「磨爪師」~爪紅~

大和撫子

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第二十一帖 零落

長徳の変~栄枯盛衰・弐~

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 じめじめと纏わりつくような湿気と、湿った暑さの中続く灰色の雨。外出する機会も、仕事以外では殆どなく。梅雨の時期最後の意地だ! とでも言うようによく降り続ける。

 この時期は殆どの者が憂鬱になり易い。そのせいも手伝っているのか、伊周は終始イライラしていた。叔父である道長は、自分ほど漢文や和歌などを始めとした知識や教養の長けている訳でもない。容姿も立ち振る舞いも、洗練された優雅さもない。どこをどうとっても凡庸なる叔父が政権を振るっている。そして自分に対して横柄な態度を取る事に我慢の限界がきていた。隆家はそんな兄を静かに見守る。

(姉上には、御門からの愛という不安定ながっらも大きな力がある。けれども兄上には……。何があっても私が兄上を守ろう。もう、兄上を守れるのは私しかいないのだから)

 そう決意を固めていた。

「叔父上が政権を握るなど、絶対におかしい。納得がいかない! こんなおかしな事があって良いものか! のう、お前もそう思うであろう?」

 伊周は声を荒げる。烏帽子の隙間より零れる髪が、彼の美しい顔を艶めかしく演出する。

「恐らくは、皇太后様が叔父上をお気に召しているから。そんなところしょうな」

 隆家はあくまで冷静だった。伊周は弟に詰めよる。

「そのようにくだらぬ個人の感情でか? そんなつまらぬ理由で、まつりごとが務まる訳が……」
「古来より権力争いの大元はそれでありましょうぞ?」
「な、何を……」
「『あいつが気に食わない、あいつより自分のが上だ!』女も同じだ。『あいつさえいなければ! 何故あんな奴が主上おかみの寵愛を受ける?』子供となんら変わらない。大人になった分、様々な思惑と人間関係が複雑に絡み合う分始末に負えない。……違いますか?」

 これまで沈着冷静だった隆家は、そう言ってニヤリと笑った。瞳が冷たい程冴え冴えとした中のその笑みは、酷く冷酷で残虐なものに見えた。伊周はゾクッと背筋が寒くなる。

「兄上のお心のままに。私は全力であなたをお守りするのみ」

 とこたえた。元の涼しい表情へと戻る。

「止めないのだな……」
「人生は短いのです。好きなように生きなければ勿体無い。幸いな事に、庶民と違って我々はそれが出来る立ち場にあるのですから、死ぬ際に後悔するような生き方は損ですぞ」

 そう言って、隆家は豪快に笑った。

(弟と私とでは器が違い過ぎる。やはり『天下のさがな者』のあだ名はだてではないのだな)

 伊周は僅かに羨ましく感じながらも、弟がついていてくれるなら。そうも思えるのだった。

 
 鳳仙花もまた皆の例に漏れず、最もうんざりする時期であった。施術で使用する布が洗っても乾きにくい。そして保存している爪紅の液も腐敗しやすい。そのような状態で施術をすれば、爪にカビが生えたり、菌が繁殖して皮膚病になってしまう。それは磨爪師として信用問題となる故、また誇りにかけてもそのような事態は避けねばならない。それらの事から、鳳仙花も紅も一年の中で最も神経を使う時期でもあった。


「母上様、折り入ってお話があります」
「あら、どうしたの? 改まって」

 鳳仙花が父親との対面での詳細を切り出せたのは、まさにそんな時であった。その日はザーザーと灰色の雨が音を立てて流れ、辺りは薄靄うすもやに覆われている。雨音で室内の声も張り上げないと響かない。内密な話をするのに最適だった。珍しく午後から仕事が無い鳳仙花と紅は、控室で一緒となったのだ。

「実は、先月……権中納言様とお会いした件なのですけど……」

 母親は何もかも承知していたかのように、穏やかに頷いた。鳳仙花は母親のその表情から、大よその話は予め把握しているのかもしれない、と感じた。故に包み隠さずに全てを話して聞かせた。父親が大胆にも道長が呪詛の黒幕だと推測している件も全て。……ただ一つ、萩の君に対して感じた己の感情の件だけは除外して。

「……そう。とうとうあなたにも話して聞かせたのね。陰陽師でもないのに、先読みの話なんて」

 終始穏やかに耳を傾けていた紅は、全てを聞き終わるとそう言って苦笑した。

「では、昔からあの人はそのようなお話を?」

 紅は軽くため息をつくと、仕方が無い、というように肩をすくめる。

「そうねぇ。あなたも十二歳を迎える頃に裳着の儀を行おうと思っているし、あの人の事をきちんと話すべき時が来たのかもねぇ」

 と、ほんの少し寂しそうに言った。そしてゆっくりと話し始めた。


「あの人の言う通り、私と彼はお互いが嫌いになって離縁した訳じゃないの。何度も話しあった末での結論よ。あの人は昔から変に先読みの力があったと言うか……ねぇ」
「じゃ、じゃぁ……何度も私と対面したい、と文が来ていた、てお話も……」
「そうよ。文は全部目を通していたわ。でも、あなたには必要ない事だと思って見せなかったし。私の意地もあったのよね。あの頃の私は、まだ若かったわ……」

 遠くを見つめるような眼差しで言う母親。

(そんな! お母様はまだまだお若くてお美しいのに)

 そう言いたかった。けれども思わず言の葉を呑み込んでしまう。それほどに、その時の紅は触れたら消えてしまいそうな程に儚げに見えた。そのまま黙って耳を傾ける。



 蝉がジージーと鳴く。燃え盛る炎のような日輪が、地に上容赦なく照りつける。貴族たちにとって一年で最も過酷な季節に移り変わった。

 貴族たちは「更衣」と呼ばれる衣替えに時期を境に、裏のない単衣ひとえを着用する。真夏を迎える頃には、単衣袴の上に生絹すずし(または『きぎぬ』)と呼ばれる薄く透けるものを羽織るのだ。そうなるともう女たちは、外に出てあられもない姿を晒す訳にはいかない。そこで殊更頑丈に屏風や几帳で部屋を囲い込んで過ごす。

 ここはまさに女の園だ。こうなって来ると、「貝合かいあはせ」や「囲碁」、「双六」などの遊びの他、女童はそれらに加えて雛遊ひいなあそび等の遊びの他、女たちの話と言えば……。未婚であれば恋の話、結婚している者であれば夫の事。また仕事の愚痴、はたまた噂話などに花を咲かせる。

 鳳仙花は炊事担当の部署の詰所にて、八人ほどの女房の爪紅を施術していた。
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