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本編
10 忘れていた上に詰めが甘い②
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どこからともなく現れた逆さまの大悪魔フィストスが鏡に映り込む。鏡の中で目が合った瞬間に飛び上がって鏡から離れたら、慌てすぎてもつれて転んだ。
「今までで一番ひどい反応だな」
「もうちょっとマシな登場があるでしょ!」
ろうそくだけの薄暗い部屋でぬっと突然現れて……しかも逆さまで……おばけかと思った……。
床に足を付けた悪魔はというと、鏡台に雑多に置いてあるものを見ていた。しまった、まずい。逃げてないで、あれを隠すべきだった!
「今日も困ってるみたいだな?」
「困ってません」
「俺に願えよ」
「願いません」
「望みは叶うし、気持ちいいし、お前が損することなんてないだろ」
「損します」
絨毯に座り込む私の元に、悪魔が無駄に優雅な足取りで近づいてくる。しゃがんで目線を近づけると、顔まで近づけてきて。形のいい手で私の顎をすくい上げて、無理やり目を合わせてきた。
「まだ分からないのか? 俺はお前が気に入ってる。だからお前は俺のことを利用していい」
そんなことを言う悪魔は、この頃頻繁に顔を出すようになっていた。
何故かちょっとした困りごとを抱えている時にやってきて、私を抱いては悩みごとを勝手に解消していく。対価は当然のように、私の身体。
つい先日も、長らく放置していたシャンデリアの掃除をしていた時に現れた。
大事なお客様が貸し切りでご予約くださっていた前日にシャンデリアの曇りに気がついて。使用人たちは普段の仕事で手一杯なので、追加で仕事をお願いすることができなかった。もっと早く気がついて、段取りよく掃除できていればよかったのだけれど。
幸い、私ひとりでも徹夜すればなんとかなるようなシャンデリアだった。部品をひとつずつ取り外して布で磨くという作業だけれど、そういう細かくて地味な仕事が結構好きだからと軽い気持ちで請け負ったのが運の尽き。
梯子に登ってシャンデリアを取り外そうとして、バランスを崩して――私もシャンデリアも明日の予約も、何もかもお終いだと絶望したところで悪魔に助けられた。
せっかくだから温泉に入ってみたいと言った悪魔は、また私の名前を呼んで、荷物のように抱えて……それで、お、お湯の中でっ……。
のぼせる一歩手前の私が見たのは魔法によってキラキラに輝く、曇りなきシャンデリアだった。綺麗、だったけど。
「ほら、遠慮なく言えよ。流行のドレス? 最新の化粧品? 宝飾品だって、望めば全部叶えてやる」
「……いらない」
「でもあれは似合わないと思う」
「知ってるからっ」
悪魔目線でも似合わないことが分かってしまった。
けれど、家にあるありったけの服を引っ張り出して、あちこちから素材を足せばなんとかできるはず。化粧品だって同じように色を混ぜたりすればいいんだ。なんだかいける気がしてきた。
「本当に大丈夫だから。気になるなら見ていけば。お茶くらい出すよ」
「お茶? お前が淹れるのか?」
「うん。嫌なら出さないから、帰って」
「いる」
じゃあ大人しく座ってて、と言えば悪魔は指示に従った。お茶がここまで良い働きをしてくれるとは。
ついでに私の分のお茶も淹れて部屋に戻る。悪魔はきちんとベッドの縁に座って待っていた。
「お待たせ。あなたのはこっち」
「ん」
カップを手渡せば悪魔は優雅な動作でお茶を飲んだ。見ている分には宗教画から出てきたような美しい男だと思う。
悪魔に淹れたのは、普通に淹れた普通のお茶だ。高い茶葉ではないけれど、悪魔は「美味い」と言った。
私も特製の濃くて渋いお茶を一口飲んでから、クローゼットを全開にした。ひとまず全部取り出して、ベッドや床に並べて眺める。
このレースを縫い付けて、リボンを結んで、襟と袖を交換する。そんなことをしてみたらいいと考えていたけれど、いざ目の前に並べてみても何をどうしたらいいかピンとこない。
お母様のクローゼットからも服を全部持ってきて、同じように並べてみたけれど……結果は変わらず。私に服飾の才能はないと思い知らされた。
『エルフリーデ』
「っ……」
サイドテーブルにカップを置いて、悪魔が私の肩を抱く。ああ、もうきっと私、身体が動かなくなってる。
「なぁ、諦めて俺に言えって」
「や、やだ」
案の定、悪魔に抱えられて抵抗できないままベッドに横たえられて。ベッドに置いていたドレスを絨毯の上に落としながら、悪魔が言う。
「ずっと唸ってるだけで、手を動かさないじゃないか」
「いろいろ考えてたのに……んっ」
今日は胸を素通りして下に手が伸びた。ショールの上から何度か擦られると、むず痒いのとも違う感覚が広がっていく。
お腹の奥からとろっとしたものが溢れてきて、泣きたくなった。口では嫌だ嫌だと言いながら、身体は私の言うことを聞かない。
「お前には経営の才能があるな」
「……え?」
すぐに濡らしてしまった私を悪魔は笑うかと思ったけれど、全く関係のないことを言われて首をかしげようとして……身体が動かないことを思い出す。
「借金がないからって普通はここまで持たないだろ。結局駄目になって潰れるか、誰かに乗っ取られるかだな」
「……それは、皆が残って助けてくれたから」
「なんで借金で首が回らなくなるかもしれないお前の元に残った?」
「ユルゲンが残ってくれたからよ。彼がいなければ、皆きっと……」
「そのユルゲンが残ったのはどうしてだ?」
それは……実は、私も分からない。ユルゲンに残るかどうか聞く前から、彼は当然のようにいつも通りの仕事をしてくれていた。それでも念のためにと確認した時には、愚問だと叱られて終わってしまったのだ。
それよりも、この悪魔が常識的なことを真面目に言っているなんておかしい。きっと甘いことを言って、私を絆そうとでも考えているんだろう。でも私は絶対に絆されない。
「人を惹き付けるのも才能のうちだ。そうやって俺のことも使えばいい。俺はその分の対価をもらうだけだから遠慮するなよ」
「遠慮じゃなくて! 悪魔の力にはもう頼らないの!」
ほら、結局そうなる!
悪魔は何が面白いのかクスクスと笑いながら、それに、と続けた。
「こっちの才能もあるな」
すっかり油断していたそこを強く引っかかれて……背筋から手足の先に、強い刺激が走った。
「今までで一番ひどい反応だな」
「もうちょっとマシな登場があるでしょ!」
ろうそくだけの薄暗い部屋でぬっと突然現れて……しかも逆さまで……おばけかと思った……。
床に足を付けた悪魔はというと、鏡台に雑多に置いてあるものを見ていた。しまった、まずい。逃げてないで、あれを隠すべきだった!
「今日も困ってるみたいだな?」
「困ってません」
「俺に願えよ」
「願いません」
「望みは叶うし、気持ちいいし、お前が損することなんてないだろ」
「損します」
絨毯に座り込む私の元に、悪魔が無駄に優雅な足取りで近づいてくる。しゃがんで目線を近づけると、顔まで近づけてきて。形のいい手で私の顎をすくい上げて、無理やり目を合わせてきた。
「まだ分からないのか? 俺はお前が気に入ってる。だからお前は俺のことを利用していい」
そんなことを言う悪魔は、この頃頻繁に顔を出すようになっていた。
何故かちょっとした困りごとを抱えている時にやってきて、私を抱いては悩みごとを勝手に解消していく。対価は当然のように、私の身体。
つい先日も、長らく放置していたシャンデリアの掃除をしていた時に現れた。
大事なお客様が貸し切りでご予約くださっていた前日にシャンデリアの曇りに気がついて。使用人たちは普段の仕事で手一杯なので、追加で仕事をお願いすることができなかった。もっと早く気がついて、段取りよく掃除できていればよかったのだけれど。
幸い、私ひとりでも徹夜すればなんとかなるようなシャンデリアだった。部品をひとつずつ取り外して布で磨くという作業だけれど、そういう細かくて地味な仕事が結構好きだからと軽い気持ちで請け負ったのが運の尽き。
梯子に登ってシャンデリアを取り外そうとして、バランスを崩して――私もシャンデリアも明日の予約も、何もかもお終いだと絶望したところで悪魔に助けられた。
せっかくだから温泉に入ってみたいと言った悪魔は、また私の名前を呼んで、荷物のように抱えて……それで、お、お湯の中でっ……。
のぼせる一歩手前の私が見たのは魔法によってキラキラに輝く、曇りなきシャンデリアだった。綺麗、だったけど。
「ほら、遠慮なく言えよ。流行のドレス? 最新の化粧品? 宝飾品だって、望めば全部叶えてやる」
「……いらない」
「でもあれは似合わないと思う」
「知ってるからっ」
悪魔目線でも似合わないことが分かってしまった。
けれど、家にあるありったけの服を引っ張り出して、あちこちから素材を足せばなんとかできるはず。化粧品だって同じように色を混ぜたりすればいいんだ。なんだかいける気がしてきた。
「本当に大丈夫だから。気になるなら見ていけば。お茶くらい出すよ」
「お茶? お前が淹れるのか?」
「うん。嫌なら出さないから、帰って」
「いる」
じゃあ大人しく座ってて、と言えば悪魔は指示に従った。お茶がここまで良い働きをしてくれるとは。
ついでに私の分のお茶も淹れて部屋に戻る。悪魔はきちんとベッドの縁に座って待っていた。
「お待たせ。あなたのはこっち」
「ん」
カップを手渡せば悪魔は優雅な動作でお茶を飲んだ。見ている分には宗教画から出てきたような美しい男だと思う。
悪魔に淹れたのは、普通に淹れた普通のお茶だ。高い茶葉ではないけれど、悪魔は「美味い」と言った。
私も特製の濃くて渋いお茶を一口飲んでから、クローゼットを全開にした。ひとまず全部取り出して、ベッドや床に並べて眺める。
このレースを縫い付けて、リボンを結んで、襟と袖を交換する。そんなことをしてみたらいいと考えていたけれど、いざ目の前に並べてみても何をどうしたらいいかピンとこない。
お母様のクローゼットからも服を全部持ってきて、同じように並べてみたけれど……結果は変わらず。私に服飾の才能はないと思い知らされた。
『エルフリーデ』
「っ……」
サイドテーブルにカップを置いて、悪魔が私の肩を抱く。ああ、もうきっと私、身体が動かなくなってる。
「なぁ、諦めて俺に言えって」
「や、やだ」
案の定、悪魔に抱えられて抵抗できないままベッドに横たえられて。ベッドに置いていたドレスを絨毯の上に落としながら、悪魔が言う。
「ずっと唸ってるだけで、手を動かさないじゃないか」
「いろいろ考えてたのに……んっ」
今日は胸を素通りして下に手が伸びた。ショールの上から何度か擦られると、むず痒いのとも違う感覚が広がっていく。
お腹の奥からとろっとしたものが溢れてきて、泣きたくなった。口では嫌だ嫌だと言いながら、身体は私の言うことを聞かない。
「お前には経営の才能があるな」
「……え?」
すぐに濡らしてしまった私を悪魔は笑うかと思ったけれど、全く関係のないことを言われて首をかしげようとして……身体が動かないことを思い出す。
「借金がないからって普通はここまで持たないだろ。結局駄目になって潰れるか、誰かに乗っ取られるかだな」
「……それは、皆が残って助けてくれたから」
「なんで借金で首が回らなくなるかもしれないお前の元に残った?」
「ユルゲンが残ってくれたからよ。彼がいなければ、皆きっと……」
「そのユルゲンが残ったのはどうしてだ?」
それは……実は、私も分からない。ユルゲンに残るかどうか聞く前から、彼は当然のようにいつも通りの仕事をしてくれていた。それでも念のためにと確認した時には、愚問だと叱られて終わってしまったのだ。
それよりも、この悪魔が常識的なことを真面目に言っているなんておかしい。きっと甘いことを言って、私を絆そうとでも考えているんだろう。でも私は絶対に絆されない。
「人を惹き付けるのも才能のうちだ。そうやって俺のことも使えばいい。俺はその分の対価をもらうだけだから遠慮するなよ」
「遠慮じゃなくて! 悪魔の力にはもう頼らないの!」
ほら、結局そうなる!
悪魔は何が面白いのかクスクスと笑いながら、それに、と続けた。
「こっちの才能もあるな」
すっかり油断していたそこを強く引っかかれて……背筋から手足の先に、強い刺激が走った。
応援ありがとうございます!
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