55 / 65
第四十八帖 二つの華
奇(くす)しき筆遣ひ・前編
しおりを挟む
さよ更けて、限り無く黒に近い藍色の空より雪花が降りしきる。その字の如く、白い花びら地上を純白に染めてしんしんと降り積もる。遣り水の川に、池に、前栽(※①)に。しーんと静まり返った庭、草木も人も深い眠りについている頃。
鳳仙花はぽっかりと目を覚ました。静かに身を起こす。ここは文壇の詰所だ。周りには文壇の女房たちがぐっすりと眠っている。何となくいつもとは異なる雰囲気を感じて、音を立てぬように気を付けながら立ち上がった。
……夕刻から急に冷え込んで来たけれど、今はそれほどでもないわね。いつもより深い静けさ。これは、もしかして……
とある予感がして、体にかけて寝ていた衣を素早く羽織る。朱の濃淡を重ねた蘇芳の襲だ。庭に出ても、寒さが凌げるほどに沢山重ねて着る。吐く息が白い。外で吐く息は更に白く深くなるだろう。逸る気持ちを抑え、忍び足で歩き出す。音を立てぬよう静かに几帳をずらし、御簾を掻き分けて渡殿へと出る。御簾で二重に覆われた庭に面した渡殿へと出る。文壇近くで庭一面が眺められる、いつものお気に入りの場所だ。普通は吹き晒し場所なのだが、特別に御簾が二重にかけられている為、弱冠寒さや暑さが凌げるのと万が一の時、直接顔を曝け出す前に扇や袖で顔を隠せるという利点がある。尤もこの場所は、文壇の女房たちが独断で設けたものなのだが。それも皆、定子の新しいもの、良きものを積極的に採用する斬新かつ柔軟性に富む人柄と、そんな定子に一目置き深く愛する一条天皇の力の賜物である。
還俗した定子は、中宮職の御曹司に住まいを構え、帝は足しげく深夜に通い夜明け前に帰っていくという愛情の深さを見せていたが、さすがに遠すぎる、と清涼殿近くに別殿を準備させた。帝は今もそこに夜中に通い、夜明け前に帰るという一途な愛情を捧げている。相変わらず世間では顰蹙をかっているが、同時に帝の定子への愛の深さから、密かに定子を退けで愛娘を中宮にしようと目論む道長でさえも、手を出せずにいた。
……うわぁ、やっぱり……
鳳仙花は目前に広がる庭の景色に心の中で歓声をあげた。一面の銀世界。雪化粧をした庭は、藍色の闇にボーッと白さが浮き上がる。まさに雪明りだ。大地を始めとした草木も花も動物も、虫、そして人も建物も、皆純白の六花に覆い尽くされる姿は、さながら地上の全ての禊の儀式のように思えた。痺れるような寒さも、無意識の内に弛んでいた性根をシャキッとさせ緊張感をもたらす気がして好きだった。別段、寒さが得意な訳ではないけれども。
……吐く息がこんなに白くて、そのまま凍ってしまいそう。静寂の中に広がる雪景色、隆家様はお好きかしら……
ふと、この寒さに関わらず頬がカッと熱く感じた。照れくさくなって両袖で口元を覆う。あれから五日から七日に一度ほどの調子で、互いに文のやり取りを交わすようになっていた。気候の事や何気ない日常の他愛のない会話のような内容だったが、いわば互いに日常日記のやり取りのような感じだ。初めての実践的な恋となる鳳仙花にとって、何もかもが新鮮で色鮮やかに見えた。
……有明(※②)から朝日が出る時、紫から橙色、金色に空が染まると同時に、雪の大地も色を変えて。朝日が差した時に一面にキラキラと輝き出すのも素敵だわ。隆家様と、見る事ができたら素敵だろうな。一人で見るより、二人で見ればいつもの何倍も美しく鮮やかに見えると思うのよ……て、やだ、私ったらはしたない……
二人で日の出を見るという意味を今更のように悟り、顔から湯気が噴き出しそうだ。その時、どこからともなく深みのある澄んだ音色が聞こえてきた。しばらく耳を傾ける。
……なんてしみじみとした音色なんだろう。憂いと喜び、怒りや憎しみ。そういった感情のすべてを慈愛で包み込んだような深さ……
その時、前の方から薄茶から緑色を重ねた胡桃の襲を身に着けた女房がやって来た。その手には紙と筆立てに入れられた筆を持っている。遠目からも分かるほど波打った濃くて長い髪の持ち主。清少納言だ。彼女がやって来るなり、鳳仙花は笑顔で軽く会釈をして御簾をあげ、彼女を招き入れた。しーんとしたこの場所では、囁き合っても響いてしまう。身振り手振りのやり取りは暗黙の了解だった。清少納言は笑顔で応じると、筆入れを床に置く。そして何やら紙にさらさらと筆を走らせた。そしそれを鳳仙花に見せる。
『横笛ね。御門がお吹きになっているのだわ。私ね、実は横笛が格別に大好きなの。深みがあって円熟した感じがして』(※③)
と書かれていた。清少納言は、鳳仙花に筆を差し出す。筆談でやり取りをしようというらしい。ペコリと頭を下げて受け取った。そして紙に思った事を書き記していく。
『なるほど、横笛なのですね。こうしてさよ更けて響いてくる笛の音色。宮中ならではの風流、雅ですね。きっと定子様の為にお吹きになってらっしゃる』
雅楽の事はそれほど詳しくない為、横笛と聞いてなるほど、と思う。清少納言は嬉しそうに頷いた。二人はしばし、定子の為に心を込めて横笛を演奏する一条天皇と、その傍らでうっとりとその音色に聞きいっている定子の姿が思い浮かんだ。
(※① 庭先の木々)
(※② ここでは夜明けをさす)
(※③ 「枕草子 第二七三段 日のうらうらとある昼つ方」より。この段では定子の姿は描かれてはいないが、一条天皇が定子のために吹き、彼女はそれに聞き入っているであろうことが容易に推測できる)
鳳仙花はぽっかりと目を覚ました。静かに身を起こす。ここは文壇の詰所だ。周りには文壇の女房たちがぐっすりと眠っている。何となくいつもとは異なる雰囲気を感じて、音を立てぬように気を付けながら立ち上がった。
……夕刻から急に冷え込んで来たけれど、今はそれほどでもないわね。いつもより深い静けさ。これは、もしかして……
とある予感がして、体にかけて寝ていた衣を素早く羽織る。朱の濃淡を重ねた蘇芳の襲だ。庭に出ても、寒さが凌げるほどに沢山重ねて着る。吐く息が白い。外で吐く息は更に白く深くなるだろう。逸る気持ちを抑え、忍び足で歩き出す。音を立てぬよう静かに几帳をずらし、御簾を掻き分けて渡殿へと出る。御簾で二重に覆われた庭に面した渡殿へと出る。文壇近くで庭一面が眺められる、いつものお気に入りの場所だ。普通は吹き晒し場所なのだが、特別に御簾が二重にかけられている為、弱冠寒さや暑さが凌げるのと万が一の時、直接顔を曝け出す前に扇や袖で顔を隠せるという利点がある。尤もこの場所は、文壇の女房たちが独断で設けたものなのだが。それも皆、定子の新しいもの、良きものを積極的に採用する斬新かつ柔軟性に富む人柄と、そんな定子に一目置き深く愛する一条天皇の力の賜物である。
還俗した定子は、中宮職の御曹司に住まいを構え、帝は足しげく深夜に通い夜明け前に帰っていくという愛情の深さを見せていたが、さすがに遠すぎる、と清涼殿近くに別殿を準備させた。帝は今もそこに夜中に通い、夜明け前に帰るという一途な愛情を捧げている。相変わらず世間では顰蹙をかっているが、同時に帝の定子への愛の深さから、密かに定子を退けで愛娘を中宮にしようと目論む道長でさえも、手を出せずにいた。
……うわぁ、やっぱり……
鳳仙花は目前に広がる庭の景色に心の中で歓声をあげた。一面の銀世界。雪化粧をした庭は、藍色の闇にボーッと白さが浮き上がる。まさに雪明りだ。大地を始めとした草木も花も動物も、虫、そして人も建物も、皆純白の六花に覆い尽くされる姿は、さながら地上の全ての禊の儀式のように思えた。痺れるような寒さも、無意識の内に弛んでいた性根をシャキッとさせ緊張感をもたらす気がして好きだった。別段、寒さが得意な訳ではないけれども。
……吐く息がこんなに白くて、そのまま凍ってしまいそう。静寂の中に広がる雪景色、隆家様はお好きかしら……
ふと、この寒さに関わらず頬がカッと熱く感じた。照れくさくなって両袖で口元を覆う。あれから五日から七日に一度ほどの調子で、互いに文のやり取りを交わすようになっていた。気候の事や何気ない日常の他愛のない会話のような内容だったが、いわば互いに日常日記のやり取りのような感じだ。初めての実践的な恋となる鳳仙花にとって、何もかもが新鮮で色鮮やかに見えた。
……有明(※②)から朝日が出る時、紫から橙色、金色に空が染まると同時に、雪の大地も色を変えて。朝日が差した時に一面にキラキラと輝き出すのも素敵だわ。隆家様と、見る事ができたら素敵だろうな。一人で見るより、二人で見ればいつもの何倍も美しく鮮やかに見えると思うのよ……て、やだ、私ったらはしたない……
二人で日の出を見るという意味を今更のように悟り、顔から湯気が噴き出しそうだ。その時、どこからともなく深みのある澄んだ音色が聞こえてきた。しばらく耳を傾ける。
……なんてしみじみとした音色なんだろう。憂いと喜び、怒りや憎しみ。そういった感情のすべてを慈愛で包み込んだような深さ……
その時、前の方から薄茶から緑色を重ねた胡桃の襲を身に着けた女房がやって来た。その手には紙と筆立てに入れられた筆を持っている。遠目からも分かるほど波打った濃くて長い髪の持ち主。清少納言だ。彼女がやって来るなり、鳳仙花は笑顔で軽く会釈をして御簾をあげ、彼女を招き入れた。しーんとしたこの場所では、囁き合っても響いてしまう。身振り手振りのやり取りは暗黙の了解だった。清少納言は笑顔で応じると、筆入れを床に置く。そして何やら紙にさらさらと筆を走らせた。そしそれを鳳仙花に見せる。
『横笛ね。御門がお吹きになっているのだわ。私ね、実は横笛が格別に大好きなの。深みがあって円熟した感じがして』(※③)
と書かれていた。清少納言は、鳳仙花に筆を差し出す。筆談でやり取りをしようというらしい。ペコリと頭を下げて受け取った。そして紙に思った事を書き記していく。
『なるほど、横笛なのですね。こうしてさよ更けて響いてくる笛の音色。宮中ならではの風流、雅ですね。きっと定子様の為にお吹きになってらっしゃる』
雅楽の事はそれほど詳しくない為、横笛と聞いてなるほど、と思う。清少納言は嬉しそうに頷いた。二人はしばし、定子の為に心を込めて横笛を演奏する一条天皇と、その傍らでうっとりとその音色に聞きいっている定子の姿が思い浮かんだ。
(※① 庭先の木々)
(※② ここでは夜明けをさす)
(※③ 「枕草子 第二七三段 日のうらうらとある昼つ方」より。この段では定子の姿は描かれてはいないが、一条天皇が定子のために吹き、彼女はそれに聞き入っているであろうことが容易に推測できる)
0
お気に入りに追加
21
あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

帝国夜襲艦隊
ypaaaaaaa
歴史・時代
1921年。すべての始まりはこの会議だった。伏見宮博恭王軍事参議官が将来の日本海軍は夜襲を基本戦術とすべきであるという結論を出したのだ。ここを起点に日本海軍は徐々に変革していく…。
今回もいつものようにこんなことがあれば良いなぁと思いながら書いています。皆さまに楽しくお読みいただければ幸いです!

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

江戸時代改装計画
華研えねこ
歴史・時代
皇紀2603年7月4日、大和甲板にて。皮肉にもアメリカが独立したとされる日にアメリカ史上最も屈辱的である条約は結ばれることになった。
「では大統領、この降伏文書にサインして貰いたい。まさかペリーを派遣した君等が嫌とは言うまいね?」
頭髪を全て刈り取った男が日本代表として流暢なキングズ・イングリッシュで話していた。後に「白人から世界を解放した男」として讃えられる有名人、石原莞爾だ。
ここはトラック、言うまでも無く日本の内南洋であり、停泊しているのは軍艦大和。その後部甲板でルーズベルトは憤死せんがばかりに震えていた。
(何故だ、どうしてこうなった……!!)
自問自答するも答えは出ず、一年以内には火刑に処される彼はその人生最期の一年を巧妙に憤死しないように体調を管理されながら過ごすことになる。
トラック講和条約と称される講和条約の内容は以下の通り。
・アメリカ合衆国は満州国を承認
・アメリカ合衆国は、ウェーキ島、グアム島、アリューシャン島、ハワイ諸島、ライン諸島を大日本帝国へ割譲
・アメリカ合衆国はフィリピンの国際連盟委任独立準備政府設立の承認
・アメリカ合衆国は大日本帝国に戦費賠償金300億ドルの支払い
・アメリカ合衆国の軍備縮小
・アメリカ合衆国の関税自主権の撤廃
・アメリカ合衆国の移民法の撤廃
・アメリカ合衆国首脳部及び戦争煽動者は国際裁判の判決に従うこと
確かに、多少は苛酷な内容であったが、「最も屈辱」とは少々大げさであろう。何せ、彼らの我々の世界に於ける悪行三昧に比べたら、この程度で済んだことに感謝するべきなのだから……。


ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる