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本編・第二部

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「もしもし? 三木ちゃん?」
『先輩……すみません。祖母が亡くなって』
「……っ、そうなの……お悔やみ申し上げます」

 突然の訃報。闘病をなさっていて、緩和治療に入った、という話を、年末くらいに聞いたのだった。電話口の声がひどく震えている。

 ゆっくりと、ベッドから抜け出した。まだ腰が砕けているけれど、辛うじて伝い歩きは出来そうだ。

『いえ……あの、先輩。明日、私が早出だったので、変わってもらえませんか』
「うん、わかったわ。水野課長代理か田邉部長に、お通夜と葬儀の日程を連絡しておいてね」

 彼女に指示を出しながら、明日の仕事のスケジュールを脳内で組みなおす。早出は7時始業だ。ここを、6時15分に出れば間に合うだろう。

『はい……お通夜は、明日の夜です。それと、明日の席替えの件、私の机、先輩に触ってもらって構いませんから』

 電話口からの三木ちゃんの言葉に面を喰らった。そうして、年末に田邉部長から伝達があった事だと理解した。

「……あ、そっか。明日だったわね、中途さんが入るの」
『そうです……私、中途さんの教育係なのに初日からお休みいただくことになってしまいますが』

 気の毒なほど縮こまる彼女の姿が見えるような気がして、ぎゅっと心が痛んだ。

「いいのよ。しっかりおばぁ様をお見送りして。忌引き中、体調崩さないように。中途さんのことは水野課長代理がしてくれると思うから、気にしないこと」

 私のその声に「すみません」と小さな声が聞こえて、通話が途切れた。

 耳から下ろしたスマホを握り締めて頭をフル回転させる。明日がお通夜。それなら、何が何でも定時で仕事を切り上げてお通夜に参列しなければ。早出して、書類片付けて、中途さんを迎え入れるためのデスク配置にして。力仕事は小林くんがやってくれると言っていたから、細々したものを早出の合間で整理整頓。お通夜なら、喪服が必要だ。今から自宅に戻って喪服を持ってここに帰ってくる。そして明日の朝ここから出社する。

 そこまで考えて、はたと思考が止まる。……まだ、腰が砕けていて、上手く歩けない。今から自宅に戻るのは、却下。

 ふと視線を感じて背後を振り向くと、私と三木ちゃんの会話を聞いていたであろう智さんが心配そうな目線を向けてくれていた。

「どうした?」
「え、と……」


 彼方此方にとっちらかった思考を纏めるように、ゆっくりと話していく。


「……夕食取ったあと、知香ん家に喪服を取りに行くか? 車出すぞ?」
「え、いいんですか?」

 思わず目を瞬かせた。「ん」と、智さんが小さく頷く。そうして、困ったような表情で私を見つめた。

「知香が歩けねぇの、俺のせいだから。それくらいは、する」

 切れ長の瞳に哀愁を滲ませながら智さんが椅子から立ち上がった。

「俺を、もっと頼って。知香」

 そうして、ふわり、と。立ったままの私は、智さんに優しく抱き留められた。そっと……左の耳元で。幼子に噛んで含めるように、ゆっくりと智さんが言葉を続けていく。

「ひとりで何でも抱え込むな。昨日も、言ったろ? 俺を、頼れ」

 凌牙と付き合っていた頃。凌牙はぐんぐん出世して忙しかったから、相談するのも気が引けて。なんだって一人で解決してきた。今だって、智さんがプロジェクトリーダーになったのだから、と、遠慮している部分が大きい。

 だけど、それでも。智さんは、お互いに足りないところを補っていこう、と言ってくれている。昨日話題にあがった家事の話だってそう。だから私は智さんが足りないところを補えるようになれたらいい。そうして……ふたりで、幸せになっていきたい。

「……は、い」

 まだ、『誰かを素直に頼る』ということは難しいかもしれないけれど。少しずつ……慣れていけたらいい。心の中で自分に言い聞かせて、そっと顔をあげてを智さんの安堵したような表情を見つめた。不意に、視線が絡み合っているダークブラウンの瞳が、つぅ、と、細められていく。

「で」
「え?」

 一見不機嫌そうなその表情。百面相のようでなかなか理解が追いつかず小首を傾げた。

「ちらっと聞こえたけど。中途さんって、どういうこと?」

 その問いに「あ」と小さく声が漏れた。そういえば、智さんにはこの話してなかったはず。なんせ年末はお互いにバタついていて、しかもゆっくり話をする前に智さんに生理だと勘付かれて「寝てろ」と布団に転がされたのだから。

「えっと。明日から3月末まで契約社員として入社する方がいて。4月付けで正社員登用されるらしい、ってことしか。性別も年齢も聞いてなくて。ただ、英語がすごく堪能な方らしく私の上司がそれなら通関部にくれ、と言ったらしいです」
「ふぅん」

 智さんが、いかにも面白くなさそうな声を紡ぎながら、遠くを見遣った。その声の意図するところが掴めずぽかんとしたまま智さんを眺めていると、言いようのない感情を湛えた瞳が私に向けられた。

「……知香は、誰からも好かれるから」
「え?」

 何を言われているのだろう。ますますわからない。

「そいつが、女だろうが、男だろうが、心配なんだけど」

 ふわり、と抱き留められていたのが、ぎゅう、と強い力で抱き締められていく。左の耳元で、掠れたような声で囁かれていく。

「昨日みたいに口説かれるかもしれねぇよ? そいつから」

 意味が分からず呆けた。数秒ののちに理解して、くすくすと笑いが込み上げた。

「いやいや、ないない」
「ぜってぇある。だってあの後輩だって知香のこと」

 私の否定の言葉に、智さんが憮然たる面持ちで顔をあげた。あの後輩……とは、小林くんのことだろう。

「私は3月までは小林くんの教育係だから。彼も、恋心と仕事仲間に向ける情を取り違えているだけですよ。独り立ちしたら、きっとそれに気が付いてくれます」

 彼は、私が初恋だと言っていた。あのクリスマスの時に、私に告白してくれた時のことがよぎった。

 今振り返ると、私が初恋だと思っていた感情は初恋ではなかった。私の初恋は、大学に入学した頃に始めたバイト先の上司だった。社会人になり、バイトではなく社員として責任のある仕事を経験し、凌牙と交際し、改めて己の感情を振り返った時に、あの上司に向ける感情は思慕ではなく、ただ、仕事上で自分を助けてくれる人への憧れにすぎなかった、と気づいたのだ。

 きっと。小林くんも、私が教育係だからこそ、私への感情を恋だと勘違いしているに過ぎない。独り立ちして、本当の恋を知ったら、私に向ける感情が違うものだった、と気が付くはず。そう、思うのだ。

 私の頭を、その鍛え上げられた胸に抱え込み、智さんがはぁっと大きなため息を吐き出した。

「知香」

 私の名前を呼ぶ声に、ふい、と顔をあげると、小さなキスが降ってきた。

「……智さんってキス魔ですよね」

 唇が名残惜しそうに離れていく。その感覚に身体の最奥が疼くのを感じながら恨めしい気持ちを抱えて背の高い智さんをぎゅっと睨みつけた。

「え? キス魔って言う訳じゃねぇよ? 知香がキスしたくなるような顔してるから」

 真顔で放たれるそのセリフに、私は酸欠を起こした魚のように口をぱくぱくさせて、声にならない声で抗議するしか出来なかった。




---




 カタン、と、音を立ててロッカーを開いて手早く制服に着替える。ブラウスを羽織る時にズレたであろうイヤリングの位置を調整し、口紅を付けなおす。

 智さん宅を出る時間は、智さんがいつも出勤するよりも早い時間だった。それ故に、今日は一緒の電車に乗らなかった。けれど、日課の出勤前ランニングに出る時間と被っていたそうで、最寄り駅まで一緒に歩いた。ホームへ続く階段でお見送りされて、なんだか新婚さんみたいで気恥ずかしい気分だったのに。

「いってらっしゃい。昨日の夜は早出だっつーから我慢したんだ。週末、覚悟しろよ?」

 耳元でそっと呟かれて、細く切れ長の瞳がニヤリと意地悪に歪んでわらった顔が脳裏に蘇って、頭をぶんぶんと振り思考から追い払う。なんだか毒されている気がする、と心の中で独り言ち、ゆっくりとロッカーを閉めて通関部のフロアに足を向けた。




「……うわ、凄い量の書類」

 積みあがった書類に思わず顔を顰めた。年明けて初めての土日だから書類が溜まるのは仕方ないけれども。げんなりと肩を落としながら行動予定表の自分のマグネットを『在席』に動かして、三木ちゃんのマグネットを休暇に移し、ホワイトボードに『忌引き』と書き込んだ。

 デスクに腰かけ急ぎながらも丁寧に分別して、今日のカット日のものが無いかどうかゆっくりチェックしていく。その間に三木ちゃんの机の整理を進めた。ある程度纏めたところで私の机の上に移動させていく。区切りの良いところでため息をついて、自分の机も整理し始める。腕時計に視線を落とすと、8時を少し過ぎたところ。

「……思ったより時間かかっちゃったな。どうしよう、机の移動とか間に合うかしら」

 自分の机の前で腰に手を当てたまま小さく独り言ちていると、出入口から小林くんの落ち着いた声が聞こえてきた。

「おはようございます」
「おはよう、小林くん。早速だけど、デスク動かせるかしら?」
「はい、もちろんです」

 小林くんが、ジャケットを脱いでシャツの腕捲りを始めた。その仕草に「お願いするね」と、口を開こうとした瞬間。

 がした。


「通関部2課はここですか?」


 もう中途さんが出社してきたのだろうか。デスク配置終わってないのに、待たせてしまうことになりそう、と……そんなことを頭の片隅で考えながら声がする方向に顔を上げる。

 視線が絡まった、ヘーゼル色の瞳。その瞳が今にも零れ落ちそうなほど見開かれて、その人がぴしりと音を立てて固まった。

 私は目の前のこの人が―――今日から共に働く中途さんなのだと理解、した。ゆっくりと指先から血の気が引いていくのを自覚する。



『マスター、こないだの件、明後日から誘われてた方の会社に勤めることになった』
『おぉ~そうかい。親戚の会社だっけ』
『ん、親戚が役員してるとこね』



 マスターとこの人の会話が、ぼんやりと浮かんでくる。



「な、んで……」



 私は、その一言を絞り出して、その場に立ち竦むしかなかった。
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