「磨爪師」~爪紅~

大和撫子

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第二十四帖 零落③

長徳の政変・弐

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  左手の燭台が、彼の完璧に整った顔立ちを照らしている。明るい紺色の空に朧げなる下弦の月を頭上に従えて立つ彼は、さながら月の化身のように思えた。

……もし月読命つくよみのみことが地上に舞い降りたら、こんな感じなのかな……

 鳳仙花はただただ見惚れていた。

「ちょうど良かった。鳳仙花ちゃんを探していたんだ。少し散歩でもしないか?」

 と、彼は右手を差し出した。

……あぁ、これは夢だ。私、まだ寝てるんだな……
「……はい」

 ぼんやりと思いながら、右手を彼に伸ばす。この状況で、誰が否と言えよう? 彼は優しくその手を取ると、ふわりと鳳仙花を助け起こした。いつもは鋭く射抜くような強い光を放つ瞳が、鳳仙花を優しく慈しむように見つめている。夢だと確信した。

……夢ならこのまま、目が覚めるまで夢に溺れてみようか……

 夢見心地で彼に微笑み返した。だが、次の瞬間、ふわっと甘い香りが鼻をついた。桃の実を連想させるような甘く瑞々しい香りだ。途端に現実に叩きつけられる。

……あぁ、奥方か恋人のところで一夜を明かした帰りなんだ。香りから察するに、果物みたいに甘やかで可愛らしくて。女性らしい感じで私なんかとは全然違う……

 夢見るような笑みは自嘲の笑みへと移り変わる。手を引かれ、彼の後に続いて歩きながら。

……この手で、女の人に触れて。この腕で抱き締めて。それから残り香がするくらいに……て。嫌だ、何を考えているの? 元服を迎えた貴族男子なんだから、そんなの当たり前でしょ……

 何故か下腹がしくしくと痛み出す。そこまで考える自分が酷く浅ましくいやらしいと感じた。

……どの道、私なんか本来宮中に出入り出来る身分じゃないし。仮に貴族だったとしても、私みたいなチンチクリン、相手になんかされる訳ないし。隆家様の男の部分を意識するなんて、どうかしてるわ。馬鹿みたい……

 そう思い直し、なるべく嬉しそうな笑顔を心がける。仕事でいつもしている事が今役に立つ。


 手を引き、彼女の歩調に合わせながら歩いていた隆家は鳳仙花の表情がにわかに哀し気にな移り変わったように感じた。さり気無さを装い、改めて彼女の表情に注目する。

「牛車をそこに待たせてあるのだが、大丈夫だろうか? 姉上には事前にふみで知らせてある故、紅殿が起きる頃には知らされると思うが……」

 遠慮がちに切り出した。

「お気遣い有難うございます。嬉しいです。隆家様とお出かけ出来るなんて、夢みたいです」

 子供のように無邪気に喜ぶ彼女は、一見すると本当に喜んでいそうに見えた。

(気のせいか? 悲しみや苦痛に耐えているような表情に見えたが……)

 何故かとても気になった。

……そう、私は滅多にない幸運のを手にしただけのただの女の子。あの隆家様のお誘いだもの。目いっぱい楽しまないと損だわ。きっと、この間の『お詫びとお礼』のつもりなのよ。だから、これが最初で最後だもの……

 鳳仙花は開き直って楽しむ事に決めた。シクシクと相変わらず下腹が痛むのは、何か食べ物が合わなかったのだろか。微かに、吐き気と頭痛がする気がする。

 ほどなくして、草地の広場のような場所に牛飼い童の他に、それぞれ松明を手にした十数人の従者たちが牛車の周りに待機していた。うち、二名ほど馬を連れている。皆、隆家を見るなり一斉に頭を下げた。彼は軽く頭を下げて応えた程度で特にどうという事もない。日常の事なのだろう。鳳仙花も仕事柄、高貴な方の牛車でお供する事もたまにあるが、こうして一斉に頭を下げる光景を見るのは毎回気後れしてしまう。ふと、腹違いの姉、萩の方なら、こう言った場合でも慣れて堂々としてるのだろうかと感じてしまい、その空想を慌てて打ち消す。

「一般的な網代車で悪いが……。何せ、私をつけ狙う奴らは沢山いるのでな」

 彼は困ったように言いながら、鳳仙花を半ば抱き抱えるようにして車内に乗せる。まるで花木の枝を抱え上げるように丁寧に。

……うわぁ、お姫様になった気分……

 従者の手を借りずに、颯爽と牛車に乗り込む彼に時めいた。しかし、すぐに甘い香りが鼻をついて、一気に現実に引き戻る。

(まただ。一瞬だけ、この子の瞳が憂いに曇る)

 牛車は間もなく滑るように動き出した。二人は向き合って座っている。鳳仙花は右側の前の席、大切な人の席だ。

……少なくとも、今この瞬間は大切に扱って頂いてるんだもの。これ以上望むなんて身の程知らずの恥知らずだわ。ちょっと優しくして貰えたくらいで、自惚れてさ。何を期待してるんだか。さっきからずっとお腹が痛いから、不健全な考えが浮かぶんだわ……

 何だか自分で自分が可笑しくなった。次第に気持ちも軽くなる。漸く吹っ切れたようだ。

「従者達には、慎重に静かに運ぶように厳しく言ってあるが、気分が悪くなったら言っておくれ」

 いつもの無邪気で明るい表情を取り戻した彼女にホッとしながら隆家は切り出す。心なしか、顔色が悪く見えるのが気になった。

「はい、何から何まで有難うございます。平気です、もっと早くて乱暴な感じでも大丈夫です」

 ワクワクしながら答える。今や、あの隆家と、初恋の君と二人で一つの空間にいるのだ。

「おいおい、ハラハラさせないでくれよ」

 どう反応したら良いか分からない様子の彼が、面白くも可愛らしくも思えた。車の中の灯りは一つだったが、空が大分白みがかってきたせいで意外に明るい。こうして見て見ると、彼は夜空を思わせる藍色の狩衣姿だった。お揃いの色合いの烏帽子が、彼のしなやかな背の高さをより引き立てている。

……やっぱり、月読命様ってこんなお姿じゃないかな……
「だって、この時この瞬間だけは私と隆家様だけの場ですもの。何があっても私を守って下いますでしょう?」

 隆家は息を呑んだ。今まで可愛らしい女童だと思っていた目の前の少女が、憂いと艶を秘めた女の色香を魅せたからだ。漆黒の黒めがちな大きな目は憂いを秘めて艶やかに潤み、長い髪は激流のように小さな顔を縁取る。長い睫毛は頬に影を落とし独特の色香を放って見えた。紅く艶やで知性溢れる唇は、食べごろの少し手前の木苺のように美味そうだ。

(このまま私のモノにしてしまおうか……)

 突如として、仄暗い男の欲望が体の中心を支配する。

(馬鹿な! まだ裳着の儀も終えていない童ではないか。妹のようなものだ)

 辛うじて己を律する。真っ直ぐに己を見つめるその瞳は、まだ男の狡さや汚さを知らぬ穢れなきもの。無条件に信頼してる彼女を裏切るような真似をするのは、彼の誇りが許さなかった。

「これはまた、随分と信頼して貰えたものだな」

 と彼は豪快に笑った。笑いながら、己の中の醜い業火を滅するよう努めた。

「はい。だって憧れの隆家様ですもの。鳳仙花は、隆家様のような方を見つけて結ばれとうございまする」

 とクスクスと笑った。もう完全に吹っ切れたようだ。下腹の痛みが徐々に激しくなって来たのは気になるが。

「そうか。それでは尚更真摯であらねばな」

 ハッハッハッと豪快に笑った。そして尚更彼女の信頼を裏切る真似は今後もすまい、とその時固く決心した。二人は笑い合う事で、互いの壁を打ち破った。

「……ところで、御用とは私に何か?」
「あ? あぁ。兄上がえらくそなたの事を気にかけていてな。『くれぐれもお礼とお詫びを伝えてくれ』とな」

……ほら、やっぱり。隆家様のいうところの「借り」てヤツじゃない……

 それは当然だろうという気持ちと、落胆した思いと入り混じる。

「そんなにして頂く事、何もしていませんのに」

 苦笑せざるを得ない。

「……仕事柄、兄や私の噂を聞くであろう?」

 突如として真面目に語る彼。

「いいえ、何も」

 平然と答える鳳仙花。仕事上知りえた秘密は死守せねならない。背筋を伸ばし、真っすぐに彼を見つめて凛然と答えた。その姿は、白百合のように清らかで神聖に映る。

「さすが、磨爪師。もう立派な一人前だな」

 何もかも、鳳仙花が知って居るであろう事を悟る。見事な仕事ぶりだと心底感じた。

「いいえ、そんな……」

 途端に照れて頬茜色に染める様は、やはりまだまだ少女だ、と見ゆる。それは不思議な魅力を持って、男の心に迫った。

「大方、噂の通りだ。私は兄を全力で守るのみ」

 あっけらかんとしている彼に、以前から感じていた疑問を放ってみたくなる。彼は鳳仙花が噂の全てを知って居て言わないだけな事をとうに見抜いて居るだろう。

「御止め、しないのですか?」
「兄もそう問うた。私は元より、昇進やら出世やらに全く魅力を感じないのだ。それよりも、この魂が熱くたぎる程に熱くなる何か、この命を差し出しても惜しくはない何かを求めて来た。それは例え周りから見て愚かな事でも構わない。私は己の信じたものを全力で守る。それだけなのだ」

 彼は遠くを見るような眼差しで語った。

……何となく、分かる。きっと、根本で感じて居る私の価値観と隆家様の信ずるもの、同じなんだ……

 どうして彼に惹かれたのか、今分かった気がした。だが、何故か体の節々が痛くて、体が火照る。

「桜の花のように、己の咲き誇る瞬間に命を燃やし尽くし、散り際は潔くありたいものだな」

 ふわりと微笑んだ彼に、白い桜吹雪が舞い散る気がした。その笑みに、頭の芯が濁る。下腹の痛みは耐えがたい程に脈打ち、女の部分がじわりと湿った不快さが走った。吐き気がする。頭痛がして、全身が怠い。

「……何となく、分かります。私も、同じように……母も、そのような、事を……」
……あれ? 何意味の分からない事を、口走って。駄目だ。お腹が痛い。体中が、痛い。意識が働かない……

「鳳仙花殿?」

 彼女の様子がおかしい事に気付いた隆家が、咄嗟に両手を伸ばして抱き止めるのと同時に、崩れ落ちるようにして倒れ込む鳳仙花。

 彼の胸に顔を埋めながら、初夏の翠の風のを感じた。

……やっぱり、隆家様の香り。私の、大好きな……

 
「どうした? しっかりしてくれ! 鳳仙花ーーーーーっ!」

 彼の悲痛な叫びを最後に、完全に意識を手放した。
 
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