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24.ぬくもりを乞う
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「ま……すたー……」
強引に私たちの間に割り込んだマスター。目の前の人物を認識すると同時に訪れる、数多の疑問。千歳も一昨日――私が景元証券の社長室に足を踏み入れた時のように、大きく目を瞠っている。混乱のままに私が声を落とせば、夜の静寂に呆れたようなため息がひとつ横たわった。
「今日は店休日だからな、都内に買い出しに出てたんだ」
「……店休、日……」
マスターの本業は周辺のレストランに卸すコーヒー豆の焙煎と販売。けれどあのお店は喫茶店も兼ねており、土日も営業している代わり平日に2日間の定休日を設けている。脳内にカレンダーを思い浮かべ、よくよく考えれば今日はその店休日だと思い当たった。
『あぁ、先日ご紹介するとお約束していた例の喫茶店、もうすぐ閉まってしまいますね。また日を改めていただいた方が私としても助かるのですが』
つい先ほど。千歳はそう口にしていた。もし、私が今日残業をせずに退勤していた場合、アポをすっ飛ばしたという建前は作れなくなる可能性だってあった。その時はどうするつもりだったのだろうと思っていたけれど、今日は店休日でどの道あの店には行けやしない。店休日だから日程を改めたいという流れに持っていくつもりだったのだろうし、結局はどちらに転んでもよいような計画になっていたのだ。改めて感じる千歳の頭の切れ具合に、眩暈がしそうになる。
「んで、名港区に戻るにはこの道が近道だろ? 来週妹夫婦が帰ってくっからいろいろ買い込んだらだいぶ遅くなったし、近道して帰るかと思ったら、お前らがそこを歩いてる。珍しい組み合わせだなと見てたらなんか言い争いしてるような雰囲気だったし、オイオイと思ってな」
「……」
マスターがちらりと視線を左側へ向けた。まったく気が付いていなかったけれど、マスターの視線の先には、道路脇にハザードがたかれたままの2ドア仕様の外車が停車していた。誰もが知っている、ドイツの高級自動車メーカーのロゴが月明かりに静かに照らされている。マスターの口ぶりからするに、自分の店の常連客同士が口論をしている様子に、その仲介をしようと慌てて車から下りてきたのだと察した。それだけで、マスター自身がどれほど自分の店に訪れる客のひとりひとりを大切に思っているのかが窺えるような気がした。……それでも。
(……知られたく……なかった、な……)
先ほどとは違う意味で、視界がゆらゆらと揺らめいた。私が最後に叫んだ『ただのセフレだった』という言葉も、もしかするとマスターは聞いていたのかもしれない。彼にだけは、私と千歳のこの歪な関係を知られたくはなかった。時に親友のように、時に父親のように、人生の壁にぶち当たって蹲ってしまうたびに、そっと腕を引いて立たせてくれて、背中を押してくれる。そんな彼にだけは、こんな惨めな想いを知られたくなかった、のに。
マスターが割って入ってくれたことで、千歳は必然、私の腕から手を放していた。よろよろと一歩下がれば、カツンとヒールの乾いた音が鳴る。
「……で。お前ら、何やってんだ」
私を背中に庇うように立ったマスターは、きっと一瞬でこの状況を理解したのだと思う。ひと悶着あった挙句、千歳が私に追いすがっているのだ、と。
「マスターには関係ない。これは俺とやよさんの問題だから」
「俺にはやよいが嫌がっているようにみえるが? 違うか?」
「……」
マスターの詰問、とも呼べるような勢いに、自分を取り戻したような千歳が不機嫌そうに顔を顰めた。ふたたび訪れた静寂のあと、マスターはまたひとつため息を落とし、ゆるゆると背後の私を振り返った。
「やよい。お前、家この近くだったろ。ひとりで帰れるか?」
「え? …………あ、う、うん」
思いもよらない質問に、生まれた涙が引っ込んだ。就職する際、出版社は激務だと聞いていたからせめて通勤時間を短くしようと考え、私はこの近くに立つマンションの一室を借りている。その話も、いつだったかちらりとマスターにこぼしたことがある。そんなこともマスターは覚えていたのか。改めて、マスターは顧客のひとりひとりを本当に大切に思っているのだと実感する。
私がこくこくと頷けば、その返答にこちらに向けられていた琥珀色の瞳がふっと優しい色を灯した。呆けたようにマスターの顔を見上げると、背の高い彼が腕を伸ばし、私の頭を、ぽんぽん、と優しく撫でていく。お店でも、私を慰める時に必ずしてくれるこの仕草。
「気を付けて帰れよ。今日はちょっと肌寒いからな」
優しく、名残りを惜しむように私の頭から離れたマスターの無骨な手。その手が、不意に千歳の腕を掴んだ。
「で……千歳。俺はお前に話がある」
「ちょっ……!?」
マスターは千歳の返答を待たず、彼の腕を引いて強引に歩き出した。つんのめるように千歳の身体が前へと揺れる。マスターは引きずるように千歳の腕を引き、私の真横を通って停車していた車の助手席へと長身の躯体を放り込んだ。
「やよい。大丈夫だから。今日はちゃんと寝ろよ?」
ただ、ひとつ。含みのある笑みを浮かべたまま、その言葉を残して。大きなエンジン音が、私しかいない静かな交差点に響いた。
強引に私たちの間に割り込んだマスター。目の前の人物を認識すると同時に訪れる、数多の疑問。千歳も一昨日――私が景元証券の社長室に足を踏み入れた時のように、大きく目を瞠っている。混乱のままに私が声を落とせば、夜の静寂に呆れたようなため息がひとつ横たわった。
「今日は店休日だからな、都内に買い出しに出てたんだ」
「……店休、日……」
マスターの本業は周辺のレストランに卸すコーヒー豆の焙煎と販売。けれどあのお店は喫茶店も兼ねており、土日も営業している代わり平日に2日間の定休日を設けている。脳内にカレンダーを思い浮かべ、よくよく考えれば今日はその店休日だと思い当たった。
『あぁ、先日ご紹介するとお約束していた例の喫茶店、もうすぐ閉まってしまいますね。また日を改めていただいた方が私としても助かるのですが』
つい先ほど。千歳はそう口にしていた。もし、私が今日残業をせずに退勤していた場合、アポをすっ飛ばしたという建前は作れなくなる可能性だってあった。その時はどうするつもりだったのだろうと思っていたけれど、今日は店休日でどの道あの店には行けやしない。店休日だから日程を改めたいという流れに持っていくつもりだったのだろうし、結局はどちらに転んでもよいような計画になっていたのだ。改めて感じる千歳の頭の切れ具合に、眩暈がしそうになる。
「んで、名港区に戻るにはこの道が近道だろ? 来週妹夫婦が帰ってくっからいろいろ買い込んだらだいぶ遅くなったし、近道して帰るかと思ったら、お前らがそこを歩いてる。珍しい組み合わせだなと見てたらなんか言い争いしてるような雰囲気だったし、オイオイと思ってな」
「……」
マスターがちらりと視線を左側へ向けた。まったく気が付いていなかったけれど、マスターの視線の先には、道路脇にハザードがたかれたままの2ドア仕様の外車が停車していた。誰もが知っている、ドイツの高級自動車メーカーのロゴが月明かりに静かに照らされている。マスターの口ぶりからするに、自分の店の常連客同士が口論をしている様子に、その仲介をしようと慌てて車から下りてきたのだと察した。それだけで、マスター自身がどれほど自分の店に訪れる客のひとりひとりを大切に思っているのかが窺えるような気がした。……それでも。
(……知られたく……なかった、な……)
先ほどとは違う意味で、視界がゆらゆらと揺らめいた。私が最後に叫んだ『ただのセフレだった』という言葉も、もしかするとマスターは聞いていたのかもしれない。彼にだけは、私と千歳のこの歪な関係を知られたくはなかった。時に親友のように、時に父親のように、人生の壁にぶち当たって蹲ってしまうたびに、そっと腕を引いて立たせてくれて、背中を押してくれる。そんな彼にだけは、こんな惨めな想いを知られたくなかった、のに。
マスターが割って入ってくれたことで、千歳は必然、私の腕から手を放していた。よろよろと一歩下がれば、カツンとヒールの乾いた音が鳴る。
「……で。お前ら、何やってんだ」
私を背中に庇うように立ったマスターは、きっと一瞬でこの状況を理解したのだと思う。ひと悶着あった挙句、千歳が私に追いすがっているのだ、と。
「マスターには関係ない。これは俺とやよさんの問題だから」
「俺にはやよいが嫌がっているようにみえるが? 違うか?」
「……」
マスターの詰問、とも呼べるような勢いに、自分を取り戻したような千歳が不機嫌そうに顔を顰めた。ふたたび訪れた静寂のあと、マスターはまたひとつため息を落とし、ゆるゆると背後の私を振り返った。
「やよい。お前、家この近くだったろ。ひとりで帰れるか?」
「え? …………あ、う、うん」
思いもよらない質問に、生まれた涙が引っ込んだ。就職する際、出版社は激務だと聞いていたからせめて通勤時間を短くしようと考え、私はこの近くに立つマンションの一室を借りている。その話も、いつだったかちらりとマスターにこぼしたことがある。そんなこともマスターは覚えていたのか。改めて、マスターは顧客のひとりひとりを本当に大切に思っているのだと実感する。
私がこくこくと頷けば、その返答にこちらに向けられていた琥珀色の瞳がふっと優しい色を灯した。呆けたようにマスターの顔を見上げると、背の高い彼が腕を伸ばし、私の頭を、ぽんぽん、と優しく撫でていく。お店でも、私を慰める時に必ずしてくれるこの仕草。
「気を付けて帰れよ。今日はちょっと肌寒いからな」
優しく、名残りを惜しむように私の頭から離れたマスターの無骨な手。その手が、不意に千歳の腕を掴んだ。
「で……千歳。俺はお前に話がある」
「ちょっ……!?」
マスターは千歳の返答を待たず、彼の腕を引いて強引に歩き出した。つんのめるように千歳の身体が前へと揺れる。マスターは引きずるように千歳の腕を引き、私の真横を通って停車していた車の助手席へと長身の躯体を放り込んだ。
「やよい。大丈夫だから。今日はちゃんと寝ろよ?」
ただ、ひとつ。含みのある笑みを浮かべたまま、その言葉を残して。大きなエンジン音が、私しかいない静かな交差点に響いた。
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