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第三十一話 雲居の花
枕草子の夢③
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花橘を思わせる柔らかな甘さと、まろやかな爽やかさを秘めた香りが漂う、十二畳程の部屋。鳶色の簾と薄紅色に藤の花木が描かれた屏風で四隅が仕切られている。燭台は四隅と、やや後ろ寄りに設けられた黒の台の側にもう一つ設けられている。灯りはゆらゆらと楽し気に揺らめいており、木製の衝立に掛けられている唐衣をより豪華に照らし出していた。それは紫色の花菖蒲を思わせる高貴で深紫色の地に、銀と白の鶴模様があしらわれている。裳着の儀の際、定子から贈られたものだ。台の上には、隆家から贈られた檜扇が広げられて、小さな衝立に丁寧に立て掛けられており、黄金色の地に鮮やかな紅の芍薬、藤の花木、銀色の朱雀が大胆に描かれたそれは、今にも飛び立ちそうな程生き生きと輝いている。
「素敵な香り……」
鳳仙花はうっとりと目を閉じ、薫物を焚きしめて香りを楽しんでいた。柔らかな緑色の濃淡を重ねた小袿を纏い、寛いで部屋の真ん中に座っている。二日ほど仕事の休みが取れた為、自邸に戻って来ていた。そして伊周との再会で頂いた薫物を焚く前に、裳着の儀で贈られたものを先に試していたところである。
「私の印象を薫物にした、ておっしゃってたけれど。さすが伊周様、褒め上手な御方だわ。私はこんなに女性らしい甘さはないもの。でも、この薫物をくゆらせた定子様から頂いた唐衣と、隆家様からの檜扇。これが似合う人になりたいものだわ」
しみじみと思うのだった。そして桜色の小さな巾着袋を、そっと右袖口から取り出す。
……悲しい時、しんどい時に使うと良い……
伊周の甘い声が甦る。
「勿体ないから、また明日にしよう。今日はこの香りで十分だわ。気もちが前向きになれたし。でも、中身をちょっと拝見して、そのまま香りを試すくらいは……」
と言いながら丁寧に袋の口を開ける。ふんわりと蓬のような、それでいてどこか梅の花の香りを思わせる甘さが漂った。
「あら?」
どうやら中に、和紙が折りたたまれて入っていたようだ。トクンと鼓動が期待に飛ぶ。
……まさか、和歌がしたためてあったりして。なーんてね……
期待し過ぎて失望しないように自制しつつ、ゆっくりと紙を開いた。
「あ……」
それは美しい空色で染められた和紙を空に見立て、大地に雑草を。草の上に福笑いと、白い牡丹が一輪、そして白虎が描かれていた。恐らく伊周の手描きであろう。そして黒墨でこう詠まれていた。
『うたかたの 夢にたゆたう 痴れ者の 来し方ゆくすゑ 猿楽なりき』
(泡のように儚い夢にゆらめく馬鹿者は、今までもこれからも猿楽<喜劇・道化>であったよ)
……あぁ、そうか。そう言う事か……
今初めて、伊周の本当の気持ちを理解出来た気がした。胸の奥がじーんと熱くなる。
……和歌になれて居ない私にも分かり易く絵を添えてくださって。雑草は恐らく、時世の波に埋もれていく名も無き人々、ご自分を表してらっしゃるのかな。そして福笑いは猿楽を、白い牡丹は定子様で、白虎は隆家様ね……
つまり自分はこれまで愚か者だった。だからこれからも道化の道を行く。妹と弟をより美しく、より気高く際立たせる為にも。という事なのだ。自暴自棄とも言えなくもない。けれども誰であろう、本人が決めた事なのだ。敢えて道化を貫くとは、誰にでも出来得る事ではない。それは何と潔く、そして尊い事であろうか。そう感じた。
……周りから見たら、というか定子様や隆家様にも理解されないかも。でも、これが、周りがどうあろうと自分が決めた事に迷いはない、という生き方になるのかな。どこか隆家様に、そして道隆様にも通ずるところがあるわね、母様。正直言うと、確かに痴れ者かな、とは思うけど……
クスッと笑った。そして背筋を正す。
……時世に埋もれていく私だからこそ、本心を明かしてくださったのだわ。ならば返歌を。伊周様の行き場所が分からないし、もし送れたとしても検閲が入るだろうし。いつお渡し出来るか分からないけれど……
すっくと立ち上がり、和紙と墨、筆を取りに部屋の隅へと足を運ぶ。野に咲く草花も描いてみようと絵の具と筆も用意した。白い和紙に向き合う。絵の構図を練る。
ほどなくして、野に咲く桃色、白、薄紫の草花に一匹の黄色い蝶が舞う絵を背景に、黒墨で和歌が記された。
『忘るまじ 尊華よ 永久に 名も無き花の 我が身なれども』
(決してわすれません。気高く誇り高い、華やかな(花のような)あなたを永久に。名前のない花のような私ですけれども)
そして綺麗にりたたむと、更に和紙で包み込むようにして丁寧にたたむ。そして藤色の布に包んだ。
……肌身離さず持ち歩こう。何となく、そう遠くない行く先に渡せそうな気がする。根拠はないけど……
そして清少納言の元に行くのはいつが良いだろうかと暦を開く。
……いっそ、こういう時こそ陰陽師に見て貰おうかしら?……
半ば真面目に、半ば戯れに思うのだった。そして何かに突然気付いたように頬を紅に染める。
「嫌だ、私ったら男の人から和歌を頂いたの初めてだったわ!……色恋ではないけど、今更照れてきちゃった……」
と、隆家からの檜扇を両袖口で持ち、顔を隠すのだった。
「素敵な香り……」
鳳仙花はうっとりと目を閉じ、薫物を焚きしめて香りを楽しんでいた。柔らかな緑色の濃淡を重ねた小袿を纏い、寛いで部屋の真ん中に座っている。二日ほど仕事の休みが取れた為、自邸に戻って来ていた。そして伊周との再会で頂いた薫物を焚く前に、裳着の儀で贈られたものを先に試していたところである。
「私の印象を薫物にした、ておっしゃってたけれど。さすが伊周様、褒め上手な御方だわ。私はこんなに女性らしい甘さはないもの。でも、この薫物をくゆらせた定子様から頂いた唐衣と、隆家様からの檜扇。これが似合う人になりたいものだわ」
しみじみと思うのだった。そして桜色の小さな巾着袋を、そっと右袖口から取り出す。
……悲しい時、しんどい時に使うと良い……
伊周の甘い声が甦る。
「勿体ないから、また明日にしよう。今日はこの香りで十分だわ。気もちが前向きになれたし。でも、中身をちょっと拝見して、そのまま香りを試すくらいは……」
と言いながら丁寧に袋の口を開ける。ふんわりと蓬のような、それでいてどこか梅の花の香りを思わせる甘さが漂った。
「あら?」
どうやら中に、和紙が折りたたまれて入っていたようだ。トクンと鼓動が期待に飛ぶ。
……まさか、和歌がしたためてあったりして。なーんてね……
期待し過ぎて失望しないように自制しつつ、ゆっくりと紙を開いた。
「あ……」
それは美しい空色で染められた和紙を空に見立て、大地に雑草を。草の上に福笑いと、白い牡丹が一輪、そして白虎が描かれていた。恐らく伊周の手描きであろう。そして黒墨でこう詠まれていた。
『うたかたの 夢にたゆたう 痴れ者の 来し方ゆくすゑ 猿楽なりき』
(泡のように儚い夢にゆらめく馬鹿者は、今までもこれからも猿楽<喜劇・道化>であったよ)
……あぁ、そうか。そう言う事か……
今初めて、伊周の本当の気持ちを理解出来た気がした。胸の奥がじーんと熱くなる。
……和歌になれて居ない私にも分かり易く絵を添えてくださって。雑草は恐らく、時世の波に埋もれていく名も無き人々、ご自分を表してらっしゃるのかな。そして福笑いは猿楽を、白い牡丹は定子様で、白虎は隆家様ね……
つまり自分はこれまで愚か者だった。だからこれからも道化の道を行く。妹と弟をより美しく、より気高く際立たせる為にも。という事なのだ。自暴自棄とも言えなくもない。けれども誰であろう、本人が決めた事なのだ。敢えて道化を貫くとは、誰にでも出来得る事ではない。それは何と潔く、そして尊い事であろうか。そう感じた。
……周りから見たら、というか定子様や隆家様にも理解されないかも。でも、これが、周りがどうあろうと自分が決めた事に迷いはない、という生き方になるのかな。どこか隆家様に、そして道隆様にも通ずるところがあるわね、母様。正直言うと、確かに痴れ者かな、とは思うけど……
クスッと笑った。そして背筋を正す。
……時世に埋もれていく私だからこそ、本心を明かしてくださったのだわ。ならば返歌を。伊周様の行き場所が分からないし、もし送れたとしても検閲が入るだろうし。いつお渡し出来るか分からないけれど……
すっくと立ち上がり、和紙と墨、筆を取りに部屋の隅へと足を運ぶ。野に咲く草花も描いてみようと絵の具と筆も用意した。白い和紙に向き合う。絵の構図を練る。
ほどなくして、野に咲く桃色、白、薄紫の草花に一匹の黄色い蝶が舞う絵を背景に、黒墨で和歌が記された。
『忘るまじ 尊華よ 永久に 名も無き花の 我が身なれども』
(決してわすれません。気高く誇り高い、華やかな(花のような)あなたを永久に。名前のない花のような私ですけれども)
そして綺麗にりたたむと、更に和紙で包み込むようにして丁寧にたたむ。そして藤色の布に包んだ。
……肌身離さず持ち歩こう。何となく、そう遠くない行く先に渡せそうな気がする。根拠はないけど……
そして清少納言の元に行くのはいつが良いだろうかと暦を開く。
……いっそ、こういう時こそ陰陽師に見て貰おうかしら?……
半ば真面目に、半ば戯れに思うのだった。そして何かに突然気付いたように頬を紅に染める。
「嫌だ、私ったら男の人から和歌を頂いたの初めてだったわ!……色恋ではないけど、今更照れてきちゃった……」
と、隆家からの檜扇を両袖口で持ち、顔を隠すのだった。
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