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琥珀の蜜
三話
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「お久しぶりですね、千代さん。女学校以来ですか」
奈落は改めて千代の名前を呼んだ。懐かしむように目を細めて、煎茶を一口すする。口の中に充満していた月長石の残り香を、煎茶の爽やかな香りが洗い流した。ちょうどいい口直しだ。
「奈落先輩……女性ながら大学に進まれたとは聞いていましたが、まさか薬屋を営んでおられるとは思いませんでした」
「祖父の店を継いだのですよ。学生の折からそうすると決めていましたので」
千代とは女学校の課外活動で縁のあった仲だった。奈落の取り巻きの1人であった千代はその「求愛」も積極的で、特に印象に残っていた1人である。
「私もまさかあの千代さんがもうご結婚なさっているとは思いませんでした。覚えてらっしゃいますか?羽根つきでは貴女に随分墨を塗られました」
奈落は笑いながら昔の思い出を口にする。すると千代は、顔を真っ赤にして両手で覆ってしまった。
「すみません、私ったら……」
「いえいえ、あれは私が弱いのが悪いのです。どうにも運動はめっぽう苦手で。いやぁ、コテンパンにやられて顔が真っ黒になりましたね」
「堪忍して下さい……」
おや、あのおてんばが人並みに恥じらうようになった、と思ったが、奈落は口には出さなかった。千代は既に子どももいる、立派な奥方だ。女学校は良妻賢母の育成を志す施設であるからして、千代はその理念に恥じない卒業生であると言える。勉学を学び商いの道に進んた奈落のような女性は、社会的には劣等生だ。
そうか、私も規範的な女性の道を歩んでいれば、このぐらいの子どもがいるのだな。そう思って、奈落は目を細めながら彼女の娘を見た。百香と呼ばれていた少女は、奈落の出した蜜入り白湯をもう飲み干していた。少女のお気に召したようだ。
「可愛い娘さんですね。もう千代さんは立派な母親なのですね」
「……そうでしょうか」
千代の表情に少し憂いが差した。
「何か気がかりが?」
「まだ、男児をもうけておりませんので……」
そう呟くと、千代は湯呑みを手に取り口につけた。奈落は内心、自分の迂闊を恥じた。その一言に、彼女のそれまでの苦労が滲んで見える。職業婦人やモガが街を闊歩し、女性の人権向上などと話題にはなれど、世間はまだその波を容易には受け取らず、面白おかしく無責任に煽るばかりだ。奈落とて、店の跡を継いだ時に理解ある顧客は残ってくれたものの、女が跡を継いだ、という事に嫌悪感をもって離れた客もいた。祖父が築いたものを自分が駄目にしたのだ、と思った時の落胆は激しかった。幸い祖父は「そんな客はうちの薬を買わんでいい。他所へ行け」と啖呵を切ってくれたが、それから奈落はせめて店に立つ時は、男物の着物を身に付けている。一見の客が女店主に警戒しないようにだ。幸い、声もさほど高くはないので、ゆっくりと話せば特に違和感を与えずに接客する事ができる。番頭から出ると身長の低いのが露見するので、そこで気付かれてしまうのが難点だが。
百香がソワソワしているのを見て、奈落は我に返った。はて、このぐらいの子どもが好みそうなものはこの店内にあっただろうか。あまり蜜ばかり与えてもよろしくなかろう、しかし、普段は大人を相手にしているので、子どもと親密にする機会は多くない。饅頭のひとつでもあればいいのだが。
そこまで考えて、奈落はひとつ思い至った。そうか、幼子とはいえ相手はおなごだ。それならば、アレを気にいるかもしれない。
奈落は席を立って薬棚の方に戻る。下の引き出しには精製前の鉱石が小さな麻袋に入っていた。彩りの良さそうなものを適当に引っ掴むと、奈落はテーブルに戻って百香の前に石を並べた。
「お嬢ちゃん、こういうのは好きかな?」
「わぁ……」
紫水晶の群晶、金色の内包物を含む針入り水晶、母岩付きの蒼い蛋白石、薔薇輝石、黄玉…奈落が見せた鉱石の数々は、百香を魅了した。
「うちでは原石を取り寄せて、精製するところからやっているんですよ。薬はもちろんですが、祖父の代ではやっていなかった他の利用法を考えてましてね。例えば……ええと、百香ちゃんだったかな?生まれた月はいつ?」
「3月」
「3月。弥生だね。弥生の守護をすると言われているのが藍玉。まだ因果関係ははっきりしてないんですが、この誕生月に相当する守護石が、その人が持つ体の不安を大体カバーできる、いわば常備薬になるという考えがあるんです。ですから、石を装飾具に加工して不安に備える、という触れ込みで首飾りや指輪などを提供しようかと……。藍玉は呼吸器の症状を鎮める作用もありますよ」
そういって、奈落は百香に藍玉を握らせる。透明な水色をしたそれは、部屋の明かりに照らされて微かに反射していた。
「可愛い……」
百香は手にした藍玉をじっと見つめる。それを見て、千代は微かに口元を動かした。
「6月は……」
奈落はその千代の言葉に、ぴくりと反応する。動揺を悟られないよう、勤めて平静を装った。
「水無月の守護石は、なんでしょうか?」
奈落は、そっと呼吸を整えて、百香の手の中の藍玉から目を動かさずに答えた。
「……月長石ですよ」
奈落は改めて千代の名前を呼んだ。懐かしむように目を細めて、煎茶を一口すする。口の中に充満していた月長石の残り香を、煎茶の爽やかな香りが洗い流した。ちょうどいい口直しだ。
「奈落先輩……女性ながら大学に進まれたとは聞いていましたが、まさか薬屋を営んでおられるとは思いませんでした」
「祖父の店を継いだのですよ。学生の折からそうすると決めていましたので」
千代とは女学校の課外活動で縁のあった仲だった。奈落の取り巻きの1人であった千代はその「求愛」も積極的で、特に印象に残っていた1人である。
「私もまさかあの千代さんがもうご結婚なさっているとは思いませんでした。覚えてらっしゃいますか?羽根つきでは貴女に随分墨を塗られました」
奈落は笑いながら昔の思い出を口にする。すると千代は、顔を真っ赤にして両手で覆ってしまった。
「すみません、私ったら……」
「いえいえ、あれは私が弱いのが悪いのです。どうにも運動はめっぽう苦手で。いやぁ、コテンパンにやられて顔が真っ黒になりましたね」
「堪忍して下さい……」
おや、あのおてんばが人並みに恥じらうようになった、と思ったが、奈落は口には出さなかった。千代は既に子どももいる、立派な奥方だ。女学校は良妻賢母の育成を志す施設であるからして、千代はその理念に恥じない卒業生であると言える。勉学を学び商いの道に進んた奈落のような女性は、社会的には劣等生だ。
そうか、私も規範的な女性の道を歩んでいれば、このぐらいの子どもがいるのだな。そう思って、奈落は目を細めながら彼女の娘を見た。百香と呼ばれていた少女は、奈落の出した蜜入り白湯をもう飲み干していた。少女のお気に召したようだ。
「可愛い娘さんですね。もう千代さんは立派な母親なのですね」
「……そうでしょうか」
千代の表情に少し憂いが差した。
「何か気がかりが?」
「まだ、男児をもうけておりませんので……」
そう呟くと、千代は湯呑みを手に取り口につけた。奈落は内心、自分の迂闊を恥じた。その一言に、彼女のそれまでの苦労が滲んで見える。職業婦人やモガが街を闊歩し、女性の人権向上などと話題にはなれど、世間はまだその波を容易には受け取らず、面白おかしく無責任に煽るばかりだ。奈落とて、店の跡を継いだ時に理解ある顧客は残ってくれたものの、女が跡を継いだ、という事に嫌悪感をもって離れた客もいた。祖父が築いたものを自分が駄目にしたのだ、と思った時の落胆は激しかった。幸い祖父は「そんな客はうちの薬を買わんでいい。他所へ行け」と啖呵を切ってくれたが、それから奈落はせめて店に立つ時は、男物の着物を身に付けている。一見の客が女店主に警戒しないようにだ。幸い、声もさほど高くはないので、ゆっくりと話せば特に違和感を与えずに接客する事ができる。番頭から出ると身長の低いのが露見するので、そこで気付かれてしまうのが難点だが。
百香がソワソワしているのを見て、奈落は我に返った。はて、このぐらいの子どもが好みそうなものはこの店内にあっただろうか。あまり蜜ばかり与えてもよろしくなかろう、しかし、普段は大人を相手にしているので、子どもと親密にする機会は多くない。饅頭のひとつでもあればいいのだが。
そこまで考えて、奈落はひとつ思い至った。そうか、幼子とはいえ相手はおなごだ。それならば、アレを気にいるかもしれない。
奈落は席を立って薬棚の方に戻る。下の引き出しには精製前の鉱石が小さな麻袋に入っていた。彩りの良さそうなものを適当に引っ掴むと、奈落はテーブルに戻って百香の前に石を並べた。
「お嬢ちゃん、こういうのは好きかな?」
「わぁ……」
紫水晶の群晶、金色の内包物を含む針入り水晶、母岩付きの蒼い蛋白石、薔薇輝石、黄玉…奈落が見せた鉱石の数々は、百香を魅了した。
「うちでは原石を取り寄せて、精製するところからやっているんですよ。薬はもちろんですが、祖父の代ではやっていなかった他の利用法を考えてましてね。例えば……ええと、百香ちゃんだったかな?生まれた月はいつ?」
「3月」
「3月。弥生だね。弥生の守護をすると言われているのが藍玉。まだ因果関係ははっきりしてないんですが、この誕生月に相当する守護石が、その人が持つ体の不安を大体カバーできる、いわば常備薬になるという考えがあるんです。ですから、石を装飾具に加工して不安に備える、という触れ込みで首飾りや指輪などを提供しようかと……。藍玉は呼吸器の症状を鎮める作用もありますよ」
そういって、奈落は百香に藍玉を握らせる。透明な水色をしたそれは、部屋の明かりに照らされて微かに反射していた。
「可愛い……」
百香は手にした藍玉をじっと見つめる。それを見て、千代は微かに口元を動かした。
「6月は……」
奈落はその千代の言葉に、ぴくりと反応する。動揺を悟られないよう、勤めて平静を装った。
「水無月の守護石は、なんでしょうか?」
奈落は、そっと呼吸を整えて、百香の手の中の藍玉から目を動かさずに答えた。
「……月長石ですよ」
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