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本編
6 契約不履行だなんて聞いてない①
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気がつくと悪魔の姿はどこにもなかった。私はひとりでベッドに寝ていて、けれど脱ぎ捨てられた部屋着が、乱れたシーツが、あれは夢ではなかったのだと教えてくる。
「……仕事、しなきゃ……」
部屋はすっかり明るい。最中は悪魔が魔法で部屋を暗くしていたけれど、その魔法ももう解けているらしい。すっかり昼下がりの日差しに変わっていた。
「うっ」
服を拾い上げようとベッドから降り立つと、脚に力が入らなくて崩れ落ちた。しかも、とんでもないところに鈍い痛みを感じる。まさかと思ってベッドを見てみたら少しだけ血の跡があった。
このシーツ、もう捨ててしまおう。
生まれたての子鹿のような足取りで再びお風呂に向かって、髪の毛は自力で乾かして。
ほうほうの体で事務所に顔を出して、お祖父様の代からずっと支配人をしてくれているユルゲンに軽く睨まれつつも借金の完済証明書を見せれば、驚いた後に一緒に喜んでくれた。
どうして、という問いには、うちの温泉事業に投資してくれる人が現れたのだと答える。これ以上のことは今はまだ秘密。そんな説明がユルゲンに対して許されるはずはないけれど、ため息一つだけで、追求は免れた。
「さて、お父様たちの遺した書類を読まないと。婚約破棄のことも考えて、ユルゲンたちへの言い訳対策ももっとして……」
私しかいない執務室に戻り、わざとらしくひとりで喋りながら書類を広げた。だってそうでもしなければ、思い出してしまう。
私は処女ではなくなった。相手は人ならざる悪魔だ。処女を失った代わりに借金を返せたから、後悔はしていない。
しかもあの悪魔――大悪魔フィストスは、なんだか優しかったような気がする。
対価を後払いにしてくれて、髪の毛を乾かしてくれて、部屋を暗くしてくれて。それに、痛くないか聞いてくれた。初めては痛いと聞いたことがあるけれど何故か痛くなかったし……これはきっと、思い出に残してもいい処女喪失だったに違いない。
とは言え、相手は二度と会うこともない悪魔だ。私はもう絶対に悪魔の力に頼らない。当面の危機は免れたのだから、次にもしものことがあれば私自身で使用人たちに立派な紹介状を書いて、何なら再就職先を世話して、退職金を支払えるように備えるんだ。
そしてそもそも、そんな事態にならないよう精進するのみ。
ありがとう、大悪魔フィストス。私に機会をくれて、本当にありがとう。あなたのことは私だけの、秘密の思い出にします……。
けれど――そう思っていられたのは、たった一週間程度のことだった。
*
「ひどい顔をしている」
あれから昼も夜もなく温泉事業について資料を読み漁り、今後の方針を考えていた晩のことだった。連日睡眠を後回しにしすぎてさすがに眠い。けれど資料を読み進めたくて、とびきり濃い目に入れた渋すぎるお茶を飲んでいた。
そんな時にどこからともなく黒い霧が執務室に現れて、それはまばたきひとつの間に大悪魔フィストスの姿に変わっていた。
「え……夢?」
「夢とは?」
「だって、すごく眠くて」
もうすでに居眠りしているのに、必死に眠気を覚まそうとしているという、虚しい夢を見ているのかもしれない。
「夢じゃない」
「なら何の用?」
「ずいぶん冷たいじゃないか、初めての男に」
「っ、調子に乗らないで!」
一気に目が覚めた。夢じゃない、現実だ。
「取引は終わったでしょ。もう全部終わったことなのに、なんなの?」
「そのことで来た。あの契約はまだ済んでない」
「えっ、どっ、どうして?」
借金は間違いなく完済されていた……はずなんだけれど、何か手違いがあった? それでわざわざ来てくれたの?
大悪魔フィストスはやっぱり、優しくて誠実な、いい悪魔なのかもしれない。
「あの時、俺は達していなくてな。その前にお前が気絶するから」
「……は?」
ちょっと待って。私の感動を返して。全然違う話が始まりそう。
「だからもう一回抱きに来た。俺がイかなきゃ意味がない」
「ええと……契約不履行だった、ってことになるの?」
「その通り」
そ、そんな……そんなことってある……? 性行為の知識がないわけではないけれど、詳しくもないので、よく分からない。けれど、確かなことがひとつある。
「でも、私はもう処女じゃ、ないよね……」
対価は私の処女だった。確かに私はこの悪魔に、何ていうか、本当に何て言うんだろう……さ、刺? 挿された、というか? 捨てたシーツにもその証拠がしっかり付いていた。
つまりもう二度と、処女という対価は支払えないということになる。
「心配するな。お前の身体はなかなか良かったから、処女でなくても構わない」
「…………」
そんなこと言われても、どういう反応をしたらいいのか。
今にして思えば、あの時は極限まで追い詰められていたから処女という対価に頷いたのだなと思う。今は取り急ぎのところ落ち着いているし、平常時にあの時のことを思い出すと、とてもじゃないけど無理だ。恥ずかしすぎる。
「他の方法は」
「ないんだろ?」
寿命はダメ、美術品や金目のものもないと言ったのは他ならぬ私だ。悪魔はそれをしっかりと覚えていた。
「もしもの話だけど……例えばだよ? もしこのまま不履行……、いや、何年か待ってほしいな、って言ったら? それまでに何かいい美術品を」
「もう待てはなしって言っただろ。今すぐに魂を貰おうか?」
それって今すぐ死ぬってこと? 詰んだ。
「……なんで?」
「お前が気絶したから」
「だから! 気絶したって言うなら、なんで起こしてくれなかったのよっ」
「声をかけても起きなかったんだから仕方ないだろ」
「気絶してたって好きにしてくれてもよよ、よ、良かったのに!」
「俺にそんな趣味はない」
「だからってあんなの二回もむりぃっ!」
だって丸裸にされて、あちこち触ったり舐められたりして、お、音だってすごいし……。
また顔が熱くなってきた。思い出に残してもいいとは思ったけど、必要以上に思い出すな私!
きっと顔を赤くしているだろう私の手を優しく取って、悪魔は言った。
『エルフリーデ』
その瞬間、確かに嫌な予感がした。
「……仕事、しなきゃ……」
部屋はすっかり明るい。最中は悪魔が魔法で部屋を暗くしていたけれど、その魔法ももう解けているらしい。すっかり昼下がりの日差しに変わっていた。
「うっ」
服を拾い上げようとベッドから降り立つと、脚に力が入らなくて崩れ落ちた。しかも、とんでもないところに鈍い痛みを感じる。まさかと思ってベッドを見てみたら少しだけ血の跡があった。
このシーツ、もう捨ててしまおう。
生まれたての子鹿のような足取りで再びお風呂に向かって、髪の毛は自力で乾かして。
ほうほうの体で事務所に顔を出して、お祖父様の代からずっと支配人をしてくれているユルゲンに軽く睨まれつつも借金の完済証明書を見せれば、驚いた後に一緒に喜んでくれた。
どうして、という問いには、うちの温泉事業に投資してくれる人が現れたのだと答える。これ以上のことは今はまだ秘密。そんな説明がユルゲンに対して許されるはずはないけれど、ため息一つだけで、追求は免れた。
「さて、お父様たちの遺した書類を読まないと。婚約破棄のことも考えて、ユルゲンたちへの言い訳対策ももっとして……」
私しかいない執務室に戻り、わざとらしくひとりで喋りながら書類を広げた。だってそうでもしなければ、思い出してしまう。
私は処女ではなくなった。相手は人ならざる悪魔だ。処女を失った代わりに借金を返せたから、後悔はしていない。
しかもあの悪魔――大悪魔フィストスは、なんだか優しかったような気がする。
対価を後払いにしてくれて、髪の毛を乾かしてくれて、部屋を暗くしてくれて。それに、痛くないか聞いてくれた。初めては痛いと聞いたことがあるけれど何故か痛くなかったし……これはきっと、思い出に残してもいい処女喪失だったに違いない。
とは言え、相手は二度と会うこともない悪魔だ。私はもう絶対に悪魔の力に頼らない。当面の危機は免れたのだから、次にもしものことがあれば私自身で使用人たちに立派な紹介状を書いて、何なら再就職先を世話して、退職金を支払えるように備えるんだ。
そしてそもそも、そんな事態にならないよう精進するのみ。
ありがとう、大悪魔フィストス。私に機会をくれて、本当にありがとう。あなたのことは私だけの、秘密の思い出にします……。
けれど――そう思っていられたのは、たった一週間程度のことだった。
*
「ひどい顔をしている」
あれから昼も夜もなく温泉事業について資料を読み漁り、今後の方針を考えていた晩のことだった。連日睡眠を後回しにしすぎてさすがに眠い。けれど資料を読み進めたくて、とびきり濃い目に入れた渋すぎるお茶を飲んでいた。
そんな時にどこからともなく黒い霧が執務室に現れて、それはまばたきひとつの間に大悪魔フィストスの姿に変わっていた。
「え……夢?」
「夢とは?」
「だって、すごく眠くて」
もうすでに居眠りしているのに、必死に眠気を覚まそうとしているという、虚しい夢を見ているのかもしれない。
「夢じゃない」
「なら何の用?」
「ずいぶん冷たいじゃないか、初めての男に」
「っ、調子に乗らないで!」
一気に目が覚めた。夢じゃない、現実だ。
「取引は終わったでしょ。もう全部終わったことなのに、なんなの?」
「そのことで来た。あの契約はまだ済んでない」
「えっ、どっ、どうして?」
借金は間違いなく完済されていた……はずなんだけれど、何か手違いがあった? それでわざわざ来てくれたの?
大悪魔フィストスはやっぱり、優しくて誠実な、いい悪魔なのかもしれない。
「あの時、俺は達していなくてな。その前にお前が気絶するから」
「……は?」
ちょっと待って。私の感動を返して。全然違う話が始まりそう。
「だからもう一回抱きに来た。俺がイかなきゃ意味がない」
「ええと……契約不履行だった、ってことになるの?」
「その通り」
そ、そんな……そんなことってある……? 性行為の知識がないわけではないけれど、詳しくもないので、よく分からない。けれど、確かなことがひとつある。
「でも、私はもう処女じゃ、ないよね……」
対価は私の処女だった。確かに私はこの悪魔に、何ていうか、本当に何て言うんだろう……さ、刺? 挿された、というか? 捨てたシーツにもその証拠がしっかり付いていた。
つまりもう二度と、処女という対価は支払えないということになる。
「心配するな。お前の身体はなかなか良かったから、処女でなくても構わない」
「…………」
そんなこと言われても、どういう反応をしたらいいのか。
今にして思えば、あの時は極限まで追い詰められていたから処女という対価に頷いたのだなと思う。今は取り急ぎのところ落ち着いているし、平常時にあの時のことを思い出すと、とてもじゃないけど無理だ。恥ずかしすぎる。
「他の方法は」
「ないんだろ?」
寿命はダメ、美術品や金目のものもないと言ったのは他ならぬ私だ。悪魔はそれをしっかりと覚えていた。
「もしもの話だけど……例えばだよ? もしこのまま不履行……、いや、何年か待ってほしいな、って言ったら? それまでに何かいい美術品を」
「もう待てはなしって言っただろ。今すぐに魂を貰おうか?」
それって今すぐ死ぬってこと? 詰んだ。
「……なんで?」
「お前が気絶したから」
「だから! 気絶したって言うなら、なんで起こしてくれなかったのよっ」
「声をかけても起きなかったんだから仕方ないだろ」
「気絶してたって好きにしてくれてもよよ、よ、良かったのに!」
「俺にそんな趣味はない」
「だからってあんなの二回もむりぃっ!」
だって丸裸にされて、あちこち触ったり舐められたりして、お、音だってすごいし……。
また顔が熱くなってきた。思い出に残してもいいとは思ったけど、必要以上に思い出すな私!
きっと顔を赤くしているだろう私の手を優しく取って、悪魔は言った。
『エルフリーデ』
その瞬間、確かに嫌な予感がした。
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