「磨爪師」~爪紅~

大和撫子

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第二十三帖 零落③

長徳の政変・壱

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「やだ、ちょっと! またムカデよ!」
「いやぁー! 蜘蛛の巣が加味に引っかかったー」
「こっちもムカデがー!」

 文壇の女房たちは大騒ぎだ。占いの結果、明日はどうしても方角が悪い為、定子は一日だけ内裏から出る事になった。そういった際は大抵は定子にとって吉方の文壇の詰所であるしき御曹司みぞうしで過ごすのだが、その日はそこも方角が最凶と出てしまった。

 その為、定子とそれに付き添う文壇の女房たちは吉と出た方角の場所に黄昏時前、移動してきたのである。そこは内裏から三町(※①)ほど離れた蔵人の仮朝処《かりあさどころ》という建物で、文字通り蔵人たちが行事ごとの時のみ朝食を取る場所であった。

 畳の床に天井は馬鹿高く、茅葺の屋根。壁は黒い簾を二重にかけ、黄金色の屏風で四方を囲ってあるのみだ。そのような状態なので、冬は吹きざらしで夏は虫が沢山入って来るだろう。しばらく使われてないものだから、ムカデや蜘蛛などが床や屏風を這っているのは容易に推測出来よう。燭台を持つ係りは、赤染衛門と鳳仙花が選ばれた。身長の差がちょうど暗闇を照らすのに良いと判断されたのである。

「ひ、ひぃ……」

 鳳仙花はムカデが苦手で、部屋の壁を照らしながら恐怖のあまり燭台を落としそうになる。赤染衛門も、ふるえている。だが、ムカデを床に落としている女房たちの手元をしっかりと照らしている。鳳仙花も負ける訳にはいかなかった。猛暑のさ中、掃除用の単衣を着込み頭には布を被り、木の棒でムカデを床に落とす女房達の方が大変なのだ。ムカデを下に落としてから箒で集めて外に逃がす算段らしい。定子は外で待機中である。顔を晒さぬよう、市女笠を被り、顔の周りを垂れさがる白い薄絹が天女のように神秘的だ。清少納言と紅が寄り添うようにして付き添っている。

「もう少しで終わりそうよ!」
「こっちは大丈夫みたい!」

 女房たちは明るく元気だ。それは定子を元気づけるという意味合いもあるが、文壇の女房たちはみな朗らかで活動的だった。こうした掃除やちょっとした修理などもさらりとやってのける。通常なら従者に任せるのが奥ゆかしい女とされるが、定子は常に新しいものの見方や考え方をする女性だった。帝が惹かれた部分の一つであろう。

「皆さん、手慣れてらっしゃいますね」

 床に落とされた複数のムカデが蠢きながら一か所に集められる姿にゾーッとしながら、鳳仙花は言う。

「あぁ、鳳仙花ちゃんはちょうどお仕事で出張先に泊まり込みだったものね。六月祓みなづきのはらえの時もね、方違えで別の場所に移動したのよ。その時は太政だいじょう官庁の朝所に行ったんだけど、そこもムカデが沢山いてね。あの時は夜移動したもんだからよく分からなくて。まんじりともせずに皆で布を被って夜を明かしたのね。明るくなってムカデの多さに愕然としてね。それで今回はその経験を踏まえて、てところなのよ」

 赤染衛門は説明した。

「なるほど。その時も、珍しい建物だったから皆さんあちこち探検して近くを通りかかる役人達を巻き込んで大騒ぎだったとか。夜は男たちが訪ねて来たとか、(※②)母から聞きました」

 それを聞いて、ムカデは怖いけど楽しそうだな、と思ったのを思い出す。

 掃除が落ち着いて、定子が室内に入る。そして女房たちが持ち寄った強飯こわいいや魚の日干しなどを食し、賑やかな時を過ごすのだった。



……皆で居る時は、こんなに楽しい。誰が上とか下とか。貴族の方々にありがちな蔑み合いがなくて、むしろ誰かが苦手な部分は得意な人が補い合う、理想の文芸集団だと思うの。これも定子様の大きくて柔軟な人格と底知れない深い知性の賜物なのよね。こんな時が、ずっと続けば良いのに……

 翌朝未明、まだ東の空が明るい藍色で星が瞬く頃。鳳仙花は女房たちの興奮した声で目を覚ました。

「もう少し、もう少しよ」
「早くしてよ、重いんだから」
「ねぇねぇ、あなた太った?」
「何よ、失礼ね。あなた達の分は採ってあげないから!」
「分かったわよ」
「悪かったわよ」

 外に出てみると、清少納言が燭台を持ち、上を照らしている。灯りを目で追ってみると、女房が一人木の枝から何かをもぎ取ろうとしていた。よく見ると、二人の女房が腰をかがめて踏み台となり、もう一人の女房が籠を抱えながら上にのっている女房を支えているではないか。

「美味しそうな楊梅やまももの実を見つけたのよ。今食べ頃みたいでね、鈴なりだから皆の分も採っていくわね」

 清少納言がは微笑みかけた。

「有難うございます。楽しみにしています」

 鳳仙花は嬉しそうに答え、その場を立ち去った。一人で静かに考えたい事があったからだ。

「こら、お前達、はしたないぞ! 女の癖に!」

 後ろから男の声が響く。木登りなどをしている姿を、通りかかった殿上人が咎めたのだろう。

「はいはい、その女から生まれた癖に文句言わない!」

 元気に応戦する女房たちの声。なんだかんだと、楽しそうに会話する男たち。そんな声を背後に聞きながら、場所を探す。あまり離れても危険だ。少し歩くと、薄っすらと風に乗って笑い声が聞こえる程度となった。見上げれば、藍色の空は青色に。星は柔らかな光を放ち、下弦の月はふわりと儚げに俯く。視線の先はよく茂る葉、大きな楓の木だ。迷わずその楓に向かって歩き、幹に背を預けて座り込んだ。地はちょうど草が柔らかく茂っている。

 軽くため息をつき、月を見上げた。

……皆、あんなに仲良く振る舞っているのに、影では生き残りをかけて清少納言さんを陥れて道長様に取り入ろうとかしてみたりと。それは一部の人だけれど、なんだか悲しくなっちゃうなぁ。道長様も伊周様も、お互いに協力し合えば皆が幸せになれるのに。父様もそうだけど、出世して人の上に立つ事って、そんなに大事な事なのかしら。こういう事言うと、『まだまだ童ね』なんて言われるから誰にも言わないけどさ……

 そして数か月前、父親との対面について母親から言われた事を思い起こす。

『……あなたと私は、親子だけれども別々の人格を持つ者。私は私、あなたはあなた。あなたが思う、最良だと思う道を選び、進んで行きなさい。あの人の先読みの通り、道長様についてい側の人を夫に選ぶのも、悪く無いかもよ。自由を選ぶという事は自己責任がついてくる。この事を肝に命じて、自分で選びなさい。あなたが後悔しない、と決めた事なら私は反対しないから……』

 いつになく、真剣な面持おももちで懇々諭すように言った母親は、どこか哀しく儚げに見えた。そして美しかった。あまりにも浮世離れしていて、夢の中かと錯覚を覚えたほどだ。だからだろうか、突然に突き離されたような寂しさを覚えながらも何も言えず、頷く事しか出来なかったのは。

 そしてふと、伊周と道長の乱闘騒ぎを思い出す。

……あれから二日ほど経ったけど、渦中のお二人はどうなさっているのかしら……

 その時不意に、人の気配と同時にふわりと甘い香りが漂った。

「おや、一人かい? 危ないよ、このようなところで」

 横笛を思わせる、深くよく通る声が響いた。

……まさか!……

 期待に胸が膨らむ。

「隆家様!」

 驚きつつもその名を口にする。朧げな下弦の月の元、狩衣姿で鳳仙花に笑いかける彼が目の前に立っていた。




(三町※① およそ330m)
(※② 枕草子 第一五五段「故殿の御服ころ」に描かれてる)
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