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本編

19 ただ喜ぶだけでいいなんてことは①

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「うーん……」

 昼下がりの執務室で、机にたくさんの資料を広げて。あれこれ見比べて、計算して、それでもやっぱり芳しくない結果に、もう何度目か分からない唸り声を上げた。

 借金を完済してからの売上は順調で、それなりに資金力もついてきた。来客数も少しずつ増えたおかげで今の規模では少し手狭になってきたほどだ。

 そこで私は、お兄様が遺した宿泊事業計画を進めるべきだと考えた。ここから少し離れた所に宿泊専用の温泉施設を建設して、新しい大浴場を作る。特別な離れにはその部屋に泊まるお客様専用の、小さな露天の温泉もつけるつもりだ。
 日常の喧騒を忘れる静かな部屋に、地方の素材を使った上質な料理。心ゆくまでくつろいでもらえるような、そんな新しい場所を作りたい。

 これを考案したお兄様は、お父様やユルゲンには話を通していたらしい。借金完済後に着手する予定でいたので、現段階では構想があるだけの未着手状態だ。
 ちなみに借金は数年後に完済する予定だったけれど、私が焦げ付かせた挙げ句、悪魔の力を頼って一気に完済してしまった。だから今着手しようと思えばできるところに来ているのである。

 これが実現できれば新たな客層の確保に繋がるし、国中に温泉を広めたかったお父様とお兄様の意思にも沿う。
 それに何より、私がこの事業に興味を持ってしまった。家業には全く興味がなかったはずなのに、人生どう転ぶか分からないものだ。

「労働力がほしいのか?」
「うぅん」

 本から顔も上げずにそう聞くのは大悪魔フィストスだ。いつも通り唐突に執務室に現れたけれど、絶対に仕事の邪魔をしないでと言いつけたら、大人しくソファで本を読んでいる。

「宿泊事業、すごくいいと思ったんだよね……」

 悪魔に下手なことを言うと勝手に願いを叶えて、ちゃっかり対価を要求されるので煮え切らない返事しかできないけれど……どうしても働き手が集まらないせいで、この計画は頓挫している。

 新聞の広告欄で募集をかけても希望していただけの人数は集まらなかった。しかも、建築の方も人手不足なようで、なかなか着工できないでいる。少ない人数で無理をするわけにもいかないから、目処が立つまでは大人しく諦めるしかない。

 あぁ、どこかに腕が良くて、仕事に誠実で、身元の怪しくない人がたくさんいないものか……。そんな現実逃避をしていたのが、一週間ほど前のことだった。



「嘘でしょ」

 今日は温泉の定休日だというのに、温泉側の入り口は大賑わいだった。老若男女問わず溢れかえっているこの人たちは、大悪魔フィストスが集めてきた労働者、らしい……。その数、およそ20人。

 悪魔は数日姿を消したかと思えば、この人たちを伴って戻ってきた。王都を始めとする全国各地から職を求める人間を連れてきたらしい。

「どこにでも才能を持て余しているやつはいる」

 なんて鼻高々と笑っているけれど。

「どうするの、この人たち」
「腕は確かだ。全員雇え」
「いやいや……」

 それはさすがにどうだろう……。

 大急ぎでユルゲンに来てもらうよう、ハイデマリーに頼んである。それまでに求職者たちを希望職種別に別けることにした。
 ホテルでの勤務経験がある人、建築や土木の技術を持つ人、パンもデザートも何でもござれの料理人に、王都の貴族屋敷で侍女をしていた女性までいる。……彫刻家だというこの男性はどの括りなのだろう。

 驚いたことに全員しっかりした紹介状を持っていて、身元の怪しそうな人は誰ひとりいなかった。

「ねぇ、実はみんな悪魔だったりしないよね? 魔法で作った偽人間だったり……」
「全員普通の人間だ。魔法は……少ししか使ってない」
「少し?」
「移動に。思ったより早くここまで着いたかなと思う程度だからいいだろ、別にそのくらい」

 悪魔は拗ねたように顔をそらした。
 毛先が少し霧になっている。悪魔の毛先は感情の指標になっているのかもしれないということに気がついたものの、どうして悪魔が急に不機嫌になってしまったのかまでは分からない。

「お嬢様。何があったんですか、これは」
「ユルゲン、ごめんね。休みの日に」
「それは構いませんが……」

 手短に嘘の事情を説明して、ふたりで手分けして集まった人たちの面接をした。正確な人数は18人で、11人はうちで採用することになった。
 残った7人は土建関係の人たちだったので、別の働き口を紹介することにする。上手くいけば宿泊施設の着工が早まるだろうし、うちとしても働き手不足が一気に解消されたことになる。けれど。

 ユルゲンは私と、私の隣にいる悪魔を交互に見ていた。ずれてもいない眼鏡を何度も直しながら。
 どうやら今日は悪魔の姿がユルゲンにも見えているらしい。そして求職者でもなければお客様でもない、残った1名を怪しんでいる……。

「ユ、ユルゲン。紹介……するね。こちらは、ええと……」

 どうして今日に限って姿を見せているの。紹介せずにいるなんて不自然だし、でもなんて紹介したらいいのか分からなくて、しどろもどろになるしかない。悩んでいるうちに額に汗が浮かんできた気もする。
 そんな私の前に、悪魔がすっと歩み出て。

「名乗り遅れて申し訳ない。男爵位を賜ったファイ・フォン・ライエンだ。以後見知り置きを頼む」

 しれっと、そんなことを言ってのけた。
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