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第四十五帖 二つの華
道長の娘「彰子・後編」
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彰子は満足そうに自らの両手を見つめている。右手で左手の甲を触り、嬉しそうな笑みを浮かべた。侍女たちは後方に控えている。
「指先が軽くなって、お肌がしっとり艶々。嬉しわ」
そう呟くと満足そうに虚空を見上げ、鳳仙花との会話を振り返った。
(私の想い、そのまま素直に伝えたら……)
鳳仙花は真っすぐに見つめ返し、想いを受け止めた事をその目に含ませこう答えた。
「私は立場上、己自身の意見を述べる事を許されておりません。ですがあらゆるお話をお伺いする事は可能でございます。そして秘密はこの身が土に帰る時までお守り致します。時の世に埋もれていく我が身なればこそ、玉響のひとときを素のままで何の気兼ねもなく、ゆったりと過ごして頂けましたら幸いでございます」
そして深々と頭を下げた。その言の葉は何の美辞麗句もない素朴なもの。気が利いた和歌を詠む訳でもなく媚びもせず。彰子にはそれが逆に好ましく感じた。
「今まで私を褒めそやして気に入られて利用しようとか、嫌われたら大変とばかりに扱われてきたけど、あなたみたいのは初めてよ」
そう伝えた。その時の鳳仙花の表情が照れてあたふたしていて。自分より少し年上の筈の彼女が幼い少女のように見えて。それがまた微笑ましく、純粋で信頼に値すると思われた。
「姫や?」
その時、入り口より父親の声が響く。
「どうぞ」
「入らせて貰うよ」
目の前にやってくる父親。気遣わし気に娘の様子を窺う。
「どうだった? ずっと、会いたがっていたろ? あの磨爪師の娘に」
「ええ。とても気に入りました。お逢い出来て本当に良かったですわ」
彰子は満足そうな笑みを浮かべた。
その頃、鳳仙花は牛車に揺られていた。まだ神経を張り詰めるという全身武装を解けずいる。向かい側に、斉信が乗っているからである。鳳仙花を送るという事と、斉信自身にまだ仕事が残っているらしい。
……彰子様自身は、聡明な御方。ただ周りを取り囲む大人たちが己の野心という欲にまみれているって感じね。政敵である筈の定子様の事を気遣うなんて、並大抵の事では出来やしないもの。聡い御方だけに、色々な事を感じ過ぎてさぞやお辛かったのではないかしら。これから益々感じ取ってしまう事も出てくるでしょうし……
穏やかな笑みで優雅に座っている様子を装いながら、内心では思考が渦巻いていた。彰子への尽きぬ興味と、定子のこれからの身の上が案じられるのと。更には、傍からみて密偵行為と取られても困るし……等々、慎重に考えるべき事が山積みだった。
「彰子様もお喜びになっていたご様子で。道長様も嬉しそうになさっていましたよ。ご紹介できて本当に良かった」
斉信は心の底から安堵したように言った。
「斉信様には、貴重な機会を頂けて本当に有難うございます」
鳳仙花は本当にそう思った。
「なんのなんの。道長様に、少し前から頼まれていましてね。漸く実現出来て本当に良かった」
和やかな空気が、車内を取り巻く。牛車は優雅にゆったりと進んでいった。日は西に少しずつ傾き始める。
文壇に戻って来ると、ざわざわ、キャッキャッと騒がしい女房たちの声。
「あら、お帰りなさい」
赤染衛門がすぐに鳳仙花に気付き、声をかける。
「ただ今戻りました。……何かあったのですか?」
女房たちが、一つの冊子を手に
「どこから読むべきかしら?」
「最初からでしょ?」
「でも入内してきた頃の事が書いてある段が良いんじゃない?」
と賑やかである。
「あぁ、つい先程ね、定子様から冊子が届いたの。清少納言さんが書いたものらしくて。定子様が書き写されたものをこちら送ってくださったのよ。読んでみなさい、て」
「なるほど。そうだったのですね」
「ええ、あなたも行きましょ、参戦するわよ」
赤染衛門は悪戯っぽく笑った。鳳仙花もニヤリと不敵な笑みで応じ、頷く。二人は手を取り合うと、冊子に群がっている女房たちに加わった。
結局、清少納言が初めて宮仕えをした頃の話から読む事になった。一人が声を出してゆっくりと読み進めていく。初めての事萎縮して怖気づき、暗くなる頃に出仕。几帳の影に隠れていた清少納言を定子が優しく呼びよせ、絵などを見せて語りかける場面が手に取るように詳細に書かれていた。それこそ絵に描いたように、ありありと。
「……差し出でさせ給へる御手のはつか見ゆるが、いみじにほひたる薄紅梅なるは、限りなくめでたしと、見知らぬ里人心地には『かかる人こそは、世におはしましけれ』と、驚かるるまでぞ守り参らする」(※)
([意訳] ……非常に寒い時期なので、差し出された袖からかすかに見える定子様のお指の先が、ほんのりと薄紅梅色に染まっている。なんと美しいのだろう! 「このような人が世の中にいらっしゃったなんて」と、世間知らずで家庭人の感覚では驚いてしまって、その指を見つめたまま私は目が離せなかった)
鳳仙花の胸にグっと迫った。
……悟られないように時期をずらしてあるけれど、定子様のお爪は私の母が施術した爪紅! 母様が生きていたという証が、お話の中に永遠に生き続ける……
『薄紅梅のお色は、定子様のお好きな色なの。だから液は薄めにして塗るのよ』
そう言って微笑む紅の笑顔が浮かぶ。
……母様、清少納言さんにお願いした通り、母様が定子様に施術したお爪の事、さり気無く仄かに匂わせてくださったよ……
心の中で、母親に話しかける。
『まぁ! それは鼻高々だわ! うふふふふふ……』
紅の楽しそうな笑い声が、響いて来る気がした。鳳仙花は溢れる涙に堪えながら、静かに聞き続ける。
(※ 【枕草子 第一七七段 「宮に初めて参りたるころ】より)
「指先が軽くなって、お肌がしっとり艶々。嬉しわ」
そう呟くと満足そうに虚空を見上げ、鳳仙花との会話を振り返った。
(私の想い、そのまま素直に伝えたら……)
鳳仙花は真っすぐに見つめ返し、想いを受け止めた事をその目に含ませこう答えた。
「私は立場上、己自身の意見を述べる事を許されておりません。ですがあらゆるお話をお伺いする事は可能でございます。そして秘密はこの身が土に帰る時までお守り致します。時の世に埋もれていく我が身なればこそ、玉響のひとときを素のままで何の気兼ねもなく、ゆったりと過ごして頂けましたら幸いでございます」
そして深々と頭を下げた。その言の葉は何の美辞麗句もない素朴なもの。気が利いた和歌を詠む訳でもなく媚びもせず。彰子にはそれが逆に好ましく感じた。
「今まで私を褒めそやして気に入られて利用しようとか、嫌われたら大変とばかりに扱われてきたけど、あなたみたいのは初めてよ」
そう伝えた。その時の鳳仙花の表情が照れてあたふたしていて。自分より少し年上の筈の彼女が幼い少女のように見えて。それがまた微笑ましく、純粋で信頼に値すると思われた。
「姫や?」
その時、入り口より父親の声が響く。
「どうぞ」
「入らせて貰うよ」
目の前にやってくる父親。気遣わし気に娘の様子を窺う。
「どうだった? ずっと、会いたがっていたろ? あの磨爪師の娘に」
「ええ。とても気に入りました。お逢い出来て本当に良かったですわ」
彰子は満足そうな笑みを浮かべた。
その頃、鳳仙花は牛車に揺られていた。まだ神経を張り詰めるという全身武装を解けずいる。向かい側に、斉信が乗っているからである。鳳仙花を送るという事と、斉信自身にまだ仕事が残っているらしい。
……彰子様自身は、聡明な御方。ただ周りを取り囲む大人たちが己の野心という欲にまみれているって感じね。政敵である筈の定子様の事を気遣うなんて、並大抵の事では出来やしないもの。聡い御方だけに、色々な事を感じ過ぎてさぞやお辛かったのではないかしら。これから益々感じ取ってしまう事も出てくるでしょうし……
穏やかな笑みで優雅に座っている様子を装いながら、内心では思考が渦巻いていた。彰子への尽きぬ興味と、定子のこれからの身の上が案じられるのと。更には、傍からみて密偵行為と取られても困るし……等々、慎重に考えるべき事が山積みだった。
「彰子様もお喜びになっていたご様子で。道長様も嬉しそうになさっていましたよ。ご紹介できて本当に良かった」
斉信は心の底から安堵したように言った。
「斉信様には、貴重な機会を頂けて本当に有難うございます」
鳳仙花は本当にそう思った。
「なんのなんの。道長様に、少し前から頼まれていましてね。漸く実現出来て本当に良かった」
和やかな空気が、車内を取り巻く。牛車は優雅にゆったりと進んでいった。日は西に少しずつ傾き始める。
文壇に戻って来ると、ざわざわ、キャッキャッと騒がしい女房たちの声。
「あら、お帰りなさい」
赤染衛門がすぐに鳳仙花に気付き、声をかける。
「ただ今戻りました。……何かあったのですか?」
女房たちが、一つの冊子を手に
「どこから読むべきかしら?」
「最初からでしょ?」
「でも入内してきた頃の事が書いてある段が良いんじゃない?」
と賑やかである。
「あぁ、つい先程ね、定子様から冊子が届いたの。清少納言さんが書いたものらしくて。定子様が書き写されたものをこちら送ってくださったのよ。読んでみなさい、て」
「なるほど。そうだったのですね」
「ええ、あなたも行きましょ、参戦するわよ」
赤染衛門は悪戯っぽく笑った。鳳仙花もニヤリと不敵な笑みで応じ、頷く。二人は手を取り合うと、冊子に群がっている女房たちに加わった。
結局、清少納言が初めて宮仕えをした頃の話から読む事になった。一人が声を出してゆっくりと読み進めていく。初めての事萎縮して怖気づき、暗くなる頃に出仕。几帳の影に隠れていた清少納言を定子が優しく呼びよせ、絵などを見せて語りかける場面が手に取るように詳細に書かれていた。それこそ絵に描いたように、ありありと。
「……差し出でさせ給へる御手のはつか見ゆるが、いみじにほひたる薄紅梅なるは、限りなくめでたしと、見知らぬ里人心地には『かかる人こそは、世におはしましけれ』と、驚かるるまでぞ守り参らする」(※)
([意訳] ……非常に寒い時期なので、差し出された袖からかすかに見える定子様のお指の先が、ほんのりと薄紅梅色に染まっている。なんと美しいのだろう! 「このような人が世の中にいらっしゃったなんて」と、世間知らずで家庭人の感覚では驚いてしまって、その指を見つめたまま私は目が離せなかった)
鳳仙花の胸にグっと迫った。
……悟られないように時期をずらしてあるけれど、定子様のお爪は私の母が施術した爪紅! 母様が生きていたという証が、お話の中に永遠に生き続ける……
『薄紅梅のお色は、定子様のお好きな色なの。だから液は薄めにして塗るのよ』
そう言って微笑む紅の笑顔が浮かぶ。
……母様、清少納言さんにお願いした通り、母様が定子様に施術したお爪の事、さり気無く仄かに匂わせてくださったよ……
心の中で、母親に話しかける。
『まぁ! それは鼻高々だわ! うふふふふふ……』
紅の楽しそうな笑い声が、響いて来る気がした。鳳仙花は溢れる涙に堪えながら、静かに聞き続ける。
(※ 【枕草子 第一七七段 「宮に初めて参りたるころ】より)
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