【R18】音のない夜に

春宮ともみ

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2.misterioso/ミステリオッソ

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 それから杏香は、通勤時や寝る前に必ず『ハーフェン』の動画を再生し、彼の演奏を堪能するようになった。

 ハーフェンは杏香があの夜に聴いた『戦場のメリークリスマス』だけでなく、リストの『ラ・カンパネラ』、ブラームスの『2つのラプソディ』、パッヘルベルの『カノン』などのクラシック曲から流行りの邦楽曲まで、様々な楽曲の演奏動画を投稿していた。亜未が口にしていたように、登録者数もそう多くなく、各動画の再生数が伸びている訳でもない。有名な投稿者ではないものの、杏香は彼の演奏に完全に心を奪われてしまっていた。仕事でパン商品を購入する客に理不尽な要求クレームを突きつけられ、一時的に感情がひどく荒んでも、彼の演奏を聴くだけで彼女の心は癒された。

 職場に行き、仕事をこなして自宅に帰る。早番勤務の際は製パンの仕込みを手伝うため特に疲労がひどく、帰宅すると泥のように眠ってしまう。そんな時にハーフェンの動画を再生しながら眠りに落ちると、蓄積された疲労が一気に取り払われるような気がした。

 またいつか、この前のようにあの場所で演奏してくれないだろうか。そして、願わくば自分もその場に居合わせられたら――杏香はそう願っていたが、『ハーフェン』はSNSもやっておらず、チャンネル内で演奏予定や動画投稿予定を告知することもなかった。過去の投稿動画を遡り投稿頻度を確認するも、一ヶ月に1度だったり、一週間に1度だったりと、本当に不定期に投稿していることが確認できた。杏香はただ、彼にまた巡り会えることを願うしかなかった。



 ◇ ◇ ◇



 そんな日々を過ごしているとあっという間に月日は流れ、10月31日――ハロウィンの日を迎えた。

「わあ! やっぱり花守さん、その衣装似合ってる!」
「……本当ですか? その、ちょっと恥ずかしいんですけど…」

 仕込みの手伝いを終え、白のエプロンを脱ぎバックヤードで黒とオレンジ色のバイカラーワンピースへと着替えた杏香に、上野が瞳をキラキラと輝かせた。その視線に杏香は居心地悪く身体の前で手を組み、視線を彷徨わせる。

 今日はこのショッピングモール全体の施策として、店頭に立つスタッフはハロウィンにちなんだ衣装を身に纏うことが推奨されているのだ。上司であるこの店の店長から杏香が支給された衣装は、『魔女』を連想させるようなくるぶし丈のワンピースに、黒のとんがり帽子。杏香はつり目気味、そのうえ日頃からダークトーンのアイシャドウを愛用しており、周囲からは第一印象で『ミステリアスな女性』と評されることが多い。そんな彼女にぴったりのコスチュームだった。

「この衣装準備した店長天才! 超可愛い!」
「ほ、褒めすぎですって……上野さんこそ、ネコちゃんの衣装ですか? 本当に可愛いです」

 杏香の姿に、言葉にならない、というように身悶えする上野の様子を眺め、杏香は謙遜しながら上野の背中を押して彼女とともにバックヤードの出入口に向かう。上野に支給されていたのはデコルテから袖にかけて黒のレースがあしらわれたふんわりとしたワンピースに、ネコ耳を模したカチューシャ。くりっとした瞳と丸顔で、このベーカリー店の看板娘とも呼べる彼女にぴったりの服装だ。

「なんか、制服以外でお店に出るってちょっと不思議~」

 スキップのような軽い足取りで店頭に立った上野は、後頭部できっちりとまとめた髪をふわふわと揺らしながらレジ開けの作業に取り掛かった。

「確かに、なんかちょっとそわそわしますね?」

 杏香は苦笑しつつ、店の入口のカボチャのオブジェに電灯を灯す。キラキラと輝く照明がハロウィン独特の雰囲気を増幅させていく。

「今日を乗り越えたら今度はクリスマス商戦ですね。遅番の方々にこのカボチャさんも片付けてもらわないと」
「あ、そうだ! バックヤードにクリスマスツリーの電飾置いてあるって申し送り表に書かなきゃだった! 危ない、いつもだったら絶対忘れてた……ありがと、花守さん」

 杏香の小さな呟きに反応した上野は、レジ背後の戸棚に設置してあるレターケースから一枚の書類を取り出した。普段、この店で店頭に立つ接客スタッフは1人なのだが、こうしたイベントの日は集客の意味も込めて2人体制となる。イベントに合わせた店内装飾の撤収・入れ替えも店を閉めた後に一晩で実行しなければならず、通常の閉店作業に比べ時間がかかるからだ。イレギュラー業務のフォローが出来たと感じた杏香は上野の言葉に「どういたしまして」と声を返すと、同じタイミングでこのモールのオープン時間を知らせる明るい音楽が流れ出した。店の前の通路では、もうぽつぽつとまばらな人影が行き来している。

「いらっしゃいませ! ただいま焼き立てですよ~、どうぞ店内奥までご覧くださいませ~」
「本日までの限定商品、パンプキンメロンパンはいかがでしょうか~?」

 ショッピングモールの営業が始まった。杏香と上野は目配せをし、息のあった掛け声で呼び込みを開始した。



 ◆ ◆ ◆



「では、よろしくお願いいたします!」
「はぁい! お疲れさまでした~」

 多忙な日ほど時間の進みが光のように感じるのは人間のさがなのだろうか。あっという間にシフト交代の時間となった。この時間までの販売予定数から大幅に伸びた個数を売り上げた杏香と上野は、充実感と適度な疲労感に包まれたままふたりで隣り合って歩きバックヤードへと向かった。

「クリスマスもまたこんな風に衣装支給されるかなぁ? それも楽しみだなぁ」
「初めは恥ずかしかったですけど、なんというか『別人』になったみたいで楽しかったですねぇ」
「だよね~!? コスプレイヤーさんの気持ちが少しわかった気がする~」

 ネコ耳のカチューシャを外しながら声を弾ませた上野は楽しげにロッカーを開いた。杏香も微笑んだまま自分のロッカーを開き、通勤服に着替えていく。

「お先しますね。お疲れさまでした~」
「うん! お疲れ~!」

 早番だったふたりの今日の定時は17時。一足先に着替え終わった杏香が中央に設置してある長椅子に腰掛けている上野に小さくお辞儀すると、上野はひらりと手をあげた。スマートフォンを操作している彼女は、夏の花火大会をきっかけに交際が始まった彼氏と連絡を取っているのだろう。学生時代、音楽で身を立てたいと努力を重ね、色恋にあまり触れてこなかった杏香は幸せそうな上野の横顔に羨望の眼差しを送りながらそっと退勤した。

 明るい電灯が煌々と照らす共用廊下を足早に歩く。水色の大きな鉄製扉を押し開けば、茜色の光が杏香の顔を照らした。ハロウィンらしく、このモール正面の広場、ベイストリートもコスプレをする人たちで溢れている。

 人混みを縫うように歩き、バス停にたどり着いた杏香はスマートフォンに繋げたイヤホンを耳につけ、『ハーフェン』の動画を見ようとアプリを立ち上げた。その瞬間。

「ねぇ、おねーさん。一人?」
「えっ……」

 杏香の隣には男性が一人立っていた。音楽の道を諦めることとなってしまった要因である突発性難聴を患った右耳の聴力が低い杏香は、投げかけられた声を咄嗟に聞き取ることが出来ず、その場で硬直してしまった。声をかけてきたその人物からはアルコールのにおいが強く漂ってきている。そのにおいに杏香は僅かに眉を顰めると、目の前の男性の背後から別の男性が顔を出した。

「ショウタ、この子びっくりしてんじゃん」
「こーゆー時はもうちょいソフトに行けって~」

 突然の出来事に戸惑い困惑していた杏香は、あっという間に数名の男性グループに囲まれてしまった。目の前の彼らは、日本の長寿アニメに登場する赤いジャケット姿に青いシャツと黄色のネクタイをしたコスプレだったり、ハリウッドの海賊映画に出てくるような赤いバンダナに胸元まで開けた白シャツを身に纏ったコスプレをしている。ハロウィンというイベントに乗じて羽目を外しに来た人物たちなのだろうと察した。

 杏香の顔を覗き込むように腰を曲げている男性は、見た目だけでいうとどこにでもいる若者、という印象。けれど、お酒の力に人数の力も合わさって気が大きくなっているのだろう。

「えと……友達と待ち合わせ、なので……」

 にこりと愛想笑いを浮かべ、出まかせの嘘で適当に流そうとした杏香だったが、アメリカンポリスの格好をした男が杏香の腕を掴み離そうとしない。小さく身動ぎをして抵抗するも、男性の力を振り切れるわけもなかった。

「友達って女の子? じゃぁさ、俺らと一緒に遊ぼうよ」
「せっかくのハロウィンなんだしさ、ふたりよりも多い方が楽しめんじゃん?」
「なんもしねぇからさ、一緒にご飯でも行こーよ」

 杏香の周りを囲む男性の中には、既に酔っ払っているのか千鳥足の者もいた。その人物に視線をやり、困ったように眉を下げ遠回しに拒否の言葉に放っていく。

「そこのお兄さん、酔ってますよね? なんだかすごく危なっかしくて……一緒には歩けないですよ」

 第一印象で『ミステリアスな雰囲気』を他人に感じさせることが多い杏香にとって、ナンパされるなんてこれまで経験したことがなく、初めてのことだった。

「そんなつれないコト言わないでよ~」
「俺らも一緒にお友達待っててあげるし、さ?」
「…………」

 どうあしらったらよいのかもわからず、ただただ困惑したまま立ちすくんでいると、初めに声をかけてきた男性が目を丸くした。

「あ!? おねーさん、ここのパン屋さんで働いてるよね? 今日、お店で魔女のコスプレしてたでしょ?」
「え……」
「おー! 昼間に寄ったパン屋の店員? いー子に目ェつけたな、ショウタ。やるじゃん」

 素面であれば女性に声を掛けられない大人しげな人種が集まっているようにも見える。けれど、アルコールの所為か、それともグループ内でのヒエラルキーに繋がる見栄の為なのか、彼らは杏香にしつこく声を掛けてくる。

(どう、しよう……)

 こんな時、どんな応対すればよいのか判断が出来ない。レストランなども入っているショッピングモールで21時までオープンしているベーカリー店で働いている杏香は、仕事上、酔っ払いの相手をすることも無いことはない。暴言を吐かれても適度な距離感を保ちながら接客をするのが常だ。こうしたパーソナルスペースへガンガン踏み込んで来るような酔っ払いのあしらい方は、杏香は心得ていない。

「ね、いーでしょ? 俺らと遊ぼ」
「おねーさんも着替えちゃってハロウィン楽しみ損ねてんだろ? 悪いようにはしねぇって」

 腕を掴んでいる男とは違う男が、杏香の背中をトンと押した。つんのめるように動いた身体がよろめいていく。全身からざぁっと血の気が引く音を、杏香は認識した。

(やばっ……)

 このままでは彼らのペースに巻き込まれる。なしくずしに彼らと行動を共にすれば、きっと無事ではいられない。本能的に身の危険を感じた杏香は必死にその場に踏ん張ろうと両足に力を入れた。その刹那、するりと割り込んできた誰かが、杏香の腕を掴んでいる男の腕をガッシリととらえた。


「……やぁ、待たせたね?」


 綺麗なバリトンが耳朶を打った。ピンと張り詰めた空気がこの場を支配している。

「なんだ? お前」

 杏香の腕を掴んでいた男が、訝しげな声を上げた。この場の全員が割り込んできた人物に視線を向けている。杏香の腕を掴んだままの男の腕を、目の前の彼が握っている。握った指の先が白く変色していることから相当な力を入れているのだろう。その痛みに耐えかねたのか、初めに声をかけた瞬間から一向に杏香の腕から手を離さなかった男が顔を顰め、その手を離した。

「探したよ~。俺、あっちのバス停だと思ってたから」

 へらりと笑みを浮かべた彼は、深く被った黒いハンチングハットのツバをくいっと上げた。露わになった彼の強い視線が、杏香を取り囲む男たちへと向けられる。

「ッ……」

 端正な顔立ちは優しく微笑んでいるように見えるが、眼は絶対に笑っていないとわかる。そして――彼の瞳は、今しがた吹き出した鮮血を連想させるようなをしていた。

 空から降り注ぐ夕刻の茜色の光は、今だけは逢魔が時を彷彿とさせた。『禍々しい』と表現するのが正しいような彼の鋭い視線。杏香の周囲の男たちが息を飲むのが伝わってくる。

 澱んだ昏い赤い色に染まった世界の中で、すっと。鮮紅色せんこうしょくの瞳が男たちを真っ直ぐに捉え、獲物を前にしたかのように細く歪んだ。

「ねぇ、君たち。に手を出そうとしてたってわけ? い~度胸だね。……全員、血を抜いてあげようか」

 心地よいバリトンが凄みを孕んだ声色へと変遷した。にやりと微笑んだ彼の口元には、牙のような何かが見え隠れしている。

 冷静に考えれば、目の前の彼もハロウィンにちなんだヴァンパイヤ吸血鬼のコスプレをしているのだと察せられる。血のような紅い瞳もカラーコンタクトをしているのだろう。が、彼を中心とした空間に『瘴気』ともいうべき何かが立ち込めている現状では、酒に酔った男たちが冷静な判断を下せるはずもない。

「お……おい、行こうぜ」

 杏香の周りのひとりが焦燥感を滲ませた声を上げた。その声を皮切りに、わらわらと蜘蛛の子を散らすように杏香の周りから人が捌けていった。
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