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本編

25 エルフリーデの婚約者①

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「フィストスって……例のパトロンか?」
「マルティン!?」

 玄関を出たところで背後から私の手を引いたのはマルティンだった。帰るところだったのか隠れていたのか、たまたま玄関にいたところに、フィストスを探しに来た私に出くわしたらしい。
 いや……玄関近くにハイデマリーがいなかったので、屋敷から出た後、しばらくここに潜んでいたのだろうと思う。

 うっかり敬称を忘れて呼び捨てにしてしまったけれど気にする様子もなく、マルティンはむしろ機嫌の良さそうな顔をしていた。掴んだままの手を引っ張って、自分の乗ってきた馬車の方へと進む。

「金なら僕がどうにかしてやると言ったのに、変な男に引っかかったんだな。悪魔と同じ名前の人間なんてろくな奴じゃないだろ」
「ちょっと、手を離してっ」

 悪魔の人間としての名前はファイなんだけど……マルティンはまた勘違いしているらしい。

 それにもしかしなくても、マルティンは私を馬車に連れ込もうとしている。どうあがいても抵抗できる体格差ではなくて、ずるずると引きずられた。
 騒ぎを聞きつけたハイデマリーが駆け寄ってくるけれど、相手はこれでも貴族令息だ。手を出そうとすれば逆にどんな因縁を付けられるか分からないので、ハイデマリーには屋敷の中に戻るよう目線で訴えかけた。

「馬車に乗ってほしいなら自分で歩きます。手首が痛いから、引っ張るのは止めてください」
「痛かったか? すまない……」

 ぴしゃりと言えば、マルティンはすぐに手首を離した。申し訳なさそうに赤くなった手首を見てくる。なんだか調子の狂う反応だ。

「それで? お話はもう全て終わったかと思いましたけれど」
「いや……僕たちの婚約のことだけど」

 またその話。今は温泉の根も葉もない噂の方に専念したいのに、マルティンは温泉の噂と私たちの結婚を一緒くたにして考えている。

「君の意見は分かった。けど親同士が決めたことだから、僕の父を交えてきちんと話をしよう」
「私が急に訪問してもご迷惑でしょう」
「今日はずっと執務室にいる予定だそうだから問題ない」

 グリュンテ家当主であるマルティンの父との話し合いはこちらから申し込みたかったことなので、なかなか良い提案だ。今じゃなければもっと良かったけれど。

 腹をくくって一旦私の執務室に戻り、婚約破棄の書類を持ってこようかと思ったけれど、そこまでは許されなかった。馬車に乗ってグリュンテ家の屋敷へ向かうことを急かしてくる。
 下手に反対するとこじれそうだったので、大人しく馬車に乗った。



 昼過ぎには到着して、案内された客間で遅めの昼食を振る舞われる。その後、急な来客があったから婚約の件はもう少し待っていてほしいと言われ。やがて日が暮れて、お腹が空いただろうと招待された夕食の場で、領主は急な視察のために数日戻らないと伝えられた。

 ここまでくればさすがに、マルティンが婚約破棄に向けて動くつもりがないことくらい分かる。夕食は辞退して、あてがわれた部屋に向かった。
 玄関に向かうよりあの部屋の窓から出た方が少しだけうちに近い。二階から飛び降りるくらいならなんとかいけるはずだ。

 その後をマルティンが追いかけて来た。

「待て!」
「話が違います!」
「こうするのが君のためには一番だって、分かるだろ」
「分かりません。あなたの仰る結婚なんかでは何も解決しない。そちらこそ、どうしてそれが分からないんですか」

 こうしている間にもユルゲンが犯人を見つけてくる。
 その後のことだって、私の考えをまとめた資料を執務室に置いてきた。それを見れば残った皆で対応を進められるようになっているし、もっとよく改良しておいてくれるかもしれない。

 けれど、それを聞いたマルティンはやっぱりな、と言って笑った。

「ユンゲンが君の手柄だけ横取りして蹴落とすってことだ」
「私がいなければ何もできないような使用人たちではないということよ。あと、ユンゲンじゃなくてユルゲンですから!」

 全然話が通じない。この人はきっと、私が何を言っても自分の考えを曲げることはないのだろう。

 嘘の噂を広めた犯人はユルゲン。自分で起こした騒動を自ら収束させて、その実績を手に私の責任を追求し、代表の座から引きずり下ろす。

 そういう筋書きが、マルティンの中に確固として存在しているらしい。悪魔の言う通りだ。

「お願いですから、私のためだと言うなら何もしないでください」
「僕が君を助けたいんだ。だからそのために早く結婚しようって、何度も言ってるじゃないか」

 マルティンと結婚して、私が未来の領主の正式な妻となればこの騒動を鎮められると、本気で思っている。それが私にとっても温泉の噂を信じる人たちにとってもひどく強引な方法だと、どうして分からないのだろうか。

 それに、突然結婚を急かされ始めたことには他の意図があるのではないかと思ってしまう。それが何なのかはまだ見えてこない。

「……そもそも、なぜ私なの? あなたなら私なんかよりもっと綺麗で、強い後ろ盾のある方を迎えられるのに」
「君が……君がそんなことを言うな!」

 私の言葉を聞いた瞬間、マルティンは急に声を荒げた。悲痛に顔を歪めて、泣きそうな目で私を見る。そして、一応は一定の距離を保っていたのにずかずかと近づいてきて。
 あまりの剣幕に後ずさりした私はベッドに躓いた。慌てて顔を上げると、大きな体が覆いかぶさるように迫っている。

「君が見た目なんて関係ないって言ったんだ。だから君が、自分の容姿を貶めるような言い方はしないでくれ」
「……私が言った……? 何の、話?」
「まさかあの時のこと……僕のこと、覚えてないのか……?」

 覚えてるもなにも、婚約者として紹介された時が初対面だ。それ以来、積極的に思い出すことはなかったけれど、別に忘れていたわけでもない。

「し……白豚……」
「……あ!」

 勝手に傷ついたような顔をしたマルティンが、ものすごく嫌そうに一言呟く。その一言で遠い昔の記憶を思い出した。

「あなた、あの時の子だ」
「やっぱり忘れてるじゃないか……」

 マルティンはへなへなと私の足元に座り込んでしまった。大きな背中を丸めているその姿が、かつての少年と重なった。
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