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第三十二帖 雲居の花
枕草子の夢④
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菖蒲と蓬の入り混じった清々しい香りがそこはかとなく漂う渡殿。三週間ほど前に、端午の節句が先日行われ、今は梅雨の真っ只中だ。朝から灰色の雨が降りしきっている。
仕事を終えた鳳仙花は、磨爪術の道具一式をまとめて薄紫色の大きな布で包み込み、布の四隅を結んで両手で抱えるようにして持ち運んでいた。今のところ、今までで自分が担当していたところと、紅が受け持っていたところをそのまま引き継ぐ形で順調にいっている。これより半年から一年ほどで、鳳仙花が紅の跡継ぎとして相応しいかどうかの結果が見えてくるだろう。それは、その時の依頼の件数で如実に分かる。色々と考え込むと不安しか生まれて来ないので、目の前の施術に精一杯全力を向け、集中する事に努めていた。歩きながら、ある思いが駆け巡る。
……清少納言さん、大丈夫かな。しばらく一人で過ごしたい時もあるだろうし。いざ会いに行こうとなると、色々と考えてしまうなぁ。でも、お話した事いっぱいあるんだよ。かけあって貰った裏庭、予めある程度育っているものを頂いたお陰で、とっても元気に育って。花盛りの裏庭になりそうだし。何より、文壇の殺伐とした雰囲気、清少納言さんの明るい声が必要だよ。定子様も御心配なさってると思うし……
そして何か妙案が浮かびかけては消えてしまい、言の葉として表現出来ない。伊周と再会して以来、そんなもどかしい思いを抱えてもやもやしていた。
……でもなあぁ。正直言って、皆が清少納言さんを疑いたくなる気持ちも分からなくはないというか……
清少納言は、その高い教養と知性、そして男に媚びないという当時では珍しい性格が逆に興味を惹くだろう。彼女に言い寄る男は多い事は前述した通りだ。加えて裏表なく、感情を素直に表現するところもあるので、伊周や藤原斉信、また道長などの事も「素敵!」とキャッキャとはしゃいでいる事も多々見受けられた。
……まぁ、素敵な人を見てきゃあきゃあ騒ぐのは女子の特徴ではあるし、それは清少納言さんだけじゃなく文壇の皆も同じだったけどなぁ。でも、道長様や斉信《たたのぶ》様のどこが素敵なんだろうか?……
鳳仙花自身は、母親や保子が厳しく言い付けて来た通り、噂話は恋の話には参加はしない。意見を求められてもさらりと受け流し、聞き役に徹するようにしている。
「あの、もし……? 鳳仙花殿ではありませんか?」
控え室を目前に不意に、背後から少し鼻にかかったような男の声が響く。ドキッとして荷物を取り落としそうになるのを辛うじて耐えながら、降り返った。
「頭中将様《とうのちゅうじょう》様……」
そこには今まさに思い浮かべていた藤原斉信、その人が立っていた。薄青の直衣に翠色の指貫のそれは、あぢさゐ(アジサイ)を思わせる。
……確かに、しだし(※)で整ったお顔立ちはされてるけど、なよなよし過ぎというか……
「良かった、あなたを探していたのですよ」
彼の声で我に返る。隙を見せては拙い、と瞬時に気を引き締める。道長の犬、とすら噂されている男なのだ。
……私ったら失礼よ。好み人それぞれはなんだから……
「私を、ですか?」
「ええ、以前お話したように、あなたに磨爪術をお願いしたい人がいましてね」
社交辞令ではなかったのか、と軽く驚きつつも自然な笑顔を心がける。
「では、文壇の方で」
鳳仙花は誘導しようと左手に荷物を抱え、進行方向を右手で指し示した。彼は途端に顔を曇らせる。
「二人だけでゆっくりお話を、と思ったのですが……」
……冗談じゃないわ、二人だけなんて。この人、恐らく……
「そうなのですか? 何か込み入ったお話なのでしょうか?」
無邪気さを装って問いかける。鳳仙花の真っすぐな眼差しに、微かに狼狽えたように彼の目が空を泳いだ。
「いいえ、込み入ったと言いますか。あなたのお仕事柄、色々な人と接するでしょう? 私には未知のお仕事故に、興味がありましてね。そうなりますと、二人だけの方がお話しやすいかと思ったのですが……」
……やっぱり。仕事柄、色々な立ち場の方と接っしてる私から色々聞き出そうと……
「なるほど。とても嬉しいお誘いなのですが、生憎とても地味な作業なのですよ。ですから頭中将がお聞きになっても退屈かと。お仕事の依頼なら、喜んでお受け致しますけれど」
とにっこりと微笑んで見せた。
(これは驚いた。ただの小娘かと思ってタカを括っていたが、食えない女だ)
斉信は内心で驚きつつも、如何にも悲し気な眼差しで鳳仙花を見つめ、口元に寂しそうな笑顔を浮かべる。
「そうですか、それは残念。勿論、お仕事はお任せしたいと思っていますよ。またご連絡を差し上げます。では、これで。お手間取らせましたね」
と言って踵を返し、立ち去る。
「いいえ、こちらこそ。お声をかけて頂きまして光栄でございました」
鳳仙花は丁寧に頭を下げて見送った。
……あの人、やっぱり『裏切り者』だ! だから、清少納言さんは……
確信した。伊周たちが事件を起こしてかた約半月後、彼は「特別な話がある」と如何にも意味ありげに清少納言を尋ねてきた事がある。その時はもう、文壇では彼が裏切り者との噂で持ち切りだった。かつては、碁の用語を清少納言と彼の二人にしか通じない秘密の言の葉を創ってやりとりする程の仲だった。しかし、清少納言は彼と二人きりになる事を避け、わざわざ梅壺の部屋を指定している。そこには定子の妹である御匣殿がいる場所だ。
……きっと御匣殿がいらっしゃる前でなら、彼は本音を話せないだろうと思ったんだわ。あの人、清少納言はさんを密偵役にして利用しようとしたんだ……
そして控え室に入り、彼の衣装を思い返す。
……あぢさゐなんて、まるで本人みたいじゃない。(※②)あぢさゐに罪はないし、綺麗な花だと思うけどさ……
一人だけの空間となって緊張が解けたのだろう。しばらくぷりぷりと怒りを露わにしていた。
それから程なくして六月初めの頃、定子が身を寄せていた二条北宮が全焼した。強盗が家財を奪って火をつけた、と公には言われているが……。
(※① お洒落)
(※② 当時、アジサイは色が変わりやすい事から、移り気や不実を表す花とされていた)
仕事を終えた鳳仙花は、磨爪術の道具一式をまとめて薄紫色の大きな布で包み込み、布の四隅を結んで両手で抱えるようにして持ち運んでいた。今のところ、今までで自分が担当していたところと、紅が受け持っていたところをそのまま引き継ぐ形で順調にいっている。これより半年から一年ほどで、鳳仙花が紅の跡継ぎとして相応しいかどうかの結果が見えてくるだろう。それは、その時の依頼の件数で如実に分かる。色々と考え込むと不安しか生まれて来ないので、目の前の施術に精一杯全力を向け、集中する事に努めていた。歩きながら、ある思いが駆け巡る。
……清少納言さん、大丈夫かな。しばらく一人で過ごしたい時もあるだろうし。いざ会いに行こうとなると、色々と考えてしまうなぁ。でも、お話した事いっぱいあるんだよ。かけあって貰った裏庭、予めある程度育っているものを頂いたお陰で、とっても元気に育って。花盛りの裏庭になりそうだし。何より、文壇の殺伐とした雰囲気、清少納言さんの明るい声が必要だよ。定子様も御心配なさってると思うし……
そして何か妙案が浮かびかけては消えてしまい、言の葉として表現出来ない。伊周と再会して以来、そんなもどかしい思いを抱えてもやもやしていた。
……でもなあぁ。正直言って、皆が清少納言さんを疑いたくなる気持ちも分からなくはないというか……
清少納言は、その高い教養と知性、そして男に媚びないという当時では珍しい性格が逆に興味を惹くだろう。彼女に言い寄る男は多い事は前述した通りだ。加えて裏表なく、感情を素直に表現するところもあるので、伊周や藤原斉信、また道長などの事も「素敵!」とキャッキャとはしゃいでいる事も多々見受けられた。
……まぁ、素敵な人を見てきゃあきゃあ騒ぐのは女子の特徴ではあるし、それは清少納言さんだけじゃなく文壇の皆も同じだったけどなぁ。でも、道長様や斉信《たたのぶ》様のどこが素敵なんだろうか?……
鳳仙花自身は、母親や保子が厳しく言い付けて来た通り、噂話は恋の話には参加はしない。意見を求められてもさらりと受け流し、聞き役に徹するようにしている。
「あの、もし……? 鳳仙花殿ではありませんか?」
控え室を目前に不意に、背後から少し鼻にかかったような男の声が響く。ドキッとして荷物を取り落としそうになるのを辛うじて耐えながら、降り返った。
「頭中将様《とうのちゅうじょう》様……」
そこには今まさに思い浮かべていた藤原斉信、その人が立っていた。薄青の直衣に翠色の指貫のそれは、あぢさゐ(アジサイ)を思わせる。
……確かに、しだし(※)で整ったお顔立ちはされてるけど、なよなよし過ぎというか……
「良かった、あなたを探していたのですよ」
彼の声で我に返る。隙を見せては拙い、と瞬時に気を引き締める。道長の犬、とすら噂されている男なのだ。
……私ったら失礼よ。好み人それぞれはなんだから……
「私を、ですか?」
「ええ、以前お話したように、あなたに磨爪術をお願いしたい人がいましてね」
社交辞令ではなかったのか、と軽く驚きつつも自然な笑顔を心がける。
「では、文壇の方で」
鳳仙花は誘導しようと左手に荷物を抱え、進行方向を右手で指し示した。彼は途端に顔を曇らせる。
「二人だけでゆっくりお話を、と思ったのですが……」
……冗談じゃないわ、二人だけなんて。この人、恐らく……
「そうなのですか? 何か込み入ったお話なのでしょうか?」
無邪気さを装って問いかける。鳳仙花の真っすぐな眼差しに、微かに狼狽えたように彼の目が空を泳いだ。
「いいえ、込み入ったと言いますか。あなたのお仕事柄、色々な人と接するでしょう? 私には未知のお仕事故に、興味がありましてね。そうなりますと、二人だけの方がお話しやすいかと思ったのですが……」
……やっぱり。仕事柄、色々な立ち場の方と接っしてる私から色々聞き出そうと……
「なるほど。とても嬉しいお誘いなのですが、生憎とても地味な作業なのですよ。ですから頭中将がお聞きになっても退屈かと。お仕事の依頼なら、喜んでお受け致しますけれど」
とにっこりと微笑んで見せた。
(これは驚いた。ただの小娘かと思ってタカを括っていたが、食えない女だ)
斉信は内心で驚きつつも、如何にも悲し気な眼差しで鳳仙花を見つめ、口元に寂しそうな笑顔を浮かべる。
「そうですか、それは残念。勿論、お仕事はお任せしたいと思っていますよ。またご連絡を差し上げます。では、これで。お手間取らせましたね」
と言って踵を返し、立ち去る。
「いいえ、こちらこそ。お声をかけて頂きまして光栄でございました」
鳳仙花は丁寧に頭を下げて見送った。
……あの人、やっぱり『裏切り者』だ! だから、清少納言さんは……
確信した。伊周たちが事件を起こしてかた約半月後、彼は「特別な話がある」と如何にも意味ありげに清少納言を尋ねてきた事がある。その時はもう、文壇では彼が裏切り者との噂で持ち切りだった。かつては、碁の用語を清少納言と彼の二人にしか通じない秘密の言の葉を創ってやりとりする程の仲だった。しかし、清少納言は彼と二人きりになる事を避け、わざわざ梅壺の部屋を指定している。そこには定子の妹である御匣殿がいる場所だ。
……きっと御匣殿がいらっしゃる前でなら、彼は本音を話せないだろうと思ったんだわ。あの人、清少納言はさんを密偵役にして利用しようとしたんだ……
そして控え室に入り、彼の衣装を思い返す。
……あぢさゐなんて、まるで本人みたいじゃない。(※②)あぢさゐに罪はないし、綺麗な花だと思うけどさ……
一人だけの空間となって緊張が解けたのだろう。しばらくぷりぷりと怒りを露わにしていた。
それから程なくして六月初めの頃、定子が身を寄せていた二条北宮が全焼した。強盗が家財を奪って火をつけた、と公には言われているが……。
(※① お洒落)
(※② 当時、アジサイは色が変わりやすい事から、移り気や不実を表す花とされていた)
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