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本編
26 エルフリーデの婚約者②
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――白豚。
まだほんの子供だった頃のマルティンのあだ名だ。もちろん、悪意がこめられている。
昔、たまたま遊びに来ていた公園かどこかで、ひとりでうずくまっていた同じ年頃の少年と話しをしたことがある。それがマルティンだったらしい。
マルティンは日に焼けると肌が炎症を起こしてしまうからと、日常から日光を避けるようにしている。そして、今でこそ筋肉質と言っても良さそうな体格をしているものの、昔はかなり……ぽっちゃりしていた。
王都にある貴族子息の全寮制学校に通っていて、周りは同じ年代の子供だらけ。相手も貴族なので互いに遠慮がない――そんな環境だったので、マルティンは白豚と呼ばれていじめられていたそうだ。
『夏休みでうちに戻ってきたけど……もう休みが終わるから、にづくりしてて……いやになって……』
『にづくりがいやなの?』
『ちがう。僕のこと、白豚って言うやつらがいるんだ。毎日一緒にくらさなきゃいけないんだぞ』
『いじわる言われるんだね』
どちらから声をかけてそうなったのかは忘れてしまったけれど、私と少年は日陰に並んで座って、そんな話をしていた。
帰りたくない、戻りたくないとめそめそする少年に、見た目なんか気にしなくてもいいと言ったのは私。
私自身、昔から容姿には自信がなかった。お兄様は男ながら綺麗な顔立ちで、男女問わず交友関係が広かったけれど、私はそうではなくて。お兄様と自分を比べて落ち込んでいた時に、お母様が言ってくれたのだ。
見た目は関係ないわ。エルフリーデはエルフリーデしかいないんだから。
それを聞いて素直に受け入れられるような歳でもなかったけれど、人に言って聞かせたら、すんなり自分の中に落ちてきた。私が不美人であることは事実だけど、だからなんだ、くらいには思えるようになったのだ。
『エルフリーデ、もう帰るよ!』
『お兄さま!』
日が暮れてきそうな頃になって、一緒に遊びに来ていたお兄様が私を呼びに来た。お兄様の方へ駆け出そうとした足を止めて、少年に改めて言い含める。
『気にしないんだよ。ばいばい』
会ったのはそれきりで、この時のことなんて完全に忘れていた。何年も経ってから急に婚約者だと言われて顔合わせをした時、マルティンは色白ではあったけれど、すっかり引き締まっていて。それにあの時のことなんて何も言わなかったから、私も気づかないまま今に至ってしまったのだ。
「名前と、兄がいるという情報だけで必死で君を探したんだ。君の家が借金の申し込みをして、そのおかげで婚約できた時は嬉しかったよ。僕もまだ王都の学校にいたからめったに会えなかったし、なかなか会話する機会がなかったけど、君は照れてるだけかと思ってた」
「ずいぶん前向きになられたんですね……」
普通は忘れてると思うだろうに。
相変わらずマルティンは打ちひしがれたように背中を丸めている。私はそっと、マルティンから距離を取ろうとした。
だってこの話……まるで私のことが好きで、だから婚約したんだ、と言っているように聞こえた。当時の私、本当に何も、大したことはしていないんだけど……。
しかも、それなら今までのことにも説明がつく気がする。
婚約者の側に、資産家として有名なライエン男爵が現れた。支配人であるユルゲンはライエン男爵を――具体的に何をどのようにしたのかは分からないけれど悪魔曰く、私の虫よけとして扱う。事実、貴族や商家の次男以下からの招待は減った。この一連の状況にマルティンは焦った。
なぜなら、借金という枷がなくなったところに、別の男が現れたから。少なくとも、表向きには借金を理由に結ばれた婚約だ。借金が残っているうちは弱みになっても、結婚する前に完済してしまえば弱みではなくなる。
けれど今また、悪評が広がるという形で新しい弱みが私にできた。それを理由に結婚を進められると思った。
そんな所だろうか。
「……マルティン様。私はこれでお暇しますね」
私がマルティンに心を寄せることはできない。きっかけが何だとしても、お互いに婚約者としての関係を築くことができなかった。それに、とにかくいろいろとやり方が誠実ではないし……。
ずり、ずり、と後ろに下がって、ベッドを越えて反対側に行こうとしていた私に気がついて、マルティンが勢いよく立ち上がった。
「待ってくれ! 行かないでくれ、僕たちは結婚するんだ。君はもう、今日からここに住めばいい!」
「結婚はしません。この件についてグリュンテ家の当主様とお話ができないのであれば帰ります」
「駄目だ!」
また手首を掴まれる。痛いと言っても今度は離してもらえない。強く引っ張られてベッドの上に突っ伏してしまった。
掴まれていない方の手で身体を支えて起き上がる――その瞬間、視界が反転した。
ベッドに仰向けになって、押し倒されているような状況で……さすがにこれはよくない。血の気が引いた。
「どいてください」
「何でだよ。僕は君の夫になる男だぞ」
「い、いやです、無理ですっ」
マルティンが私の服に手をかける。自由な方の手でそれを防ごうとすれば、今度は両手を一度に押さえられた。足をばたつかせて、身体をねじって、必死で抵抗する。
そんな私を、マルティンは昏い目で見下ろした。
「……どうせ、君は僕を裏切って男爵と寝たんだろ? なら僕とだっていいじゃないか」
「……っ」
マルティンの手にぐっと力が入って、爪が私の肌に食い込んだ。もう片方の手が思い切り服を引っ張って、ボタンが弾け飛ぶ。
「よかったな、僕が寛大な夫で」
「や……、やだ……っ」
確かに私は婚約者を裏切った。むしろそのことを明言して婚約破棄に持ち込むつもりでさえいた。でもマルティンは、そんなことは関係ないと言わんばかりで。
手が肌に触れる。息がかかる。
今更純情ぶるつもりなんてない。でもなんだか、どうしても嫌、嫌だ。本当に嫌だ。恐怖と嫌悪で鳥肌が立って、呼吸が乱れて、誰かに助けを呼ぶこともできない。
どうせこの屋敷では、声を張り上げたって誰も助けてはくれないだろうけれど。
でも――たった、ひとりだけ。
「…………フィストス、助けて……」
音になったのかも分からないような小さな声は、マルティンには聞こえていないようだった。ほぼ同時に、彼の身体が横薙ぎに吹っ飛んだから。
まだほんの子供だった頃のマルティンのあだ名だ。もちろん、悪意がこめられている。
昔、たまたま遊びに来ていた公園かどこかで、ひとりでうずくまっていた同じ年頃の少年と話しをしたことがある。それがマルティンだったらしい。
マルティンは日に焼けると肌が炎症を起こしてしまうからと、日常から日光を避けるようにしている。そして、今でこそ筋肉質と言っても良さそうな体格をしているものの、昔はかなり……ぽっちゃりしていた。
王都にある貴族子息の全寮制学校に通っていて、周りは同じ年代の子供だらけ。相手も貴族なので互いに遠慮がない――そんな環境だったので、マルティンは白豚と呼ばれていじめられていたそうだ。
『夏休みでうちに戻ってきたけど……もう休みが終わるから、にづくりしてて……いやになって……』
『にづくりがいやなの?』
『ちがう。僕のこと、白豚って言うやつらがいるんだ。毎日一緒にくらさなきゃいけないんだぞ』
『いじわる言われるんだね』
どちらから声をかけてそうなったのかは忘れてしまったけれど、私と少年は日陰に並んで座って、そんな話をしていた。
帰りたくない、戻りたくないとめそめそする少年に、見た目なんか気にしなくてもいいと言ったのは私。
私自身、昔から容姿には自信がなかった。お兄様は男ながら綺麗な顔立ちで、男女問わず交友関係が広かったけれど、私はそうではなくて。お兄様と自分を比べて落ち込んでいた時に、お母様が言ってくれたのだ。
見た目は関係ないわ。エルフリーデはエルフリーデしかいないんだから。
それを聞いて素直に受け入れられるような歳でもなかったけれど、人に言って聞かせたら、すんなり自分の中に落ちてきた。私が不美人であることは事実だけど、だからなんだ、くらいには思えるようになったのだ。
『エルフリーデ、もう帰るよ!』
『お兄さま!』
日が暮れてきそうな頃になって、一緒に遊びに来ていたお兄様が私を呼びに来た。お兄様の方へ駆け出そうとした足を止めて、少年に改めて言い含める。
『気にしないんだよ。ばいばい』
会ったのはそれきりで、この時のことなんて完全に忘れていた。何年も経ってから急に婚約者だと言われて顔合わせをした時、マルティンは色白ではあったけれど、すっかり引き締まっていて。それにあの時のことなんて何も言わなかったから、私も気づかないまま今に至ってしまったのだ。
「名前と、兄がいるという情報だけで必死で君を探したんだ。君の家が借金の申し込みをして、そのおかげで婚約できた時は嬉しかったよ。僕もまだ王都の学校にいたからめったに会えなかったし、なかなか会話する機会がなかったけど、君は照れてるだけかと思ってた」
「ずいぶん前向きになられたんですね……」
普通は忘れてると思うだろうに。
相変わらずマルティンは打ちひしがれたように背中を丸めている。私はそっと、マルティンから距離を取ろうとした。
だってこの話……まるで私のことが好きで、だから婚約したんだ、と言っているように聞こえた。当時の私、本当に何も、大したことはしていないんだけど……。
しかも、それなら今までのことにも説明がつく気がする。
婚約者の側に、資産家として有名なライエン男爵が現れた。支配人であるユルゲンはライエン男爵を――具体的に何をどのようにしたのかは分からないけれど悪魔曰く、私の虫よけとして扱う。事実、貴族や商家の次男以下からの招待は減った。この一連の状況にマルティンは焦った。
なぜなら、借金という枷がなくなったところに、別の男が現れたから。少なくとも、表向きには借金を理由に結ばれた婚約だ。借金が残っているうちは弱みになっても、結婚する前に完済してしまえば弱みではなくなる。
けれど今また、悪評が広がるという形で新しい弱みが私にできた。それを理由に結婚を進められると思った。
そんな所だろうか。
「……マルティン様。私はこれでお暇しますね」
私がマルティンに心を寄せることはできない。きっかけが何だとしても、お互いに婚約者としての関係を築くことができなかった。それに、とにかくいろいろとやり方が誠実ではないし……。
ずり、ずり、と後ろに下がって、ベッドを越えて反対側に行こうとしていた私に気がついて、マルティンが勢いよく立ち上がった。
「待ってくれ! 行かないでくれ、僕たちは結婚するんだ。君はもう、今日からここに住めばいい!」
「結婚はしません。この件についてグリュンテ家の当主様とお話ができないのであれば帰ります」
「駄目だ!」
また手首を掴まれる。痛いと言っても今度は離してもらえない。強く引っ張られてベッドの上に突っ伏してしまった。
掴まれていない方の手で身体を支えて起き上がる――その瞬間、視界が反転した。
ベッドに仰向けになって、押し倒されているような状況で……さすがにこれはよくない。血の気が引いた。
「どいてください」
「何でだよ。僕は君の夫になる男だぞ」
「い、いやです、無理ですっ」
マルティンが私の服に手をかける。自由な方の手でそれを防ごうとすれば、今度は両手を一度に押さえられた。足をばたつかせて、身体をねじって、必死で抵抗する。
そんな私を、マルティンは昏い目で見下ろした。
「……どうせ、君は僕を裏切って男爵と寝たんだろ? なら僕とだっていいじゃないか」
「……っ」
マルティンの手にぐっと力が入って、爪が私の肌に食い込んだ。もう片方の手が思い切り服を引っ張って、ボタンが弾け飛ぶ。
「よかったな、僕が寛大な夫で」
「や……、やだ……っ」
確かに私は婚約者を裏切った。むしろそのことを明言して婚約破棄に持ち込むつもりでさえいた。でもマルティンは、そんなことは関係ないと言わんばかりで。
手が肌に触れる。息がかかる。
今更純情ぶるつもりなんてない。でもなんだか、どうしても嫌、嫌だ。本当に嫌だ。恐怖と嫌悪で鳥肌が立って、呼吸が乱れて、誰かに助けを呼ぶこともできない。
どうせこの屋敷では、声を張り上げたって誰も助けてはくれないだろうけれど。
でも――たった、ひとりだけ。
「…………フィストス、助けて……」
音になったのかも分からないような小さな声は、マルティンには聞こえていないようだった。ほぼ同時に、彼の身体が横薙ぎに吹っ飛んだから。
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