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2.桜の思い出

桜の思い出②

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 こんな男性に『浅緋さん』なんて呼ばれたことはないのだ。

「浅緋さん?」
「はい」
 頬が熱い。

 もしかして、赤くなってしまっているかもしれない。
 それを片倉に見られているのかと思うと、とても恥ずかしい。

「お食事はお任せで構いませんか?」
「はい。結構です」

 名前を呼ばれただけ。
 たったそれだけのことなのに、こんな風になってしまうのが分からないし、いかにも物慣れない自分が恥ずかしい。

「大丈夫ですか?」
 眼鏡越しに心配そうな瞳で、片倉は浅緋を覗き込んできた。
 その整っていて、端正な顔にもドキドキする。

「だ……いじょうぶです。ごめんなさい」
「まだ、いろいろおつらいですか? お食事できそうですか?」

「いえ。あの、父のことは大丈夫なんです。その、もともと入院期間もありましたし、その分覚悟もしていたので。ただ……そうですね、たまにまだ父が生きていて会社に行っているだけのような、病院に行けば会えるんじゃないかって思ったりすることは、ありますけど……」

「それは……」
 片倉は言葉を失ったようだった。
「つらいですね」

「そうなのかしら」
「浅緋さん、泣きましたか?」
「え?」

「僕は園村さんから、あなたの話をたくさん聞いているんです。園村さんは、その……とてもあなたのことを可愛く思っていて子供の頃の話から最近の話まで、僕はいろいろお伺いしました」

 父が誰かに浅緋のことを話すなんて、あまり考えられなかったから浅緋は驚いてしまった。

「父が……」
「ええ。桜の話は……笑ってしまった」

「桜?」
「ご自宅の桜が剪定された時に、坊主にしちゃうなんてひどい! と泣いて怒った話ですよ」

 お父さん……そんなことまで。
 それは事実だ。

 園村家の庭にはそれは見事な桜の木が数本植えてある。
 春には見事な花を咲かせて、楽しませてくれるのだが、枝が大きくなったのである日剪定が入ったのだ。

 桜の剪定は大きく枝を落としてしまうことが多い。

 浅緋にしてみたら、大好きな桜の木がほとんど根本からバッサリ切られているように見えたことは、とてもショックだった。

 確かにそれで泣いて怒ったことがあったはずだ。多分幼稚園か、小学生の低学年くらいのことだったと思う。

 しかし桜は翌年にはまた、新しい枝が伸び、数年後にはまた満開の花を咲かせて、今も園村家の春を彩ってくれている。

「ダメー! と職人さんに泣いてしがみついて、困らせたと聞いています」
「いやだわ……お父さんてば……、あれ……」

 ぽろっと温かいものが浅緋の頬を伝って、ぱたぱたっと膝の上に、雫がこぼれた。

「浅緋さん……」
「ごめんなさい。なんでかしら?」

 一度涙が流れ出すともう止まらなくて、きっと片倉が困っているだろうからなんとかしたいのに、まるで壊れてしまったかのように、ポロポロとこぼれてきて止まらないのだ。

 どうしよう……。
 するとテーブルの向こうにいた片倉が、席を立った気配がした。

 気を使って一人にしてくれるのかな。
 浅緋がそう思ったら隣に来て、膝をついた彼は浅緋にハンカチを差し出した。

「どうぞ」
「あの……でもっ、」
「泣いている婚約者をそのままになんてしておけません」

 そう言って片倉は浅緋の顔を優しく覗き込んだ。
 その整った顔に浅緋は胸がきゅっと締め付けられるのを感じた。
 婚約者……この人が……。

「失礼します」
 そう言って、片倉は泣いている浅緋の頭をそうっと胸に抱き寄せてくれた。

「思い切り泣くのも、悪くないですよ。ハンカチがわりだと思って。どうぞ」
 浅緋は人の胸で泣いたことはない。 

 けれど、こんな風に包み込まれることはなんて安心感があることなんだろう。

「っふ……うぇ……」
 声を押し殺して泣き続ける浅緋を、片倉は何も言わずに静かにそっと抱きしめてくれていた。

 身体中の水分が半分はなくなるくらい泣いたのではないかと思ったのだが、いつの間にか涙は自然に止まってきていた。
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