「磨爪師」~爪紅~

大和撫子

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第四十七帖 二つの華

月の光と玉響の風・六

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……隆家様、でも……まさか、ね。そんな訳ないか……

 一瞬、隆家が訪ねて来てくれたのかと期待した己を恥じ、自嘲の笑みを浮かべる。気まぐれな風はさっと風向きを変え、鳳仙花の頭の後ろを撫でていく。そしてぱたりと止んだ。後に残るは深みを増して行く夜の闇と、虫時雨のこだまのみ。

……そろそろ休もう。お月様は完全に隠れちゃったみたいだし……

 気分を変えるように軽く溜息をつくと、釣殿を後にした。


「隆家様……」

 敦也は、呆けたように立ち尽くすあるじに囁くようにして声をかけた。邸内の灯りで、薄っすらと確認出来るあるじの全て。隆家はハッとしたように我に返ると、唇が緩やかな弧を描いた。

「……筆を」

 穏やかに一言、そう言って右手を差し出す。敦也は予め用意していた筆と墨入れを袂より取り出し、筆に墨をたっぷりと含ませてからあるじに手渡す。そして懐より細長く切り揃えられた和紙を取り出し、それを両手で捧げるようにして差し出した。隆家はゆるゆると手を伸ばしそれを受け取ると、灯りを頼りに躊躇う事なくさらさらと紙に筆を走らせた。書き終わる頃を見計らい、敦也は再び懐より大き目の紙を取り出す。隆家はしばし墨が渇くのを待ち、紙を受け取ると丁寧に和紙を包み込むようにして折り込んだ。

「これを、家人に。今宵はもう夜遅い。明日の朝にでも渡して欲しいと伝えてくれ」

 と照れたように右手でそのふみを敦也に差し出した。

「承知致しました」

 敦也はうやうやしく両手でそれを受け取ると一礼し、踵を返した。すぐに命に従う為、邸の入口を目指す。暗がりではっきりとは見えぬが、恐らくあるじは頬を染めているに違いないのだ。そう思うと、何だか隆家が少年のように思えて微笑ましい。勿論、口が裂けても本人には言えぬが。それと同時に、微かに感じる己の胸の痛みの正体には気付かぬふりをしつつ。
 松明を片手に持つ大柄な門の番人の姿。近づく足音に警戒し、訝し気に様子を窺う門の番人に、敦也は「あの、もし」とふみを掲げ、颯爽と近付いた。「あなたは!」すぐに、以前鳳仙花を摂津の国に送り迎えをする際、指揮取ってくれた若者であると気づく。


 東の空が微かに白み始める頃、鳳仙花はすっきりと目覚める。

……色々考えたわりに、何だかよく眠れた感じ。月が雲隠れして、真っ暗になったのが良かったのかな……

 と思いながら両手を真上にあげて軽く伸びをし、ゆっくりと起き上がった。そこへ、しずしずと衣擦れの音が近付く。

「鳳仙花様、お早うございます」
「お早う」

 保子の声だ。いつものように顔や歯を洗う湯を持って来たのだろうと立ち上がる。「失礼しますね」と御簾を掻き分けて、几帳と御簾の隙間から登場した保子は、心なしか嬉しそうに瞳を輝かせているように見えた。その両手にはいつものように湯を張った竹桶が、右手首から肘にかけて白い布をかけている。保子は静かに座り、竹桶と布をいつもの場所に置いた。そして懐から大事そうにふみを取り出す。藤袴を思わせる薄紫色の包みだ。トクン、と鳳仙花の鼓動が跳ねた。

……まさか……

 保子は意味あり気に笑うと、両手でそれを差し出した。ふわりと香る若草の薫りに、否応なしに期待してしまう。

「夜更けに届けられたそうですよ」
「と、届けられた、って……どなた、から?」

 明らかに鳳仙花の反応を楽しんでいる様子の保子。勿体つけたように殊更ゆっくりと話す。

「敦也さまから。我があるじより、との事ですよ」
「そ、それじゃ……ふみの主は……」

 震える手でそれを受け取る。

「ええ、隆家様でございますね。夕べ垣間見にいらしたんでしょう。けれども生憎月は影ってしまいましたし。鳳仙花様も外出中かもしれないと思われたのでしょうね」

 嬉しそうに声を弾ませる保子の声は、左耳から右耳へと素通りしてしまう。ドクンドクンと指先まで脈打つ鼓動に、おぼつかない手つきで紙を破らぬよう慎重に開ける。薄紫色に包まれた紙の中には、女郎花色に染められた細長い和紙があり、そこには力強く流れるような筆跡で和歌がしたためられていた。

[秋の夜の あこがれむほど 眺むれば いみじうゆかし 月の乙女よ  <藤原隆家>]
(意訳)
秋の夜にさまよい歩くようなほど物想いに耽っていると、たいそう心惹かれる月の仙女が居たのだよ。

 読むなりみるみる内に頬が紅に染まって行く。読み終わる頃には顔全体が紅葉のように赤く染まった。そのお様子を微笑ましく見守る保子。だが、あまり凝視しては可哀想だと敢えて視線を外す。

……つ、月の乙女……仙女って私? やっぱりあの時……月が雲に隠れて、一瞬だけ光が漏れた時、ふわって若草の薫りがした。……隆家様の、薫りが……

 ふわふわと薔薇色の雲に包まれたような感覚。

……これって、いわゆる、その……垣間見? まさか、あの隆家様が? わ、私みたいなチンチクリを? これ、夢なんじゃ……

「ね、保子。私の手をつねってみて?」

 おもむろに右手の甲を保子に差し出す。そんな鳳仙花に、保子はこの上なく優しく微笑んだ。そして静かに立ち上がり優しく包み込むようにして両手で鳳仙花を胸に引き寄せた。

「夢なんかではありませんよ。これはうつつです!」

 ときっぱりと答えた。保子のぬくもりと規則正しい彼女の鼓動を右耳に感じ、生まれて初めて感じる恋の訪れの幸福感に浸った。しばらくそのまま甘える。やがて、静かに。だがしっかりとした声で保子に命じた。

「返歌をしないと。筆と紙を。紙と和紙は、秋を意識した色が良いわ。それと、薫物は桔梗が良いと思うのだけど、秋を意識したものの中から相談に乗ってちょうだい」

 薫物の事を考えた際、ほんの一瞬だけ裳着の際に伊周より贈られた薫物が思い浮かんだ。だが、理由や経緯はどうであれ、兄弟といえど他の男が鳳仙花の為に作ったものを使うのは良く無い、そう判断した。

「畏まりました。お任せを」

 保子は柔らかに鳳仙花を腕の中から解放すると、すっくと立ち上がり、冷静に応じると軽く頭を下げ、いそいそと部屋を後にした。


「隆家様、鳳仙花様よりお返事が」

 ちょうど出仕する前、そう言って敦也が差し出したものは、撫子を思わせる薄紅うすくれないふみであった。ドクンと大きく跳ねる鼓動が敦也にばれぬかと冷や汗が出そうだ。努めて冷静さを装う。敦也は、そんなあるじの心情を察して、敢えて後ろを向いて指示を待つ。
 隆家は彼の気遣いに無言で感謝しながら、逸る気持ちをおさえつつ、丁寧に中身を開ける。中身は淡い黄色の和紙。それは菊の花を思わせ、和紙はほんのりと桔梗の薫りがした。そしてそこにはたおやかかつ伸びやかな筆跡で和歌がしたためられていた。

[かきくらし 常闇とこやみに 若草の のなつかしき 玉響の風 <鳳仙花>]
(意訳)
雲が空一面を暗くして永遠の闇にいるような思いがした時、若草の香りに心惹かれるほんのひとときの風が吹きました。

 隆家は頬が熱く火照り、期待に鼓動が高まって行く嬉しさを久々に味わうのだった。

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