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第四十四帖 二つの華
道長の娘「彰子・前編」
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白地に松の木が描かれた屏風の中に足を踏み入れると、広々とした部屋の奥に一段ほど高く作られた場所がある。そこは二重の黒い御簾に囲まれた、彰子のいる場所だ。ほぼ部屋の中央に位置する場所に、薄紫色の布が敷かれ、小さな黒の台が置かれている。鳳仙花が座り、御簾を通して彰子と対面する場所だ。部屋の四隅と鳳仙花の座る場所に燭台が設けられており、炎が室内を柔らかく照れし出している。部屋の奥にある棚は、唐風の見事なものだ。二重に降ろされた御簾の隙間から、彰子であろう影が白っぽく映し出される。その奥に、二人ほど人影。お付きの侍女たちであろう。
……お姫様だわ。大きな邸の奥で密やかに大切に大切に育てられ、そして誰よりも高度な教育を受けて来た事が窺い知れるわ。まだ裳着の前なのに……
一歩一歩御簾が近づくに連れて鼓動が高鳴る。それは不安から来るものではなく、好奇心という心弾ませる類のものだった。少し先に立って歩いていた侍女の案内に従い、「失礼致します。鳳仙花と申します」と軽く一声かけてから用意された場所に腰をおろす。侍女は彰子と鳳仙花に頭を下げ、部屋を後にした。彰子は鳳仙花が足を踏み入れてからまだ一言も発していない。静まり返った室内に、高貴さと爽やかさを伴った聡明な香りが包み込む。
「下がって貰えるかしら?」
やがて、彰子は軽く後ろを振り返り、お付きの侍女二人にそう声をかけた。まだ幼さの残る可愛らしい声。だが。芯はしっかりと通っている声質だ。これには鳳仙花も侍女たちも驚愕した。初対面の者に、一対一の対面など高貴な女性に有るまじき行為だ。
「で、ですが……」
「そ、それは……」
侍女たちの困惑が鳳仙花にはよく理解が出来た。更には、何か裏があるのかと勘ぐってしまう。
「鳳仙花さんと二人だけで気の置けない話をしたいの。父には私から直接言っておくから。大丈夫、鳳仙花さんもあなた達も、後々困るような事にはさせないから。ね、お願い」
無邪気にねだるようにお願いする彰子。侍女たちは「承知しました」と退散していった。彰子様にはかないません、というように小さく笑いながら。そして二人だけの空間が出来上がった。
「お待たせしましたね」
今までとは打って変わり、落ち着いた張りのある声で鳳仙花に向き合う。スッと背筋を伸ばし、立ち上がった。ドキリと心臓が躍り上がる。道長の自慢の長女と二人だけ、しかも立ち上がったのは、二人を隔てている御簾を取り払う為だと予測がつく。
「彰子様!」
思わず鳳仙花も立ち上がった。高貴な女性が初対面の者に顔を晒すなどそれは例え同性でもあってはならない。そう思いながらも、定子の事が頭を過る。臆する事無く、顔を見せ文壇に溶け込む事で一流の文学の発展場へと導いた類稀なる美しい人を。
「彰子と申します。今日は私の為にわざわざ有難う」
自ら御簾をあげた彰子は、扇や袖で顔を隠す事なく、強い眼差しで鳳仙花を見つめた。
……この方が、道長様ご自慢の長女、彰子様。無邪気さを装って周りを動かしているだけで、本当は物凄く頭の切れる方だわ……
白を基調に深い紫を重ねた衵《あこめ》姿は白躑躅の襲を意識したものであろう。鳳仙花より背が高い。手入れの行き届いた足首まで届く繊細な長い髪。細面の白い顔。涼やかな目元、派手さはないが端正な顔立ち。何よりも鳳仙花の目を惹いたのは、彼女の透明感のある漆黒の瞳だった。落ち着いた夜空を思わせる深い眼差し。その瞳の聡明な輝きは冬の星空を思わせる。
「とんでもありません、彰子様。私ごときに、勿体のうございまする」
一瞬、彰子に見惚れた鳳仙花だが、すぐに我に返った鳳仙花はそう言って深々と頭を下げた。
「どうか頭をあげてくださいな。あまり、同じくらいの歳頃の人とお話する機会がないの。だから今日は、あなたと普通に楽しくお話したいわ」
そう言って微笑んだ彰子は、何故かとても不安そうに、そして寂しそうに見えた。
「ね、座って。気楽にして頂戴」
そう言って彰子は腰をおろす。鳳仙花は「失礼します」と一声かけて腰をおろした。
……素顔を晒してくださったからって、油断は出来ない。何せあの道長様の長女様よ、何か仕掛けているのかもしれない。私の不注意で、定子様や文壇に迷惑をかける訳にはいかないもの……
穏やかな言動を心掛けながらも、心は警戒で武装していた。
「父が、怖くなかったかしら? 御免なさいね。表には見せてこなかったけれど、昔から野心に貪欲なところがあって」
背筋を正し、落ち着いた声で真っすぐに鳳仙花を見つめる彰子は、やはり「聡明」という言の葉が相応しい。
……凄いな、確かまだ十歳で、私より三つも年下なのに早くも成熟した女性みたいな貫禄が備わってらっしゃる……
「いいえ、決してそのような事は」
鳳仙花は笑顔で応じ、出来るだけ道長に対しての明言を避けようとした。
「……定子様は、非常にお美しくて頭脳明晰な上に人格者。御門の寵愛を一心に受けてらっしゃると聞きます」
心なしか、ほんの少しだけ震える声で彰子は切り出す。怜悧に引き結ばれた丹花(※)の唇が、不安気な溜息を漏らす。
……この御方は!……
鳳仙花は全てを悟った。
「そのようなお二人を引き裂くような形で、父は私を入内をさせようとしている……。私の力で止める事は出来ない。この流れを止める事が出来ない自分が不甲斐ないの」
……この御方は、全てを見透してらっしゃるのだ。けれども立ち場上、誰にも話す事は出来ない。だから、磨爪師という特殊な立ち場にいる私を選んだのだ。私なら、絶対に秘密を死守するから……
「私は、受け入れて貰えるのかしら?」
涙を耐えているように声がかすれ、聡明な光を宿す瞳に透明な膜が張る。すがるようにして鳳仙花に問う彰子は、この歳でたった一人で全てを見透し、耐え忍んできたのだと悟り、胸に迫る。
……私を信頼し、真の心を吐露してくださった彰子様にお応えせねば。磨爪師の誇りにかけて! かつ、定子様や文壇を裏切る事のないように……
鳳仙花は覚悟を決め、彰子の視線を真正面から受け止めた。
(※ 赤い花のような)
……お姫様だわ。大きな邸の奥で密やかに大切に大切に育てられ、そして誰よりも高度な教育を受けて来た事が窺い知れるわ。まだ裳着の前なのに……
一歩一歩御簾が近づくに連れて鼓動が高鳴る。それは不安から来るものではなく、好奇心という心弾ませる類のものだった。少し先に立って歩いていた侍女の案内に従い、「失礼致します。鳳仙花と申します」と軽く一声かけてから用意された場所に腰をおろす。侍女は彰子と鳳仙花に頭を下げ、部屋を後にした。彰子は鳳仙花が足を踏み入れてからまだ一言も発していない。静まり返った室内に、高貴さと爽やかさを伴った聡明な香りが包み込む。
「下がって貰えるかしら?」
やがて、彰子は軽く後ろを振り返り、お付きの侍女二人にそう声をかけた。まだ幼さの残る可愛らしい声。だが。芯はしっかりと通っている声質だ。これには鳳仙花も侍女たちも驚愕した。初対面の者に、一対一の対面など高貴な女性に有るまじき行為だ。
「で、ですが……」
「そ、それは……」
侍女たちの困惑が鳳仙花にはよく理解が出来た。更には、何か裏があるのかと勘ぐってしまう。
「鳳仙花さんと二人だけで気の置けない話をしたいの。父には私から直接言っておくから。大丈夫、鳳仙花さんもあなた達も、後々困るような事にはさせないから。ね、お願い」
無邪気にねだるようにお願いする彰子。侍女たちは「承知しました」と退散していった。彰子様にはかないません、というように小さく笑いながら。そして二人だけの空間が出来上がった。
「お待たせしましたね」
今までとは打って変わり、落ち着いた張りのある声で鳳仙花に向き合う。スッと背筋を伸ばし、立ち上がった。ドキリと心臓が躍り上がる。道長の自慢の長女と二人だけ、しかも立ち上がったのは、二人を隔てている御簾を取り払う為だと予測がつく。
「彰子様!」
思わず鳳仙花も立ち上がった。高貴な女性が初対面の者に顔を晒すなどそれは例え同性でもあってはならない。そう思いながらも、定子の事が頭を過る。臆する事無く、顔を見せ文壇に溶け込む事で一流の文学の発展場へと導いた類稀なる美しい人を。
「彰子と申します。今日は私の為にわざわざ有難う」
自ら御簾をあげた彰子は、扇や袖で顔を隠す事なく、強い眼差しで鳳仙花を見つめた。
……この方が、道長様ご自慢の長女、彰子様。無邪気さを装って周りを動かしているだけで、本当は物凄く頭の切れる方だわ……
白を基調に深い紫を重ねた衵《あこめ》姿は白躑躅の襲を意識したものであろう。鳳仙花より背が高い。手入れの行き届いた足首まで届く繊細な長い髪。細面の白い顔。涼やかな目元、派手さはないが端正な顔立ち。何よりも鳳仙花の目を惹いたのは、彼女の透明感のある漆黒の瞳だった。落ち着いた夜空を思わせる深い眼差し。その瞳の聡明な輝きは冬の星空を思わせる。
「とんでもありません、彰子様。私ごときに、勿体のうございまする」
一瞬、彰子に見惚れた鳳仙花だが、すぐに我に返った鳳仙花はそう言って深々と頭を下げた。
「どうか頭をあげてくださいな。あまり、同じくらいの歳頃の人とお話する機会がないの。だから今日は、あなたと普通に楽しくお話したいわ」
そう言って微笑んだ彰子は、何故かとても不安そうに、そして寂しそうに見えた。
「ね、座って。気楽にして頂戴」
そう言って彰子は腰をおろす。鳳仙花は「失礼します」と一声かけて腰をおろした。
……素顔を晒してくださったからって、油断は出来ない。何せあの道長様の長女様よ、何か仕掛けているのかもしれない。私の不注意で、定子様や文壇に迷惑をかける訳にはいかないもの……
穏やかな言動を心掛けながらも、心は警戒で武装していた。
「父が、怖くなかったかしら? 御免なさいね。表には見せてこなかったけれど、昔から野心に貪欲なところがあって」
背筋を正し、落ち着いた声で真っすぐに鳳仙花を見つめる彰子は、やはり「聡明」という言の葉が相応しい。
……凄いな、確かまだ十歳で、私より三つも年下なのに早くも成熟した女性みたいな貫禄が備わってらっしゃる……
「いいえ、決してそのような事は」
鳳仙花は笑顔で応じ、出来るだけ道長に対しての明言を避けようとした。
「……定子様は、非常にお美しくて頭脳明晰な上に人格者。御門の寵愛を一心に受けてらっしゃると聞きます」
心なしか、ほんの少しだけ震える声で彰子は切り出す。怜悧に引き結ばれた丹花(※)の唇が、不安気な溜息を漏らす。
……この御方は!……
鳳仙花は全てを悟った。
「そのようなお二人を引き裂くような形で、父は私を入内をさせようとしている……。私の力で止める事は出来ない。この流れを止める事が出来ない自分が不甲斐ないの」
……この御方は、全てを見透してらっしゃるのだ。けれども立ち場上、誰にも話す事は出来ない。だから、磨爪師という特殊な立ち場にいる私を選んだのだ。私なら、絶対に秘密を死守するから……
「私は、受け入れて貰えるのかしら?」
涙を耐えているように声がかすれ、聡明な光を宿す瞳に透明な膜が張る。すがるようにして鳳仙花に問う彰子は、この歳でたった一人で全てを見透し、耐え忍んできたのだと悟り、胸に迫る。
……私を信頼し、真の心を吐露してくださった彰子様にお応えせねば。磨爪師の誇りにかけて! かつ、定子様や文壇を裏切る事のないように……
鳳仙花は覚悟を決め、彰子の視線を真正面から受け止めた。
(※ 赤い花のような)
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