「磨爪師」~爪紅~

大和撫子

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第四十八帖 二つの華

奇(くす)しき筆遣ひ・前編

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 さよけて、限り無く黒に近い藍色の空より雪花が降りしきる。その字の如く、白い花びら地上を純白に染めてしんしんと降り積もる。遣り水の川に、池に、前栽ぜんさい(※①)に。しーんと静まり返った庭、草木も人も深い眠りについている頃。

 鳳仙花はぽっかりと目を覚ました。静かに身を起こす。ここは文壇の詰所だ。周りには文壇の女房たちがぐっすりと眠っている。何となくいつもとは異なる雰囲気を感じて、音を立てぬように気を付けながら立ち上がった。

……夕刻から急に冷え込んで来たけれど、今はそれほどでもないわね。いつもより深い静けさ。これは、もしかして……

 とある予感がして、体にかけて寝ていた衣を素早く羽織る。朱の濃淡を重ねた蘇芳の襲だ。庭に出ても、寒さが凌げるほどに沢山重ねて着る。吐く息が白い。外で吐く息は更に白く深くなるだろう。逸る気持ちを抑え、忍び足で歩き出す。音を立てぬよう静かに几帳をずらし、御簾を掻き分けて渡殿へと出る。御簾で二重に覆われた庭に面した渡殿へと出る。文壇近くで庭一面が眺められる、いつものお気に入りの場所だ。普通は吹き晒し場所なのだが、特別に御簾が二重にかけられている為、弱冠寒さや暑さが凌げるのと万が一の時、直接顔を曝け出す前に扇や袖で顔を隠せるという利点がある。尤もこの場所は、文壇の女房たちが独断で設けたものなのだが。それも皆、定子の新しいもの、良きものを積極的に採用する斬新かつ柔軟性に富む人柄と、そんな定子に一目置き深く愛する一条天皇の力の賜物である。

 還俗した定子は、中宮職の御曹司に住まいを構え、帝は足しげく深夜に通い夜明け前に帰っていくという愛情の深さを見せていたが、さすがに遠すぎる、と清涼殿近くに別殿を準備させた。帝は今もそこに夜中に通い、夜明け前に帰るという一途な愛情を捧げている。相変わらず世間では顰蹙ひんしゅくをかっているが、同時に帝の定子への愛の深さから、密かに定子を退けで愛娘を中宮にしようと目論む道長でさえも、手を出せずにいた。

……うわぁ、やっぱり……

 鳳仙花は目前に広がる庭の景色に心の中で歓声をあげた。一面の銀世界。雪化粧をした庭は、藍色の闇にボーッと白さが浮き上がる。まさに雪明りだ。大地を始めとした草木も花も動物も、虫、そして人も建物も、皆純白の六花に覆い尽くされる姿は、さながら地上の全ての禊の儀式のように思えた。痺れるような寒さも、無意識の内に弛んでいた性根をシャキッとさせ緊張感をもたらす気がして好きだった。別段、寒さが得意な訳ではないけれども。

……吐く息がこんなに白くて、そのまま凍ってしまいそう。静寂の中に広がる雪景色、隆家様はお好きかしら……

 ふと、この寒さに関わらず頬がカッと熱く感じた。照れくさくなって両袖で口元を覆う。あれから五日から七日に一度ほどの調子で、互いにふみのやり取りを交わすようになっていた。気候の事や何気ない日常の他愛のない会話のような内容だったが、いわば互いに日常日記のやり取りのような感じだ。初めての実践的な恋となる鳳仙花にとって、何もかもが新鮮で色鮮やかに見えた。

……有明(※②)から朝日が出る時、紫から橙色、金色こんじきに空が染まると同時に、雪の大地も色を変えて。朝日が差した時に一面にキラキラと輝き出すのも素敵だわ。隆家様と、見る事ができたら素敵だろうな。一人で見るより、二人で見ればいつもの何倍も美しく鮮やかに見えると思うのよ……て、やだ、私ったらはしたない……

 二人で日の出を見るという意味を今更のように悟り、顔から湯気が噴き出しそうだ。その時、どこからともなく深みのある澄んだ音色が聞こえてきた。しばらく耳を傾ける。

……なんてしみじみとした音色なんだろう。憂いと喜び、怒りや憎しみ。そういった感情のすべてを慈愛で包み込んだような深さ……

 その時、前の方から薄茶から緑色を重ねた胡桃の襲を身に着けた女房がやって来た。その手には紙と筆立てに入れられた筆を持っている。遠目からも分かるほど波打った濃くて長い髪の持ち主。清少納言だ。彼女がやって来るなり、鳳仙花は笑顔で軽く会釈をして御簾をあげ、彼女を招き入れた。しーんとしたこの場所では、囁き合っても響いてしまう。身振り手振りのやり取りは暗黙の了解だった。清少納言は笑顔で応じると、筆入れを床に置く。そして何やら紙にさらさらと筆を走らせた。そしそれを鳳仙花に見せる。

『横笛ね。御門がお吹きになっているのだわ。私ね、実は横笛が格別に大好きなの。深みがあって円熟した感じがして』(※③)

 と書かれていた。清少納言は、鳳仙花に筆を差し出す。筆談でやり取りをしようというらしい。ペコリと頭を下げて受け取った。そして紙に思った事を書き記していく。

『なるほど、横笛なのですね。こうしてさよ更けて響いてくる笛の音色。宮中ならではの風流、雅ですね。きっと定子様の為にお吹きになってらっしゃる』

 雅楽の事はそれほど詳しくない為、横笛と聞いてなるほど、と思う。清少納言は嬉しそうに頷いた。二人はしばし、定子の為に心を込めて横笛を演奏する一条天皇と、その傍らでうっとりとその音色に聞きいっている定子の姿が思い浮かんだ。



(※① 庭先の木々)
(※② ここでは夜明けをさす)
(※③ 「枕草子 第二七三段 日のうらうらとある昼つ方」より。この段では定子の姿は描かれてはいないが、一条天皇が定子のために吹き、彼女はそれに聞き入っているであろうことが容易に推測できる)
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