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第四十八話 二つの華
奇しき筆遣ひ・中編
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白檀に菊の花が混じり合ったような上品な香りがそこはかとなく漂う部屋。広さは十六畳ほどであろうか。鳶色の御簾と、白地に梅の花が描かれた屏風で部屋は仕切られている。奥には年季の入った木製の棚が二つほどあり、しっかりと磨きがかけられている。部屋の中央より少し奥寄りに黒の台を挟んで向かい合って座る二人の女房がいる。一人は棚を背にして座っており、小柄で一見すると少女と見紛うようなあどけなさが残る。だが、二眸は意志の強さを物語るように深い光を湛えている。鮮やかな朱赤の濃淡を重ねた蘇芳の襲を身に纏った鳳仙花である。長い髪を紅梅色の布を細く切ったもので後ろに一つに束ねており、更には両袖が邪魔にならぬよう肘まで腕をたくしあげ、向かい側の席に座る女房に磨爪術を施術していた。唇は終始穏やかに弧を描いている。
向かい側に座るの女房は、落ち着いた黄色の濃淡を重ねた香色の襲を身に着けている。波打つ黒髪を恥じる事なく堂々と垂らし、まるで鳶色のさざ波のように畳に流れている。少し浅黒い肌にほんの少しだけ白粉を塗っている。幅広のはっきりした二重瞼に丸みを帯びた大きな瞳は悪戯っ子のように生き生きと輝き、少し大きめの唇は終始楽しそうに綻んでいる。そう、清少納言である。二人は珍しく同時に休みが重なり、鳳仙花の邸にやって来ているのである。
この部屋は、先祖代々磨爪術をしに訪れる貴族女性たちの為に解放したものである。生前、紅も宮中に出入りするようになる前はこの部屋を利用していた。
「……やっぱり、道長様って定子様を虐めて……る、わよねぇ」
華やかで栄華を極めていた頃の伊周の話を恍惚として語った後、清少納言は声を落とし遠慮がちに切り出す。
「この部屋は訪れた方々の秘密を死守出来るように人払いを徹底してますから、気にしないでくださいね」
鳳仙花はそう前置きし、ちょうど爪紅の一度め塗りがひと段落ついた為手を止め、清少納言の目をしっかりと見つめる。
「ええ。分かり易いやり方ですから、皆様勘付いてらっしゃるかと。ただ、口には出せないだけで」
と応ずると、再び爪紅の二度塗りめを始める。
「……そうよねぇ。だってまず、定子様が還俗されて『宮中に一度出家した者を再び同じように招き入れる訳にはいきません!』とかで中宮職の御曹司に住まわせたり。鬼が出る、て噂もあるところよ?」
「ええ、掃除が大変でしたね」
「そうそう。あんな狭いところにおよそ二年以上もお住まいになる羽目に……」
「でも御門はその間ずっと通われて」
「そうね。愛の深さよねぇ。周りの冷たい視線なんかものともなさらず……」
二人は顔を見合わせ、うっとりとした眼差しで溜息をつく。
「まぁ今は御門が近くに別殿をご用意なされたから良かったけれど。道長様ってば定子様が出家なされてすぐに『后妃不在は言語道断』とかいってすぐに二人も女御を入内させたりねぇ」
と清少納言は苛立ちを露わにする。
「承香殿女御(※①)様と弘徽殿女御(※②)様ですね」
鳳仙花は穏やかに応じた。
「そう。御門は目もくれなかったけれど。本当は道長様の娘、彰子様を入内させたかったみたいだけれど、さすがにまだ八、九歳では裳着はおろか月のモノもまだで無理だったもんだから。……もう、そろそろ裳着の儀式をなさるそうね……」
「そうですねぇ……」
「いっそ、あの随筆に道長様の意地悪の数々を事細かに書いてやろうかしら! 私の筆遣ひ(※③)で後の世に知らしめてやるの!」
清少納言はまるでそこに道長がいるかのように虚空を睨みつける。そんな彼女を、鳳仙花は穏やかに見つめた。脳裏に彰子の聡明な眼差しが浮かぶ。
「お気もちは物凄くよく分かります。これはあくまで私の意見ですけれど……」
ゆっくりと切り出した。いつもは聞き役に徹している鳳仙花、が積極的に意見を述べる事をとても珍しく感じた清少納言は、彼女の話に耳を傾ける事にした。
「私は、あの随筆には定子様の素晴らしいお姿を。楽しまれる姿、文壇やお仕えする女房を颯爽と導くお姿、御門と仲睦まじいご様子。そして道隆様を始め、伊周様や隆家様の煌びやかにご活躍なされるお姿など。悲しみや辛さなど微塵も感じさせないものが良いと思うのです」
「え? どうして?」
清少納言には、鳳仙花の意見が突拍子もないものに思えた。けれども鳳仙花は落ち着き払って真っすぐに清少納言を見つめる。
「道長様の事をつまびらかにしてしまうと、あのお話自体書けないように握り潰されてしまう可能性があると思うのです」
「そうかぁ、それは確かにあるかもね。私たちは女ばかりだし」
「はい。それに、素敵な事、楽しい事、定子様の素晴らしさを詳細に渡って書けば……後の世の人々は素晴らしい定子様の御姿を感じる事が出来きます。永遠に咲き誇る常花のように鮮明に艶やかに……。ですから文壇の事も、女房たちの生き生きとした姿を。宮中の闇に当たる部分は、きっと別の御方が何人か記してくださる筈ですから」
「言われてみればそうよね! 道長様に靡かない御方もいらっしゃるわね。既に記録(※④)してらっしゃるものね。藤原実資様とか」
二人はにやりと微笑み合った。
「……それに私、凄く素敵だと思うんです」
鳳仙花は夢見るように言った。
「ん? どんなところが?」
清少納言は不思議そうに問いかけた。
「文章のどこかに、必ず定子様を称える表現をほのめかして散りばめられているでしょう? それがまるで暗号みたいに神秘的で。でも分かる方にはすぐに気づいて。……例えば冒頭の『春は曙』の紫だちたる雲、紫雲は天皇の事ですし、更に紫の雲は瑞祥(※⑤)の表しで、最近では中宮の暗喩として和歌などに詠まれたりしていますものね」
清少納言の胸にッと熱いものが込み上げた。
(伝わっているんだ、伝わる人には……)
「……有難、う!……。もう、迷わない……」
溢れ出そうになある涙を堪える為、辛うじて出た言の葉だった。胸がいっぱいで、それしか言えなかった。その日を境に、清少納言は、ただひたすら定子の為に。定子を勇気づけ、慰め、そして称える為だけに書こう! と腹を括ったのだった。
(※① 右大臣、藤原彰光の娘の元子)
(※② 藤原公季の娘の義子)
(※③ この場合は「筆の力」の意味)
(※④「小右記」。公卿、藤原実資の漢文日記。「小野宮右大臣の日記」をもじってつけられた)
(※⑤ 吉兆)
向かい側に座るの女房は、落ち着いた黄色の濃淡を重ねた香色の襲を身に着けている。波打つ黒髪を恥じる事なく堂々と垂らし、まるで鳶色のさざ波のように畳に流れている。少し浅黒い肌にほんの少しだけ白粉を塗っている。幅広のはっきりした二重瞼に丸みを帯びた大きな瞳は悪戯っ子のように生き生きと輝き、少し大きめの唇は終始楽しそうに綻んでいる。そう、清少納言である。二人は珍しく同時に休みが重なり、鳳仙花の邸にやって来ているのである。
この部屋は、先祖代々磨爪術をしに訪れる貴族女性たちの為に解放したものである。生前、紅も宮中に出入りするようになる前はこの部屋を利用していた。
「……やっぱり、道長様って定子様を虐めて……る、わよねぇ」
華やかで栄華を極めていた頃の伊周の話を恍惚として語った後、清少納言は声を落とし遠慮がちに切り出す。
「この部屋は訪れた方々の秘密を死守出来るように人払いを徹底してますから、気にしないでくださいね」
鳳仙花はそう前置きし、ちょうど爪紅の一度め塗りがひと段落ついた為手を止め、清少納言の目をしっかりと見つめる。
「ええ。分かり易いやり方ですから、皆様勘付いてらっしゃるかと。ただ、口には出せないだけで」
と応ずると、再び爪紅の二度塗りめを始める。
「……そうよねぇ。だってまず、定子様が還俗されて『宮中に一度出家した者を再び同じように招き入れる訳にはいきません!』とかで中宮職の御曹司に住まわせたり。鬼が出る、て噂もあるところよ?」
「ええ、掃除が大変でしたね」
「そうそう。あんな狭いところにおよそ二年以上もお住まいになる羽目に……」
「でも御門はその間ずっと通われて」
「そうね。愛の深さよねぇ。周りの冷たい視線なんかものともなさらず……」
二人は顔を見合わせ、うっとりとした眼差しで溜息をつく。
「まぁ今は御門が近くに別殿をご用意なされたから良かったけれど。道長様ってば定子様が出家なされてすぐに『后妃不在は言語道断』とかいってすぐに二人も女御を入内させたりねぇ」
と清少納言は苛立ちを露わにする。
「承香殿女御(※①)様と弘徽殿女御(※②)様ですね」
鳳仙花は穏やかに応じた。
「そう。御門は目もくれなかったけれど。本当は道長様の娘、彰子様を入内させたかったみたいだけれど、さすがにまだ八、九歳では裳着はおろか月のモノもまだで無理だったもんだから。……もう、そろそろ裳着の儀式をなさるそうね……」
「そうですねぇ……」
「いっそ、あの随筆に道長様の意地悪の数々を事細かに書いてやろうかしら! 私の筆遣ひ(※③)で後の世に知らしめてやるの!」
清少納言はまるでそこに道長がいるかのように虚空を睨みつける。そんな彼女を、鳳仙花は穏やかに見つめた。脳裏に彰子の聡明な眼差しが浮かぶ。
「お気もちは物凄くよく分かります。これはあくまで私の意見ですけれど……」
ゆっくりと切り出した。いつもは聞き役に徹している鳳仙花、が積極的に意見を述べる事をとても珍しく感じた清少納言は、彼女の話に耳を傾ける事にした。
「私は、あの随筆には定子様の素晴らしいお姿を。楽しまれる姿、文壇やお仕えする女房を颯爽と導くお姿、御門と仲睦まじいご様子。そして道隆様を始め、伊周様や隆家様の煌びやかにご活躍なされるお姿など。悲しみや辛さなど微塵も感じさせないものが良いと思うのです」
「え? どうして?」
清少納言には、鳳仙花の意見が突拍子もないものに思えた。けれども鳳仙花は落ち着き払って真っすぐに清少納言を見つめる。
「道長様の事をつまびらかにしてしまうと、あのお話自体書けないように握り潰されてしまう可能性があると思うのです」
「そうかぁ、それは確かにあるかもね。私たちは女ばかりだし」
「はい。それに、素敵な事、楽しい事、定子様の素晴らしさを詳細に渡って書けば……後の世の人々は素晴らしい定子様の御姿を感じる事が出来きます。永遠に咲き誇る常花のように鮮明に艶やかに……。ですから文壇の事も、女房たちの生き生きとした姿を。宮中の闇に当たる部分は、きっと別の御方が何人か記してくださる筈ですから」
「言われてみればそうよね! 道長様に靡かない御方もいらっしゃるわね。既に記録(※④)してらっしゃるものね。藤原実資様とか」
二人はにやりと微笑み合った。
「……それに私、凄く素敵だと思うんです」
鳳仙花は夢見るように言った。
「ん? どんなところが?」
清少納言は不思議そうに問いかけた。
「文章のどこかに、必ず定子様を称える表現をほのめかして散りばめられているでしょう? それがまるで暗号みたいに神秘的で。でも分かる方にはすぐに気づいて。……例えば冒頭の『春は曙』の紫だちたる雲、紫雲は天皇の事ですし、更に紫の雲は瑞祥(※⑤)の表しで、最近では中宮の暗喩として和歌などに詠まれたりしていますものね」
清少納言の胸にッと熱いものが込み上げた。
(伝わっているんだ、伝わる人には……)
「……有難、う!……。もう、迷わない……」
溢れ出そうになある涙を堪える為、辛うじて出た言の葉だった。胸がいっぱいで、それしか言えなかった。その日を境に、清少納言は、ただひたすら定子の為に。定子を勇気づけ、慰め、そして称える為だけに書こう! と腹を括ったのだった。
(※① 右大臣、藤原彰光の娘の元子)
(※② 藤原公季の娘の義子)
(※③ この場合は「筆の力」の意味)
(※④「小右記」。公卿、藤原実資の漢文日記。「小野宮右大臣の日記」をもじってつけられた)
(※⑤ 吉兆)
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