その男、有能につき……

大和撫子

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第百三話

夢の浮橋

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「どうぞ中へ」

 と促すと、「失礼します」とオーガストは遠慮がちに足を踏み入れて静かにドアを閉めた。何だか酷く気拙そうだ。僅かに開けたドアの隙間かた会話が筒抜けだったのかもしれない。恐らく、王太子殿下の近侍たちと俺が言い荒らそう事など想定していない作りになっているのだろう。

 オーガストは数回深呼吸をすると、スッと元の穏やかで落ち着いた表情に戻った。この切り替えの早さは真似したいところだ。

「王太子殿下よりお言付けです。明日朝、ご一緒に行きたいところはあるのでお迎えに上がるとの事です」

 それだけ言うと、丁寧に頭を下げた。

「分かった、有難う」

 と答えると、「では」と言って踵を返しドアノブに手をかける。本当に、要件は言付けだけだったのか。

「あの……」

 しかし思い切ったように声を上げ、振り返った。再び俺に真っすぐに向き合うと、ペコリと頭を下げた。ん? 何だ突然。

「先程はハロルドが失礼致しました」

 あぁ、そういう意味か。先輩だか後輩だか同僚だかは知らないが、紋切り型の仕事仲間の非礼を詫びる行為だな。

「頭を上げて下さい。気にしてはいないので」

 どこまでやり取りを聞いていたのか分からないが、苦笑してしまう。気にしないってのは嘘になるが、気にしても仕方無い。

「今後はこのような事が無いようによく言って聞かせますので」

 そう付け加えると、再び頭を下げて部屋を後にした。見事なくらい、流れるような動作だった。ダニエルの件は知らないだろうし、まぁ……社交辞令っところだろう。もしかしたら軽く愚痴程度に、ハロルドに話す事はあるかもしれないけど。ダニエルにはどうかな。

 ……あー、なんだか酷く疲れた。まだ夕飯やら入浴までに時間はあるし、少し寝ようかな。ダニエルにハロルド。立て続けに対応しただけでこんなに突かれるとは。これは本格的に体力作りをした方が良いかもしれない。次に来るのがサイラスかエリックだったら、相談してみよう。そんな事を思いながら、ベッドへと向かう。

 駄目だ、眠い……もう眠くて自然に目が閉じてしまう。こういうの、『目に鳩が止まる』とか言わなかったっけ? 慣用句……だっけか?

 とりとめのない事を思いながら、ふらふらと青のタチアオイを掻き分け、ベッドに身を投げた。たちまちに眠りの世界に引き込まれていった。



 月明りを頼りに、森の中を一人歩く。周りの木々は、見事に満開の枝垂桜だ。月明りに照らされ、藍色の闇に浮かび上がる白い花そのものも灯りとなって道を照らす。満月、月はやけに大きい。抜けるような白さだ。そのせいかやけに足元も周りも明るい。まるで水墨画の世界にいるようだ。

 夢だ、これは完全に夢の中だ。夢を見ているのだと確信しながら歩く俺は素足だ。土の上を歩いている筈なのに、全く汚れていない。

 しばらく歩くと、一際大きな枝垂桜が立ちはだかった。どうやらそこが行き止まりらしい。穏やかな風が吹いた。一斉に靡く枝垂桜の枝。はらはらと白い花びらが舞う。幽玄という風景はこういう事を言うのだろうか。花びらが数枚、俺の瞼を塞いだ。だがすぐに風に飛ばされていく。

 視界が開けた瞬間、目の前の枝垂れ桜の下に、桜色の着物姿の女性が佇んでいた。抜けるような青白い肌に細面。ゾクリとする程整った美貌。一瞬、枝垂れ桜の精霊かと思ったが、すぐに違うと気付いた。銀色の長い髪が風に靡くのを、そして月光を湛えたような双眸を見て、あぁ、王太子殿下の母君だと悟った。

『……ようこそ、私の夢の中へ』

 不意に、琵琶の音を彷彿とさせるような声が響く。あの女性の声だ。彼女の夢の中にいるのだ、と何の違和感もなく受け止めている自分に驚く。だが、どこか他人事のように感じる。

『……あの子を……どうか宜しくお願いします』

 切実に言いながら頭を下げる。「待ってください!」と理由を問いたくても、声が出ない。

『……あの子の孤独を、寂しさを……どうか、どうか救ってあげてください』

 続けてそういうと更に平伏さんばかりに頭を下げる。堪らなくなって「頭を上げてください!」と駆け寄ろうとしても、声が出せない。刹那、強い風が吹き、滝のように靡く枝垂れ桜向かい風だ。一斉に散る花びらに目を閉じた。

 静かに目を開ける。青のタチアオイに、藤の花房が目に映った。
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