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第九話

懊悩・その二

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……こ、こは……く、泣……い、て……い、る……の、か……

 氷輪は頬や首筋に当たる雫に、完全に遠のいていた意識のとばりを開けた。辛うじて、ほんの僅かに。けれども、瞼は重く思うように開かず。僅かな隙間より垣間見える光景は濃霧のように白濁していた。けれども気配で感じ取れる。琥珀が泣いているのだ。それも自分の為に。自分は大丈夫だ、心配ない、そう声をかけてやりたくて、抱き締めて安心させてやりたくて気持ちばかりが焦る。

「こ、こ……は、く」

 愛しい名を呼びたいのに、声は虚しく空回りする。指一本動かす事は叶わず、まるで全身が鉛になってしまったかのようだ。

「す……すま、な……い……」

 全ての気力を振り絞り、辛うじて謝罪を口にする。同時に意識を手放した。




 初老の僧侶は竹桶に張られた水に白い布を浸し、絞ってから畳んで傍らに眠っている氷輪の額にそっと乗せた。僧侶の目尻の笑いじわが、穏やかで温かい人柄をよく表していた。氷輪は頭に布を巻いたまま、畳の上に敷かれた紺色の布の上に仰向けに寝ている。呼吸は苦しそうであるが、なんとか眠りにはつけているようだ。白衣に着替え、草色の衣を数枚かけられている。着ていた衣装は部屋の隅に置かれたタライの中に畳まれていた。

 僧侶の右隣に琥珀が座り、心配そうに氷輪の様子を見ている。寝ている氷輪を挟んで琥珀の向かい側に鋼色のフワフワ頭の男児が座り、氷輪を見守っていた。

「……旅の間、ご自身でも体の異変に気付けない程、終始気を張っておられたのでしょう。夜も殆ど熟睡されてなかったようですし、疲れが溜まっていたのがどっと出たのでしょうね。まだお若いですし、よく休まれればすぐに回復なさいますよ。後で食事をお持ちしますね」

 と僧侶は穏やかに微笑んだ。

「何から何までご親切に、有難うございます」
「有難うございます、助かりました」

 琥珀と男児は口々にペコリと頭を下げた。

「いいえいいえ、お兄様が倒れられて、小さな弟さんと、妹さんだけでよく頑張りましたね。弟さんがこちらへ助けを求めに走って来られている間、妹さんがお兄様の応急手当をなされていて、お見事でした」

 労いの言葉を述べ、僧侶は部屋を後にした。琥珀は膝を抱え顎を膝に乗せるようにして座り直し、虚ろな眼差しでどこを見るとはなしに畳を見つめた。

「……ありがとな」

 琥珀はぽつりと言った。

「いいって事よ。ちょうどお前サンたちと合流しようとしてたとこやったん。ちょいとお取込み中だったようでな。悪いと思うたけどな、気配を消して一部始終見させてもろうたわ」

 男児は氷輪を気遣い、琥珀に聞こえる程度の声で応じる。

「……そっか。もう、どうしていいか分かんないや……」

 琥珀は泣き笑いしているような表情で吐き出すように言った。

「ま、今一人で色々考えても仕方ないで。あんちゃんが元気になって、腹を割って話し合わんとな。ワイの呼び名を考えて貰わんとあかんし」

 励ますように言う男児。

「名前? 風牙だろ? 人型に変化へんげした」

 琥珀は不思議そうに眼を見開いた。

「だーーーー! ておっとすまん」

 男児、いや、風牙は大声を出しかけて慌てて口元を抑える。氷輪が眠っているのを確認してホッとした様子だ。

「やっぱりバレとったか。いや、真の名で呼ぶのは堪忍や。これでも一応元産土神やし。今は大妖魔様だけどな」

 声が大きくならないように気をつけながら得意気答える。琥珀は釣られたように口元を綻ばせた。

「う、う、ん……」

 その時、氷輪が苦し気な声を上げた。

「兄者?! どうした?」

 琥珀は弾かれたように氷輪の枕元に飛ぶ。額に乗せていた布がずれている。それを直そうと手をやると眉をひそめた。

「……もう乾いてる」

 と言って傍らに置かれていた竹桶の水に布を浸す。そして軽く絞ると布を畳み直し、そっと氷輪の額に乗せた。

「うなされとるなぁ。悪い夢でも見とるんやろうか」

 風牙も氷輪の枕元に移動し、心配そうに様子を見ている。




『……私はお前のことなど認めん! 己の体調すら気づけぬ人間風情が、どうやって姫を守り抜けると言うのだ!』

……わ、わたしは……

 暗闇にたゆたう氷輪の耳に響き渡る、久遠と呼ばれる琥珀の侍従らしき男の声。

『愚かな。普段のお前なら、最初から私の気配くらいは察知出来たであろうに。姫を泣かせてみろ! 神の捧げモノであっても容赦はしない。私がお前を殺す!』

 追い打ちをかけるように耳に響き渡る。

……ち、ちが……わたし、は……こ、琥珀が……

「兄者?」

 琥珀はそのとき、氷輪の右手がかすかに虚空を掴もうと動いたのを見逃さなかった。

「大丈夫だ、兄者。琥珀はそばにいる。何があっても」

 言い聞かせるように言いながら両手で彼の右手を握り締めた。

(……兄者があたしを必要としなくなるその時まで)

 と心の中で呟きながら。

……琥珀、無事か……傍にいてくれるのか……

 悪夢にうなされる中、右手に琥珀の温もりを感じて安心感を覚えた。苦悶に満ちていた氷輪の表情が穏やかなものへと移り変わった。

(うーん……これは厄介な案件やなぁ……)

 風牙は二人の様子を見て、己の直観が正しかった事を再確認していた。
 
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