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第三帖
宮中の女房たち
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「腕を上げたのぅ……」
藤原定子は自らの爪をご覧になり、うっとりと呟かれた。藤の花を思わせる甘くて高貴な香りが、紅の鼻先を心地よくくすぐる。お召物は深い紫色を基調にし、下に赤紫、藤色、白、翠色と重ねた『藤の襲』が、さながら藤花の化身のようだ。
「恐れ入ります」
紅は丁寧に頭を下げた。
「常に研究を欠かさぬ努力の賜物じゃな」
涼やかな漆黒の瞳が、満足気に紅を見つめる。雪のように白い肌が、紅色の艶やかな唇に映える。小さくて形の良い唇、それでいてぽってりとしていて水菓子(※①)のように瑞々しい。清流のごとく流れる黒髪は信じられないくらい艶々している。長いまつ毛はその頬に影を落とし、それがやけに艶めかしさを演出している。
「勿体ないお言葉……」
ただただ恐縮した。こうして、帝の后のご尊顔を直接拝見出来るようになろうとは。通常なら絶対にあり得ない事であった。これは個人的に懇意にしていた式部のおもとの強い推薦のお陰である。
更には、定子の持ち前の好奇心の強さ、伝統を重んじ、かつ常に新しいものを取り入れようとする向上心の強さも味方となった。そしてそんな彼女に一目置き、共に歩もうとなさる帝。定子が率いる女官たちもその精神・思想を受け継ぎ、互いに切磋琢磨しあっている文壇となりつつあった。
そんな中に『磨爪師』として輪の中にいる事を誇りに思う。そして娘に引き継がせたいと強く願っていた。出来れば娘が裳着の儀を迎える頃に。その為にも一日も早く定子や文壇の女房達に合わせてやりたかった。そして紅には、娘に合わせてみたい、と強く思う一人の女官がいた。
「ところで、紅。娘がいると言っておったな」
爪紅の施術を終え、御簾の外へと出た際、定子は思い出したかのように声をかけた。
「はい、八つになる一人娘がおります」
「さようか。好き嫌いがはっきりと出て来る頃であるな。無論、磨爪術を引き継がせるつもりであろう?」
「勿論でございます」
「では、一度連れて参るが良い。手続きなど細かい事は、主上(※②)に私から申し伝えておこうぞ」
「何と有り難きお言葉! 恐れ入ります……」
紅は再び深々と頭を下げた。
「ほっほっほ……そう恐縮するでない。私が個人的にそなたの娘御に逢うてみたい、そう思うただけだからの」
定子は扇で顔を覆いつつ、朗らかに笑った。通常、帝の正妻ともなれば、このように例え御簾越しといえども、直接女房達に話しかける事は有り得ない。お付きの女官に扇越しに耳打ちし、女官がそれを伝えるのだ。しかし定子は、そうしたしきたりを、帝を巻き込みことごとく刷新していった。正式に訪問者があった時以外は、身分や立場の垣根を超えて、こうして自由に意見が交わせる文壇にしていた。
「娘さん、爪紅には興味ありそう?」
屈託ない笑みを浮かべ、親しげに話しかけて来た女房がいた。黄緑色を基調にした十二単から淡い緑、深い緑へと濃淡が美しい『蓬の襲』を身にまとっている。驚いた事に、豊かな長い髪は鳶色で、海のように波打っていた。そして瞳は零れそうに大きく、丸い。肌の色も少し茶色味がかっている。更には。ここにいる女房たちの誰よりも背が高かった。
この時代に持て囃された美女は、小柄で色白、目元涼やか、細く高い鼻、小さな唇、漆黒の真っすぐな豊かで長い髪であった。見事にその正反対である。しかし、彼女は化粧で無理矢理白く塗ろうとはせず、むしろ元の顔だちと肌色を活かすような自然な化粧をしていた。堂々としている彼女は、瞳は知的に輝き、見る者を惹きつけずにはおけない。確かに美人ではない。しかし、一度見たら忘れない不思議な魅力に溢れていた。
「清少納言さん」
紅は嬉しそうにその名を呼んだ。紅が娘に合わせたいと思っていた女房とはこの彼女の事である。994年2月頃の事であった。
「ええ。幸いな事に、とても興味はあるようですわ」
「そう、それは何よりだわ。好きなことだったら少々辛いことがあってもヘコたれないしね。娘には、好きなことをして自由に生きて行って欲しいな……」
清少納言は少し遠くを見るような眼差しでしみじみと言った。娘に想いを馳せているのであろう。
「ええ。そうですね……本当に、そう思います」
紅も実感を込めて応える。こう言った会話は、定子の率いる文壇で、個性的な価値観の持ち主の集まりだからこそ出来るのである。一日も早く、娘を連れて来てこの場の空気に触れさせたかった。
「娘を連れて来ましたら、是非会ってあげてくださいませ」
「勿論。楽しみにしているわよ」
二人は互いに見つめ合い、微笑んだ。さらさらと衣擦れの音が近づく。
「清少納言さん、次の歌合の段取りについて打ち合わせしたいのだけれど……」
落ち着いた声色と共に姿を現したのは、白を基調にした十二単に、黄緑、淡い緑、落ち着いた緑などを重ねた『卯の花の襲』を身にまとった赤染衛門であった。落ち着いた眼差し聡は明な光を湛え、引き締まった唇ときりりとした鼻が切れ者である事を感じさせる。静かな佇まいの中にも凛とした風情を漂わせ、それは時を追うごとに存在感を増していく。
「今行くわ」
清少納言は紅に「じゃ、またね」と軽く右手を上げる。紅は軽く頭を下げた。続いて赤染衛門に丁寧に頭を下げる。彼女もまた、丁寧に頭を下げて応えた。
(鳳仙花にも、早くこの空気に触れさせてあげたいわ)
二人の後ろ姿を見送りながら、紅は強くそう感じた。いささか、焦っていたのかもしれない。
「んー、白い液体って出ないもんなのね……」
その頃、鳳仙花は庭に咲いた白い木槿の花を摘んでミョウバンを混ぜ合わせ、爪紅ならの爪白なるものが作れないか試行錯誤を繰り返し、奮闘していた。
翌日未明、目を覚まして真っ先に燭台の元へ行く。灯りに両手の指をかざす。
「あーぁ。やっぱり汚い。余計に汚い色になってる。失敗しちゃった」
鳳仙花はガックリと頭を垂れ、そして溜息をつく。顔を洗えば爪の色も一緒に取れるかもしれない、と考え直し、すっくと立ち上がった。
……ドンドン、ドンドン、ドンドン……
丑四つ時(午前3時頃)、『開諸門鼓』と呼ばれる太鼓の音が鳴り響く。御所の門が開く合図なのである。貴族達はこの音と共に起きだし、自らが生まれた時の星の位置より導き出された名称を7回唱える。これは陰陽道を元とし、北斗七星の七つの星に自分らの星を当てはめた『七星占』という卜い方法である。
但し、自らの星の名称は人に知られると運気と魂を吸い取られると信じられていた為、口に出す事はなく、心の中で唱える。
その後、楊枝を利用して塩で歯を磨き、顔と手を清めてから西に向かって祈りを捧げるのだ。そして昨夜の出来事を日記に記し、朝食の時間となる。その後は暦を見て吉兆を判断。入浴する日もこの卜いで決まる。その後、出仕に至る。日が悪ければ外出は取り辞める事もある。
「やっぱり顔と手を濡れた布で吹いたら綺麗に取れちゃった。日記に書いておこうっと」
朝食の時間まで、爪紅ならぬ爪白をしてみようと木槿で試みた染織方法の失敗を書き連ねる。
(母様にお話ししたら叱られるかなぁ。爪は紅く染めるに決まってるでしょ、てさ)
以前、『何でもかんでも卜いにすがるのっておかしい。少しは自分がしたいようにすれば良いのに……』と素直に思いを吐露したところ、母親にきつくたしなめられた事を思い出したのだ。
にわかに、渡廊に衣擦れの音が行きかい始める。朝食の準備が始まったのであろう。
……はぁ、勿体ないなぁ。食べたくても食べられない人もいるのに……
朱の御膳の中に美しく盛り付けたれた朝食を見て毎日のように思う。うず高く盛り付けられた白い強飯(またはコワメシ)(※③)、味付け用に小皿に並べられた塩、酢。大根の塩漬けにカブの吸い物。アワビの蒸し物、キジ肉の焼き物、唐菓子、季節ごとに変わる日替わりの果物など。
やんごとなき人々は、ほんの少しつまむ程度で後は下げさせてしまう。
これが貴族としての上品な振る舞いとされているらしい。沢山食べることは、この上なく下品ではしたなく、卑しいとされてしまうとの事だ。母親の跡を継いで宮中で仕事をしたい鳳仙花には、逆らえない暗黙の規則の一つである。
一度、母親に
『それなら食べる分だけ盛り付ければ良いのでは?』
と聞いてみたことがあった。しかし、そのように思う感覚は変わっているとの事だった。
『そうね、言われてみればもっともだけれど、上の人達がそういう価値観を創り出したのだから、黙ってそれに従うことが快適に生きていく秘訣なのよ。疑問に思っても良いけれど、誰かに話したりしない事』
と諭されたのだった。
……なんだか知らないけど、一人前の大人になるって色々と耐え忍ぶ事が多くなるんだなぁ……
鳳仙花はしみじみと思った。
「失礼するわね」
朝食が下げられた頃、乳母の保子が顔を出した。
「鳳仙花様、紅様から文が届きましたよ。宮中にご訪問出来る事になったそうです」
「母様と?」
鳳仙花は声を弾ませる。
「ええ、勿論」
「じゃぁ、中宮定子様にお会い出来るのね!」
瞳を輝かせ乳母を見上げた。
「そうですよ。ですから定子様にお逢いしても恥ずかしくないように、しっかりとお勉強をして、身につけていきましょうね」
保子はここぞとばかり強調した。
「うん! 頑張らないと。母様も恥をかいて宮中から追い出されたら大変だもんね!」
鳳仙花は心躍らせていた。そして不意に顔を曇らせ、遠慮がちに切り出す。
「……あのね、そう言えばね、白く爪が塗れないか木槿で試してみたの。爪白とか出来ないかな、て」
(こんな風に感受性豊かで、思っている事が素直にお顔に出やすい。それは鳳仙花様をよく理解している人には可愛らしく映るけれど、そうでない方には誤解を招きそうですわね。お袖でお顔を隠す方法、扇でお顔を隠す方法をお教しませんと……)
保子はそう思いながらも、優しく話の続きを促す。
「それで、どうなりましたの?」
「うん。見事に失敗した。最初から白い液体は出なくて。白く濁った汁が出て。一晩爪に乗せて試したけど、色にムラが出来てねずみいろと土色を混ぜたみたいな薄くて汚い色になっちゃった。それで、水で洗ったらすぐ落ちちゃった……」
「そうですか。それは残念でしたね。爪紅は紅と決まっているのに、他の色を試そうとなさる発想の御力は素晴らしいですし、これからも伸ばして行って頂きたいですが……周りの状況をよく観察なさって、目新しい研究はご自身お一人でするのが宜しいでしょう。いつか機会が来たら、御披露なされば良い。もし仮にお披露目出来なくても、日記に書いて後の世に引き継がせたら良いのですよ」
保子はゆっくりと、優しく言いきかせるようにして話して聞かせた。鳳仙花もまた、言われるだろう事は予測していた為、素直に頷く。
「時に鳳仙花様。上級貴族のお姫様のように、お袖や扇でお顔を上品に隠す術をお教しましょうね」
保子は笑顔で切り出す。
「お姫様みたいに?」
鳳仙花は目を輝かせた。
(※① 水菓子…果物の異名)
(※② 主上《おかみ》…帝の意。この場合、一条天皇の事)
(※③ 強飯…白米や赤飯、豆などをせいろうで蒸したもの)
藤原定子は自らの爪をご覧になり、うっとりと呟かれた。藤の花を思わせる甘くて高貴な香りが、紅の鼻先を心地よくくすぐる。お召物は深い紫色を基調にし、下に赤紫、藤色、白、翠色と重ねた『藤の襲』が、さながら藤花の化身のようだ。
「恐れ入ります」
紅は丁寧に頭を下げた。
「常に研究を欠かさぬ努力の賜物じゃな」
涼やかな漆黒の瞳が、満足気に紅を見つめる。雪のように白い肌が、紅色の艶やかな唇に映える。小さくて形の良い唇、それでいてぽってりとしていて水菓子(※①)のように瑞々しい。清流のごとく流れる黒髪は信じられないくらい艶々している。長いまつ毛はその頬に影を落とし、それがやけに艶めかしさを演出している。
「勿体ないお言葉……」
ただただ恐縮した。こうして、帝の后のご尊顔を直接拝見出来るようになろうとは。通常なら絶対にあり得ない事であった。これは個人的に懇意にしていた式部のおもとの強い推薦のお陰である。
更には、定子の持ち前の好奇心の強さ、伝統を重んじ、かつ常に新しいものを取り入れようとする向上心の強さも味方となった。そしてそんな彼女に一目置き、共に歩もうとなさる帝。定子が率いる女官たちもその精神・思想を受け継ぎ、互いに切磋琢磨しあっている文壇となりつつあった。
そんな中に『磨爪師』として輪の中にいる事を誇りに思う。そして娘に引き継がせたいと強く願っていた。出来れば娘が裳着の儀を迎える頃に。その為にも一日も早く定子や文壇の女房達に合わせてやりたかった。そして紅には、娘に合わせてみたい、と強く思う一人の女官がいた。
「ところで、紅。娘がいると言っておったな」
爪紅の施術を終え、御簾の外へと出た際、定子は思い出したかのように声をかけた。
「はい、八つになる一人娘がおります」
「さようか。好き嫌いがはっきりと出て来る頃であるな。無論、磨爪術を引き継がせるつもりであろう?」
「勿論でございます」
「では、一度連れて参るが良い。手続きなど細かい事は、主上(※②)に私から申し伝えておこうぞ」
「何と有り難きお言葉! 恐れ入ります……」
紅は再び深々と頭を下げた。
「ほっほっほ……そう恐縮するでない。私が個人的にそなたの娘御に逢うてみたい、そう思うただけだからの」
定子は扇で顔を覆いつつ、朗らかに笑った。通常、帝の正妻ともなれば、このように例え御簾越しといえども、直接女房達に話しかける事は有り得ない。お付きの女官に扇越しに耳打ちし、女官がそれを伝えるのだ。しかし定子は、そうしたしきたりを、帝を巻き込みことごとく刷新していった。正式に訪問者があった時以外は、身分や立場の垣根を超えて、こうして自由に意見が交わせる文壇にしていた。
「娘さん、爪紅には興味ありそう?」
屈託ない笑みを浮かべ、親しげに話しかけて来た女房がいた。黄緑色を基調にした十二単から淡い緑、深い緑へと濃淡が美しい『蓬の襲』を身にまとっている。驚いた事に、豊かな長い髪は鳶色で、海のように波打っていた。そして瞳は零れそうに大きく、丸い。肌の色も少し茶色味がかっている。更には。ここにいる女房たちの誰よりも背が高かった。
この時代に持て囃された美女は、小柄で色白、目元涼やか、細く高い鼻、小さな唇、漆黒の真っすぐな豊かで長い髪であった。見事にその正反対である。しかし、彼女は化粧で無理矢理白く塗ろうとはせず、むしろ元の顔だちと肌色を活かすような自然な化粧をしていた。堂々としている彼女は、瞳は知的に輝き、見る者を惹きつけずにはおけない。確かに美人ではない。しかし、一度見たら忘れない不思議な魅力に溢れていた。
「清少納言さん」
紅は嬉しそうにその名を呼んだ。紅が娘に合わせたいと思っていた女房とはこの彼女の事である。994年2月頃の事であった。
「ええ。幸いな事に、とても興味はあるようですわ」
「そう、それは何よりだわ。好きなことだったら少々辛いことがあってもヘコたれないしね。娘には、好きなことをして自由に生きて行って欲しいな……」
清少納言は少し遠くを見るような眼差しでしみじみと言った。娘に想いを馳せているのであろう。
「ええ。そうですね……本当に、そう思います」
紅も実感を込めて応える。こう言った会話は、定子の率いる文壇で、個性的な価値観の持ち主の集まりだからこそ出来るのである。一日も早く、娘を連れて来てこの場の空気に触れさせたかった。
「娘を連れて来ましたら、是非会ってあげてくださいませ」
「勿論。楽しみにしているわよ」
二人は互いに見つめ合い、微笑んだ。さらさらと衣擦れの音が近づく。
「清少納言さん、次の歌合の段取りについて打ち合わせしたいのだけれど……」
落ち着いた声色と共に姿を現したのは、白を基調にした十二単に、黄緑、淡い緑、落ち着いた緑などを重ねた『卯の花の襲』を身にまとった赤染衛門であった。落ち着いた眼差し聡は明な光を湛え、引き締まった唇ときりりとした鼻が切れ者である事を感じさせる。静かな佇まいの中にも凛とした風情を漂わせ、それは時を追うごとに存在感を増していく。
「今行くわ」
清少納言は紅に「じゃ、またね」と軽く右手を上げる。紅は軽く頭を下げた。続いて赤染衛門に丁寧に頭を下げる。彼女もまた、丁寧に頭を下げて応えた。
(鳳仙花にも、早くこの空気に触れさせてあげたいわ)
二人の後ろ姿を見送りながら、紅は強くそう感じた。いささか、焦っていたのかもしれない。
「んー、白い液体って出ないもんなのね……」
その頃、鳳仙花は庭に咲いた白い木槿の花を摘んでミョウバンを混ぜ合わせ、爪紅ならの爪白なるものが作れないか試行錯誤を繰り返し、奮闘していた。
翌日未明、目を覚まして真っ先に燭台の元へ行く。灯りに両手の指をかざす。
「あーぁ。やっぱり汚い。余計に汚い色になってる。失敗しちゃった」
鳳仙花はガックリと頭を垂れ、そして溜息をつく。顔を洗えば爪の色も一緒に取れるかもしれない、と考え直し、すっくと立ち上がった。
……ドンドン、ドンドン、ドンドン……
丑四つ時(午前3時頃)、『開諸門鼓』と呼ばれる太鼓の音が鳴り響く。御所の門が開く合図なのである。貴族達はこの音と共に起きだし、自らが生まれた時の星の位置より導き出された名称を7回唱える。これは陰陽道を元とし、北斗七星の七つの星に自分らの星を当てはめた『七星占』という卜い方法である。
但し、自らの星の名称は人に知られると運気と魂を吸い取られると信じられていた為、口に出す事はなく、心の中で唱える。
その後、楊枝を利用して塩で歯を磨き、顔と手を清めてから西に向かって祈りを捧げるのだ。そして昨夜の出来事を日記に記し、朝食の時間となる。その後は暦を見て吉兆を判断。入浴する日もこの卜いで決まる。その後、出仕に至る。日が悪ければ外出は取り辞める事もある。
「やっぱり顔と手を濡れた布で吹いたら綺麗に取れちゃった。日記に書いておこうっと」
朝食の時間まで、爪紅ならぬ爪白をしてみようと木槿で試みた染織方法の失敗を書き連ねる。
(母様にお話ししたら叱られるかなぁ。爪は紅く染めるに決まってるでしょ、てさ)
以前、『何でもかんでも卜いにすがるのっておかしい。少しは自分がしたいようにすれば良いのに……』と素直に思いを吐露したところ、母親にきつくたしなめられた事を思い出したのだ。
にわかに、渡廊に衣擦れの音が行きかい始める。朝食の準備が始まったのであろう。
……はぁ、勿体ないなぁ。食べたくても食べられない人もいるのに……
朱の御膳の中に美しく盛り付けたれた朝食を見て毎日のように思う。うず高く盛り付けられた白い強飯(またはコワメシ)(※③)、味付け用に小皿に並べられた塩、酢。大根の塩漬けにカブの吸い物。アワビの蒸し物、キジ肉の焼き物、唐菓子、季節ごとに変わる日替わりの果物など。
やんごとなき人々は、ほんの少しつまむ程度で後は下げさせてしまう。
これが貴族としての上品な振る舞いとされているらしい。沢山食べることは、この上なく下品ではしたなく、卑しいとされてしまうとの事だ。母親の跡を継いで宮中で仕事をしたい鳳仙花には、逆らえない暗黙の規則の一つである。
一度、母親に
『それなら食べる分だけ盛り付ければ良いのでは?』
と聞いてみたことがあった。しかし、そのように思う感覚は変わっているとの事だった。
『そうね、言われてみればもっともだけれど、上の人達がそういう価値観を創り出したのだから、黙ってそれに従うことが快適に生きていく秘訣なのよ。疑問に思っても良いけれど、誰かに話したりしない事』
と諭されたのだった。
……なんだか知らないけど、一人前の大人になるって色々と耐え忍ぶ事が多くなるんだなぁ……
鳳仙花はしみじみと思った。
「失礼するわね」
朝食が下げられた頃、乳母の保子が顔を出した。
「鳳仙花様、紅様から文が届きましたよ。宮中にご訪問出来る事になったそうです」
「母様と?」
鳳仙花は声を弾ませる。
「ええ、勿論」
「じゃぁ、中宮定子様にお会い出来るのね!」
瞳を輝かせ乳母を見上げた。
「そうですよ。ですから定子様にお逢いしても恥ずかしくないように、しっかりとお勉強をして、身につけていきましょうね」
保子はここぞとばかり強調した。
「うん! 頑張らないと。母様も恥をかいて宮中から追い出されたら大変だもんね!」
鳳仙花は心躍らせていた。そして不意に顔を曇らせ、遠慮がちに切り出す。
「……あのね、そう言えばね、白く爪が塗れないか木槿で試してみたの。爪白とか出来ないかな、て」
(こんな風に感受性豊かで、思っている事が素直にお顔に出やすい。それは鳳仙花様をよく理解している人には可愛らしく映るけれど、そうでない方には誤解を招きそうですわね。お袖でお顔を隠す方法、扇でお顔を隠す方法をお教しませんと……)
保子はそう思いながらも、優しく話の続きを促す。
「それで、どうなりましたの?」
「うん。見事に失敗した。最初から白い液体は出なくて。白く濁った汁が出て。一晩爪に乗せて試したけど、色にムラが出来てねずみいろと土色を混ぜたみたいな薄くて汚い色になっちゃった。それで、水で洗ったらすぐ落ちちゃった……」
「そうですか。それは残念でしたね。爪紅は紅と決まっているのに、他の色を試そうとなさる発想の御力は素晴らしいですし、これからも伸ばして行って頂きたいですが……周りの状況をよく観察なさって、目新しい研究はご自身お一人でするのが宜しいでしょう。いつか機会が来たら、御披露なされば良い。もし仮にお披露目出来なくても、日記に書いて後の世に引き継がせたら良いのですよ」
保子はゆっくりと、優しく言いきかせるようにして話して聞かせた。鳳仙花もまた、言われるだろう事は予測していた為、素直に頷く。
「時に鳳仙花様。上級貴族のお姫様のように、お袖や扇でお顔を上品に隠す術をお教しましょうね」
保子は笑顔で切り出す。
「お姫様みたいに?」
鳳仙花は目を輝かせた。
(※① 水菓子…果物の異名)
(※② 主上《おかみ》…帝の意。この場合、一条天皇の事)
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