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33.海に揺蕩う珊瑚の想い(千歳視点)
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「申し訳ございません。私はこの結婚に乗り気ではありません。あなたと……千歳さまと違い、私は時東の人形、父の傀儡で居続ける気はないからです」
それは、互いの父親を交えて懐石料理を食し、趣のある和の個室にふたりきりにされそう時間を置かずに向けられた、唐突な一言だった。テーブルを挟んだ向こう側――見合い相手の意思の強い瞳が、真っ直ぐに僕を貫いていた。
◇ ◇ ◇
気が重い。ただただその一言、だった。老舗の風格を感じるような、伝統と格式が息づく豪華絢爛な正面玄関で視線を交わし、たおやかに笑う彼女に対して抱いた印象は特筆することもなく、白い歯を見せながら弾んだ声色で握手を交わすふたりの父親の様子を、僕はただただぼんやりと眺めていた。
やよさんを待ち伏せし、マスターに叱られた翌日。出社するや否や、見合い話を拒み続ける僕のプライベートの行動までをも把握していたらしい千紘に、問答無用と言わんばかりにスマートフォンと――それからやよさんの名刺を取り上げられた。彼は景元の分家筋、景元を思っての行動ということは理解できた。祖父、父、ひいては景元グループに全てを捧げている彼の心情も。それでも僕は納得がいかず、千紘と口論になった。その場面を景元証券と景元銀行のインターネットによる口座提携システムの構築会議に来訪していた父に見られ、僕は表向きは研修を兼ねた視察出張という名目で、しばらくの間、自宅ではなく実家での謹慎を言い渡された。
千紘は父の甥っ子。そして失敗作である僕とは違い、成績優秀だった千紘のことを父は可愛がっていた。千紘から全てを聞いた父がどういう行動を取ったかは僕には伝えられなかったものの、やよさんに何らかの形で接触していることは容易に想像できた。どうにかしてやよさんにコンタクトを取りたかったけれど、頼みの綱であるスマートフォンは取り上げられ、実家に軟禁させられている現状では身動きが全く取れない状態だった。
景元証券の社長に就任するにあたって、僕は会社からそう遠くない高層マンションの一室を借りていた。そのため実家の自室には帰省の際に使うだけの簡易的なベッドと書棚しか残していなかった。そこでただただ漫然と時をやり過ごす日々は精神を削った。
マスターから告げられた『ふたりで乗り越えるのが楽しい不幸』の意味を噛み砕いても、それらの言葉が僕には理解できずにいた。愛情を向けられない家庭で育った僕は、幸せであることは不幸ではないことを指すと思っていたし、僕にとってはそれが一般的な家庭において最優先であるとも思っていた。だからこそこの5年間、幸せを求めて彷徨い傷つき続けているやよさんに対して、一歩踏み出せずに燻っていた。愛情不全、機能不全の家庭に育った僕が彼女を幸せにしてあげられるだろうかと自分に疑問があった。
父は……やよさんに、何を言ったのだろうか。彼女は泣いていないだろうか、傷ついてはいないだろうか。
嫌な想像は精神を蝕む。心をすり鉢のなかにつっこまれ、容赦なく削られていく。
母は相変わらず僕には興味がないらしい。父も同じく、だ。邸宅に一番上の兄夫婦と姪っ子、甥っ子の笑い声が響く中、父が手配したらしいハウスキーパーが食事を持ってくるだけの日々に生きる気力すら奪われていくような気がした。闘志も闘気も、気力も精神も、なにもかもが消耗しかかっていたある日、翌日の見合いが決まったとハウスキーパーを通じて伝えられた。父から直接話がないあたり、もう僕にはそれしか利用価値がないのだと言われているような気がした。
そして、ホテルの正面玄関で。道路を挟んだバス停で、彼女を見た。遠目からは目の下に隈が出来ていたように見えたけれど、やつれたりしている様子は見受けられ無かった。そばにはあの時のカメラマンがいた。もう、やよさんが元気であればそれでいい。この世界のどこかで、元気で生きていてくれれば、それでいい――――そう、思っていた。
◇ ◇ ◇
「私は写真家になりたいのです。ですので芸術の街であるニューヨークで技術を学ぶついでに――時東旅行社のニューヨーク支店で働いております。千歳さま、星野道夫氏をご存じですか」
珊瑚を思わせるような艶やかな振袖を纏った彼女から真っ直ぐに向けられた言葉に、思わず、ぽかん、と。口が開く。
「……アラスカを中心に活動していた写真家……ですよね」
「はい。私は彼に憧れています。彼は大学卒業後にとある写真家の助手となり技術を学ぶつもりでしたが、助手とは名ばかりで雑用ばかりさせられていました。それでも彼はめげることなく、アラスカ大学を受験し英語科目で不合格となったものの、自ら直談判して入学を勝ち取った。その後は好きなものを声を大にして好きと言って世界中を自由に飛び回る人生を送られました。そんなペガサスのような生き方を私もしていきたい。だからこそ私は、この結婚を受け入れるわけにはいきません」
そう言い切った彼女は挑戦的に目を細め、口の端に笑みを乗せた。
「あなたと違い、駒のような人生を生きることはまっぴらごめんなのです」
初めと同じ意味を持った違う言葉をふたたび向けられ、その言葉の意味を――向けられた言葉に含められた強烈な皮肉を寸分違わずに受け取った僕は、思わず顔を顰めてしまう。そんな僕の態度に「生意気なことを言ってすみません」と彼女は形だけの謝罪をし、笑みを崩さずに言葉を紡ぐ。
「私は写真家を志していますから。千歳さまのお心が違う場所に向けられていることも、お会いした瞬間からなんとなく気が付いておりました。そして、あなた自身も駒として扱われて生きてきたことも」
「……」
「私が言いたいのは『自分は駒、そんな自分は悲劇のヒーロー』という考えを捨ててください、ということです。駒ならば駒なりの抗い方があると私は思っていますので」
言葉を返せずにいる僕にそう言い切った彼女はテーブルの上の湯呑に手を伸ばし、それに口づけた。こくんという小さな嚥下音の後に、ほう、と小さな吐息が落ちて消えていく。
駒なりの抗い方。僕は十分に抗ってきたと思う。もう打てる手がないと思うほどに。だというのに、これ以上の手段があるのだろうか。突破口が見えないはずなのに、彼女にはそれが見えているのだろうか。そもそも、ここまでズバズバと言われる筋合いは無いような気がするが――失意と妙な屈辱感に視線を落とせば、彼女は湯吞をテーブルの上で両手でふわりと握り締めた。
「このお見合いが成立しなければ千歳さまはまた違うお見合いを設定されるだけです。そしてそこで婚姻が成立すれば『自分は実家の犠牲になって愛も無いのに好きでも無い女と結婚した』と後悔する日々が始まるだけですよ。そんな生き方、したいですか? あなたはそんな機械人形のような人生が本望ですか?」
「……抗いたいですよ。でも、もう僕には抗う術が、」
「では、交渉成立ですね」
僕の言葉を遮るように放たれた一言に、ふたたび口が開く。何を言っているのだ、この女は。
「……は?」
「このお見合いの目的は景元と時東が将来業務提携を結ぶにあたってその地盤となる関係性を結ぶこと、です。景元と時東に強い結びつきが成立すれば済む話です」
「だからこそ僕らの結婚が望まれているのではないのですか」
「時東旅行社には私が勤めているニューヨーク支店がありますよ」
「…………」
なんの脈絡もない言葉に返す言葉がない。彼女はどんな回答を僕に求めているのか、まったく理解が及ばない。それでも――彼女の最後の言葉の中に、なにかに引っかかるものがあった、ような気がした。夕暮れ時に現れる薄明光線のような、淡い何かが。視線を落とし、自分の前に置かれた湯吞をじっと見つめる。
どれほどの時間が流れたのだろう。体感にすれば長い時間だったように感じるが、実際はきっと30秒程度のことだっただろうか。導き出した自分なりの答えを小さく落とす。
「……景元の。ニューヨークでの拠点を作る……?」
「ご名答です。婚姻関係を結ばずとも時東と景元の利害関係を一致させればよいわけです。……時東と景元の結びつきを成立させるため千歳さまが時東旅行社のニューヨーク支店に出向する。理由は時東と景元の関係を強固にするため、そして重要なのが景元のニューヨーク拠点造りのため」
景元は旅行会社である時東との繋がりが欲しい。これはきっと、ライバル企業である九十銀行に対抗するためだ。九十銀行は先般、『多様なライフスタイルと長寿人生をサポートするための非金融サービス会社との連携』を発表した。具体的には、主にシニア世代を対象とした国内旅行ツアーを企画する新サービスとなるらしい。おそらく彼女はそのことを指して話題としている。
ニューヨークに拠点を造り、九十銀行を上回るような旅行サービスを提供できる地盤を作る。だからこの見合いを蹴らせてくれ――そう、父に言え、と。彼女は言いたいのだろう。
「しかし……そのようなことが認められるでしょうか」
「『結婚したくない時東穂乃果の申し出により話し合い、結婚しない代わりにニューヨーク支店にヘッドハンティングし、そちらで景元の拠点を造る補佐をすると合意した』とでも言えばよいでしょう。私が私の申し出で見合いを壊すのはこれで通算3回目となります。日本では初めてですが、アメリカ国内では既に2回の前例があるのです。これで私が結婚不適合者であるということが父に伝わるでしょう。正直、せいせいしますよ。私は私を見てくださらない殿方と結婚するほど愛に飢えてもいませんし、マゾヒストでもありませんので」
「……申し訳ない」
「いいえ。千歳さまが謝ることでは。むしろ、私こそ千歳さまの本心を引き出したいがために皮肉った言い方をして申し訳ありませんでした」
苦笑いとともにちいさく肩を竦めた彼女は満足げに微笑んだ。彼女にとっても僕のニューヨーク行きは利のある話で、交渉成立――ということなのだろう。
「結婚というのは互いの努力で作り上げていくものだと思っています。どちらかが与え、どちらかが犠牲になるような関係性ではありません。きっと千歳さまが想い人に踏み出せない理由はそれでしょう? だったらお互いにとってフラットな海外の地で時間を重ねられてはいかがですか」
彼女の一言に思わず目を瞠る。その言葉は、マスターからもたらされたあの言葉に近いもののような気がした。
やよさんとともにある不幸。ともに歩む、人生。
互いに与え、補い合う。たとえこの道が不幸に続く道でも、やよさんと一緒に乗り越えていきたい。
……やよさんは、それを受け入れてくれるだろうか。
足掻いて足掻いて、それでも足掻いて。僕は――何かを、掴めるだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら。目の前の彼女と同じように肩を竦め苦笑いを落とした。
「……お見通し、というわけですか」
「ええ。日本だけでなく、世界中の人々の心を揺さぶるカメラマンを目指しておりますのでね。他人を見る目は確かな方だと自負しております」
子どものようないたずらっぽさを持った彼女の写真はきっと、彼女の名前を世界に知らしめるに値するものだろう。そう素直に感じながら、見合い直前に父から返されたスーツのポケットに入ったスマートフォンに想いを馳せた。
それは、互いの父親を交えて懐石料理を食し、趣のある和の個室にふたりきりにされそう時間を置かずに向けられた、唐突な一言だった。テーブルを挟んだ向こう側――見合い相手の意思の強い瞳が、真っ直ぐに僕を貫いていた。
◇ ◇ ◇
気が重い。ただただその一言、だった。老舗の風格を感じるような、伝統と格式が息づく豪華絢爛な正面玄関で視線を交わし、たおやかに笑う彼女に対して抱いた印象は特筆することもなく、白い歯を見せながら弾んだ声色で握手を交わすふたりの父親の様子を、僕はただただぼんやりと眺めていた。
やよさんを待ち伏せし、マスターに叱られた翌日。出社するや否や、見合い話を拒み続ける僕のプライベートの行動までをも把握していたらしい千紘に、問答無用と言わんばかりにスマートフォンと――それからやよさんの名刺を取り上げられた。彼は景元の分家筋、景元を思っての行動ということは理解できた。祖父、父、ひいては景元グループに全てを捧げている彼の心情も。それでも僕は納得がいかず、千紘と口論になった。その場面を景元証券と景元銀行のインターネットによる口座提携システムの構築会議に来訪していた父に見られ、僕は表向きは研修を兼ねた視察出張という名目で、しばらくの間、自宅ではなく実家での謹慎を言い渡された。
千紘は父の甥っ子。そして失敗作である僕とは違い、成績優秀だった千紘のことを父は可愛がっていた。千紘から全てを聞いた父がどういう行動を取ったかは僕には伝えられなかったものの、やよさんに何らかの形で接触していることは容易に想像できた。どうにかしてやよさんにコンタクトを取りたかったけれど、頼みの綱であるスマートフォンは取り上げられ、実家に軟禁させられている現状では身動きが全く取れない状態だった。
景元証券の社長に就任するにあたって、僕は会社からそう遠くない高層マンションの一室を借りていた。そのため実家の自室には帰省の際に使うだけの簡易的なベッドと書棚しか残していなかった。そこでただただ漫然と時をやり過ごす日々は精神を削った。
マスターから告げられた『ふたりで乗り越えるのが楽しい不幸』の意味を噛み砕いても、それらの言葉が僕には理解できずにいた。愛情を向けられない家庭で育った僕は、幸せであることは不幸ではないことを指すと思っていたし、僕にとってはそれが一般的な家庭において最優先であるとも思っていた。だからこそこの5年間、幸せを求めて彷徨い傷つき続けているやよさんに対して、一歩踏み出せずに燻っていた。愛情不全、機能不全の家庭に育った僕が彼女を幸せにしてあげられるだろうかと自分に疑問があった。
父は……やよさんに、何を言ったのだろうか。彼女は泣いていないだろうか、傷ついてはいないだろうか。
嫌な想像は精神を蝕む。心をすり鉢のなかにつっこまれ、容赦なく削られていく。
母は相変わらず僕には興味がないらしい。父も同じく、だ。邸宅に一番上の兄夫婦と姪っ子、甥っ子の笑い声が響く中、父が手配したらしいハウスキーパーが食事を持ってくるだけの日々に生きる気力すら奪われていくような気がした。闘志も闘気も、気力も精神も、なにもかもが消耗しかかっていたある日、翌日の見合いが決まったとハウスキーパーを通じて伝えられた。父から直接話がないあたり、もう僕にはそれしか利用価値がないのだと言われているような気がした。
そして、ホテルの正面玄関で。道路を挟んだバス停で、彼女を見た。遠目からは目の下に隈が出来ていたように見えたけれど、やつれたりしている様子は見受けられ無かった。そばにはあの時のカメラマンがいた。もう、やよさんが元気であればそれでいい。この世界のどこかで、元気で生きていてくれれば、それでいい――――そう、思っていた。
◇ ◇ ◇
「私は写真家になりたいのです。ですので芸術の街であるニューヨークで技術を学ぶついでに――時東旅行社のニューヨーク支店で働いております。千歳さま、星野道夫氏をご存じですか」
珊瑚を思わせるような艶やかな振袖を纏った彼女から真っ直ぐに向けられた言葉に、思わず、ぽかん、と。口が開く。
「……アラスカを中心に活動していた写真家……ですよね」
「はい。私は彼に憧れています。彼は大学卒業後にとある写真家の助手となり技術を学ぶつもりでしたが、助手とは名ばかりで雑用ばかりさせられていました。それでも彼はめげることなく、アラスカ大学を受験し英語科目で不合格となったものの、自ら直談判して入学を勝ち取った。その後は好きなものを声を大にして好きと言って世界中を自由に飛び回る人生を送られました。そんなペガサスのような生き方を私もしていきたい。だからこそ私は、この結婚を受け入れるわけにはいきません」
そう言い切った彼女は挑戦的に目を細め、口の端に笑みを乗せた。
「あなたと違い、駒のような人生を生きることはまっぴらごめんなのです」
初めと同じ意味を持った違う言葉をふたたび向けられ、その言葉の意味を――向けられた言葉に含められた強烈な皮肉を寸分違わずに受け取った僕は、思わず顔を顰めてしまう。そんな僕の態度に「生意気なことを言ってすみません」と彼女は形だけの謝罪をし、笑みを崩さずに言葉を紡ぐ。
「私は写真家を志していますから。千歳さまのお心が違う場所に向けられていることも、お会いした瞬間からなんとなく気が付いておりました。そして、あなた自身も駒として扱われて生きてきたことも」
「……」
「私が言いたいのは『自分は駒、そんな自分は悲劇のヒーロー』という考えを捨ててください、ということです。駒ならば駒なりの抗い方があると私は思っていますので」
言葉を返せずにいる僕にそう言い切った彼女はテーブルの上の湯呑に手を伸ばし、それに口づけた。こくんという小さな嚥下音の後に、ほう、と小さな吐息が落ちて消えていく。
駒なりの抗い方。僕は十分に抗ってきたと思う。もう打てる手がないと思うほどに。だというのに、これ以上の手段があるのだろうか。突破口が見えないはずなのに、彼女にはそれが見えているのだろうか。そもそも、ここまでズバズバと言われる筋合いは無いような気がするが――失意と妙な屈辱感に視線を落とせば、彼女は湯吞をテーブルの上で両手でふわりと握り締めた。
「このお見合いが成立しなければ千歳さまはまた違うお見合いを設定されるだけです。そしてそこで婚姻が成立すれば『自分は実家の犠牲になって愛も無いのに好きでも無い女と結婚した』と後悔する日々が始まるだけですよ。そんな生き方、したいですか? あなたはそんな機械人形のような人生が本望ですか?」
「……抗いたいですよ。でも、もう僕には抗う術が、」
「では、交渉成立ですね」
僕の言葉を遮るように放たれた一言に、ふたたび口が開く。何を言っているのだ、この女は。
「……は?」
「このお見合いの目的は景元と時東が将来業務提携を結ぶにあたってその地盤となる関係性を結ぶこと、です。景元と時東に強い結びつきが成立すれば済む話です」
「だからこそ僕らの結婚が望まれているのではないのですか」
「時東旅行社には私が勤めているニューヨーク支店がありますよ」
「…………」
なんの脈絡もない言葉に返す言葉がない。彼女はどんな回答を僕に求めているのか、まったく理解が及ばない。それでも――彼女の最後の言葉の中に、なにかに引っかかるものがあった、ような気がした。夕暮れ時に現れる薄明光線のような、淡い何かが。視線を落とし、自分の前に置かれた湯吞をじっと見つめる。
どれほどの時間が流れたのだろう。体感にすれば長い時間だったように感じるが、実際はきっと30秒程度のことだっただろうか。導き出した自分なりの答えを小さく落とす。
「……景元の。ニューヨークでの拠点を作る……?」
「ご名答です。婚姻関係を結ばずとも時東と景元の利害関係を一致させればよいわけです。……時東と景元の結びつきを成立させるため千歳さまが時東旅行社のニューヨーク支店に出向する。理由は時東と景元の関係を強固にするため、そして重要なのが景元のニューヨーク拠点造りのため」
景元は旅行会社である時東との繋がりが欲しい。これはきっと、ライバル企業である九十銀行に対抗するためだ。九十銀行は先般、『多様なライフスタイルと長寿人生をサポートするための非金融サービス会社との連携』を発表した。具体的には、主にシニア世代を対象とした国内旅行ツアーを企画する新サービスとなるらしい。おそらく彼女はそのことを指して話題としている。
ニューヨークに拠点を造り、九十銀行を上回るような旅行サービスを提供できる地盤を作る。だからこの見合いを蹴らせてくれ――そう、父に言え、と。彼女は言いたいのだろう。
「しかし……そのようなことが認められるでしょうか」
「『結婚したくない時東穂乃果の申し出により話し合い、結婚しない代わりにニューヨーク支店にヘッドハンティングし、そちらで景元の拠点を造る補佐をすると合意した』とでも言えばよいでしょう。私が私の申し出で見合いを壊すのはこれで通算3回目となります。日本では初めてですが、アメリカ国内では既に2回の前例があるのです。これで私が結婚不適合者であるということが父に伝わるでしょう。正直、せいせいしますよ。私は私を見てくださらない殿方と結婚するほど愛に飢えてもいませんし、マゾヒストでもありませんので」
「……申し訳ない」
「いいえ。千歳さまが謝ることでは。むしろ、私こそ千歳さまの本心を引き出したいがために皮肉った言い方をして申し訳ありませんでした」
苦笑いとともにちいさく肩を竦めた彼女は満足げに微笑んだ。彼女にとっても僕のニューヨーク行きは利のある話で、交渉成立――ということなのだろう。
「結婚というのは互いの努力で作り上げていくものだと思っています。どちらかが与え、どちらかが犠牲になるような関係性ではありません。きっと千歳さまが想い人に踏み出せない理由はそれでしょう? だったらお互いにとってフラットな海外の地で時間を重ねられてはいかがですか」
彼女の一言に思わず目を瞠る。その言葉は、マスターからもたらされたあの言葉に近いもののような気がした。
やよさんとともにある不幸。ともに歩む、人生。
互いに与え、補い合う。たとえこの道が不幸に続く道でも、やよさんと一緒に乗り越えていきたい。
……やよさんは、それを受け入れてくれるだろうか。
足掻いて足掻いて、それでも足掻いて。僕は――何かを、掴めるだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら。目の前の彼女と同じように肩を竦め苦笑いを落とした。
「……お見通し、というわけですか」
「ええ。日本だけでなく、世界中の人々の心を揺さぶるカメラマンを目指しておりますのでね。他人を見る目は確かな方だと自負しております」
子どものようないたずらっぽさを持った彼女の写真はきっと、彼女の名前を世界に知らしめるに値するものだろう。そう素直に感じながら、見合い直前に父から返されたスーツのポケットに入ったスマートフォンに想いを馳せた。
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