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本編・第二部
64 彼女がただ、笑ってくれるなら。
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彼女が硬直する。
「な、んで……」
そうして、俺が久しぶりに聴く硬い声色で、小さく呟いた。
あぁ……こんな声色を聞いたのは、何時だったか。
そう。それは。
平山に捨てられた噂が流れた日。平山に結婚指輪を認めた日。
―――彼女を想って自分を慰めた日。自分の気持ちに、気付かないフリをした日、だ。
張り裂けそうな思いが俺を苛む。それでもなお、ゆるり、と、頭を振って思考を戻す。
何故、彼女はあの時のような声を上げてこの男を見ているのか。この男も、彼女に視線を向けたまま固まっている。何かしらの因縁があるということに気が付いた時には、そのヘーゼル色の瞳が一瞬だけ獲物を捕らえたように歪んだのを確認した後だった。
ひどく嫌な予感がした。彼女の前に出てその男を見遣る。すると、すっと、そのヘーゼル色の瞳が親しみをこめて細められた。
「初めまして、カタギリマサオミと申します。通関部2課はここでいいんですかね?」
先ほどの歪んだ瞳は消え去っている。けれど、俺の頭の中ではガンガンと警鐘が鳴り響いたままだ。腹に一物抱えているような目の前の男を警戒しながらゆっくり口を開いた。
「……はい、そうです。小林です。今日からよろしくお願いします、カタギリさん」
「マサ、でいいです。一昨年までイギリスに居たので、苗字で呼ばれることに慣れていなくて」
「……そうですか」
そうして、ゆるり、と。男が彼女に視線を向け、右手を挙げた。
「やぁ。まさかここで巡り合うとはね。俺と知香ちゃんって、運命の糸で結ばれているんじゃな~い?」
飄々とした空気をその身に纏わせ、人懐っこそうな笑みを彼女に向けた。やはり、因縁の相手のようだ。
「………一瀬、です。よろしくお願いします」
ピシャリ、と、冷えた声で彼女が応答する。背筋を伸ばしたまま、凛とした表情で俺と視線を合わせた。
「小林くん。カタギリさんを総務部まで連れて行って。カタギリさん、総務部で社員証を受け取ってきてください。更衣室のロッカーの案内やその他のいろいろな手続きもあると思いますので。小林くんはすぐ帰ってきてデスクの移動をお願いできる?」
まるで彼女の凛とした視線をあらわすかのように、きらり、と。ダイヤモンドのイヤリングが煌めいた。有無を言わせぬ声色に、俺は無言で頷く。
「今日は、カタギリさんの教育係が忌引きでお休みです。夕方、お通夜なので私たちはなんとしてでも定時で上がらなければならないの。初日から申し訳ありませんが、口を動かすより頭と体を動かしてください」
彼女の拒絶とも取れる言葉に、つぅ、と、男が面白そうに瞳を細めた。
「へぇ、じゃぁ知香ちゃんが俺の教育係になるの?」
男の言葉に、びくり、と、彼女の身体が揺れる。
「……私は3月まで小林くんの教育係なので、恐らく私の上司が三木ちゃんの忌引明けまで代理で担っていく形になるかと。私があなたに何かを教えることはないと思います」
「………ん~。つれないなぁ。まぁ、いいや。時間はいっぱいあるし?」
なおも彼女に食いつく目の前の男に苛立ちを隠せず、俺は気が付けば考えていたよりも低い声で話しかけていた。
「カタギリさん、行きますよ」
マサと呼んでと言われたが。お前の思い通りにはさせない、という意思を込めて苗字で呼びかける。
「はいは~い」
男が、ひらひらと、彼女に向けて手を振る。振り返った彼女は椅子に腰をおろし、努めて冷静に書類に向き直っていた。
がちゃり、と音を立てて通関部のフロアを出た。無言でエレベーターホールを抜け、階段への扉を開く。
「総務部はひとつ上の階です。今の時間は、上りのエレベーターが混雑しているので、」
「君も知香ちゃん狙いなの?」
俺が説明を始めたのを遮るように言葉を被せられる。扉を閉じ、じっと……睨めつけるような目で男に視線を送った。
「あ~らら。カマかけだったのに。図星?」
ヘーゼル色の瞳が、まるで獲物を見つけて鎌首を擡げた蛇のように俺を見据えた。つぅ、と、背中に嫌な汗が伝う。
「……彼女には、彼氏がいる」
頭の中の警鐘がより一層大きな音を立てて鳴り響く。この男は……危険だ。何が、とは表現出来ない。が、油断すればこの男に俺の全てが丸飲みにされてしまう。そう感じて、身を護るようにぐっと拳を握った。……一瀬さんには彼氏がいる、それ以外の余計な情報を与えないよう深く息を吸った。
「うん。俺は知香ちゃんの彼氏の顔も知ってる」
目の前の男からの返答に息が詰まった。
(……こいつ)
……その上で。奪うつもり、なのか。込み上げてくる赤黒い感情を抑えてただただ得体のしれない雰囲気を纏った男を見つめ続けた。
「結婚もしてないし、ましてや婚約もしてないんでしょ? 奪っちゃうよ? 俺」
「……あの態度を取られてもなおそういう風に言える神経は素直に尊敬しますよ」
精一杯の嫌味を投げつけながらぐっと手すりを握って階段に足をかけた。
「関係をフラットに立て直すだけでも結構なタイムロスになるかと思います。無駄なことはやめた方が賢明かと思いますが」
「時間はたくさんあるんだ。焦らずいくさ」
カンカンと軽快な音が、後ろの男の革靴に付けられたトゥスチールから奏でられ、螺旋階段に俺と男の声が響く。
「ね、知香ちゃんの彼氏ってこの会社の人?」
「……悪趣味ですね。他人のプライベートを詮索するなんて」
イライラが最高潮に達し、辛辣な言葉を投げつけた。途端に、男が心底面白そうに笑い声を上げて言葉を紡ぐ。
「嫌だなぁ、これから一緒に働く人たちの情報が軽く欲しいなぁって思うのは当たり前だと思うけど? せっかくなら同じ部所の人とは仲良く働きたいし? 君だって入社するときそう思わなかった?」
恋敵だと認識した俺の前では腹の一物を隠すつもりもないのだろう。その態度が、気に食わない。
「……あなたの場合は目的が露骨すぎるでしょう」
俺とこいつは……きっと、相容れない。そう、邨上と俺が相容れないように。
「本当に好きなら。どんな手段を使ってでも相手を手に入れたいと藻掻くものだと思うけど? 君は違うの?」
背後からの問いかけに、俺は思わず立ち止まって男を振り返った。螺旋階段の2段ほど高いところに立っている俺をも見おろす背丈。すっとした高い鼻立ちが顔を華やかに彩っている。
きっとこいつは、この華やかな風貌で女を喰い物にしてきたクチだろう。だからこそのこの自信が鼻につく。……俺は、知っている。彼女は、そういったものになびかない。
「彼女はヤツしか見ていない。俺は彼女が幸せを掴む日まで彼女を好きで居続けると、そう決めた」
満たされたような視線を、あの甘い声を、俺に向けてくれなくても、いい。彼女の笑顔が見られれば、それでいい。
「だから、彼女の幸せを邪魔するようなら、俺はアンタを赦さない」
『破綻の要因が小林なら、藤宮は小林を赦さない』
藤宮の言葉が脳裏に蘇る。言外に自分の意思を伝えてきたあいつの気持ちが、今ならばわかる気がする。
行き過ぎた片思いは、純粋な愛情ではない。それはただの自己満足に過ぎない。所有欲を満たすためだけのモノに成り果ててしまうからだ。
「……ふぅん」
獲物を捕らえたような瞳が、途端に興味を失ったかのようにすっと細められる。
「……君は、彼女を侮っているね」
「……」
「彼女の幸せは彼女自身が決めることだ」
思わぬ指摘に息が止まった。
「君の話しぶりだと、彼女が自分の幸せを自分で決められないと……まるで、今の彼氏じゃないと彼女が幸せになれないと決めつけている」
「……決め、つけてなんか」
それ以上は何も言い返せない自分が情けなく感じた。ぎり、と、唇を噛む。彼女のことを何も知らないくせに。
「そんなの、わからないじゃないか。彼女を幸せにできるのは、俺かもしれないし、君かもしれないし、今の彼氏かもしれないし、はたまた別の男かもしれないよ?」
ゆっくりと、芝居掛かった動きで。男が大袈裟に肩を竦めた。
「君の自信の無さを彼女に転嫁してはいけないよ。そうやって相手の幸せを願って物わかりの良いことを宣う奴ほど、自分に自信が持てていないだけだ」
…………彼女が負った傷を、何も知らないくせに。
「君の幸せは君が決めることだけどね? 君は、血反吐を吐いて、傷ついて。それでも幸せなのかい?」
「……」
つぅ、と。蛇のような瞳が、面白そうに細められた。
「彼女は……君が傷ついていても、自分をずっと好きでいることを、望むのかなぁ?」
頭を、ズガン、と。鈍器で殴られたような感覚があった。
「……ま、俺にとってライバルが減るのはありがたいことだけどね~ぇ?」
くすくす、と。嘲笑うような微笑みを浮かべた男が軽快な音を立てて階段を登り、俺を追い抜いた。
「総務部がどこにあるのか、その辺歩いてる誰かに聞くよ。ここまで案内してくれてありがと」
ギィ、と、蝶番が軋む音がして、男の姿が消えていった。
「……は、」
ようやく、呼吸が出来るようになった。浅い呼吸を繰り返す。じっとりと、汗をかいている。
俺が一生抱えて生きていくと決めて閉じ込めた想いが―――彼女を傷付けることになるかもしれない。
それは、今まで考えつきもしなかった事実で。想定もしていなかった、現実で。
「……っ、くそっ…」
ガンっと、階段の手すりを蹴りたくり八つ当たりした。ジンジンと足の甲が痛みを訴える。
「…………落ち着け…」
そう。あいつの言葉は、俺を挑発するための言葉だ。
挑発に、乗るな。乗れば、相手の思う壷だ。
自分を抑え込むように、ぎり、と、ふたたび唇を強く噛んだ。
俺は、彼女の幸せを願っている。
俺の想いが、報われる日なんて、来なくていい。
彼女が、ただ、幸せであればいい。
あんなに、満ち足りた顔をして微笑む彼女が、幸せでないはずは無いのだから。
俺は、なんだってする。
彼女がただ、笑ってくれるなら。
「な、んで……」
そうして、俺が久しぶりに聴く硬い声色で、小さく呟いた。
あぁ……こんな声色を聞いたのは、何時だったか。
そう。それは。
平山に捨てられた噂が流れた日。平山に結婚指輪を認めた日。
―――彼女を想って自分を慰めた日。自分の気持ちに、気付かないフリをした日、だ。
張り裂けそうな思いが俺を苛む。それでもなお、ゆるり、と、頭を振って思考を戻す。
何故、彼女はあの時のような声を上げてこの男を見ているのか。この男も、彼女に視線を向けたまま固まっている。何かしらの因縁があるということに気が付いた時には、そのヘーゼル色の瞳が一瞬だけ獲物を捕らえたように歪んだのを確認した後だった。
ひどく嫌な予感がした。彼女の前に出てその男を見遣る。すると、すっと、そのヘーゼル色の瞳が親しみをこめて細められた。
「初めまして、カタギリマサオミと申します。通関部2課はここでいいんですかね?」
先ほどの歪んだ瞳は消え去っている。けれど、俺の頭の中ではガンガンと警鐘が鳴り響いたままだ。腹に一物抱えているような目の前の男を警戒しながらゆっくり口を開いた。
「……はい、そうです。小林です。今日からよろしくお願いします、カタギリさん」
「マサ、でいいです。一昨年までイギリスに居たので、苗字で呼ばれることに慣れていなくて」
「……そうですか」
そうして、ゆるり、と。男が彼女に視線を向け、右手を挙げた。
「やぁ。まさかここで巡り合うとはね。俺と知香ちゃんって、運命の糸で結ばれているんじゃな~い?」
飄々とした空気をその身に纏わせ、人懐っこそうな笑みを彼女に向けた。やはり、因縁の相手のようだ。
「………一瀬、です。よろしくお願いします」
ピシャリ、と、冷えた声で彼女が応答する。背筋を伸ばしたまま、凛とした表情で俺と視線を合わせた。
「小林くん。カタギリさんを総務部まで連れて行って。カタギリさん、総務部で社員証を受け取ってきてください。更衣室のロッカーの案内やその他のいろいろな手続きもあると思いますので。小林くんはすぐ帰ってきてデスクの移動をお願いできる?」
まるで彼女の凛とした視線をあらわすかのように、きらり、と。ダイヤモンドのイヤリングが煌めいた。有無を言わせぬ声色に、俺は無言で頷く。
「今日は、カタギリさんの教育係が忌引きでお休みです。夕方、お通夜なので私たちはなんとしてでも定時で上がらなければならないの。初日から申し訳ありませんが、口を動かすより頭と体を動かしてください」
彼女の拒絶とも取れる言葉に、つぅ、と、男が面白そうに瞳を細めた。
「へぇ、じゃぁ知香ちゃんが俺の教育係になるの?」
男の言葉に、びくり、と、彼女の身体が揺れる。
「……私は3月まで小林くんの教育係なので、恐らく私の上司が三木ちゃんの忌引明けまで代理で担っていく形になるかと。私があなたに何かを教えることはないと思います」
「………ん~。つれないなぁ。まぁ、いいや。時間はいっぱいあるし?」
なおも彼女に食いつく目の前の男に苛立ちを隠せず、俺は気が付けば考えていたよりも低い声で話しかけていた。
「カタギリさん、行きますよ」
マサと呼んでと言われたが。お前の思い通りにはさせない、という意思を込めて苗字で呼びかける。
「はいは~い」
男が、ひらひらと、彼女に向けて手を振る。振り返った彼女は椅子に腰をおろし、努めて冷静に書類に向き直っていた。
がちゃり、と音を立てて通関部のフロアを出た。無言でエレベーターホールを抜け、階段への扉を開く。
「総務部はひとつ上の階です。今の時間は、上りのエレベーターが混雑しているので、」
「君も知香ちゃん狙いなの?」
俺が説明を始めたのを遮るように言葉を被せられる。扉を閉じ、じっと……睨めつけるような目で男に視線を送った。
「あ~らら。カマかけだったのに。図星?」
ヘーゼル色の瞳が、まるで獲物を見つけて鎌首を擡げた蛇のように俺を見据えた。つぅ、と、背中に嫌な汗が伝う。
「……彼女には、彼氏がいる」
頭の中の警鐘がより一層大きな音を立てて鳴り響く。この男は……危険だ。何が、とは表現出来ない。が、油断すればこの男に俺の全てが丸飲みにされてしまう。そう感じて、身を護るようにぐっと拳を握った。……一瀬さんには彼氏がいる、それ以外の余計な情報を与えないよう深く息を吸った。
「うん。俺は知香ちゃんの彼氏の顔も知ってる」
目の前の男からの返答に息が詰まった。
(……こいつ)
……その上で。奪うつもり、なのか。込み上げてくる赤黒い感情を抑えてただただ得体のしれない雰囲気を纏った男を見つめ続けた。
「結婚もしてないし、ましてや婚約もしてないんでしょ? 奪っちゃうよ? 俺」
「……あの態度を取られてもなおそういう風に言える神経は素直に尊敬しますよ」
精一杯の嫌味を投げつけながらぐっと手すりを握って階段に足をかけた。
「関係をフラットに立て直すだけでも結構なタイムロスになるかと思います。無駄なことはやめた方が賢明かと思いますが」
「時間はたくさんあるんだ。焦らずいくさ」
カンカンと軽快な音が、後ろの男の革靴に付けられたトゥスチールから奏でられ、螺旋階段に俺と男の声が響く。
「ね、知香ちゃんの彼氏ってこの会社の人?」
「……悪趣味ですね。他人のプライベートを詮索するなんて」
イライラが最高潮に達し、辛辣な言葉を投げつけた。途端に、男が心底面白そうに笑い声を上げて言葉を紡ぐ。
「嫌だなぁ、これから一緒に働く人たちの情報が軽く欲しいなぁって思うのは当たり前だと思うけど? せっかくなら同じ部所の人とは仲良く働きたいし? 君だって入社するときそう思わなかった?」
恋敵だと認識した俺の前では腹の一物を隠すつもりもないのだろう。その態度が、気に食わない。
「……あなたの場合は目的が露骨すぎるでしょう」
俺とこいつは……きっと、相容れない。そう、邨上と俺が相容れないように。
「本当に好きなら。どんな手段を使ってでも相手を手に入れたいと藻掻くものだと思うけど? 君は違うの?」
背後からの問いかけに、俺は思わず立ち止まって男を振り返った。螺旋階段の2段ほど高いところに立っている俺をも見おろす背丈。すっとした高い鼻立ちが顔を華やかに彩っている。
きっとこいつは、この華やかな風貌で女を喰い物にしてきたクチだろう。だからこそのこの自信が鼻につく。……俺は、知っている。彼女は、そういったものになびかない。
「彼女はヤツしか見ていない。俺は彼女が幸せを掴む日まで彼女を好きで居続けると、そう決めた」
満たされたような視線を、あの甘い声を、俺に向けてくれなくても、いい。彼女の笑顔が見られれば、それでいい。
「だから、彼女の幸せを邪魔するようなら、俺はアンタを赦さない」
『破綻の要因が小林なら、藤宮は小林を赦さない』
藤宮の言葉が脳裏に蘇る。言外に自分の意思を伝えてきたあいつの気持ちが、今ならばわかる気がする。
行き過ぎた片思いは、純粋な愛情ではない。それはただの自己満足に過ぎない。所有欲を満たすためだけのモノに成り果ててしまうからだ。
「……ふぅん」
獲物を捕らえたような瞳が、途端に興味を失ったかのようにすっと細められる。
「……君は、彼女を侮っているね」
「……」
「彼女の幸せは彼女自身が決めることだ」
思わぬ指摘に息が止まった。
「君の話しぶりだと、彼女が自分の幸せを自分で決められないと……まるで、今の彼氏じゃないと彼女が幸せになれないと決めつけている」
「……決め、つけてなんか」
それ以上は何も言い返せない自分が情けなく感じた。ぎり、と、唇を噛む。彼女のことを何も知らないくせに。
「そんなの、わからないじゃないか。彼女を幸せにできるのは、俺かもしれないし、君かもしれないし、今の彼氏かもしれないし、はたまた別の男かもしれないよ?」
ゆっくりと、芝居掛かった動きで。男が大袈裟に肩を竦めた。
「君の自信の無さを彼女に転嫁してはいけないよ。そうやって相手の幸せを願って物わかりの良いことを宣う奴ほど、自分に自信が持てていないだけだ」
…………彼女が負った傷を、何も知らないくせに。
「君の幸せは君が決めることだけどね? 君は、血反吐を吐いて、傷ついて。それでも幸せなのかい?」
「……」
つぅ、と。蛇のような瞳が、面白そうに細められた。
「彼女は……君が傷ついていても、自分をずっと好きでいることを、望むのかなぁ?」
頭を、ズガン、と。鈍器で殴られたような感覚があった。
「……ま、俺にとってライバルが減るのはありがたいことだけどね~ぇ?」
くすくす、と。嘲笑うような微笑みを浮かべた男が軽快な音を立てて階段を登り、俺を追い抜いた。
「総務部がどこにあるのか、その辺歩いてる誰かに聞くよ。ここまで案内してくれてありがと」
ギィ、と、蝶番が軋む音がして、男の姿が消えていった。
「……は、」
ようやく、呼吸が出来るようになった。浅い呼吸を繰り返す。じっとりと、汗をかいている。
俺が一生抱えて生きていくと決めて閉じ込めた想いが―――彼女を傷付けることになるかもしれない。
それは、今まで考えつきもしなかった事実で。想定もしていなかった、現実で。
「……っ、くそっ…」
ガンっと、階段の手すりを蹴りたくり八つ当たりした。ジンジンと足の甲が痛みを訴える。
「…………落ち着け…」
そう。あいつの言葉は、俺を挑発するための言葉だ。
挑発に、乗るな。乗れば、相手の思う壷だ。
自分を抑え込むように、ぎり、と、ふたたび唇を強く噛んだ。
俺は、彼女の幸せを願っている。
俺の想いが、報われる日なんて、来なくていい。
彼女が、ただ、幸せであればいい。
あんなに、満ち足りた顔をして微笑む彼女が、幸せでないはずは無いのだから。
俺は、なんだってする。
彼女がただ、笑ってくれるなら。
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