俺のこと嫌い?」
「嫌いです」
あっという間に私の真横に到達した彼。思わず立ち止まって、真横を見上げて彼を睨みつけた。
この距離感のなさが嫌い。ずけずけと心の中を土足で踏み込まれていく感覚がある、この距離感が。
「んん~。参ったなぁ。そんなに嫌われることした覚えな~いよ?」
「その自覚がないのなら相当重症ですね」
小林くんが言うように、しつこい。本当に……狙いを定めた、執念深い蛇のようだ。
「ねぇ、知香ちゃん。小林くんの気持ち、知ってる?」
「……」
直前まで考えていた人物の名前が飛び出てきて、思わず足を止めた。小林くんに告白されたことは、智さんにしか告げていない。それなのに、何故……片桐さんが「小林くんの気持ち」について言及しているのか。
何を考えているのか、わからない、読めない。ヘーゼル色の瞳が暗闇の中にぼんやりと浮かぶ。
「彼は。恋心と仕事仲間に向ける情を取り違えているだけですよ。……独り立ちしたら、きっとそれに気がつく」
智さんにも話した言葉を一言一句違えず紡いで、ふたたび足を動かし始める。
「ふぅん?」
歩く速度を早めても、彼の驚異的な脚の長さでリカバリーされる。これでは本当に、自宅までついてこられそうだ。それだけは勘弁してほしい。自宅を知られたら今以上に執着されてしまうように思えた。
「知香ちゃんは、本当に。残酷なほど……彼氏以外の人をみようとしないんだね」
「は?」
彼から投げかけられた言葉の意味が理解出来ず、また足を止めた。こちらを見おろすヘーゼル色の瞳が、真っ直ぐに私を貫いていく。
「小林くんの本当の気持ち、知ってる?」
じっと。ヘーゼル色の瞳が、私をまっすぐに貫いて。片桐さんの声が、すっと、低くなる。
「……本当に、知香ちゃんは残酷だね。周りの人が抱く痛みや悲しみの感情は敏感に感じ取るのに、周りの人が君に向ける恋慕の視線はものともしない」
思わぬ言葉に驚愕した。どくどくと、鼓動が大きくなる。目の前の片桐さんからは先ほどまでの掴みどころのない飄々とした雰囲気が消え失せている。
「……え、と」
「君にそういうつもりが無くても、そうなんだよ。君は、酷く、残酷だ。小林くんだけでなく、俺の気持ちをも、無慈悲なほど弄ぶ」
「……っ」
「もう少し、君は周りの人が君にどんな感情を向けているのか、考えた方がいい。そうでないと、本当に……取り返しのつかない過ちを犯してしまうよ」
片桐さんはそう告げると、ヘーゼル色の瞳が、まるで自分が怪我をしたかのような痛みに揺れた。
そう考えた瞬間、ぱたり、と。音を立てて、片桐さんの言葉の意味が、私の中に落ちてきた。愕然とした。信じたくなかった。だけど、気づいてしまった。
私の表情に、片桐さんがふっと声を和らげた。
「見えないふり、聞かないふりは、よくな~いよ?」
凌牙との一件で、わかっているつもりだった。見えないふり、聞かないふりは、もうしない、と。
……片桐さんは、嘘を言っているかもしれない。君を手に入れたい、そう言った片桐さんが、こんな事を言ってくるのだから。裏があっても、おかしくはない。一瞬、そんな考えがよぎった。
「……俺の言葉を信じてくれなくてもいい。だけどね」
その言葉を紡いだ、片桐さんが私を見つめる瞳は……昼休みにみた小林くんと同じように、澄んでいた。だから、きっと。この人がこの後に紡ぐ言葉は―――真実、だ。
「俺は、君に…後悔してほしくないんだ」
ぽつり、と。片桐さんの声が、冬の空気に反響して響いた。
私は、小林くんの本当の気持ちになんて、気がつけてなかった。
ただの情を、恋心と取り違えているだけだと思っていた。
けれど……片桐さんがいうことが、真実なら。
私は、結局。全くわかっていないのだ。
「……あ、りがとう、ございます」
その言葉を絞り出して、片桐さんから視線を外す。気づいてしまった事実に、心臓がどくどくと跳ねている。
「さて、本題と行こう。……知香ちゃんの家はどこかな~?」
ふわり、と。片桐さんに飄々とした雰囲気が戻ってくる。
「……っ、だから結構ですと言ってます!」
弾かれたように拒絶の言葉を放つ。目の前の彼は「えぇ~」と声をあげ、不満そうな表情で言葉を続けた。
「ここまで色々アドバイス貰っといて、見返りもないわけ?」
「……見返り欲しさに、私に情報を与えたわけですか」
「まぁ、そうともいうね」
くすくす、と、笑う声が聞こえる。自宅は、教えたくない。……どう行動するのが、最善だろうか。
無意識のうちに、助けを求めるように。身体が智さんの自宅に向かっていた。
「ふぅん、ここなんだ。何階?」
「教える義理は、ないと思います」
鞄から合鍵を取り出してオートロックを解錠しようと壁の鍵穴に手をかけた時、鍵を握った右手がぐいっと引かれて、身体がよろけた。
「……知香ちゃん。俺、本気だから」
腰に反対の手が廻って、片桐さんの顔が、唇が、触れそうな距離まで近づく。
「っ、私はあなたの事が嫌いです!」
背の高い片桐さんを睨み上げ、片桐さんの手から逃れようと身体を捩らせる。掴まれている右手首にぎゅっと力が入った。
「逃がさない。絶対に、振り向かせてみせる」
ヘーゼル色の瞳が、さっき見た僅かな痛みを伴って。真っ直ぐに私を貫いていた。
(……な、んだろう…この、変な感じ…)
私を見つめている、片桐さんの瞳。
―――私を見ているのに、私を見ていない。
言い様のない違和感が私を包んだ。
どれくらい睨み合っただろうか。
ゆっくりと片桐さんの手から解放されて、片桐さんが背広の裾を広げながらくるりと踵を返した。
ふわり、と。シトラスの香りが漂った。片桐さんの、香水の匂い。
鼻腔をくすぐった香りを振り払うように、頭を振って。少し痛む右手首をさすった。
―――ヒビの入った己の心を労わるかのように。
「……っ、ほんとに、なんで……」
僅かな毒を吐き出し、ぐったりと身体を弛緩させた。予想出来ただろうか。あのマスターとの会話で、うちに来る中途さんが彼だと。
―――片桐 柾臣。
本名は片桐 Andrew 柾臣。
日本生まれ、イギリス育ち。来月には32歳。父親がイギリス人で、母親が日本人のハーフ。ミドルネームになっているアンドリュー、これが父親なんだそう。5歳になるまで日本で過ごし、イギリスへ移住。イギリスの大学を卒業し、一昨年まであちらで働いていたが、母親が体調を崩したのを機に医療体制が整っている日本に戻ってきた。その母親が、極東商社役員である槻山取締役のいとこに当たるらしい。
今日は本来の教育係の三木ちゃんの代わりに水野課長代理が代理で教育についたが、ひとつを伝えてそこに付随する情報を芋づる式にほぼ理解していく頭の回転の速さが目に付いた。
母国語が英語というだけあって、英会話もお手の物。しっかり仕事を覚えてくれれば通関部の即戦力になり得る。
「……はぁ」
即戦力になり得る、とは言っても気が重い。けれど、彼と関わらずに仕事をすることはできない。通関部の仕事は多岐にわたり、ほとんどの作業を分担して行っているから。
『君が気に入った。君が欲しい。君を手に入れたい』
……初めて顔を合わせたあの日に、こんなセリフを言われて。今後、彼とどう接していけば良いのだろう。
パクリ、と、智さんが作ってくれたお弁当のサラダを一口摘む。
(ひとまず彼のことは置いておこう)
今日は三木ちゃんのおばぁ様のお通夜に参列するから、午後も効率よく仕事をしなければ。目の前のことをひとつずつ片付けていくだけでも違うはずだ。
「一瀬さん」
午後の仕事の流れをぼうっとイメージしていると、唐突に前方から名前を呼ばれた。ふい、と顔をあげると、テーブルを挟んで小林くんが「ここ、いいですか?」と視線だけで訊ねて来ていた。その視線にこくんと頷く。
「小林くん。朝は力仕事ありがとうね」
「いえ」
朝は小林くんがいてくれて本当に助かった。力仕事もそうだけれど。もし、あの時小林くんがいなければ、彼を総務部まで連れて行くのは私の役目だっただろう。……考え、たくもなかった。
「片桐さんと、どこかでお会いしたんですか?」
唐揚げ定食に箸を付け出した小林くんから、音量控えめな質問が投げかけられた。朝の私と片桐さんの様子から、顔見知りであることはきっとバレているだろうとは予想していた。彼の質問に苦笑しながら返答していく。
「んっと。土曜日に立ち寄った喫茶店でね。なんか……気に入られちゃったみたい」
気に入られた、という言葉で誤魔化せるかどうかもわからないけれど、私は口にしながら素知らぬ顔でお弁当の最後の一口を頬張った。
「……あの人、しつこそうですから。気をつけてください。何かあれば、防波堤になりますから」
「ありがとう。でも、会社でなにか起こしてくるつもりはないと思うわ? 入社直後に問題起こして解雇されるわけにはいかないだろうから。お母様のためにね」
じっと、小林くんが私を見つめている。小林くんの、澄み切った瞳を見る度に。私なんかよりもずっと素敵な人と出会えるはず、と、彼の人生を応援したくなる。
「午後も頑張ろ?」
そう声をかけて、私は社員食堂を後にした。
---
「この度はお悔やみ申し上げます」
受付で記帳をして、香典返しを受け取り、斎場に入る。すでに焼香が始まっていて、慌てて列に並んだ。遺影に向かって一礼したのち、遺族席へ目を向ける。
目を真っ赤に腫らした三木ちゃんと視線が合って、ぺこりと頭を下げられた。
その痛ましげな表情に、心を抉られる。
「三木、ちゃん……」
そっと呟いた言葉が、隣にいた小林くんに聞こえたようで。小林くんが小さく身動ぎした。
参列客が思った以上に多かった。「三木には忌引き明けにしっかりお悔やみの言葉を伝えましょう」と田邉部長から告げられ、喪主挨拶ののちに私たちはすぐ退場した。
「お疲れさまでした、お先に失礼します」
一緒に参列した通関部のメンバーにそう告げて、私は斎場を離れた。智さんの家まで、徒歩で行けなくもない距離の斎場だった。私の自宅へは、反対方向。
(……今夜まで泊まらせて貰うことにすれば良かったな、かなぁ…)
駅のお手洗いかどこかで喪服から洋服に着替えて、ゆっくり買い物して帰っても、大丈夫な時間だろうか。纏まらない思考の中で、ゆるゆると思いを馳せていると、さわり、と、喪服のスカートがふくらはぎを撫でていった。
「……」
人の死に触れると、生きること、死ぬことの意味を考えさせられる。
生まれたから死ぬ。
生まれないものは死なない。
生あるものは、いつか必ず滅ぶ。
花の美しさはずっとは続かない。いつか、枯れる。
だからこそ、花は美しいと感じるのだろう。
「……帰ろう」
そう。帰る。今というこの瞬間を、愛でるために。
「家まで送りますよ、お嬢さん」
聞き慣れない声が響いて、ぎくり、と身体が強ばった。緩慢な動作で真後ろを振り向くと、いつの間にか彼が立ってた。
「……片桐、さん」
「マサでいいってば。そんなに警戒しないで?」
思いっきり苦笑した顔を私に向けてくる。暗闇の中でも直ぐにわかる、明るい髪。じっと、そのヘーゼル色の瞳を見つめる。何を考えているのか、わからない。飄々とした空気がそこにあって。
「日も暮れたし、女性をひとりで歩かせるなんてできない性分だからね」
「……結構です」
彼の言葉を冷静に跳ね除け、言葉でも態度でも拒否を示し踵を返して歩き始めた。
「つれないなぁ~」
くすり、と、笑い声がする。
「あの業務ノート、知香ちゃんが作ったんだって?」
私が三木ちゃんを教育するのにあたって作成した業務ノート。通常業務から、イレギュラー処理まで、全て書面に起こし、ワープロソフトに打ち込んで保存してあるもの。小林くんの教育をする時も使っていた。
今回三木ちゃんが教育係をするにあたって、私が作成したこの業務資料を三木ちゃんに託し、自分が教えやすいように作り替えてごらん、と課題を出した。
仕事は、記憶よりも記録でするもの。何よりも記録が大事。それを私も水野課長代理から教えこまれたのだから。
「……原型は私ですが、アレンジを加えたのはあなたの教育係の三木ちゃんです」
少し後ろを歩いている彼に言葉を投げつけ、歩く速度を早めた。
「へぇ。でも、あれだけの情報が丁寧に纏めてあって凄くわかりやすくて驚いたよ。助かっている」
「……片桐さんの飲み込みが早いからですよ」
私の冷えた声に、くすり、と。彼がふたたび笑った。
「ほんと~につれないね? そんなに俺のこと嫌い?」
「嫌いです」
あっという間に私の真横に到達した彼。思わず立ち止まって、真横を見上げて彼を睨みつけた。
この距離感のなさが嫌い。ずけずけと心の中を土足で踏み込まれていく感覚がある、この距離感が。
「んん~。参ったなぁ。そんなに嫌われることした覚えな~いよ?」
「その自覚がないのなら相当重症ですね」
小林くんが言うように、しつこい。本当に……狙いを定めた、執念深い蛇のようだ。
「ねぇ、知香ちゃん。小林くんの気持ち、知ってる?」
「……」
直前まで考えていた人物の名前が飛び出てきて、思わず足を止めた。小林くんに告白されたことは、智さんにしか告げていない。それなのに、何故……片桐さんが「小林くんの気持ち」について言及しているのか。
何を考えているのか、わからない、読めない。ヘーゼル色の瞳が暗闇の中にぼんやりと浮かぶ。
「彼は。恋心と仕事仲間に向ける情を取り違えているだけですよ。……独り立ちしたら、きっとそれに気がつく」
智さんにも話した言葉を一言一句違えず紡いで、ふたたび足を動かし始める。
「ふぅん?」
歩く速度を早めても、彼の驚異的な脚の長さでリカバリーされる。これでは本当に、自宅までついてこられそうだ。それだけは勘弁してほしい。自宅を知られたら今以上に執着されてしまうように思えた。
「知香ちゃんは、本当に。残酷なほど……彼氏以外の人をみようとしないんだね」
「は?」
彼から投げかけられた言葉の意味が理解出来ず、また足を止めた。こちらを見おろすヘーゼル色の瞳が、真っ直ぐに私を貫いていく。
「小林くんの本当の気持ち、知ってる?」
じっと。ヘーゼル色の瞳が、私をまっすぐに貫いて。片桐さんの声が、すっと、低くなる。
「……本当に、知香ちゃんは残酷だね。周りの人が抱く痛みや悲しみの感情は敏感に感じ取るのに、周りの人が君に向ける恋慕の視線はものともしない」
思わぬ言葉に驚愕した。どくどくと、鼓動が大きくなる。目の前の片桐さんからは先ほどまでの掴みどころのない飄々とした雰囲気が消え失せている。
「……え、と」
「君にそういうつもりが無くても、そうなんだよ。君は、酷く、残酷だ。小林くんだけでなく、俺の気持ちをも、無慈悲なほど弄ぶ」
「……っ」
「もう少し、君は周りの人が君にどんな感情を向けているのか、考えた方がいい。そうでないと、本当に……取り返しのつかない過ちを犯してしまうよ」
片桐さんはそう告げると、ヘーゼル色の瞳が、まるで自分が怪我をしたかのような痛みに揺れた。
そう考えた瞬間、ぱたり、と。音を立てて、片桐さんの言葉の意味が、私の中に落ちてきた。愕然とした。信じたくなかった。だけど、気づいてしまった。
私の表情に、片桐さんがふっと声を和らげた。
「見えないふり、聞かないふりは、よくな~いよ?」
凌牙との一件で、わかっているつもりだった。見えないふり、聞かないふりは、もうしない、と。
……片桐さんは、嘘を言っているかもしれない。君を手に入れたい、そう言った片桐さんが、こんな事を言ってくるのだから。裏があっても、おかしくはない。一瞬、そんな考えがよぎった。
「……俺の言葉を信じてくれなくてもいい。だけどね」
その言葉を紡いだ、片桐さんが私を見つめる瞳は……昼休みにみた小林くんと同じように、澄んでいた。だから、きっと。この人がこの後に紡ぐ言葉は―――真実、だ。
「俺は、君に…後悔してほしくないんだ」
ぽつり、と。片桐さんの声が、冬の空気に反響して響いた。
私は、小林くんの本当の気持ちになんて、気がつけてなかった。
ただの情を、恋心と取り違えているだけだと思っていた。
けれど……片桐さんがいうことが、真実なら。
私は、結局。全くわかっていないのだ。
「……あ、りがとう、ございます」
その言葉を絞り出して、片桐さんから視線を外す。気づいてしまった事実に、心臓がどくどくと跳ねている。
「さて、本題と行こう。……知香ちゃんの家はどこかな~?」
ふわり、と。片桐さんに飄々とした雰囲気が戻ってくる。
「……っ、だから結構ですと言ってます!」
弾かれたように拒絶の言葉を放つ。目の前の彼は「えぇ~」と声をあげ、不満そうな表情で言葉を続けた。
「ここまで色々アドバイス貰っといて、見返りもないわけ?」
「……見返り欲しさに、私に情報を与えたわけですか」
「まぁ、そうともいうね」
くすくす、と、笑う声が聞こえる。自宅は、教えたくない。……どう行動するのが、最善だろうか。
無意識のうちに、助けを求めるように。身体が智さんの自宅に向かっていた。
「ふぅん、ここなんだ。何階?」
「教える義理は、ないと思います」
鞄から合鍵を取り出してオートロックを解錠しようと壁の鍵穴に手をかけた時、鍵を握った右手がぐいっと引かれて、身体がよろけた。
「……知香ちゃん。俺、本気だから」
腰に反対の手が廻って、片桐さんの顔が、唇が、触れそうな距離まで近づく。
「っ、私はあなたの事が嫌いです!」
背の高い片桐さんを睨み上げ、片桐さんの手から逃れようと身体を捩らせる。掴まれている右手首にぎゅっと力が入った。
「逃がさない。絶対に、振り向かせてみせる」
ヘーゼル色の瞳が、さっき見た僅かな痛みを伴って。真っ直ぐに私を貫いていた。
(……な、んだろう…この、変な感じ…)
私を見つめている、片桐さんの瞳。
―――私を見ているのに、私を見ていない。
言い様のない違和感が私を包んだ。
どれくらい睨み合っただろうか。
ゆっくりと片桐さんの手から解放されて、片桐さんが背広の裾を広げながらくるりと踵を返した。
ふわり、と。シトラスの香りが漂った。片桐さんの、香水の匂い。
鼻腔をくすぐった香りを振り払うように、頭を振って。少し痛む右手首をさすった。
―――ヒビの入った己の心を労わるかのように。
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