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本編・第二部

60 杞憂に過ぎないと、思っていた。

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 チリチリと軽い音を立てて、俺は店を後にした。俺が戻ってきた時、マスターが含みのある目をして、それを隠すように笑顔を向けたのが気になった。

(………アレと、何かあったな)

 会計をするときに、ちらり、と、アレに目を遣った。ヘーゼル色の……蛇のような目。瞬時に理解した。

 俺とがする。

 口がうまく、狡猾で、囲い込みを得意とするタイプの人間だ。

 ―――知香とアレの間で、何かが起きた。

 アレは俺と相容れない。同族嫌悪。その言葉が瞬時に脳裏をよぎった。胸を掻き毟りたいほどの……言いようのない不安感が襲ってくる。

 知香と手を繋ぎ、コインパーキングまで歩いていく。

 今日は知香が使うための衣装ケースや雑貨を買った。一緒に家具屋でいろいろと選んで。スキンケア用品なども、知香が普段使っているものを一式購入し、俺の家に常備させた。週末泊まりに来るときは身軽に来れるように。タオル類なども買い足した。……本当に『夫婦』になったような気分だった。

 午後の陽光を追い立てるように雀色の空が迫って、あたりに逢魔が時の気配が混じり始めた。

 一歩一歩歩くたびに、カサリ、カサリ、と。買い物袋が擦れる音が続く。その音を聞くだけで、独りで買い物に行かなければ良かった、という思いが湧き上がる。……が、瞬時にその考えを打ち消した。

(あんなところに知香を一緒には連れていけねぇ)

 そういうものラブグッズがたくさん置いてある店だ。今の知香には刺激が強すぎる。かといって店の前でひとり待たせておくわけにはいかない。そういう店の前でひとりで待っていればにみえて襲われるのがオチだ。

 だからこそ、徒歩で行ける距離のあの店に先に連れて行って、マスターに知香を預けた。……今思うと悪手だったかもしれない。そんな気がする。じくじくと、意味のない後悔が俺の胸の中に去来する。

 少し怯えたような空気を纏っていた知香が、ようやく穏やかな呼吸をし始めた。何があったかは、本人が話し出すまで聞くのは止めておこうと判断した。根掘り葉掘り聞いてまたトラウマを植え付けては元も子もない。

 ブーっと鈍い音がして、スマホが振動した。繋いでいない方の手でスマホをチノパンから取り出し、ロック画面を確認する。


『マスター:お嬢ちゃんが近くにいない時に電話かけてこい』


 メッセージアプリの通知だが、マスターが目の前で話しているような、鮮明な言葉だった。

(……夕食を取って、知香が入浴している時間を見計らって……電話をかける)

 そう心に決め、スマホを元の位置に戻した。



 ---



 長い呼び出し音の後に、マスターの応答する声がした。

「何があった?」
『…察しがいいなぁ、お前は』

 苦笑するマスターの声に苛立ちを隠すことが出来なかった。

『驚いたぜ。……お前がだったんだなぁ』
「は?」

 話が見えない。なんのことだ。ぽかん、と口を開いている間にもマスターがつらつらと言葉を紡いでいく。

『絢ちゃんは7年一緒にいても一度も店に連れてこなかったのに、知香ちゃんはすぐ連れてきた。この違いはなんだ? と思っていたんだが』

 何かを企んでいるようなマスターの声に、じわじわと苛立ちが募る。

「マスター……何が言いたい?」
『7年前。絢ちゃんを捕まえる時。お前は余裕を崩さなかった。付き合ってる時も、お前は絢ちゃんにゾッコンに見せかけてその実お前が絢ちゃんを手のひらで弄んでたんだろう?』
「……まぁ、そうだな」

 遠い過去を思い出し、思わず目を細めた。



 絢子の果てしない美貌に、仕草に、甘い声に。運命を感じて、猛アタックをしかけて。……その後は俺に堕ちるように仕向けた。

 興味のないことにエネルギーは使えない。使いたくもない。

 だからこそ……俺は絢子の願いを深く考えることもなく、それ故に俺たちの関係は壊れた。

 けれど、俺はそれで良かったと思っている。絢子と決別をした、クリスマスの時。絢子の「幸せにしてくれるよね?」という言葉を聞いた時に、俺は、絢子との出会いが運命でなかった、ということを身を持って知った。



 俺の言葉に『そんな事だと思った』と、マスターが笑いながら言葉を続けた。

『今回お前は知香ちゃんを捕まえるために、暫く行けねぇって連絡してきたくらいだ。お前もオンナに……深いところまで堕とされるだったんだなぁって思ってさ』

 心底面白そうな声でマスターが息を吐いた。ふぅ、と長いため息の向こう側でパチパチと爆ぜる音がする。恐らく、丁子チョウジが爆ぜる音だ。いつもの煙草ガラムを吸いながら話しているのだろう。

「……話が、まったく見えないのだが」

 話が長くなりそうだと感じて、ガラリとベランダに出る。苛立ちが収まらず、俺も煙草に火をつけた。煙草の先にジュッと火が灯る。ふぅ、と息を吐いて、口を開いた。

「……あの男は? 初客一見さん?」

 俺は初めて見る顔だった。あの店に通うようになって10年近く経つが、見たことがない顔。

『お前が顔を出さないこの3ヶ月で常連になった男だ』
「……そうか」
『お前が考えてること当ててやろう』

 マスターのその声に、ぎくり、と身体が強張った。マスターとはもう腐れ縁と言っていいほどの付き合いだ。大学時代にふらっと立ち寄った店が、まさか就職した三井商社で繋がりがあるとは思っていなかった。


 マスターは池野課長の兄にあたる。公私ともにやり取りをするようになり、俺の性格は完璧に把握されている。


『同族嫌悪。そうだろ?』

 電話の向こう側のマスターが面白そうな声を上げた。図星だ。何も言葉を返せない。

「……」

 同時に、俺もマスターの性格をある程度把握している。


 ……マスターが、俺に。池野課長を重ねている、ということも……知っている。


 池野課長の過去のことは、三井商社内でも俺しか知らない。池野課長は俺を部下として深いところまで見てくれていたから。だから俺も、上司である彼女の異変に気が付かない訳がなく。

 何があったのか。野暮だったが、マスターに問いただしたことがある。あの時に、苦い顔をしながら搔い摘んで聞かされた話が、まさか俺に降りかかってくるとは思ってもみなかった。

 だからこそ、マスターも、池野課長も。俺のことを心底心配してくれている、ということを……俺は知っている。

『あいつも、お前と同じ。人生に挫折して、うちに入り浸るようになった。最近どうにかこうにか再起したところで、弱音を吐きに来た。そしたらな』

 マスターがそこまで一気に言葉を紡いで、意味ありげな吐息を漏らして笑った。

『知香ちゃんが。ゼロからやり直したらいいじゃないか、人生は何度だってやり直せる……っていうんだ』
「……っ、まさか」
『そう、そのまさかだ』

 すぅっと。マスターの声のトーンが低くなる。

『弱った男には効きすぎる。強烈と言っていいほどだ。マサも一瞬で堕ちた』
「……………っはぁ……」

 勘弁してくれ。仔犬を排除し、狂犬を排除し。今度は蛇か。

『生粋の人誑しひとたらしだな、知香ちゃんは。しかも無自覚の。おおかた職場でも同性異性問わず慕われてるタイプだ』

 流石は大勢の人間と触れ合う喫茶店の店主だ。一瞬で、知香の性格を見抜いている。

「……俺はそこに惚れたんだ。文句言うつもりはねぇよ」

 頭を掻きたくなった。片手にスマホ、片手に煙草。両手がふさがっていて、頭を掻くことはできない。代わりに火をつけた煙草を大きく吸い込んだ。

『はは、そうだろうな。あの言葉に堕ちそうだったぞ』

 息が詰まる。動揺を隠しきれない。


(あのマスターが? 知香に?)


 ……いや、ありえなくはない。俺の予想の斜め上を行く知香のことだ。マスターが今口にした言葉以外のことも、話しているのかもしれない。

 年齢はほぼダブルスコア。けれど……飾らない、それでいて、凛とした意思を持った彼女の言葉にマスターが堕ちたとしてもなんら不思議ではない。

 ゆっくりと紫煙を吐きながら、声を意図して低くする。

「マスター。冗談でも言っていいことと悪いことがある」

 俺の声にマスターが軽く笑う。その笑い声で、先ほどのマスターの言葉が完全な冗談だったと悟って、軽く息をついた。

『悪い悪い。……んで、な。とりあえず、マサには釘を刺した。だから、しばらく知香ちゃんを連れてくるな。ひとりでも、来させるな』
「……わかった」

 楽しそうだった声とは対照的な、淡々とした声が電話口から漏れ出てくる。

『マサはお前の素性も知香ちゃんの素性も知らねぇ。接点はうちだけだ。明後日から、あいつも社会復帰っつってた。だから、にお前と知香ちゃんがうちに寄り付かなければ、マサはいつか興味を失うだろう。しばらくは何か注文があれば宅配を手配してやる』

 その言葉を最後に、マスターが電話を切った。











 びゅう、と、冬の冷たい風がベランダに吹き付けた。風が収まりゆらゆらと煙がのぼっていく風景をじっと見つめる。



『あのふたりは、10年の時を経て、それぞれに人生を歩んで。きっと、自分だけじゃなく相手も幸せにしたい、と思ったと思うんです。だって、自分の人生ですよ。一度きりの、誰のためでもない、自分のための人生。幸せにしてもらうのではなく、幸せを掴まなきゃいけない』



 ふわり、と。知香の言葉が蘇る。あの言葉があったから…俺は知香に

 タイミングが悪ければ。その言葉は、俺に向けられるものではなかったかもしれない。ぞっとした。そして……激しく、嫉妬した。知香は、無自覚の人誑しだ。マスターが言ったように。

 今日、知香がアレに放った言葉。

 ………目の前の人物が自分と同じように傷ついている。自分を見ているようで、いてもたってもいられず、その痛みから救いたくて、無意識に放った言葉だったのだろう。

 自分の感情をコントロールしつつ、相手の気分を害さず言葉を紡ぐ心の広さと、相手を自分に重ねる感受性の高さ。それでいて、凛と自分の意思を貫ける強さ。

 ―――それは、諸刃の剣だ。一歩間違えれば、自分をも大きく傷つける。

 それが、知香の魅力であり…俺が、堕ちた要因でもある。

 ふぅ、と大きくまた紫煙を吐き出した。

 知香が、俺以外にそういう言葉を振り撒く。それに、激しく嫉妬する。章の時もそうだった。激しい嫉妬に駆られ、結果、あわやという事態に陥った。

 けれど故意ではないのだ。それが、知香の本質であると。あの時に思い知ったから。だから。俺は、この嫉妬を、この焦燥感を。うまくコントロールしなければならない。

「……」

 接点は、あの店だけ。だから、しばらくあの店に行かなければ……何も起こらないはず。

 じわ、と。蛇のようなあのヘーゼル色の瞳が、俺の足元を這いずっていく光景が浮かんだ。緩慢な動作で頭を振り、ぐりっと火を消す。まるで浮かんできたその光景を打ち消すかのように。

 ガタリ、と大きな音がして、知香が洗面所から出てくる。上気し期待に潤んだ瞳が、俺を捕らえた。


 マスターの『一瞬で堕ちた』という台詞が脳裏をよぎった瞬間、……あの時の知香の空気感が思い浮かんだ。

 あの時の知香は怯えたような空気を纏っていた。

 堕ちたならば、口説かれたのではないか。口説かれた女とは正反対の態度。そこまで怯えるほど……何を言われたのだろうか。

(俺にも言いたくないほどストレートに口説かれた、か?)

 ぶわり、と、全身が粟立った。ふつふつと怒りを燃え滾らせる。


 ―――蛇。上書きしてやろう。お前が知香に放ったその言葉を。


 あのヘーゼル色の瞳に吐き捨てるように心の中で言葉を放った。知香から話し出すまで、聞き出すのは止めておこうと考えていたが……事情が変わった。知香にも、教え込まねばならない。俺に、隠し事など出来ないのだと。



 かたん、と、音を立ててリビングに戻った。知香の手をそっと取り、寝室へ向かう。今の俺たちの間に言葉なんて要らない。






 だからこそ。
 この胸の騒めきは、勘違いだと。






 嫉妬に狂った俺の杞憂に過ぎないと、思っていた。
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