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本編
23 それが本音だと、①
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お風呂から出て、ゆっくりと朝食を食べて――それからしばらくしたころ、マルティンが訪問してきた。予定にない訪問だし、今日は忙しいからとお帰りいただくようハイデマリーに伝えてもらったけれど、マルティンは「分かってるから、待つ」などと言って動かないらしい。
埒が明かないので少しの時間だけ会うことにした。できるだけ早くお帰りいただきたい。
「聞いたぞ、あの話。大変そうじゃないか」
「ええまぁ。なのであまりお時間が割けなくて、申し訳ありません」
「婚約者だしな。他人事とは思えず、居ても立ってもいられなくなっただけなんだ。大丈夫、あんなのは嘘だって僕は分かってる」
なんとなく予想していたけれど、やっぱりこの話だ。中身のない会話にうんざりした。今この場で例の婚約破棄の書類を突きつけてしまいたい……ややこしくなるので、しないけど。
「こうなってしまったものは仕方ないからな。嘘だとしても、まずは事実と認め誠心誠意謝罪した方がいいんじゃないかな。とにかく早い方がいい。僕が協力してやるから心配しなくていいぞ」
「……はい?」
「なに、きっと僕ならこの事態を収められる。次期領主だからな」
姿を見えないようにして私の隣に座っている悪魔の毛先が、逆立って霧になりかけた。
『この木偶の坊、わざわざ自首でもしにきたのか?』
などと言って、もう完全にマルティンを根も葉もない噂の犯人扱いしている。
確かに謝罪はしたほうがいいのかもしれない。騒がせて、不快な思いをさせてしまったことは確かだから。けれど私には、なぜここで「次期領主だから」の言葉が出てくるのかが分からない。
「……ここだけの話だけど僕は、言いふらしているのは内部の人間だと考えているんだ。お湯が元々透明だなんて、君の使用人でもなければ知らないだろ?」
「そんなことはありませんが……」
源泉は熱すぎるので湧き出たお湯を一旦別の浴槽に貯めて、適温まで冷ましてからお客様の湯船に流している。その過程で完全に白濁しているのだけれど、源泉は使用人専用の区域からしか行けないようになっているので、一般のお客様が見ることはない。
とは言え別に秘密にもしていない。使用人とお客様との会話でそんな流れになれば隠すことなく話している。こうなった今では、それも嘘だったのかと思われているかもしれないけれど。
「例えば、あの初老の男」
「ユルゲンのことですか?」
「そう。あいつなら、こんなことをする理由もあるだろう」
「……ご自分が何を仰っているのか、分かっておられますか」
「君だってそう思ったことくらいあるはずだ」
ユルゲンはお父様よりも長く、お祖父様の代からこの温泉を支えてくれている。誰より温泉と会社に詳しくて、お父様もお兄様も亡くなった今、私なんかよりもずっと、皆の上に立つのにふさわしい人。
今まで家業に関わろうとしなかった私が出てきても嫌な顔ひとつしないで、当然のように私の下で働き続けてくれた。至らない私をどれだけ助けてくれたか。
そんな彼がうちの不利益になるようなことをするはずがない。
もし本当に私を蹴落として会社を奪うつもりだったとしても、絶対にこんなやり方はしない。
「うん。やっぱりあの男が君からこの会社を乗っ取るためにわざと不祥事を起こしたに違いない。それで自分でこの騒動を収めて、いたずらに騒がせた君のことを糾弾するつもりなんだ!」
『それはお前の下手な筋書きだろうが』
マルティンに聞こえないのをいいことに、悪魔は好き勝手言っている。気が散るから黙っていてほしいと横目に訴えた。
「……それならこんなに手間がかかることをしないで、初めからユルゲンが代表の座に就いていればよかっただけです」
「彼がなぜそうしなかったのか、分からないのかい?」
「理由がないからでしょう」
「借金だよ。君が借金を全部返済し切るまで待ってたんだよ。負債は背負わず、安全に利益だけ手にするつもりなのさ」
馬鹿馬鹿しい。胸の内だけにとどめたつもりの感想はうっかり声に出ていたようで、顔をしかめたマルティンがドン、と机を叩いた。茶器が跳ねて、お茶がこぼれる。
「なら、ユゲルンとやらをここに連れて来いよ! 直接僕が聞いてやる!」
「ユゲルンじゃなくてユルゲンよ。それに彼は今いません」
「なぜだ?」
実は噂の出処の目星がついたので、そちらの方に出かけている。けれどそれをマルティンに言う必要はない。
「……犯人を庇いに行ってるんじゃないのか?」
「ありえません」
「そうかな? このでたらめを吹聴した人物は、奴にとっては自分の手足として働いてくれた駒のようなものだろう。自分の立場を利用すれば、取り逃がしたと言って匿うことは簡単だ」
『なぁ、やっぱりこいつが何か絡んでるだろ』
マルティンは妙に自信満々だ。悪魔の言う通りかなり怪しいけれど、証拠がない以上は何もできない。早くユルゲンが犯人を見つけて連れ帰ってくれたらいいのだけれど。
もうマルティンとは十分に話した。これ以上話すことなんてないから帰ってもらおう。そう思って退室を促すより早く、マルティンは妙に照れくさった顔で言った。
「とにかく、いろいろ言ったけど……早く結婚しよう、僕たち」
唐突な「結婚」の言葉に、私も悪魔も目を見開いた。けれどマルティンがそれに気づいた様子はなく、うっとりという言葉が似合うような顔をしていた。
埒が明かないので少しの時間だけ会うことにした。できるだけ早くお帰りいただきたい。
「聞いたぞ、あの話。大変そうじゃないか」
「ええまぁ。なのであまりお時間が割けなくて、申し訳ありません」
「婚約者だしな。他人事とは思えず、居ても立ってもいられなくなっただけなんだ。大丈夫、あんなのは嘘だって僕は分かってる」
なんとなく予想していたけれど、やっぱりこの話だ。中身のない会話にうんざりした。今この場で例の婚約破棄の書類を突きつけてしまいたい……ややこしくなるので、しないけど。
「こうなってしまったものは仕方ないからな。嘘だとしても、まずは事実と認め誠心誠意謝罪した方がいいんじゃないかな。とにかく早い方がいい。僕が協力してやるから心配しなくていいぞ」
「……はい?」
「なに、きっと僕ならこの事態を収められる。次期領主だからな」
姿を見えないようにして私の隣に座っている悪魔の毛先が、逆立って霧になりかけた。
『この木偶の坊、わざわざ自首でもしにきたのか?』
などと言って、もう完全にマルティンを根も葉もない噂の犯人扱いしている。
確かに謝罪はしたほうがいいのかもしれない。騒がせて、不快な思いをさせてしまったことは確かだから。けれど私には、なぜここで「次期領主だから」の言葉が出てくるのかが分からない。
「……ここだけの話だけど僕は、言いふらしているのは内部の人間だと考えているんだ。お湯が元々透明だなんて、君の使用人でもなければ知らないだろ?」
「そんなことはありませんが……」
源泉は熱すぎるので湧き出たお湯を一旦別の浴槽に貯めて、適温まで冷ましてからお客様の湯船に流している。その過程で完全に白濁しているのだけれど、源泉は使用人専用の区域からしか行けないようになっているので、一般のお客様が見ることはない。
とは言え別に秘密にもしていない。使用人とお客様との会話でそんな流れになれば隠すことなく話している。こうなった今では、それも嘘だったのかと思われているかもしれないけれど。
「例えば、あの初老の男」
「ユルゲンのことですか?」
「そう。あいつなら、こんなことをする理由もあるだろう」
「……ご自分が何を仰っているのか、分かっておられますか」
「君だってそう思ったことくらいあるはずだ」
ユルゲンはお父様よりも長く、お祖父様の代からこの温泉を支えてくれている。誰より温泉と会社に詳しくて、お父様もお兄様も亡くなった今、私なんかよりもずっと、皆の上に立つのにふさわしい人。
今まで家業に関わろうとしなかった私が出てきても嫌な顔ひとつしないで、当然のように私の下で働き続けてくれた。至らない私をどれだけ助けてくれたか。
そんな彼がうちの不利益になるようなことをするはずがない。
もし本当に私を蹴落として会社を奪うつもりだったとしても、絶対にこんなやり方はしない。
「うん。やっぱりあの男が君からこの会社を乗っ取るためにわざと不祥事を起こしたに違いない。それで自分でこの騒動を収めて、いたずらに騒がせた君のことを糾弾するつもりなんだ!」
『それはお前の下手な筋書きだろうが』
マルティンに聞こえないのをいいことに、悪魔は好き勝手言っている。気が散るから黙っていてほしいと横目に訴えた。
「……それならこんなに手間がかかることをしないで、初めからユルゲンが代表の座に就いていればよかっただけです」
「彼がなぜそうしなかったのか、分からないのかい?」
「理由がないからでしょう」
「借金だよ。君が借金を全部返済し切るまで待ってたんだよ。負債は背負わず、安全に利益だけ手にするつもりなのさ」
馬鹿馬鹿しい。胸の内だけにとどめたつもりの感想はうっかり声に出ていたようで、顔をしかめたマルティンがドン、と机を叩いた。茶器が跳ねて、お茶がこぼれる。
「なら、ユゲルンとやらをここに連れて来いよ! 直接僕が聞いてやる!」
「ユゲルンじゃなくてユルゲンよ。それに彼は今いません」
「なぜだ?」
実は噂の出処の目星がついたので、そちらの方に出かけている。けれどそれをマルティンに言う必要はない。
「……犯人を庇いに行ってるんじゃないのか?」
「ありえません」
「そうかな? このでたらめを吹聴した人物は、奴にとっては自分の手足として働いてくれた駒のようなものだろう。自分の立場を利用すれば、取り逃がしたと言って匿うことは簡単だ」
『なぁ、やっぱりこいつが何か絡んでるだろ』
マルティンは妙に自信満々だ。悪魔の言う通りかなり怪しいけれど、証拠がない以上は何もできない。早くユルゲンが犯人を見つけて連れ帰ってくれたらいいのだけれど。
もうマルティンとは十分に話した。これ以上話すことなんてないから帰ってもらおう。そう思って退室を促すより早く、マルティンは妙に照れくさった顔で言った。
「とにかく、いろいろ言ったけど……早く結婚しよう、僕たち」
唐突な「結婚」の言葉に、私も悪魔も目を見開いた。けれどマルティンがそれに気づいた様子はなく、うっとりという言葉が似合うような顔をしていた。
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